諏訪子に言われるがまま、その日は早苗と連れ立って外出することとなった。
朝の霧がまだ残る山道を、二人は肩を並べて静かに歩いていた。木々の間を抜ける風と、遠くで響く鳥の声が、辺りの静けさを際立たせていた。
「……いくら、諏訪子様に言われたとはいえ、朝からこれは大変でしたね」
早苗が小さく笑うと、諏伯もどこか疲れたように肩をすくめた。
「まったく……母さんも、千年相手が出来ないからと、息子にはあれこれ言ってくるんだから」
「でも、ちょっと不思議なんです。どうして、今までお相手がいなかったんですか?」
早苗の問いに、諏伯は足を緩め、少し空を見上げた。
「……必要がなかったんです。……いや、作れなかったんでしょうね」
「不老不死なんて、結局は呪いみたいなもので。相手を好きになったところで、必ず別れが先に来る。……気がつけば、時間の感覚も曖昧になって、最後には――姉の最期にも立ち会えませんでした」
早苗は一歩先に出てから、ふと振り返る。言葉を慎重に選ぶように、静かに訊ねた。
「……その方のこと、好きだったんですか?」
「……家族として。優しくて、明るくて、面倒見がよくて……。ただ向こうは私が帰らなかったこと、恨んでいたかもしれません」
「私は、その方を知りません。でも……本当に“姉”のように思っていたのなら、きっと――恨みじゃなくて、心配していたんだと思います」
その言葉は、不思議と胸に響いた。気休めではなく、まっすぐな優しさがそこにあった。
「……そうだと、いいですね」
二人の間に沈黙が落ちる。風がひときわ強く吹き抜け、木々が揺れ、落ち葉が足元を横切った。
しばらくして、早苗がふと足を止めた。
「あの……」
「ん?」
「私が、初めて諏伯さんに会った時。私に“姉さん?”って、言いましたよね」
「……うん」
「私って……その方に、似てましたか?」
諏伯は静かに、でも確かに頷いた。
「……とても、よく似てました」
早苗は少しだけ視線を落とし、それから、そっと笑った。
「だったら、今日は――私のこと、お姉さんだと思っていいんですよ。“命ある限り、そばにいますからね”。守矢神社の巫女として、ですけど」
その言葉に、胸の奥が静かに波打つ。まるで、かつて同じ言葉を告げてくれた声が、今そこに重なったようだった。
「……姉さん。帰らなかって……ごめんね」
それは、いつか言えなかった後悔。二度と届かない、祈りのような言葉だった。
自分でも驚くほど自然に口をついて出たその一言に、諏伯は我に返り、慌てて言い直す。
「あっ、ごめん、今のは……忘れて」
けれど、早苗はその言葉をさえぎるように、そっと微笑んだ。
「大丈夫です。貴方が家族のことを、忘れるなんてできないでしょう?」
「……」
「その方と、私が似ているのなら――たぶん、今みたいなことを言ってたんだろうなって。そう思います」
諏伯はそれ以上、何も言えなかった。
ただ、俯き、そっとポケットから財布を取り出し、震える手で差し出す。
「……ごめん。ちょっと……小遣い渡すから、何か、好きなもの買ってきて」
「……はい、わかりました」
早苗は、それ以上は何も言わず、静かに立ち去った。
その背を見送りながら、諏伯は一人、近くのベンチに腰を下ろした。
誰もいない公園の片隅で、木々の隙間から差し込む光が静かに揺れていた。
そしてそのまま、声を殺して――
誰にも見られぬように、ひとり、そっと涙をこぼした。
少しの後一人ベンチで俯いていた諏伯のもとに、誰かの足音が静かに近づいてくる。
「戻りました。はい、これ、どうぞ」
差し出されたのは、柔らかな白い手ぬぐいだった。
「……あくびが長かったみたいですね。ほら、涙、出てますよ?」
それは明らかに気遣いの言葉だった。
泣いていたことにあえて触れず、「あくび」と言い換えるあたり、こういった場面に慣れているのだろう。
諏伯は内心で感心しながら、それを受け取る。
「……ありがとう、早苗」
「どういたしまして」
そう返す早苗の笑顔は、いつもよりどこか優しく、そしてほんの少しだけ頼もしく見えた。
「さて、私はこれから布教活動があるので、ここでお別れしましょうか。安心してください、夕方には神社に戻ります。諏訪子様にはちゃんと“二人で過ごした”って報告しておきますから」
「……一緒にいるの、嫌だった?」
不意にこぼれた問いに、早苗は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに照れくさそうに笑って、ぶんぶんと首を振った。
「いえいえいえ! そんなことないです。むしろ、もっと一緒にいたいくらいですけど……ちょっと用事を思い出しただけなんです。女の子の用事なので、詮索は禁止ですよ?」
「……そう。分かった。あまり人里の人たちに迷惑はかけないようにね」
「布教活動ですってば。迷惑なわけないじゃないですか」
そう言って軽く手を振りながら、早苗はくるりと背を向けて歩き出す。
その背を見送りながら、諏伯はゆっくりと深呼吸をし、涙の跡を手ぬぐいでそっと拭い去った。
その頃、早苗は人通りのない小道に入り、小さく息をついた。
そして、ぽつりと呟く。
「……いつも穏やかで、落ち着いてて、頼れる諏伯さんが……あんなふうに泣くなんて」
誰もいないのを確認してから、彼女の口元がふにゃりと緩んだ。
「……癖になりそう、かも……」
くすくすと笑いが漏れる。
「今日だけは……私の方がお姉さんだった、かな……。ふふっ、もっと甘やかしてあげたくなりますね、諏伯さん」
頬を軽く押さえながら、嬉しそうに歩き出す。
「……ああいう顔、好きなのかも……。でも見せたの、私だけって思いたいな。誰にも見せてほしくない……」
そして最後に、笑顔のままぽつりと――
「……やっぱり、来てよかった」
風に揺れる葉音が、彼女の声を優しくさらっていった。