諏伯を人形にすり替えたぬえは、羽を軽くはためかせながら、ゆっくりと地上へ降り立った。
「助かったよ、ぬえ。……あの場では返事に困っていた」
「まぁ、見てりゃ分かるわよ。あんな真剣に迫られたらね。でも――」
ぬえは諏伯を脇に下ろし、じっとその目を覗き込む。
「さっきの阿求の提案……受ける気、あった?」
諏伯は少し目を伏せ、言葉を選ぶように答える。
「……迷った。でも、彼女は転生するといえ、死の恐怖を繰り返し味わう立場だ。それを少しでも遠ざけられるのなら……友達として、望むなら応えたいとは思った」
ぬえは呆れたように、しかし少し柔らかい笑みで首を振る。
「この、お人好しめ。」
「そういうぬえは、何か用事でも?」
「えっ? あー……いや、特にはなかったんだけど」
一瞬言い淀み、彼女は視線を逸らす。
「……あんたが、どこか遠くに行っちゃいそうな気がしたから」
「……そうですか」
その返事に、ぬえは小さく肩を竦めたが、すぐに話題を変える。
「それより……月に行ってたんだってね。なんでいつも私を呼んでくれないのよ。私はあんたを友達だと思ってる。でも、あんたは私をそう思ってないんじゃないの?」
諏伯は即答した。
「そんなことない。友達ですよ」
「……じゃあ呼びなさいよ」
「今回は危険だったから」
その一言に、ぬえの声が少し強くなる。
「危険なら……なおさらでしょ。なんで一人で抱え込んで、何も言わずに行っちゃうのよ」
諏伯は視線を落とし、短く息を吐いた。
彼女の声には、ただの抗議以上に、寂しさと苛立ちが滲んでいた。
ぬえは諏伯から視線を外さず、少しだけ声を落とした。
「……あんたがいないと、寂しいのよ。
正体不明の大妖怪たる私は、その性質上、友達なんて出来ることはなかった。
今でこそ命蓮寺の連中がやかましくしてくれるけど……人からも妖怪からも、正体を認知されなかった頃の“平安京の悪夢”を、誰が構ってくれたと思う?」
諏伯は黙って耳を傾ける。
「私の正体を、あんたに見られたとき……嬉しかったんだ。
マミゾウ以外に初めて認識してくれて、しかも退治せず、構ってくれて……」
ぬえは一瞬だけ言葉を詰まらせ、そっと視線を落とす。
「そのね……こんなこと言うの、いつもの私じゃないみたいだけど……
――私を見つけてくれて、ありがとう」
最後の一言は、羽音よりも小さい声だった。
諏伯の胸に、ほんのりと温かく、そして少し切ないものが残る。
諏伯は不意に顔を伏せ、耳まで赤く染めた。
その様子に、ぬえは思わずむっとする。
「うー……なんであんたが恥ずかしがってるのよ! 私のほうが百倍恥ずかしいんだからね!」
諏伯は、しばらく口を閉ざしていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「あのさ……。
私が、言われのない罪で帝に捕らえられ、土に埋められた時のこと。
あの暗さ……動けない、息もできない、ただ苦しくて……。
心が折れそうになった」
ぬえは黙って耳を傾ける。
「――要石が抜かれて、地中から引きずり出された瞬間。
月明かりの中で、血にまみれたお前が立っていた。
私のために、してこなかった“殺し”をしてまで助けてくれた……
血を浴びているはずなのに……すごく、綺麗だと思った」
ぬえの瞳が揺れる。
「だから……これまで、本当に……ありがとう」
その言葉は、感謝とともに深い敬意を帯びていた。
ぬえは何かを言おうとしたが、声にならず、ただ小さく息を飲んだ。
諏伯は一歩踏み出し、ぬえの肩を両手でしっかりと掴んだ。
ぬえは驚きもせず、ただその瞳をまっすぐに返す。
「……その、ぬえ」
喉が渇く。言葉が重く、なかなか出てこない。
「私は……お前のことが、忘れられない」
「離れたくない」
「……感謝してる」
一つひとつの言葉を、かみしめるように吐き出す。
そして、最後の言葉をしっかりと見据えて告げた。
「……好きです。付き合って下さい」
短く、それでいて決して軽くはない一言。
肩に置かれた手の温もりと共に、空気が張り詰める。
ぬえは目を伏せ、ほんの少しの沈黙を挟んでから問い返した。
「……わ、私以外にも女の子はいるのよ? 私は大妖怪で、あんたより長く生きて……人だって殺してきたし、多くの人を混乱に陥れてきた。私じゃなくても、もっと……いい子、いるじゃない」
諏伯はその言葉を遮るように、静かに首を振った。
「……その多くは、私を助けるためにやったことだろう」
ぬえは驚いたように顔を上げる。
「……っ」
「ぬえに罪はない。少なくとも、私はそう思ってます」
諏伯の声は揺れず、まっすぐだった。
「どんな過去を背負っていようと、私にとってのぬえは――ただ、ぬえだ」
その言葉に、ぬえの肩が小さく震える。
「……あんた、ほんと……ずるいわ」
「ずるい?」
「だって、そんなふうに言われたら……離れられなくなるじゃない」
ぬえは目元を手の甲で軽くこすり、息を吐いた。
「私……あんたのこと、好きよ。見つけてくれた時から。」
諏伯の胸が跳ねる。
「でも……私、本当に面倒くさい女よ。怒るし、泣くし、嫉妬もする。それでも……それでもいいって言うなら――」
ぬえは諏伯を見据えた。
「……よろしくお願いします」
諏伯は静かに頷き、その瞳に力を込めた。
「……こちらこそ」
二人は互いに顔を見合わせたまま、しばし言葉を探していた。
胸の奥が妙にくすぐったく、さっきまでの真剣な空気が逆に落ち着かない。
ぬえはそっと視線を逸らし、頬を赤らめながら口を開く。
「……さっ、さあ! 恥ずかしいから……そろそろ離れましょうか」
諏伯も慌てて背筋を伸ばし、少し距離を取る。
「そ、そうですよね……。よしっ、帰りましょう」
歩き出すタイミングも微妙にずれて、どちらも気恥ずかしさをごまかすように足元を見つめる。
やがて分かれ道に差しかかると、ぬえが立ち止まり、小さく手を振った。
「……その、それじゃあ……またね、諏伯」
諏伯は頷き、穏やかに笑う。
「ええ……また会いましょう」
その言葉を最後に、二人は背を向けて歩き出した。
けれど――互いに歩きながら、ほんの少し振り返りたくなるのを必死でこらえていた。