一般の食品用冷凍庫に求められる標準温度は、マイナス18℃。
ここまで低温だと細菌が活動できなくなり、酸化作用も起きなくなるのだとか。
ちなみに北極点の年間平均気温が、これと同じくらい。
南極点は陸地なので、もっと寒くなる。年間平均気温がマイナス50℃。観測史上最低記録はマイナス97とか8とか。
フィッツナー社のワクチンはマイナス75℃で工場から出荷され、専用冷凍庫で温度管理されたまま配送先へ届けられる。その後の保管態勢や使用直前の解凍手順なども、細かな取扱説明書に基づいて行わねばならない。
もちろんこのマニュアルは英語で作成されており、ほとんどの日本人が理解不能である。
優秀な厚生労働省職員は、日本語版を作成して全医療機関へ届けてあげようと思いついて、稟議にかけた。
いくつもの会議を経て大臣のハンコがもらえ、さっそく英語のわかる派遣社員をつかまえて作業にとりかからせる。
派遣社員はコンピューターを駆使した。アメリカ合衆国製の翻訳アプリケーションを使う。
無料だってよ、すばらしい。
十数分後には日本語版マニュアルが完成。
善は急げだ、すぐ印刷せよ。
人海戦術で、お茶くみ係や清掃員まで呼び集められ、庁舎内のコピー機をフル稼働して全国分の数量を積み上げる。
入念に数えて箱詰めし、心をこめた激励の手書きメッセージまで添えた。
運送業者に集荷を依頼するが、待てど暮らせど現れない。
特需に沸いているんだろうから猫でも杓子でも雇えばいいのに何をやっているんだろうねえ。
ただ待ってるのもつらいので手の空いてる人は千羽鶴でも折ろう。これは日本に古代より伝わる、平和祈願のシンボルなんだ。
ぼくたちは疫病にもテロにも屈しないぞ。えいえいおー。
こうして霞が関の夜は更けてゆく。
ちなみに、イェーガー・マウス・クークンが暴れまわったおかげで今では派遣や委託業者への対応がかなり改善されている。
いつまでもふんぞり返っているわからずやにはいつまでもハラスメントが集中するが、勘のいい者ほど法則を察して気遣いを学び始めるようになるのだ。
とはいえそれでもまだまだこの水準かとじれったくも思うのだが。
すまない、また脱線した。
超低温保存が必要なワクチンは、とてもデリケートだという話をしていたのだった。
実質的にマニュアルが存在しないため、現場の医療スタッフは細心の注意を払いながら試行錯誤に挑む。
失敗だってする。むしろ失敗から学ぶ。
マスコミは密着取材をしたがるので、直前まで入念な予行演習をしておく。
ケアレスミスなら揉み消せようが、しかし、隠しきれない抜本的なトラブルもいくつか浮上してきた。現場では対処しようのない問題だ。
だから現場はむしろマスコミを利用する。
記事に書かせて、政府への提言という形で具体的に暴露してやる。
マスコミは偉い人の名前は伏せるが、無名の市民へも同様の配慮ができる。隠すか曝すかの判断基準は今後もつきあっていきたいかどうかだ。
秋ノ宮政権対、最前線の兵士たち。
さあどっちの余命が長いかな。
マスコミは長生きするよ。
政府が発注し、全国100の国公立病院に設置した特製超低温冷凍庫の何台かが故障で停止し、入れておいたワクチンすべて廃棄処分せざるを得なくなった。政府は製造元へクレームを申し立てるとともに、テロによる破壊工作ではないのかと事件扱いにし、それぞれの地元警察署へ捜査を命令。
むしろテロリストの仕業であれば政府の失態ではなくなる理屈なので、担当にされた刑事たちに課せられた使命は重い。
どんな痕跡も見逃すな。なにがあろうと立件するんだ。国家に仇なす不逞の輩はすぐ背後で嗤っているかもしれないのだぞ、気を抜くな。
神や正義が実証科学より優越する社会であればあるほど、支配者の統治は容易になるものだ。日本にはその条件が揃っており、現政権には確固たる正統性もある。
そうかな?
ともかく、大勢の人たちが寝る暇も惜しんで働いているという状況だ。俺は門外漢なので、皆に声援を送りつつ座して果報を待とう。
解凍したワクチンは容器から注射器へ移され、針を1回ごと交換しながら定量ずつ患者の三角筋中央部に注入される。
この注射器は厚労省が必要数量を確保してワクチンと一緒に届けられたが、目盛り通りに移すと僅かずつ不使用分が残り、戻せないから廃棄せざるを得なくなることが判明した。
貴重なワクチン。トラブルがなくても無駄が出るならば欠陥であり、なんとかしたいと現場は思う。
この件については大阪の町工場がいち早く相談を受けて特別製注射器の見本をつくった。フィッツナー・ワクチン接種に特化した専用品だ。
たちまち医師たちの間で評判となる。
政府に提言して大量生産させ買い取らせ、一般国民への接種が始まる前に全国へ届けさせる態勢を構築しよう。
至極真っ当で建設的な提案なのだが、厚労省は最初これを突っぱねたらしい。
特許がどうの、既に発注した既存型の未納分がこうの、これ以上の追加予算はどうのこうのと。
これもマスコミが騒ぐと秋ノ宮の一喝で決着する。
空転しているタイの工場で即刻大量生産してもらって、広く日本全土へ行き渡らせようと。
チョロすぎないか。
記者は最後に書いている。
省庁は、内閣の決定を受けて下々へ命令するルーティーンには慣れている。ところが下流の魚が上流まで泳いでいくには多大なる労力が必要とされる。我々皆が鮭や鯉のような遡行能力を有しているわけではない。もっと民の言葉に耳を傾けてほしい、と。
それってあなたの願望ですよね。しかも弱者の代弁をしてる風に装っての。
ただのかっこつけじゃん。
省庁にもメリットのある提案をしなさいよ。長生きするよ、まったく。
ワクチンを射ってもらえるならと医療現場への復帰を望む離職者が急増中という。
いろいろの事情を抱えて現場を去った人達も大勢いたようで、概ね歓迎されているようだ。
ただし以前ほどの待遇は得られない。
そりゃ、やむをえずか。
しかしこれから容赦ない学徒動員が始まることも必定だし、そっちはもっと過酷な条件で使役させられるだろう。だから志願した。
損得勘定、できてますね。立派です。
あとは、どうにかこうにか、生き抜いてもらいたいかな。かっこよく、信じるものを貫いて。
ここからはエヴァンズ情報。
山梨カルテルの主力製品キュア・シリーズ2021年モデルがとうとうリリースされた。
昨年はヒーリングッドという少しおちゃらけた感じのゆるふわ路線だったけど、コヴィッドの襲来で世界は激変させられた。年内に新製品を投入するかどうかも含め、開発チームは議論も研究も尽くしに尽くして一年を過ごしたのだ。
日本全国でキュアのファンたちが、よるべき心の支えを欲し新しいヒロインを待ち侘びていた。
その答えが今、指し示される。
山梨で俺はナツミさんという研究員のおねえさんから開発中のこぼれ話を聞いた。ひとつだけ覚えている。迷っている人のための製品だから、送る側が迷ってちゃいけない。5色出すなら、そのすべてに明確な存在感を持たせ、全メンバーが揃わなければ意味がないくらいに思わせる新世界を見せつけてやらねばならないんだよと。たしか、そんな風なメッセージだった。
さあ御開帳。
選ばれたのは、たった一色。
優しい緑色のパッケージ。
小さなビンに5ミリリットル入っている。
「この中には、悪魔が詰まっている」
エヴァンズは微笑みながらつぶやく。
最初の一滴は目眩がするほど強烈だそうだ。それは生涯忘れられない記憶として刻みつけられる。
ナノテク・ワクチン並みに複雑な構造を持っているらしく、この麻薬はそのとき体内に欠乏している栄養素や欲望を嗅ぎ分けるのだ。
脳はそれを渇求する。
すべてに満たされない限り、この飢餓感から逃れることはできない。
中毒性は高くありませんか?
もちろん高いという。
「これからの1年、生ぬるい覚悟では戦い抜けない。そんな世界で生き残りたい少女たちのための薬だ。
お値段も従来品より一桁高いのだが、この価格を認めてくれるパートナーのもとへ届いてくれることを願う」
ヒトケタかあ。転売屋とか、出ませんかね。
「アンダーグラウンドの取引では、転売なんて生易しい連中は湧いてこないよ。
もちろん対策はしている。キュアの販売員はクークンがほとんどだが、ちゃんと監視役をつけている。臭い男がからんできたら、アジトをつきとめてから寝てる間に焼き殺す」
その場で仕留めないところがエグいよなあ。
その仕置人は、男の役目ですか?
「適性があれば男女問わないね。クークンの中には、たとえカモリスタでも男につきまとわれることを嫌がる娘たちが大勢いる。だから可能な限り、守られる側の意思に沿って選抜しているね」
女の殺し屋もいるってことか。サチカなんて、なんだってできそうだし、やってるかもな。
「その販売網から上がってきている情報なんだが、液体状の毒物を使用して大人を殺し金品を奪っていく子供たちの群れがいるそうだから、気をつけておいてくれ。
クークンが狙われる可能性も高いし、怨恨など動機があるのか、すべて行きずりの襲撃なのかもまったくわからないので、最大警戒が必要だ」
物騒だなあ。
以前、じじいに背後から蹴り入れてスマホを奪っていったガキを見たことあったけど、今度は殺しか。
やあ、物騒だ。