日本国内のワクチン接種は、2月17日から始まった。
話題としては能美叩きの影に隠れてしまったが、米フィッツナー社製ワクチン33万回分が成田空港へ届いたのは、12日の午後。ベルギーの工場から直送されたという。
最先端のナノテクノロジー工芸品であり、マイナス75℃という超冷凍で使用直前まで保管する必要がある。しかも製品寿命はたったの6ヶ月。
コヴィッドに罹患して味覚や嗅覚を失った挙句、学校や職場でのいじめに次ぐ追放あるいは自主退去。それよりはマシだからと、遺伝子組み換えワクチンでも射ちたがる人は大勢いる。余らせる心配はない。
半年ももつなら、焦らず着実に処方しましょう。
費用は全額政府が負担。あとでそのぶん税金増やすが、とりあえず今は無料にしてやるから、素直に並んでおとなしく接種して、一日でも早く商業を再開しなさい。
これが政治家と官僚たちの、切なる想いであろう。
ものわかりがよくて民度も高い日本国民なら、オートメーション・システムで肉牛を搬送するよりもずっと従順に協力してくれるはずだ。
これがエリートさんたちにとってのコモン・センスであるのだろう。
諸注意をいくつか。
フィッツナー社製ワクチンは、2回射つ必要がある。
山猫博士の2段階攻撃法とは異なる原理らしいのだが、3週間あけて同じものを2回射つことで体内の免疫系を完成させるようだ。
よって、33万回分のワクチンは、16.5万人にしか使えない。
予約日に来られなくなった場合や、1回目で激しい副反応が出たから2回目やめますといったケースが発生したらどうするのか。エリートさんたちは考えてくれているのだろうか。
当然でしょう。国内最高の頭脳集団なんですから。
そんなの危機管理の初級問題ですよ。
そりゃそうだ。失礼いたしました。
なぜ12日に成田へ到着してるのに、最初の接種開始まで5日もかかったのか。
半年も期限があるんだから焦らず、着実に。公平な分配を。そういうことですよね。
準備してなかったの?
「いいえ、してました。この日のために専用の超低温冷凍庫を100台発注して全国の国公立病院へ発送済み」
それはすばらしい。
ワクチンを100拠点へ届け終えるまでに5日もかかったんですか。
一斉に始める必要あるの?近いところからすぐ始めればよかったんじゃないの?
「それがですね。厚労省がこのワクチンに国内使用許可を出したのが2月14日でして」
は?
「フィッツナー社は11月に米国内治験終了したので日本へもサンプルを送りました。12月に、どうなりましたか?と打診されているようですが、日本では安全基準が高すぎて患者の生命を危険にさらすような行為にはなかなか許可がおりないのです。国内大手製薬会社も独自にワクチン研究開発をしておりましたからそちらへの配慮もありまして、つまりその、データがなければ使用許可も出せないという当然の理屈でありまして」
なんで2月14日に突然許可を出せたの?
「平塚大臣が激怒されまして。秋ノ宮首相もそっちを味方するので、松阪大臣も厚労省を庇いきれなくなりましてね。そこで、超法規的措置がとられました」
データ、無いままだよね?
「すでに世界各国、とくに開発した米国で充分なデータが得られておりますから、決して安全性を軽視しているわけではありません。それに国民を大災厄から守るという大義名分があります。これは未曾有の国難に対する特例中の特例なのです。どうか御理解をいただきたい」
それでも接種開始までさらに3日かかったんだ。
「許可が出ましたので、各拠点の受け入れ態勢を確認し、それから民間の運送業者を手配しましたところ、昨今巣ごもり需要で合法・違法問わず全業者のトラックとドライバーが24時間フル稼働中という有様でして。
まずは東京都内の拠点へと配送完了したのが16日の深夜でした。ですので、ようやく翌日から国民への接種が可能になったという次第でして」
はっ。頭の中を小人さんたちが駆け巡っていた。
おちつけ自分。みんな一所懸命なんだ。誰も悪くない。
さてワクチン接種の優先順位なのだが、最も危険な状況下で働いていて、なおかつ倒れられたら困る人からにすべきだと考えることに異論は出ないと思う。つまり首相は最後でいいのだ。エリートたちも普段どおり隠れてもらってていい。むしろ出てくんな。
現場の医療スタッフたち。かれらが最優先である。
だがしかし、かれらを対象にするとなると16.5万人分なんて全然足りない。
接種当日および翌日は具合が悪くなることを想定に入れて休日にしておくこと、と国はアナウンスしているのだが、この一年間まともな休みなど一日もなく戦わされてきた前線兵士たちの心身はボロボロに朽ちているので、このワクチンにとどめをさされてしまう危険性だってある。
また、一般市民やエリートたちより薬害を理解している現場スタッフの中には医学的根拠に根ざしたワクチン反対派が大勢いて、その雄叫びも急激に大きくなってきた。
ナノテク・ワクチンはウイルスよりも有害だとする、このブラッド・ミュージック・ムーヴメントもまた、武力闘争へと変異しつつあるようだ。
日本はまだまだ遅れているほうだというのだけれども、海外ではコヴィッド・ワクチン・自殺・他殺の死者数を明確に区別することがもはや不可能なのだという。
日本では昔、過労死する前に事故死させちゃえなんて管理職マニュアルが流行った。いろんな圧力でひっそり都市伝説に追いやられたけど。
今のトレンドって何なのかな。経済学に、ヒントがあるか。
俺には雲をつかむような話だ。
雨になって地上まで降りてきてくれないか。
新聞のワクチン特集に戻る。
医療スタッフが終わったら、次は65歳以上の高齢者が対象となる。
最も大切にされるべき世代だから。
なんて正直には書かない。重症化しやすいため、だそうだ。
かなり初期の統計だぞそれ。
変異株はとくに若者を狙う。新聞でも最近までちゃんと書いてたじゃないかよ。
広告欄に並ぶ書籍の宣伝文にもぱったり見当たらなくなったところから察するに、トレンドから外れたか。
まあ、若者はカネなんか持っちゃいないからな。人口構成比でも微々たるものだし、新聞を読む習慣だって老人ほどはないだろうから資本家も煽らないか。
この高齢者への接種は、4月以降の予定だという。
ずいぶん遅いが、ワクチンの手配がそれほど難しいのか。
マイノリティである、それより下の世代は、更に後回しだ。
オリンピックにゃ間に合うまい。
ねえ、ほんとにやる気?
おっとっとっと。俺としたことが。もう、その段階は過ぎたのに。
たとえ焦土となろうとも、すすめ1億日の丸だ。英霊となり名を遺せ。おとうさんおかあさんに感謝。そう、感謝。
「どうした。熱でもあるのか。顔が朱いぞ」
はあ。あんまり調子よくありませんね。コヴィッドだったらどうしよう。
「おやおや僕としたことが。君のモニターチェックを忘れていた。微熱がある。
37℃に達したら今日は交代しよう」
いまさら訊くのも変ですけど、山猫博士はもう変異株対応ワクチンつくってるんですか?
俺は、去年のはじめに罹患して、天然の抗体をつくってからそのままですけど、変異株きたらやっぱり罹っちゃいますよねえ?
「ひとつずつ答えるぞ。
まず、博士はもうヴァージョンアップしたワクチンを完成させている。
僕たちはあれから何度か採血をしていて、抗体の効力が弱まっている、あるいは特定の種類への防御力が欠けていると診断されれば、個別に追加ワクチンを射つ処置をとる。
僕はもうしばらく大丈夫のようだ。
それから君の体内にできた免疫はもう劣化していて役に立ってないはずだから、旧タイプのSARS2ウイルスにもしっかり罹患すると思うよ。
もちろんcovid-19かどうかにかかわらず、体調に異変が生じれば点検修理するのが当然だ。メンテナンス費用が割に合わないなと思ったら廃棄して買い直すなどの検討も必要になるが」
後半、聞いていなかった。やはり熱っぽいようだ。
風邪かな。インフルエンザかな。
それともやはりコヴィッドかな。
どこでもらってきたのか、さっぱり心当たりが無いのだが。
しかし新聞にはいつものように書いてあることだ。どこでもらってきたのかわからない。そんなケースは、ざらにある。
密を避けても風にのって飛んでくるものだし、宅配や出前の外装表面にだってウイルスはうじゃうじゃしがみついているものなのだ。
いくら科学的に解明されているといっても、こんな敵にどう立ち向かったらいいものやら。
神だのみは論外だが、それにしても、まったく、こいつら、始末におえねえぜ。
「徐行。そこの駐車場に入れろ。やっぱり交代だ。今日は帰るまで、助手席を倒して寝てろ」
ああ、とうとう、今日で俺は地上からおさらばだ。享年24。こんなクソみたいな世界にずいぶん長くいたもんだ。
もう、じゅうぶんだよ。
来世では、貝にでもなりたいな。海の底で、くぷくぷ、かぷかぷ、黙って静かに生きていくんだ。そんなことを考えながら眠っていた。
元麻布へ戻り、ヨロヨロと、いつもの632号室へと歩いていく。
入ったら薬が置いてあるから、のんで寝ろといわれた。
そのとおりにした。
翌朝、熱は下がっていたぽい。
エヴァンズからの呼び出しはなく、終日寝て過ごした。無理のない程度にランニングもした。
明日も明後日も、この先ずっとここに閉じこめられっぱなしだったらどうしよう。
それだけは考えないようにつとめた。