薄く差し込む青白い月光の下、静まり返った一室で湯気の立つ湯呑みがそっと置かれる。
それを手にしていたのは、稀神サグメ。月の中枢にて、異変の調停と安定を担う存在である。
彼女は一つ息をつきながら、黙然と湯をすする。
(……純狐とヘカーティアは引いた。しばらくの平穏は得られよう)
視線は窓の外、満ちた月の影へと向けられる。
(だが、洩矢諏伯――あの子が再び動けば、同じことの繰り返しになる可能性がある。彼自身の意思であれ、純狐の導きであれ)
サグメは目を細め、ほんのわずかに眉を寄せた。
(ならば、彼が地上に留まる理由を“意図的に”作るべきだ)
静かに立ち上がると、部屋の中心に立ち、はっきりと口を開く。
「洩矢諏伯の周囲にいる女性は、“想いを伝えたくない”」
淡々とした言葉は即座に彼女の能力によって反転され、
“想いを伝えたくなる”という衝動が、地上の数名に静かに染み渡っていった。
(これで、彼の周囲に“彼女候補”が現れる。彼が誰かと結ばれれば、再び月に牙を剥くこともなくなる)
あくまで“月の秩序”のため。
そう思いながら、サグメはそっとメモ帳を開き、一行だけ筆を走らせる。
> 《目的:洩矢諏伯の地上定着。月の危機回避措置。対象数:4以上》
──ちょうどそのとき、隣の間から豊姫が現れた。
飄々とした様子ながら、彼女の目は僅かにサグメの手元を覗いている。
「……ふふ。案外、お優しいんですね。サグメ様」
茶化すような口調で、しかし声の色は柔らかい。
「彼に生と死の輪廻を強いた代償……あるいは、少しの罪滅ぼし、でしょうか?」
サグメは答えない。ただ静かに、視線を戻す。
“私情ではない。これは月の安定のための判断だ”
それだけを心に刻み、湯呑みに口をつける。
香り立つ茶の湯の中に、僅かに揺れる月の影が映っていた。
竹の葉が風にそよぐ静かな朝、諏伯は永遠亭からの帰路、ふと思い立ち妹紅の住処を訪れた。
「妹紅、昨日は永遠亭でいろいろあって来られなかったから、今日は一緒に過ごそうと思って」
戸を叩くと、すぐに妹紅が顔を出し――開けたその瞬間、何の前触れもなく、ぐっと諏伯の腕に抱きついてくる。
「……っ、え?」
驚いた諏伯が固まるのをよそに、妹紅は顔をうずめるようにしがみつく。
「……こうでもしないと、また一人でどこか行こうとするでしょ。今度は、月じゃなくても、心がどこか遠くに行ってしまいそうで……嫌なんだよ」
その声音には、昨日までの怒りとは違う、もっと柔らかな不安が滲んでいた。
「……懐かしいね」
ふと、諏伯がぽつりと口にする。
「妹紅が薬を飲んで、蓬莱人になった直後……再会したときもこんなふうに手を握って、二人で山道を歩いた」
「うん。兄さん、小さかった私の手を強く握って、諏訪までずっと歩いてくれたよね」
しばらく抱きついたまま無言でいた妹紅だったが、ふと顔を上げる。
「ね、今日は何か食べに行こうよ。……ヤツメウナギが食べたい! ミスティアの店、久しぶりに行こ!」
「いいよ、行こう」
二人は竹林を抜け、人里に向かう。
だが――人通りが見えてくると、さすがに諏伯は腕を引こうとする。
「えっと……そろそろ手、放しても?」
「えー? 何で?」
「いや、その……目立つし、ちょっと恥ずかしいというか……」
妹紅はじっと諏伯の顔を見つめ、にやりと笑う。
「だ~め。これは罰なんだから。勝手に月に行った兄さんへの、ね」
「えぇ……」
「それにさ、こっちの方が安心するんだよ。私、兄さんのことずっと探して、怒って、心配して、今ようやく落ち着いたんだから……もう少しこうしてたいの」
その真っ直ぐな言葉に、諏伯は抵抗するのをやめた。
妹紅は誇らしげに腕を絡めたまま、堂々と人里を歩いていく。
「よーし! 今日はうなぎ三昧だね!」
「財布、ちゃんと持ってきてる……?」
「えっ、兄さんが奢ってくれるんじゃないの?」
そんな軽いやり取りとともに、二人はミスティアの屋台へと向かっていった。
守矢神社の一人息子、洩矢諏伯。
日頃から穏やかで真面目――だが、浮いた話のひとつもなかった青年が、突如として「恋人を連れて歩いていた」というのだ。
しかもその相手は、あの蓬莱人・藤原妹紅。
人里でも有名な存在である彼女と、腕を絡ませて人目も気にせず歩いていたという。
あれだけ感情の起伏に乏しかったはずの諏伯が、頬を少し赤らめながら女性に手を引かれていた。
──これは、ただごとではない。
決定打となったのは、新聞記者・射命丸文の一枚だった。
「これはおいしいネタですねぇ……“幻想郷春の嵐”、見出しにピッタリっと」
屋台近く、ミスティアの明かりの下で激写されたふたりの写真は、翌日の新聞の一面を飾る。
『守矢神社の後継者、ついに春到来!? 蓬莱の炎と夜を歩く』
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そして、神社の朝。
「……ん……あたま、痛……」
寝ぼけた諏伯の視界に、ひとつの影が迫る。
手には新聞。足は、さっきまで諏伯の腹にヒットしていた。
「……母さん?」
「おはよう。ちょっと面白いものが届いたから、見せてあげようと思ってねぇ」
そう言って新聞を広げて見せる諏訪子の顔は、完全に“面白い玩具を見つけた子ども”のそれだった。
「これは……射命丸の……」
「見出しもご丁寧に“新たな恋人か?”だってさ。……ふぅん。妹紅ちゃんと、そういう関係だったとはねぇ」
「違うよ! 昨日は一緒に食事して、神社に帰っただけだよ。ほら、妹紅もここで潰れて寝てるし……!」
「ふぅん。女の子が泥酔するまで飲ませて、連れ帰って。……なかなか手が早いじゃないかい?」
「その言い方ほんとやめて!!」
障子がガラッと開いて、神奈子が登場する。
「うわっ、ホントに帰ってた! 諏伯、ついに朝帰り!? ……って妹紅ちゃんか。いいじゃないの、いいじゃないの。血は繋がってないし、神社内恋愛! 健全!」
「神奈子さんまで!!」
「いや~、長かったわね。うちの後継者、ようやく春か。……次は婚姻届でも書いておく?」
「まだ誰とも付き合ってませんから!!」
とどめのように、諏訪子がすっとにじり寄ってくる。
「そっか、付き合ってないんだねぇ? だったらさ――早苗と“家族として”付き合ってみるってのはどうだい?」
「はあ!?」
「うちもそろそろ血が薄くなってきたしさ。君、洩矢の血を継ぐし、早苗も素直で悪くない。ちょうどいいだろ?」
「いや、その、家族ですし……」
「でも妹紅とは朝帰りして飲み潰れて帰ってきたわけだ。家族でそれするなら、早苗ともできるよね?」
「いや、だからそれは……!」
諏訪子は少し怒ったように頬を膨らませた。
「……それとも、私と付き合ってくれる?」
「わかりました! じゃあ今日、早苗さんと一日外出してきます! これで満足でしょ!」
諏訪子はニンマリと笑う。
「よし、理解よし。気をつけて行ってらっしゃいな♪」