新聞報道でワクチンとだけ書いてあれば、それは米国フィッツナー社製のコヴィッド対応ワクチンのことを指す。
同社のライバルとされる米国パイソンズ社とも平塚大臣は契約を交わしたが、いつ頃日本へ届くかはわからない。
なのでパイソンズ・ワクチンは誠意がいまひとつ、というニュアンスを絡めて語られる。
もっと悪意をまぶされるのは、なんといっても中国製ワクチン。
危険物質が山ほど添加されているとか、元凶となるウイルスを雨水で薄めただけでパッケージされているとか、調べようともしないで書き放題だ。
もっとも記事には必ず、匿名の専門家か信頼できる情報筋によればといった免罪符がつくので、嘘だともいえない。
嘘でなければ真実か。
新聞は第一次史料として末永く遺る媒体なのだから、間違った情報は極力排除されるべきなのだ。そういう使命感に貫かれているはずである。だから記者たちの文章はとても慎重に書かれる。国内ゴシップなら素人でも参入できるけれど、少し高度な話題となると、さすがにまだまだ、いつものペース。俺も肩の力を抜きながら読める。
このくらいの難度がちょうどいい。
とはいえもうちょっと密度がほしいなあとは思う。
コヴィッド対応ワクチンの種類は3つだけじゃないのだ。
昨年、最も早く完成し市場へ出回ったのはロシア製。WHOなど西洋科学に基礎を置く医療機関は今も未承認。
中国製は漢方ベースとのことでしたが、ロシアはどんな製法なんですか?とエヴァンズに訊いてみた。
「冷戦時代、ソ連では生化学分野に圧倒的な予算と人材が投入され、テクノロジーを何世代分も未来へ進めた。いまのRUはその技術をほぼ独占的に引き継いでいる。
旧西側もゲノム解析とか地道なステップアップをしているけれど、進めば進むほど新たな謎を生み出して収拾がつけられないという悪循環に嵌まりこんでいるよね。
で、RUワクチンの製法か。僕は知らない。博士にもお手上げのようだ。
かれらは特許を公開しないから」
公開しないことが?
一番の秘訣はそれですか。
「西洋文明をある一定のレベルまで成長させ、同時にそれ以上の成長を阻害させている大きな要因のひとつが、特許制度さ。
そもそもジョバンニは特許がなんだか知っているか」
新しいアイデアを発明し、特許庁に登録しておけば、その技術を使いたい人は権利者に使用料を支払わなくてはならない。これによって発明者の利益が保障される制度……だと思ってました。
「いまの説明の中だけで、構造的な欠陥が指摘できる。わかるかな?」
登録する人は、製法をすべて明らかにしなくてはなりませんよね。
それを見て、こっそりパクって、秘密裏に製造して稼ぐ人を防ぐ仕組みは存在するのかしら。
「発明保護制度の所轄団体は、受理・審査・登録・公開までしか担当しない。そこから先の揉め事は当事者同士が裁判所で争え、という原則だ。
発明を収益に結びつけたい者は、自身の特許が不正使用されていることを自力でつきとめ、自腹で調査し、裁判費用まで捻出して、決着がつくまで戦い抜かねばならない。
およそ個人発明家が参入できるような制度じゃないんだよ」
中小企業でも無理ですよね。
じゃあ特許制度は、大企業を優遇してることになるんですかね、実態として。
「実態はもっとえげつないよ。
大企業は研究開発部門を持っているが、ここで生み出したアイデアをどんな小さなものでも片っ端から特許申請しておく。この地盤を固めておけば、ライヴァルをいつでも訴える準備が整う。
新規参入メーカーほど、最初の商品をつくるまでに何百種もの特許使用料を先輩たちに払ってからでなければスタートラインに立てない。
特許制度が確立された国では、搾りとる側と搾りとられる側が固着するから、秩序が保たれるんだよ。その代わり成長が止まる。新陳代謝が起こらなくなるからね」
不合理じゃありませんか?あまりにも。
この行き過ぎを止めようとする国があってもよさそうに思いますが。
「現実問題、この体制から得られる旨味を吸い続けていられる企業が国を支える構造になりやすいから、ますます締めつけていく無限ループにしかなりようがない。
参考までに言っておくが、たとえば君がある日ふとひらめいた程度のアイデアは、とっくに誰かが登記している。
発明家になる一番の近道は特許庁へ通い詰めてファイルを片っ端から読むことだ。古い資料ほど、すでに世間が忘れて久しいアイデアが死蔵していて、再加工すれば斬新な発明に生まれ変わる。そんなメモをいくつも携えて大企業に就職し、社内昇進しながらライヴァルをますます困窮の極みに突き落とすのが賢い人間の生き方だね。
特許制度とはそんなエリートを全力で応援してくれる発明なんだよ。
西洋文明国はひとつ残らずこのシステムの恩恵にあずかり、ひとにぎりの勝者と厖大な役立たずを住み分けさせている。これを反面教師として東側の国々は、大衆にはすべてを公開させるべきという原則を採用しなかった。だからスプートニクが誕生した」
ああ、そうでした。もとはワクチンの話からだった。
その、スプートニクの現物を手に入れたとしても、組成分析とかは難しいものなんですか。
「このスマートフォンを、20世紀に持ちこんで調べてくれと依頼するに等しいね。各部品の形状と寸法を忠実に再現した模型ならつくれても、ある条件下でそれらがどのように連携して適切なメッセージをつくりだすのかなんて途方もないシミュレーションが必要になる。ノヴォシビルスクでフィッツナー・ワクチンを調べるほうがずっと簡単じゃないかな。すでに終えてると思うが」
フィッツナーもパイソンズも、米国の特許庁にワクチンを申請済みでしょう。ロシアはそこからも情報を入手できるでしょうし、仮に米国製と同じものをつくって販売するようになったら、訴えることはできるものですか。
「言いたいことは察するが、いわゆる知的財産権を世界全体で統括する組織なんてものは無い。
USが自分たちの基準で勝手に見せびらかしている情報に対して、不正な手段など使わずに真似してみただけで料金を請求されるなんて悪質だと、RU側は異議申し立てすることだろうね」
仮にスプートニクのコピー品を他国がつくって売り始めたら、ロシアは抗議をするんでしょうか?
「できるものならやってみろ、が第一原則だとして、仮にスプートニクと同等の製品をつくる国が現れたらRUは喝采を送るんじゃないか。そして、この程度のプロテクターでは甘いのだなと判断して、セキュリティをこっそり厳しくする。
こうすることによって総体的なスキルが向上し、社会全体がより豊かな実力主義を備えていくというのがロシアン・イデオロギーだ。
責められるのは、スプートニクより質が劣るワクチンを、RUやスプートニクの名を騙って販売する行為だ。そんなことをすれば猛烈な批判を浴びせられるし、裁判だのなんだの言う前に刺客が放たれるよ。
RUの暗殺部隊はあらゆる毒物を使ってくるから覚悟しておけ。西洋医学の技術水準では検出できない生物兵器を、かれらは何種類も用意している」
はあ、気をつけます。
欧米それから日本の基準に照らせばずいぶん物騒でワイルドな気がしなくもないんですけど、そこはお互い様なんでしょうね、たぶん。
「硬直性から自力で抜け出せない君たちの方がより深刻な病態に思えるけどね。ついでだが、今度のオリンピックにRUが国として出場しない理由も、同じところにある。
RUの医薬学界は、とりわけ西洋式が大嫌いなんだ。
IOCへも、もっと公平なルールをつくれとしょっちゅう噛みついていたんだが、リッパーオフもドイツ人だけあってロシアを憎悪しているから、とうとう決裂して参加権を没収するに至った」
ドーピング疑惑ですか。ロシアは国家ぐるみの隠蔽工作を繰り返すからだとか聞いたことありますけど。
「RU側の声明は聞いちゃいまい?
ドーピング違反と規定される薬物の種類と量はモントリオールの機関が決めているんだが、実態としてIOCの言いなりだ。
アスリート向けのサプリやピルに新しいものが登場するたび組成や効果を検証しているが、この測定方法や適正量の見極めにはUSスタッフの意向が大きく反映される。そもそもUS企業の製品が最多だし、公開資料にメディアのレビュウ、マーケティングリサーチのデータなども発売前から持ってくるので影響を受けざるを得ないともいえる。
必然的に、薬物についてはUS選手がベストパフォーマンスを発揮できることがオリンピック基準となる。
大会直前に決められ、参加国すべてに通知されるが、日常的に服用しているプロテインやサプリメントを急に止めたらコンディションが崩れるじゃないか。この葛藤と衝突に悩まされている国の方が圧倒的に多いんだが、RUは特に反発するんだよね。
滅多に報道されないが、どこの現場でもよく揉める。検査員や医療チームとの関係だってぎくしゃくする。結果、ドーピングで失格になるRU選手が出やすくなり、順位が上がって喜ぶ国は増えるといったスパイラルだ」
なんだかすべてが政治的な都合で動いているような筋書きですけど、ロシア側にも非はあると思いますよ。
他の国々は妥協しているんでしょ。なぜひとりだけ意地を張る。
国際大会に出る以上は、レギュレーションが公開されているのならそれに従うのは当然でしょうに。数字の改竄まではされてないでしょうから、ロシアが組織的にドーピング違反してるって事実は揺るがないと思います。
「それもそうだね。だからウラジーミル大統領はG8からも離脱したし、国としてオリンピックへの不参加もはっきりと表明している。
筋は通してるよ。かれらはね、まだるっこしい駆け引きなんてしないんだ」