重苦しい会議が形式的に終わり、上層部たちが散っていった後、
綿月豊姫・依姫、そして稀神サグメの三人だけが静かな回廊に残されていた。
依姫が苛立ちを隠さず口を開いた。
「“様子を見よう”だなんて、よくもまあ言えたものです。
あの状況で、何も起こらないと思っているなんて……」
豊姫もため息を漏らしながら扇を軽くたたく。
「安全な宮殿で過ごしてばかりだから、危機感が希薄になるのよ。
純狐が息子を見捨てるはずないって、普通は分かるでしょうに……」
サグメは紙を取り出し、筆を走らせる。
書かれた一枚を、ふたりに見せた。
> 「このままでは月が崩れる。
本来なら許されぬが、諏伯を解放すべきだ」
依姫が鋭く反応する。
「本気ですか? わざわざ拘束したのに?
それでは月の権威が崩れます」
豊姫は一瞬だけ沈黙し、そして静かに口を開いた。
「……でも、よく考えて。
今回の拘束は“嫦娥様の私情”によるものよ。
諏伯は月に危害を加える意思なんて、最初からなかった」
さらに扇を開いて、軽く顎にあてる。
「結果論だけど、解放して純狐たちの矛先を逸らせるなら――
それは、十分な価値があると思う」
依姫は苦い顔をして視線を伏せた。
「……正直、純狐とヘカーティアが本気で来たら、私たち三人でもどうなるか……。
避けられる戦は、避けるべきですね」
サグメは次の紙を差し出す。
> 「諏伯を連れ出せるか?」
豊姫は首を横に振る。
「無理。嫦娥様が部屋に入りっぱなし。
厳重に監視されているし、こちらが動けば確実に気付かれるわ」
サグメは筆を止めず、さらに一枚。
> 「ならば、いっそ“客人”を通す。
戦闘になっても被害は限定的。建物も無人。嫦娥は死なない」
依姫が目を見開く。
「まさか……純狐を、直接?」
サグメは肯定するようにまた紙を見せた。
> 「“偶然の侵入”。月の防衛は届かず、我らの責任も及ばぬ」
豊姫が小さく笑いながら言う。
「……まあ、うまくいけばね。
全ては“偶然”ということで、幕が下りるなら」
依姫も小さくうなずきながら、深くため息を吐いた。
「……了解です。準備だけは、しておきましょう」
そして最後に、サグメが一枚の紙を残す。
> 「必要なのは、被害の最小化。月を守ること。それだけ」
月面にひび割れるような空間の裂け目が現れ、そこから稀神サグメが静かに姿を現した。
彼女は相変わらず無言で、片手に一枚の紙を持っている。
「おやおや、本当に来ちゃった。しかも一人で? あんまり舐められると、こっちも手加減できないんだけど」
ヘカーティアが気軽に笑いながらも、片手には空間の歪みがにじむ。
純狐は言葉を発さずにサグメを見据える。
その視線には警戒と怒り、そして明確な殺意が宿っていた。
サグメは一言も発さず、紙を掲げる。
> 「休戦を申し入れたい」
純狐が鼻で笑う。
「攫った側が、それを言うのね」
サグメは続けて次の紙を差し出す。
> 「息子を拘束している。命に別状は“ある”。
だが、ああしなければ嫦娥様が何をするか分からなかった。私の判断だ」
数秒の沈黙。
純狐の顔は変わらないが、その背中で空気がわずかに震える。
「……つまり、傷つけてでも守ったって言いたいわけ?」
> 「そうだ。判断には責任を持つ」
「ふーん、それで、“許せ”と?」
> 「違う。“止めに来たのは分かっている”。だから“戦わずに終わらせたい”」
ヘカーティアが片手を挙げて口を挟む。
「で? そのために提示するってわけ?」
サグメは一枚の紙を掲げる。
> 「この裂け目は嫦娥の部屋へ繋いである。中には諏伯と嫦娥だけ。
嫦娥以外への攻撃は禁止。それが休戦の条件」
ヘカーティアが肩をすくめ、嘲るように言った。
「ふーん。で、もしその“条件”を破ったら?」
次の瞬間。
サグメの足元から空気が収縮し、神域そのものの重圧が解き放たれる。
一言も発さず、彼女の身から放たれる神意だけで、周囲の空間が震える。
「……っ」
ヘカーティアが小さく目を見張る。純狐はそれを止めようとしない。
その圧の中で、サグメは新たな紙を掲げる。
> 「別に休戦を受けろとは言わない。
そちらが守る気がないなら――私たちも全力でやらせてもらう」
ヘカーティアは口を尖らせるようにして言った。
「へぇ、随分はっきりした脅しじゃないの。嫌いじゃないわ」
純狐は静かにサグメを見据えたまま、笑みを浮かべる。
「……いいわ、その条件で」
ヘカーティアも続けて笑みを返す。
「まぁ、どうせ“その一人”が目的だしね。こっちとしても都合がいいわ」
純狐が一歩前に出る。
「さあ、案内してもらえる?」
サグメは何も答えず、ただ一歩、横へと身を引いた。
その先には、嫦娥の部屋へと続く歪みが、冷たく開かれていた――。