「博士に声をかけられたそうじゃないか。光栄に思えよ」
何者なんですか。あの人。
「偉大なる山猫博士だ。君の血からSARS2対応ワクチンをつくりだした。
いま治験中だが、まもなく僕たちも接種する。それまでは毎日が気が気じゃないからね」
採血室のスタッフたちの親分ですか?
「指揮系統上は、そうなるのかな。
博士が末端のヤポにいちいち指示しているとは思えないけどね」
カモッラって随分大きな組織なんですね。
何人くらい働いているんでしょう?
「さあねえ。僕にはわからない。
スターンの方が、毎日大勢のカモリスタと会ってるんだ。彼に尋ねてみたまえ」
はい……あ、そろそろシータワーに着きますけど、入っていいんですよね?
今日は、勝どきの高層マンションに来た。
地上58階建て。家賃は月30万円するという。
エヴァンズに、ついて来るよう言われた。
管理会社の担当に案内され、空室の下見をする。
明日、オーナーを連れてくる。エヴァンズはその秘書だ。俺はさらにその従僕だ。みたいな小芝居をしながら、各部屋の寸法・運び入れる家具の種類や数・カーテンの色など、細々したメモを俺にとらせる。
超セレブのお買い物だなあ。
感心しながら、言われるがままアシスタント役を演じる。
このマンションは海に面しており、その方向に晴海の建設現場が臨める。
現在、オリンピック選手村をつくっている。ずいぶん広いエリアだ。
これが目的か。と察する。
この部屋に狙撃手でも置く気なのかしら。
あんなちっぽけな標的に当てられるものなんだろうか。
プロの技術ってすげえんだなあ。
知りませんけどね。
マンションを出て、アウトランダーを走らせながら、エヴァンズより最新のニュースを聞く。
「KRで大規模感染が拡がっている。死者も5名出た。
被害はテグ市に集中しており、これまでよりずっと明瞭に感染ルートの解析ができている。
covid-19は空気感染することを疑う余地はないね。
1918年のパンデミックでは全世界で少なくとも2000万人が死んだ。はたして2019はこの記録を塗り替えるかどうか。
まさに、2020年の挑戦だ」
……あのう。
ワクチンが、もうすぐ完成するんでしょう?
感染拡大はそこまでなのでは?
言ってることが矛盾しすぎてませんか。
「何を言っているんだい、と僕の方こそ問いたいね。
でもたしかに君には理解不能かもしれないから教えてあげよう。
博士のワクチンは市場に出回らない。
なぜか。薬物の治験というものは安全性の検証にものすごく時間と予算をかけるものなのだ。USの検査機関FDAなんて、承認の遅さで悪評を轟かせてたりするしね。
われらが博士は、そんな連中と取引はしない。
カモリスタを守るためだけに、可能な限り省略できる手順は省略する。その代わりどこよりも迅速なんだ。
どうだい、正論だろう?」
……カモッラが、意外とハチャメチャな組織なんだなって知って、びっくりしています。
それって、でも、怖くないですか?
人体実験される覚悟で接種することになっちゃいませんか?
「何年かけて治験しようが、どのタイミングでも人体実験だろう。
その前にさんざん行われる動物実験なんて虐殺と区別ができない。
その果しなき流れの果に、毒とも薬とも呼べないレベルまで薄められたものが市販薬として大量生産され、信仰心篤い子羊たちに安らぎを与えるんだ。
そんなものをただ待ち続けてる方が、僕にはよっぽど怖いけどね」
なんだかとっても面倒な議論になりそうな気配。反論はすまい。
エヴァンズが、山猫博士のつくった薬で勝手に死んでも、それで本望なら知ったこっちゃないし。
むしろカモリスタだけ一人残らず死んでくれないかな。
必死に話題を変える。
さっきのKRって、どこの国のことですか。
「は?君たちのすぐお隣だが。
首都はソウルだと言えばわかるか」
ああ韓国ですか。なんだ韓国か。
感染拡大中なんですね。ふうん。
日本まで来なきゃいいけど。
「KRでは5年前にMERSが流行したからね。
今回、そのときの教訓がよく活かされていて、対応が迅速だ。
大統領がすぐに非常事態宣言を出したよ。
ヤポの政府とは大違いだ」
そりゃ違いますよ。
日本は、感染爆発する前に水際で食い止めます。
起こしてから慌てふためくような、ブザマな真似なんてしません。
「ははは。君にしては愉快なジョークだ。
ついでに、こんな話を知っているかい?
去年の7月、相思相愛だと思いこんでいた相手に裏切られた某国の首相が、やけを起こして無関係なKRへの工業製品3種類を輸出制限した。
KRは世界中に輸出していた大ヒットブランドの部品を組み立てられなくなり、大ピンチに陥った。
さて、どうしたか」
韓国のことですから、きっと、それなりの理由があって、そんな仕打ちをされたんでしょう。
某国とやらに陳謝して輸出制限を解除してもらえばいいんじゃありませんか?
「KRの政財界はすぐに動いた。
これまでは一番近い国から輸入していたその3品目を、数日遅れるけれど、もっと安い価格で供給できる国をすぐに見つけ、契約を結んだ。
それらの国々も常日頃、某国の尊大な態度に愛想を尽かしていたから、KRは同情され、今まで以上に絆を深めて他の製品も取引しようという流れが生まれた。
一方、某国では突然政府に輸出制限をかけられた工場が倒産した。
めでたしめでたし、という話だ」
はあ。北朝鮮のことかな?
知らんけど。
「はっはっは。ジョバンニは期待通りのリアクションをしてくれるから愉快だねえ。
さあ次は千代田区へ向かうよ。明日の打ち合わせをしなくちゃいけない」
この日も昼夜通しで働かされた。
エヴァンズもスターンも、俺の健康状態を監視して、その数値が危うくなるまでは働かせてよいというセオリーを持っている。
体温計をこすって仮病を装うみたいな工作が可能かしらと試行錯誤をしているのだが。へとへとになるまで腕立て伏せをするくらいしか、今のところ思いつけない。
ところで、バールでは賄いが出るとエヴァンズは言っていた。
スターンも賄いという言葉を使った。
大嘘だった。
賄いとは普通、客に出すべき食材を使って、余り物だったり研修生の試作品だったりはケースバイケースだろうが、従業員を食事込みで募集する際に用いられる特典だ。旨い店ほど賄い付きを餌にして有能なアルバイトを集める。
このバールは、もともと食事に力を入れていない。カムパネルラひとりで間に合う程度にしか、注文もこない。
メニューも少なく、ピザに載せる具だって客が構わなければおまかせで、先入れ先出しだ。客に賄いを出しているようなものなのだ。
そして、どうやら従業員が食わせてもらえる賄いとは、その食べ残しが出れば食べてもいいぞという意味だったみたいである。
ただ新型コロナのせいで、残飯処理さえ禁止となった。
よって賄いなどそもそも発生しないのだ。
アヴァンティにはこんな罠がまだまだ隠れていそうですごく怖い。
ああ、補足しておく。アヴァンティとはこのバールの店名だ。
翌日も、俺とエヴァンズはアウトランダーで出動した。
まず千代田区二番町へ。
昨日はコインパーキングでお留守番をしていたが、今日は、ある警戒厳重な大使館の門をくぐった。その中庭で、いかつい男を1人、乗せる。
今日のエヴァンズは後部座席で、その男と外国語で話し続けている。俺は、事前に指示されていた通りのルートで、晴海へ向かう。運転は、いつもに増して、慎重に。
昨日と同じマンションの部屋へ来た。
商談の芝居を始める。エヴァンズと男が図面を広げて相談を始め、管理会社の担当氏に何かを告げた。担当氏は出ていった。
すかさずエヴァンズから、入口のドアモニター前に立てと合図される。
2人はバルコニーへ出ていった。男がポケットから何かを取り出す。空に放つ。小鳥?
タブレットを操作しながら、熱心に話し合っている。ちらちら晴海の方を眺めているところから察して、あれは偵察用ドローンだったのではと思った。
10分ほどして、ドアモニターに担当氏の姿が映った。俺はエヴァンズへ合図する。
2人はすかさず室内へ戻り、何食わぬ顔で担当氏を迎え、商談を再開した。
それから数分後、明日には可否を連絡すると話をまとめて、部屋を撤収する。
駐車場へ戻ると、アウトランダーの車体下に、先程の小鳥が横たわっていた。男はそれを、大事そうに、ポケットへしまう。
何をたくらんでいるのだ。この、国際犯罪者どもは。