滅多に連絡をよこさない親友と、一年半ぶりに再会した。
浮浪者とまではいわないが、ヨレヨレの服が臭そうだ。
浅黒い肌に、無精ヒゲ。歯が黄色い。
髪も、素人がハサミで刈ったかのごとく不揃いな長さで、フケが浮いている。
同い齢のはずだが、今の俺より5つ以上老け顔で、その眼光には刺々しさがまったく無い。
それでも、ひと目でわかった。
わからいでか。
保阪カナイ。
農専で苦楽を共にした、生涯の友だ。
囮にされているのかもしれない。
窓を開けた瞬間、死角から暴漢が襲ってきたりしないか。ガスを吹きつけられたりしないか。
プリウスの運転席からは見えない範囲が広い。尚一層、目と耳に全神経を集中させ、知覚を研ぎ澄ませる。
保阪の表情からもメッセージが読み取れないか探る。
ドアには触れようとせず、微笑をたたえたままだ。口パクも無し。
ただの旧友である可能性は消えた。スパイの流儀を心得ている。
となれば、敵か、味方か。
2mmほど窓を開ける。スイッチから指は離さない。
かすかだが汚物臭。言いすぎか。
雨上がりの不快指数を差し引けば、着の身着のまま2日から3日というところだな。
「ありがとう。元気そうでよかった。
活躍のほどは、うっすらとだが聞いている。
うらやましい。
それだけ伝えたかった」
……答えられる範囲で、教えてくれ。
君の主人は誰なんだ?
それから俺の活躍って、どんな風に聞いているのかな。
「マスターの名前は明かせないが、カモリスタだ。
先週の水曜日かな、あれは君が主役だったというじゃないか。
仲間うちから口々に聞いた。
驚いてるよ」
カモリスタなんて固有名詞を自分から口にするんじゃない。
しかし、イスラエル直隷の線は消えたな。さて……
いつから組織にいるんだ?
「春からだ。
騙されたよ。奴隷よりもひどい。
逃げ出したいが逃げられない。
いっそひと思いに、なんて何度考えたことか。
つらいよ」
なるほど、1年前の俺みたいな段階だ。毎日、逃げ出すことばかり考えていた。
それにしてもエヴァンズよりずっと乱暴な扱いをする主人だな。
俺の知ってるカモリスタでは、ゴステロくらいしか、ここまで虐待しそうな奴は思い浮かばないが。
「俺の名はウンベルトで通っている。
もしジョ……君の力で助けてもらえるならありがたいが、君の立場が悪くなるようなら忘れてくれ。
君だけでも、成功をつかんでほしい。
強く生きて、のしあがって、世界に羽ばたいてくれ。
そのあとで、一瞬くらいおれのことを思い出してくれれば嬉しいよ」
殊勝ぶってんじゃねえ。たすけてやるよ、俺を見くびるな。
……ウンベルト、今後君と確実に連絡をとれる方法はあるか?
俺の行先は毎日予測がつかない。
今日はたまたま見つけたんだろうが、この周辺に来たときは、君にはわかるのだろうか。
「確実にではないけれど……
先週ほら、君がやらかしたじゃないか。あの周辺が俺の仕事場だ。
だから今日みたいに君を見つけたら、マスターがいない隙に抜け出してこられるよ。それでいいかな?」
なるほど、つながりが見えてきた。
二番町は被災地さながらに瓦礫の山と化しているが、そこで働いている労務者の中に紛れているといったところか。
イスラエル大使館を監視しつづけるのはカモッラの重要なミッションだからな。
俺は今日そっちを通らずここまで来たんだが、どうして気付いた?
爆心地からここまで、1kmも離れているのに。
保阪に協力者がいるならば不可能ではないか。
工事人夫は何十人も雇われていて、そのうち数%がカモッラのスパイだとして、チームリーダーはそれなりの上位者だろうからエヴァンズかプリウスの現在地をサーチする権限を持っていたりもするだろう。
そのあたりの事情は今後おいおい尋ねるとしよう。
安心しろ保阪。
トキオもカモリスタなんだ。必ずおまえを引き上げて、俺たちのチームに加えてやる。
挫けるな。もうちょっとだけ辛抱だ。
今はまだそこまで教えてやれないけど。
保阪は南へ立ち去っていった。
心無しか、来たときより足取りが軽くなったようにも感じられる。
彼にとっても、勇気を出して踏み出した一歩だったはずだ。
なんとかしてやりたい。
新たな目標が生まれた。
エヴァンズにも助力ねがいたいところだが慎重にいこう。
今日、保阪が持ち場を離れたことは厳罰に該当するかもしれないし、協力者に迷惑がかかってもいけない。
当分はステルスしながら情報を集めるんだ。
戻ってきたエヴァンズに、二番町事情について訊いてみた。
イスラエル大使館はカモッラが日本へ上陸した時からあの姿だったので、構造や防衛システムなどを探ることは難しかった。
今回大きなダメージを負い、修繕に日本政府がカネを出す。となれば当然日本の建築会社も使わざるを得ないだろう。いくら不本意でもだ。
ここにスパイの入りこむ隙が生まれる。
入手したデータは、次の決戦で大いに活用されることとなるわけだね。
米国などは、破壊のかぎりを尽くして占領した国に自分たちの出資で庁舎やモニュメントをつくってやったり、道路や公共交通機関などのインフラを整備してやったりするのがルーティーンだが、目的はあからさまだ。以後も末永く、その都市を自分たちに従属させておくためである。
その国の民主主義化に失敗した場合でも、再占領するのを前回よりずっと容易にさせておくのだ。
カモッラがイスラエル大使館にこれから仕掛けるトラップは、西洋列強の定番ルーティーンに比べたらずっと小さな規模ではあるが、同じ発想である。
二度と刃向かってこれないようにしてやる。さもなくば次は核シェルターごと吹き飛ばしてやるからな。
こんな恐怖だ。
たのもしいなあ。
保阪よ。気を強く持て。
君の今している仕事は、決して空虚ではない。
明るい未来を創りだすための着実な積み重ねなのだ。
胸を張れよ。
その夜はアヴァンティで勤務だった。
あの夜以来、アモスを見かけていない。
来れば前回と同じように好きなだけ、イスラエル讃歌を語らせてやるつもりなんだが。
俺はこみあげてくる笑いを抑えきれるかな。
クックックッ。
しかしやつらは来なかった。
代わりに、博士と教授とお調子者のトリオが来店した。
お調子者って?ゴーシュのことだ。
素性の知れない中年男性で、日本語しか喋れないから、こいつと話す時はどんなカモリスタでも平易な日本語だけを使う。ありがたいことに。
言語不十分でも出世する道はあるということになるが、よほど飛び抜けた才能を持っているのだろうなあ。しかしそれが何なのかはさっぱり不明だ。
最大限に聴き耳を立てているが、ゴーシュをミーハーなお調子者以外に形容するのは難しい。
教授は、前回俺をビビらせたが今日は一瞥もくれなかった。
同伴者が俺に興味を持たないかぎり、教授の方から絡んでくる心配はなさそうだ。
それは、とっても、ありがたい。
ゴ「ピエール・ド・フレディ男爵が死んだのはベルリン・オリンピックの翌年だったんですね。アドルフ総統が国家予算をつぎこんで大成功させた、画期的な大会。
その後の顛末を知らずに逝けたことは、幸せだったと言っていいやら、どうなのやら」
博士「第二次世界大戦のことかい。あれをリアルに体験できなかったなんて、不幸に決まっているよ。
それよりピエールは過去への扉を開いて1870年のザッパス・オリンピアドを見たかったことだろうと思う。
もし、あの大会が正しく伝えられていれば、IOCなんて生まれなかった。
人類にとってのスポーツは、現在とまったく違う歴史を辿っていたことだろう」
ゴ「ザッパス?それはいったい何なんです」
教授「エヴァンゲロス・ザッパス。ギリシャ人だ。
ピエールたちの世代にオリンピック幻想を刻みつけたキーパーソンだよ。
ただしザッパス自身は1865年に死去している。
1870年、彼の遺志を継いだ仲間たちがザッパスに捧げるべくアテネで盛大な祭典を開催した。
これのせいでザッパスの築いた全財産はきれいさっぱり消尽する。しかしすべての参加者に、かけがえのない思い出と生きる喜びを強烈に与えることに成功したんだ。
当時ピエールは7歳。
パリの邸宅で家庭教師から、あれは古代オリンピアドの再現だという堅苦しい教訓まみれの物語として聞かされる。
純朴なピエールは、同世代の貴族たちが成長してから、あの感動をふたたび自分たちの手で創りだそうと、勝手に理想化して運動を始めた。
しかしザッパス・オリンピアドについて調べれば調べるほど、それは民主主義型秩序とは共存できない思想に支えられていることがわかったので、結局、近代オリンピック神話をつくりあげると同時にザッパスの存在を西洋史のあらゆるページから削除することにしたのだ。
フランス人にとって、歴史の改竄なんて芸は、嗜みのひとつだからね」
ゴ「19世紀のギリシャといったら、西洋列強がオスマン帝国から奪ってバイエルンやデンマークから王様を据えて民主化させようと懸命だった時代でしょう。
国際フットボール連盟だって生まれちゃいなかった。
いったい、どんな競技をやったんです」
教授「西洋人がことのほか好む、その国際連盟なんて思想が、そもそも誤っているね。
かれらは学ばずにルールだけを決める。
だから何をやらせても無意味な空回りだけをするんだ」
博士「残念ながらザッパスにまつわるあらゆる記録は、IOCが塗りつぶしただけでなく、バルカン半島を舞台とした数えきれない戦乱と経済危機のせいで、あとかたもなく失われてしまっている。
だからオレたちには想像することしかできない。
ヒントは、ピエールたちが激怒して、ザッパスのアンチテーゼとして近代オリンピックをつくりあげたという因果関係だ。
だからオリンピックの良いところも悪いところもひっくり返してみようじゃないか。
どうだい?」
ゴ「はあ。
オリンピックといえば巨大な利権屋。少数の金持ちをますます裕福にし、広告合戦を煽り立てて4年おきに夏と冬をストレスフルに彩る。
環境破壊も限度を知らない。
出場選手は国の威信を背負わされて死ぬまでニコニコ笑いつづけていなくちゃならないから、よほど強い薬物を処方されて育成されるんでしょうなあ。
それらすべてを逆転させるとすると……」
教授「ギリシャの古民家で語り継がれる伝承を蒐集した研究家がいる。
それによると1870年のザッパス・オリンピアドは会場に来る者を一切拒まず、食事と沐浴を提供して、もてなしたそうだ。
会場のいたるところで駆けっこ競走や異種格闘技大会が繰り広げられ、その場で適当なハンディキャップが設定されて、競技者も見物人も全員が熱狂した。
ザッパスのように大富豪になれば、こんな道楽だって主催できるんだぞというのが、彼と仲間たちからのメッセージだったように解釈することも可能だね。これなら第二・第三のザッパスになりたいと願う若者が、より積極的に産業を振興させたくなる社会が生まれそうじゃないか。
フランス人は、その芽をつぶしたんだよ。
選ばれた民以外には富も主権も一部たりと渡さない。
民主主義とは、そういう疫病なのだからね」