2月27日、木曜日。
朝8時にアラーム音で起こされる。
エヴァンズから、駐車場へ来いとのメッセージ。
手順はなにも変わらない。行く。
プリウスに乗る。
文京区の床屋で、伸びたひげを剃る。
「1422号室だろ。さすがに臭くて、近寄りたくない。
なあ、ほんとにあの臭いを感じないのか?感じないでいられるのか?
すごいな」
じめっとした不快な湿気と、ここで何人も死んだのかなって妖気みたいなのは感じましたけど。
今夜もあそこへ泊まらなくちゃならないんだとすると、さすがに厭ですね。
ああ、コーヒーがおいしい。
「そうだよなあ。せめてもう少し、いい部屋へ代えてもらおう。
そんな憑き物を背負ったやつと一緒の車に乗っていたら僕までおかしくなりそうだし、なによりクライアントに信用してもらえなくなっちまう」
……ランクでいうと、1422号室はどのあたりなんですか?
「中の下、といったところかな。これより下げるとしたら懲罰房になる。
1106は中の上だね。君はタイミングがよかったんだよ。たっぷり血を採るからくつろげる部屋にしてやれっていう博士の肝煎りが効いていた。
飼っているヤポの品格でマスターの質も評価されるからなあ。今回はしくじった。早いとこ、トレッドミル付きのクラスへ上がろうぜ」
ふうん。
カムパネルラは、あれよりいい部屋に住んでるんでしょうね?
「あの子か。
彼はスターンに信頼されているからね。ユニットバス付きで、ゲーム機も買ってやったとか言ってた気がする。
直接本人から聞いてみたまえ」
な……んだと?
超セレブじゃないか。同情してやることないな、もう。
俺にもそんな部屋、よこしやがれ。
「ところで君は昨日、ILはどこと戦っているのかと僕に訊いた。
あれは僕にとって、なかなか考えさせられる質問だった。
ひと晩考えてみたんだが、余興のつもりで聞いてくれ」
黙っていると、勝手に喋り始めた。
お勉強してきた成果をひけらかしたいらしい。
はいはい、どうぞ。俺はコーヒーをすする。
「昔むかし。メソポタミアのカルデラに、アブラムという立派な人物がいた。
彼は神様から、カナンへ行け、おまえの子孫たちにその土地を与えるというお告げをいただき、家族を連れて移住する。
いろんな苦労をしたが、神様に守られて、ひと財産築いた。
アブラムの孫がとりわけ子沢山に恵まれ、ここからかれらの一族は大発展する。
今から3000年ほど前には、カナンを中心に、ヤポの関東地方1都6県に匹敵するほどの面積を持つ王国を誕生させた。
この国の名が、イスラエルだ」
昨日行った、大男のいた大使館だ。
「しかしその王国は滅亡し、国民は離散した。
神との契約を厳格に守る人たちだったから、他の民族とは交わらず、各地で自分たちだけの村をつくって暮らした。
つい70年ほど前まで、そんな時代が続いていた」
2020−70=1950年。はて、その頃、何が?
「ジョバンニは、第二次世界大戦って聞いたことはあるかい?
西暦何年に終わったか言えるかな」
えーと。昭和20年、じゃなかったですかね。西暦だと……
「まあ、そんなレベルか。
この戦争で、いわゆる大英帝国は世界の覇者でなくなってしまうんだよ。
戦勝国の一角ではあったが、旧来の植民地を抑え続ける力を失い、それらの多くに独立を認めた。イスラエルもそのひとつだ」
そうですか。それはよかったですね。イスラエルにとって。
「エルサレムを中心とする、当時大英帝国が統治していた地域は、今もパレスチナと呼ばれている。
住民の大半はアラブ人だった。
アブラムの末裔たちは、ここに自分たちの国家を再建すると宣言した。
そして世界中の同胞へ、3000年ぶりに故郷へ還ってこられたぞと結集を呼びかけた」
ああ、世界中に離散してたんでしたっけ。じゃあ、民族大移動が始まったことでしょうね。
「民族大移動か。たしかにそうだ。
その地に代々住んでいたアラブ人は突然出て行けと言われた。
いや、言われる余裕があればマシだった。
異教徒が140万人も暮らしている土地へ乗りこんでいくんだから、新イスラエル人たちの覚悟も相当だった。
つい数年前まで兵隊・参謀・武器商人をやっていた者は双方とも大量にいたけれど、諸外国を味方につけ支援を掻き集めるコネクションにおいては、イスラエル側がずっと優位に立っていた。
1948年にイスラエル建国宣言。その直後から周辺国との戦争開始。翌年に終戦協定が結ばれていった頃には、パレスチナに住んでいたアラブ人の50%から80%が、そこからいなくなっていた」
戦争になったんですね。
イスラエルと、どこがですか?
「いい質問だ。この段階では、パレスチナ人は自分たちの政府を持っていなかったからね。
パレスチナを囲むエジプト・レバノン・シリア・ヨルダンと、ヨルダンの東隣に位置するイラク。かれらが、逃げてきた難民たちを保護しながら、イスラエル軍を武力で押しとどめようと宣戦布告したんだ。
イスラエル軍は、もちろん連戦連勝じゃなかったけれども、高い指揮と統率力、そして最新鋭の兵器を駆使することで、当人たちの主張する独立戦争を勝利へと導いた。
ちなみに、この戦争が終わるより前に、国際連合はイスラエルを59番目の加盟国として承認している。
参戦していなくてもアラブ諸国は軒並み反対票を投じたし、大英帝国は棄権したが、大多数の国家が、自分たちの領土からユダヤ人が出ていってくれることを歓迎したのだというのが歴史的な評価だ。
ともあれ新生イスラエル国は、こうして華々しいデビューを飾った」
ひどい話ですね。もっと平和的なやりかたはなかったものでしょうか。
「はぁ?君たちこそ、国家をつくる機会があるなら参考にしたまえよ。空港ひとつ満足につくれないくせに。
おっと、ヤポの話なんてどうでもいいんだ。
イスラエルはその後もずっと周辺アラブ諸国と敵対関係を続け、幾度も交戦に及んだ。
そのたびに勝利して、イスラエル不敗神話ができあがる。
軍事面のみならず、産業・研究・政治と外交における投資と実績は他の追随をゆるさない。
現在のイスラエル国土はヤポ関東域の2/3ほどしかなく、その南半分は砂漠だ。にもかかわらず、SGを超える水利再資源化技術を開発して中東トップの農業大国に君臨しているんだぜ。
これがどれほどとんでもないか、君にだってわかるんじゃないか?」
まあ、すごいんでしょうねえ。
いきなり言われても、わけがわからないけど。
技術でいうなら、確かにあのドローンはすごかった。
軍事用のドローンを開発するなんていう発想が、そもそも日本には無いからな。
平和だから、それでいいんじゃないですかねえ。
……いやいや、まて。
そんな連中が日本へ来て選手村でテロを起こそうとしているんだとしたら、警察や自衛隊はまともに対処できるのか?
俺が考えたところでどうにもならないけど、厭な気分だ。
「ILが他国と直接交戦したのは、1974年が最後だった。
以降、国境を越えての軍事作戦や多国籍軍に混じっての活動はひっきりなしにやっているが、国対国の戦争は行っていない。
ヤポだったらここで簡単に、ILは46年間平和な状態にあると評価するんだろうな。どうだい?」
いま聞いた話だけで、そんな雑な感想は持ちませんよ。まったく。
強力な軍隊があって、そいつらがしょっちゅう国境を越えていっているなら、事実上の戦争状態でしょう。
少なくとも平和な国であるとは言えないと思いますが。
「ここで最初の問いに戻る。
ILは、いったいどこと、何に対して戦っているのだろうか。
ILが求める、最も理想的な解決案とは、いったいどんな状態なのだろうか。
どう思う?」
はあ……
3000年前の王国が関東地方と同じくらいで、いまの国土は2/3くらいなんでしたっけ。
残り1/3もうちのもんだって言いそうですね。
全部手に入れるまで、アラブ人を殺して……そこで終わってくれるとも思いませんけど。
それだけ圧倒的な軍隊を持っているんなら、やろうと思えばなんだってできちゃうでしょ?
「ずいぶん雑な発想だ。さすがヤポだ。
帝国主義者の思考回路だよそれは。
残念だが、ILはもっと賢明な人たちだ。かれらの目的は領土拡張じゃない。全世界の覇者になろうだなんて、はなから考えちゃいない。
アラブ人を根絶やしにするつもりもない。むしろ、かれらと平和な共存を願っている。そう主張している。
ところが不幸な展開に進んでいる。
これにはちゃんとした理由がある。そこに気付いたから、僕はある行動を起こそうと考えているんだが、これ以上君に語っても、どうしようもなさそうだなあ。
さて、そろそろ出発してくれ」