IOC委員長、トーマス・フォン・リッパーオフ男爵が来日中。
大ニュースでは?と思うのだが、どの新聞も報じていない。
俺は、男爵が岸元首相を病院へ見舞ってオリンピック・オーダー最高位の金章を授与したという画像なし囲み記事で気付いた。
さすがにこれは報道しなくちゃだよな。
日本にとって名誉だし、岸さんの回復を祈願している全国民へ向けて発信する意義は大きい。全紙で一面トップを飾って然るべきだ。
それをしない・させない狙いとは何か。
最大の理由は、テロ対策だろう。
東京都内の治安が壊滅的にヤバいことは道路を走るだけでわかる。
道府県ナンバーを付けた一般車をめっきり見なくなって久しいが、近頃は神奈川県警や埼玉県警のパトカーが応援に来ているのをよく見かける。
東京都だけを管轄する警視庁と、46道府県に指示を出せる警察庁は事実上まったくの別組織なので、現場レベルで融通しあえるものではない。
エヴァンズによれば、この連携を成立させる権限を持つのは首相の秋ノ宮だけだという。
それほど普段から交流をしていないライバル同士がいきなり二人三脚できると思うかね、とニヤつかれると、たしかにいわゆる脆弱点ばかりが噴き上がりそうな気がする。
業務内容は限りなく同じでも、ローカルルールや符丁は細かく違うだろうし、プライドの高い公務員ばかりだから事あるごとに衝突が起きる。
カモッラは、この隙を突いてどんどん侵食していくわけだ。
そして日本に怨みを抱くテロ組織がいれば協力しようと手をさしのべる。
……これ以上考えたくねえなあ。
アメリカでも同じことをやってるみたいだから、そっちを見て他山の石とするか。とはいったって俺に何ができるんだ。
ともかくそんな事情があって、リッパーオフ委員長はお忍びで都内各所を視察しているようだ。
オリンピック開幕まで8ヶ月半と迫った。
その進捗を確かめているのだろう。
「病院へ見舞った、と書いてあるかい?見せてくれ……
ほんとだ。会見したと書いてあるね。
官房長官が読み上げたままを記事にしたんだろう。仕事のできるジャーナリストさんだこと」
おみそれしましたか。
でも、実際は会ってないんですか?
「モニタ越しに激励を交わしたようだけどね。
だいたい岸は病院になんかいないから」
具合が悪くないなら結構なことです。
春のステイホーム動画みたいに、くつろいで英気を養っていてほしいですね。
「ストレスは溜めているみたいだよ。
秋ノ宮は外交にもオリンピックにもまったく興味無しでいたから何ひとつ決裁ができなくて、いちいち岸に相談している。
これが今、相当に負担のようだ」
ありゃま。
察するに、岸さんは自分が直接出ていってマスコミにも国民へも語りかけたいところでしょうけど、朴訥な秋ノ宮さんにそれを伝えきれないというか。秋ノ宮首相には岸さん流の滑らかなスピーチがそもそも無理といった感じなんでしょうか。
「中身のないスピーチで記者を踊らせるのが得意だった岸に比べれば、秋ノ宮は装飾を極力廃して実務だけを議論する。性格の違いだな。
秋ノ宮が引き受けているストレスも相当なものだが、彼は耐性が強いから顔に出さない。
岸よりずっと、試練に耐え慣れているものねえ」
だから冗談も通じなさそうなシカメッツラを手放せないでいるのかな。
あれ、秋ノ宮さんはもともとカマス報復戦のターゲットではなかったはずですよね。
まだまだこの先も追い詰めていくつもりですか?
それもかわいそうに思えてきました。
「意味がわからない。質問のつもりなら整理してからもう一度言い直せ。一度きりだぞ」
はい。……あのう、カモッラが秋ノ宮首相を困らせる理由が知りたいです。
最初は岸政権の黒幕で権力の実体か、くらいに思えていたんですけど、どうやら買いかぶりですよね。
いじめるのもほどほどにして、早く楽にしてあげたらって思うんですが。
「根本的に考え違いをしているぞ、君は。
僕たちは秋ノ宮を困らせようなんて考えていないし、特別なことを何もしちゃいない。あいつが勝手に道路のまん中へ飛び出してきてるんだ。
ただ単に邪魔なんだが、岸を苦しめる駒にできるなら最大限効果的に使おうかとシナリオに若干の変更を加えてる。それだけのことさ。
当人だって、分別くらいつく年齢だろう。危険だと思ったらとっとと身を引け。
そんなことも判断できない愚か者に、何をしてやる義理がある」
そうか。そうですよね。
首相やめるって言えばすぐ次の候補が手を上げるんだ。
しがみつくのはあんたの勝手でしょ、というわけですもんね。
少し気が楽になった。
「ところで男爵一行だが、巡回ルートは通行止めされているので、僕たちは近寄らない。水曜日には帰っていくから、それまでの辛抱だ。
大した記事は出てこないと思うが、気付いたことがあれば教えてくれ。特にジョン・ダウリング副委員長の名前がヤポメディアに出てきたら要注意だ」
はい。スケジュールばっちり調べてあるみたいですね。抜かりないなあ。
ダウリング副委員長?
その人が、陰の実力者なんですか。
「リッパーオフが傀儡というわけではない。あいつも相当なキレ者だよ。
ただ顔を知られすぎているし、長だから発言にも注意深くなる。
そんなリッパーオフの背後を見張りながら分析と助言をする役割が必要だろう。
ダウリングは法律家としてのキャリアも厚く、1980年モスクワ・オリンピックの頃から業界を実効支配していた。選手としての出場経験はないが、専攻種目はボート競技だ」
80年にそんな地位へ就いていたということは、かなりのおじいちゃんですね。
ブーマーですか?
「ブーマーだね。1950年生まれじゃなかったかな」
70歳か。秋ノ宮さんと同じくらいだ。
共通項が見えてくるなあ。
矢面に出ないからこそ力を発揮するタイプ。そして、有能なチームリーダーはかれらに全幅の信頼を与え、背中を預ける。
「IOCは首相官邸へ表敬訪問したんだが、会見は10分ももたなかった。
秋ノ宮は日本語の挨拶しかできず、共通の話題も無さすぎてな。何の競技をどこの会場で行うといったロケーションもまったく頭に入っていなかったようだ。
マラソン会場が札幌に変更された件は昨年あれだけ大騒ぎしたので覚えていたようだが、その話題を知ったかぶりで切り出したものだから通訳が顔色を変え、急な政務が入ったことにして退場させた。あとはTOCとJOCが引き継いだね。
もともと接待はすべて駐在の外国人スタッフが取り仕切っていて、今日もつきっきりのようだが」
ほんと、絶望的になるなあ。
あの、それって減点対象になりませんか。
世界中から選手や観光客を大勢迎えて盛り上げるべき国際イベントなのに、その準備があまりにもできてないことを露呈してしまってるわけでしょう。
「何をいまさら。
ヤポがこんな国だってことは2013年のIOC総会初日で議論され尽くしているよ。
それでも一番カネを持っていて、メンツへの執着も強いからという理由で、ローマ・バクー・ドーハ・マドリッド・イスタンブルを制して東京に開催権を与えることにしたんだ。
無教養で排他的な国民性は承知の上。
想定外だったのはcovid-19発生による延期と防疫態勢だよ。
IOCとしては来年こそ開催させ、傘下の企業集合体にたっぷり利益をもたらさせねばならない。
突然交代した国家元首に、中止など口にしたらただじゃおかないぞとしっかり釘を刺しておく必要があって、こんなスケジュールを組んだんだ。
最終的な評価を下すのはローザンヌへ戻ってからになるだろうけどね」
俺の脳裏を、高校時代の記憶が駆け抜けた。
ブエノスアイレスの総会で当時のIOC委員長がJAPANと書かれたボードを掲げ、日本中で歓声が谺した、あの夜の興奮。
東日本大震災とそれに続く原発事故で深いダメージを負い、テレビは支え合おう助け合おうと呼びかけるばかりで陰鬱な気分ばかりが蔓延していた日々に突如、希望が射しこんだのだ。
世界中の人に、日本の復活を見てもらいたい。おもてなしするんだ。
第2次岸内閣は前年暮れにスタートしたばかりで、56年ぶりの夏季オリンピック招致へは首相の並々ならぬ情熱と支援が注がれていたと、特集番組が毎月のように放送された。
それからずっと俺たちは、心をひとつにして、日本という国に誇りを抱いて、脇目も振らずに歩んできたはずなのだ。
それを、てめえ、なんてこと言いやがった。
出来レースだと抜かしやがったか。
このやろう。ゆるせねえ。
「そもそもオリンピックを何だと考えているんだ、おまえたちは。
古代オリンピアドからして、あれは国家間戦争の代替手段であり、今でいう兵器見本市だった。だからこそ大会期間中はリアルな戦闘が中止できたんだ。
近代オリンピックもその原則を受け継いでいて、参加国のマンパワーや経済力・平時に総動員体制をどれだけ構築できるか等を各種レギュレーションに基づいて数値化する祭典となっている。
ここでメダル獲得数を競って国力を誇示するか、なるべく目立たず情報蒐集と分析に専念するかは国次第の戦略となるが、興行主だってそれぞれの思惑を勘案してなるべく全員が喜ぶようにプログラムを組むさ。
さて、ヤポはいったい自分たちがオリンピックという舞台で何をしたいのか、少しは考えてから臨んでいるのかな。
一応岸には彼なりの算段があって東京都の口出しをいちいちタイミングよく封じてきたという実績があるが、秋ノ宮へはそれをまったく伝えきれてないようだ。もどかしいだろうね。
現状のまま流れに身をまかせるだけで来年7月に東京オリンピック開催となれば、世界中の諜報員と商人がこの一年間のレガシーまで合わせて持っていっちゃうと思うが、いいのかい。
リッパーオフたちはその下見をしている最中だ。国のトップが岸から秋ノ宮へ替わった。ならば、どこをどう修正するべきかと」
まるでオリンピックが国際犯罪組織主催の大規模腕試しコンテストであるかのような言い草だ。そんなわけが、あるもんか。
しかし準備不足は否定できない。コヴィッドと相次ぐテロ。絶望的な警察力不足。仕切れない首相。それらの情報をすべて掌握するカモッラと、連携しているグループたち。
不安材料しか存在しない。
首相、辞めなくていいんですか。
早く決断をしてください。