月面に開いた歪みを抜け、純狐とヘカーティアが足を踏み入れたのは、白く無機質な空間――
中央の磔台には、諏伯が鎖に縛られ、血の気を失った顔で息を引き取る寸前だった。
だが、間もなく蘇生し、再び苦痛を味わう。その繰り返し。
その地獄のような光景を背に、白い衣の女――嫦娥が、静かに佇んでいた。
ヘカーティアは目を細め、呆れたように呟く。
「……あー、聞いてたけど、これは本気でイカれてるわね。
純狐、暴れる気なら先に結界張ってからにしてくれる?」
背後で淡く光る結界を展開しながら、ヘカーティアは部屋全体を封じた。
足音が静かに響く。
嫦娥はその音に気づきつつも、振り向かずに声だけを発する。
「ここは私の私室。立ち入りは禁じているわ。出ていきなさい。」
返事はない。
ただ、規則正しく、冷ややかな足音だけが近づいてくる。
「……チッ、誰よ。勝手に入ってきたのは」
嫦娥が振り返ったその瞬間――
そこにいたのは、顔を歪めもせず、凍てつく瞳で彼女を見下ろす純狐だった。
その無言の存在感に、嫦娥の表情が一瞬揺らぐ。
だが次の瞬間、目を細め、にやりと微笑む。
「……来てくれたのね」
だがその言葉は終わる前に掻き消された。
純狐の右手が嫦娥の顔を掴み――
無造作に、石床へと叩きつけた。
ゴン、ゴン、ゴン――
音も反響も容赦がない。
何度も繰り返される衝撃に、嫦娥の額から血がにじみ始める。
ようやく手を放した純狐は、上から問いかけた。
「満足?」
その問いに、床に伏したままの嫦娥が、顔を上げる。
ぐしゃぐしゃに潰れた唇の端が、わずかに持ち上がっていた。
「ええ……とても。あなたのその怒り、絶望、どうしようもない愛。全部、美しいわ」
純狐の表情は変わらない。
その足がもう一度、嫦娥の顔を強く蹴り上げる。
「言葉を発するな。この外道が。」
嫦娥は吹き飛び、石柱に背中を叩きつけられながらも――なおも笑っていた。
「いいえ、喋るわ。だって、あなたの目にあの子が映るたび、あなたの怒りが膨れ上がるたび――私の心は悦びに満ちていくのよ。
純狐、やっぱりあなた、最高よ」
背後から、静かにヘカーティアが歩み寄る。
「……これ、止めるべき? それとももうちょっとやらせとく?」
純狐は答えない。ただ、黙って再び一歩、嫦娥へと歩を進める。
それは復讐ではない。
怒りを燃やすでもなく、ただ「取り戻す」ための一歩だった。
部屋に満ちる緊張は、嫦娥の歪んだ嗤いと、純狐の静かな殺意で満たされていた。
「答えろ。なぜ、私の息子を狙った。」
「最初はね、観賞用として一人誘拐しようと思っただけよ。殺すつもりなんてなかったわ。」
「……」
「でもね、私とあなたの夫の関係が拗れてしまって……結果的に殺してしまったの。」
「伯封が、母を想って死にゆく姿。血の涙を流しながら、深い恨みを抱いたあなた。その光景は、この上なく美しかった。」
「それ以来、私は実験に興味を失ってしまった。伯封のような子が欲しいと思ったの。でも、どれだけ真似させても駄目だったわ。本物じゃないと意味がなかったの。」
「諦めて何百年も経ったある日──私は蓬莱山輝夜を連れ戻すため月からの使者として地上に降りた。」
「そのとき、久しぶりにあなたの力と、伯封の痕跡を感じたのよ。諏伯という存在に。」
「その場で連れ去ることもできたけど……我慢したわ。また思い違いかもしれないと思って。」
「でも、あなたが月へ攻めてきて、再び力をぶつけ合ったとき、確信した。諏伯は、伯封の力を受け継いだ存在だと。」
「それからまた何百年か経ち、今度は諏伯が月に攻めてきた。今度こそ確保のチャンスだったけど、豊姫たちの監視が厳しくて、手出しできなかった。諏伯が月では罪人として監視されていたしね。」
「そして──あなたが再び月を攻めてきたとき、諏伯をあなたが連れ帰った。私は悔しかった。ようやく同じ月にいた諏伯を、連れていかれてしまったのだから。」
「どうしても、連れ帰りたかった!」
「だから私は、私情で探索部隊を出そうとしたの。表向きは、八意永琳と蓬莱山輝夜の捜索のためとしてね。」
「それが、今回の事件の真相よ。わかったかしら?」
純狐は嫦娥の語った一連の動機に無言で耳を傾けていた。
その表情は怒りも哀しみも押し殺し、ただ静かに――けれど確かに沸々とした感情が宿っていた。
「なるほどな。理由は分かった。……だが、今回私が連れ帰っても、また子どもを狙うのだろう? それだけは、どうしても許せん」
そう言うと、純狐は磔にされていた諏伯の体から封釘を抜き取った。
彼女の手で解かれた封が淡く光を放ち、諏伯の体は無意識のままふらりと崩れかけたが――
「ヘカーティア、息子は任せた。私は……ここで終わらせる」
純狐は小さくつぶやき、ヘカーティアの方へと彼を押しやる。
だが、ヘカーティアは諏伯を背負ったまま、その場から動こうとしなかった。
「……何をしている?」
純狐の声に、ヘカーティアは肩をすくめて答える。
「気持ちはわかるけど、やめときなさい。あんたとの休戦を提案したのが無意味になるわよ?」
「……休戦、か」
「ええ。それを破ったら、また別の面倒が起きる。だから、連れ帰るなら自分でやってよ。母親なんだからさ」
純狐は小さくため息をつき、やや苛立ちを滲ませながらも頷いた。
彼女は諏伯のそばにしゃがみ、静かに彼の額に手をかざす。
「……すまないな。もう、誰にも触れさせはしない」
そして、嫦娥の方を一瞥すると、低く告げた。
「嫦娥。……今回は、これで引く。だが、もし次があるなら、月そのものが代償になると知れ」
それに対し、嫦娥は床に座り込みながら、うっすらと微笑を浮かべた。
「……大丈夫よ。しばらくは、もう十分満たされたから」
その言葉に純狐は一言も返さず、静かに扉を開いた。仙界へと通じるその光の向こうへ、彼女とヘカーティアは諏伯を伴って消えていった。
――残された嫦娥は一人、仄暗い部屋で静かに佇んでいた。
「……やっぱり、あの姿が一番美しいわ」
誰にともなくつぶやいたその声は、ただ微かな余韻のように月の空間に消えていった。