薄暗い厨房。
思ったより狭い。
中央に横たわるステンレス作業台の向こうから、不気味な男がひとり、こちらを睨みつけていた。
ホラーゲームなら一瞬後にこいつ、四つ足走行で俺に襲いかかってくること間違いなし。それ以外考えられないような場面だった。
しかし双方硬直したまま。数秒間、時が止まる。
沈黙は奥から出てきた新しい男によって破られた。
「新入りだ。
カムパネルラ、仕事に戻れ。
あとで紹介する」
カムパネルラと呼ばれた不気味男は視線を落とし、作業を始めた。パン生地づくりをしていたようだ。
二番目に出てきた、その親分と思われる男に手招きされ、傍らを通り過ぎて厨房の先へ行く。
バールの店内だった。
つまり俺は、店の入口と反対の側から入ってきたことになる。
時刻は5時前。
まだ客はいない。
4人掛けボックス席に座るよう促される。
透明なアクリル板越しに相手をまじまじと見た。
精悍な、初老の男。
白髪を短く刈り込み、瞳は碧い。
マスク越しだが鬚は生やしていないようだ。
ワイシャツにベスト。バーテンダーに見える。
低い、落ち着いた声音でゆっくりと喋る。日本語を覚えた外国人のような不自然さは無い。日本生まれ日本育ちかもしれない。
第一印象ではこれくらいかな。
「私はスターン。敬称は要らない。
君はなんと呼べばいい。呼ばれたい名前を言え」
珍しい展開だな。じゃあ……
咄嗟に、ジョバンニと名乗った。
イタリアっぽいのと、ゲームのアカウントで昔使ったことのある名前だ。
「よろしい、ジョバンニ。
エヴァンズから大体のプロフィールは聞いているが、飲食店で働いた経験もあるとか。具体的には?」
ああ……全国チェーンのイタリア料理店で、1ヶ月ちょっと、アルバイトしてたことがあります。
ホール・キッチン・清掃と、まあ、一通り。
「なぜ辞めた?」
んー。つまらなくて。
工場から送られてきたレトルトを盛り付けて出すだけで、ひたすら単純肉体労働だったし、客から見えないところはとにかく汚かったんですよね。それでいてホールではいつもニコニコしてなきゃならないのが苦痛で。
最初の給料もらった瞬間に、続ける意味を見出せなくなりました。
「ククク。上出来だな」
あら、ウケましたかね。
「ヤポの職場はどこでもだが、同じところで2ヶ月以上働き続けることができるようになったら、もうおしまいだよ。痛覚が破壊されたと見做してよい。
そうなると、もう使いものにならない。
君は、ひとまず合格だ」
はあ……たしかに。
でも最後の職場では1年以上社畜やってたんで、痛覚も感情も、自律神経だってもう見失っちゃいましたけどね。
なんてもちろん、この男の前では言わないけどな。
「covid-19の後遺症で味覚と嗅覚を失ったと聞いている。
今も、ここの匂いがわからないかね?
テイスティングは不可能かな?」
う……ええ、不可能ですね。
治るものかどうかも、さっぱり見当がつきません。
「料理人としては致命的だな。
しかし1106号室に住んでいるんだったか。あのシリアルばかり食べていたのでは、ますます味覚を喪失していくと私は思う。
回復させる希望を少しでも持ちたいのなら、ここで働いているほうがずっと可能性を高められるんじゃないかな」
え?お、おお。今すごく、いいことを言ってくれた気がするぞ。
この人、カモッラの一員に違いないけど、エヴァンズよりずいぶん優しいぜ。
「ただね。私だって、使えないヤポを飼うつもりはない。
ましてここでは他の部署より格段に、衛生面と安全性を徹底する責務が求められるのだ。
これが理解できなければ即、殺処分だ。
わかるかい?」
スターンよ。少し言葉のチョイスがおかしいぜ。
殺処分じゃなくて、クビにするぞ、くらいが適当ではないかな。
なんて余計なことは言わないけどね。
「よし。面接はここまでだ。そろそろお客さんが来るから支度をしよう。
今日は私とカムパネルラの指示に従って配膳・下膳・清掃を中心にやってもらう。
じゃあ、来たまえ」
俺は厨房で、さっきの不気味男・カムパネルラに挨拶をした。
近くで見ると、ますます異様に感じた。
身長は190cmくらいある。
顔・胴・足はヒョロ長いが、腕だけやけに太い。
髪はモジャモジャらしく、ニット帽で抑え込んでいるからパンパンに膨らんでいる。
前髪がはみ出してギョロ目にかぶさっているが、これが無いと眼光が強くなりすぎて、更に異様さを際立たせるのじゃないか。
マスクのせいで口元は見えない。
日本人らしいが、しゃがれ声で、とても陰気な喋り方をする。
怪奇映画でマッド外科医役を演じたら、百年に一度の逸材だと喝采を浴びるだろう。それ以外の仕事がつとまりそうな気はしない。
現実問題、この薄暗い厨房で鶏や豚の解体を見せつけられる日が、この先訪れるかもしれない。
俺は耐えられるだろうか。
実はもっと怖い想像もよぎったのだが、忘れよう。
厨房で目を惹いたのは、ナポリ窯。
実物を見たのは初めてだ。
中で薪が勢いよく燃えており、この高温で手早くピッツァを焼き上げる。
エレベーターからの距離および、ホールに窓が無かったことから、この店はアジトの奥部に設置されていると推測するが、排気と排熱がとても大変なのではないだろうか。と余計な疑問を抱いた。
夏なんて、エアコンを最強にしなければここに立っているのもつらかろうな。
スターンより、衛生面での注意を受ける。
マスクを無闇に触らないこと。外側には常にウイルスが付着しているものと考えて扱うこと。一度外したら捨て、新しいのを付ける。その前後含め、こまめに手をアルコール消毒すること。
お客様が退店されたら、食器を片付け、テーブル・椅子・手荷物入れ・コートハンガー等すべてを徹底的に除菌。その手順まで細かく指示された。
店内には4人掛けボックス席が4組と、カウンター席が6つある。
異様なのは、一人分ずつ透明なアクリル板で仕切られてあることだ。スターンは、パーティションと呼ぶ。
これもウイルス対策だというのはわかるが、大袈裟なんじゃないか。マスクを一日何枚も使い捨てるのだって、やりすぎに思う。
逆らうつもりはないが、さすがにもったいないと思い、軽く指摘をした。
「covid-19を甘く見てはいけない。
ここのお客は皆、日中ヤポにまみれて仕事をする。誰がもらってきても不思議じゃない。
無発症のまま市民生活を続け感染を拡げている例が世界中で確認されているし、高齢者で重症化した場合は非常に高い致死率を示す。
今も君が新たな感染源となっている可能性だって大いにある。
それでも私は、この店と仲間たちを守るよ。あらゆる手段を尽くしてね」
自分が今もウイルスを撒き散らしている可能性なんて考えてもみなかったが、たしかにそれを否定することはできない。
地上でここまで対策している飲食店なんて無いだろう。
外から入ってくる客にもスターンが最上級の警戒をしていることには納得するし安心する。
それにしたってここまでやるかと思う。
思うけれども、逆らわない。逆らえるわけがありません。
店は30分単位の完全予約制で営業していて、ほとんどの客が時間通り来て、時間が迫ると帰っていった。
全員がカモッラなのかはわからないが、いわゆる一般客はいなかったと思う。
スターンはずっとカウンターに立ち、酒をつくり、客と談笑する。食事の注文を受けるとメモを書いて俺によこし、俺はそれを厨房のカムパネルラに見せる。
覚悟していたほど忙しくはなく、俺はカウンターと厨房の境に腰掛けて待機しているだけの時間も長かった。
10時頃スターンに「今日はもう上がってよい」と言われ、厨房の裏口から出る。
1106号室までの道のりは、自動制御。寄り道などできない。
シャワーを浴び、ガウンを着て、廊下を歩き、また豚小舎へ帰ってきた。
明日も仕事なのか?
昼も夜も働かされるのか?
くそくらえと思いながら、ローテを消化し、眠りについた。