仙界の静かな一室。
純狐はベッドに横たわる諏伯の枕元に膝をつき、じっと顔を覗き込んでいた。
「傷は……癒えてる。でも、目を覚まさない。」
隣で様子を見ていたヘカーティアが肩をすくめる。
「蓬莱人だから命には関わらないわ。あとは……本人次第ね。」
その言葉を聞いた純狐の目元がふるえ、やがてぽたりと涙が落ちた。
「一人で、私に迷惑をかけないようにして……あんな痛みに、ずっと耐えてたなんて……。」
ヘカーティアは少し驚いたように眉を上げたが、すぐに柔らかく言葉をかける。
「息子にそんな顔見せたら、かえって辛くさせるだけよ。少し休みなさい。」
そう言って声を張る。
「クラピ、ちょっと来てくれる?」
数瞬後、元気な声とともにクラウンピースが現れる。
「はいっ! 呼ばれましたご主人様!」
「純狐を少し休ませたいの。この子、見ててくれる?」
「任せてください!」
そう言って敬礼すると、クラウンピースはベッドに近づき、諏伯の全身を観察した。
「手足、頭、それに胸からも……まだ月の力が残ってる。でも、だいぶ薄れてきてる感じ」
ふっと息を吐き、掌を諏伯の額へそっとかざす。
「じゃ、ちょっとだけ“ほぐし”いれとくね……えいやっ」
その瞬間――
――月の都。
会議室の一角で、サグメは視線を天へ向けた。
(……これは)
何かを察したように目を細める。
(諏伯に施しておいた封印に、外からの干渉……気づかれたか)
数秒の静寂ののち、サグメは静かに目を閉じた。
(ならば、もう良い。私がしたこと、私が外そう)
その場にいた誰にも気づかれぬまま、彼女は諏伯の封を解いた。
――再び仙界。
クラウンピースは掌に感じる反応に、ほっと微笑んだ。
「……これで、大丈夫。あとは起きるだけだよ」
クラウンピースによりサグメの力を打ち消されたことで、諏伯はゆっくりと意識を取り戻した。
視界がぼやけている。まぶたの裏でいくつかの光と影が交錯し、やがて明瞭な形を成す。気づけば、自分のすぐそばに顔をのぞき込む誰かがいた。
「起きた!」
満面の笑みを浮かべたクラウンピースの声が、頭の中で反響した。
驚きつつも、諏伯は静かに手を上げ、自身の体に触れる。かつて釘を打たれていた手足、胸元、頭部――どこにも痛みはなく、肌に残るのはわずかな違和感だけだった。
「ここは……仙界、か?」
クラウンピースはうんうんと大きくうなずく。
「そう。君に残ってた変な力――月のやつらの封印みたいなの、取り除いたの。」
「……それはどうも。」
礼を言う声に力はなく、諏伯は立ち上がろうとしたものの、足元がふらつき、そのままベッドから落ちかけた。
「わっ、無理しちゃだめだってば!」
クラウンピースが慌てて支えると、すぐに部屋を飛び出し、主の元へと走っていった。
ほどなくして、ドアが開く。
駆け込んできたのは、母――純狐だった。
「諏伯!」
その声には、安心と懐かしさ、そして深い後悔が滲んでいた。
「大丈夫?寝かせてあげるから、無理しないで。」
純狐は優しく息子を抱え、再びベッドへと横たえる。その様子を見届けてから、ヘカーティアもふっと笑みをこぼした。
「身体に力が入らないのは当然よ。長い間あんな磔にされてたんだもの。」
諏伯はヘカーティアの方に視線を向け、しばし目を細める。
「……あなたは、確か……守矢神社で……」
「あら、覚えてたのね。嬉しいわ。」
ヘカーティアは軽く肩をすくめて見せる。
「危険だってわざわざ言ったのにさ。まったくもう、手間かけさせてくれちゃって。」
「……ごめんなさい。」
ぽつりと謝る息子に、純狐は首を振った。
「謝らなくていいの。あなたが無事で、こうして帰ってきてくれただけで、母さんは……」
その声が震えていた。こぼれ落ちる涙は隠しようもなく、静かに諏伯の額へと落ちた。
「まあ、一人で行ったのに月の都市を一時的に麻痺させたのは褒めてあげるわよ。」
ヘカーティアが感心したように言うと、諏伯は少し照れくさそうに頭をかいた。
「そうでしたか、あの時はもう意識を失っていたので覚えてなくて。……あ、そうだ、ありがとうございます。えーと……そちらの……」
「あっ、挨拶がまだだったかしら。この子はクラウンピース。妖精よ。」
「どうも、クラウンピースです!」
諏伯は微笑んで頷いた。
「ありがとう、クラウンピース。」
「どういたしまして!」
ひと息ついた諏伯は、少し真面目な顔になって口を開く。
「それで……死にながらも力の反応で母さんが来てくれたのは分かったんですが、どうして月にいるって分かったんですか?」
「永琳と鈴仙が来てくれて説明してくれたのよ。『ごめんなさい』ってね。」
「それを聞いて、私と純狐がすぐに動いたってわけ。」
「……月は、どうなりました?」
ヘカーティアが少し意地悪そうに微笑む。
「あら、気になる子でもいたのかしら?」
「いや、そういうわけじゃ……」
諏伯が慌てて否定すると、純狐が安心させるように言葉を添える。
「大丈夫。稀神サグメからの提案で、嫦娥以外に被害を出さない条件で停戦が成立したわ。」
「嫦娥のほうは、純狐にきっちり釘を刺されてね。少しは静かになると思うわよ。」
純狐はベッドに座る諏伯のそばに静かに腰を下ろした。
「今は、ちゃんと動けるようになるまでは仙界で過ごして。」
「うん、わかったよ。」
純狐はふと、口元を引き結ぶ。
「それと……ひとつ、お願いがあるの。」
「なに?」
「今回、誰にも相談せずに月に行って、たくさんの人を心配させたわよね。」
「はい……。」
「だから、罰ってわけじゃないけど……一度だけでいいの。私のこと、“ママ”って呼んでくれない?」
突然の言葉に、諏伯の表情が固まった。視線を横に流すと、ヘカーティアとクラウンピースがニヤニヤとこちらを見ている。
(……もう、逃げられないか)
諏伯は肩を落としながら、小さく、しかしはっきりと呟いた。
「……ママ、ありがとう。」
その瞬間、純狐の顔がぱっと花開いたように輝き、喜びを隠しきれない様子で諏伯の手をぎゅっと握りしめた。