スターンが、ワインセラーからカーメル産を出してきた。
客たちに一杯ずつふるまう。
そしてアモスの話は続く。
ア「岸首相は私たちの国を訪れる前日、EGで声明を出していたんです。
アラブ人の国であり、しかもアラブ世界で初めて生まれた民主政権を1年で引きずり降ろした軍事政権が住民を支配している。そこの政財界とニコニコ会談して、EGよりも更に悪辣なアラブ国家と戦うために2億ドルを支援するという内容でした。
私は今もこれがフェイクニュースであってほしいと願ってるんですが、本物なんですよね?」
すでに俺の処理能力はオーバーフローしている。ちょっと難しすぎるな。
スターンよ、俺もカーメルを飲みたいぜ。
口をしめらす程度でいいから。
博「正真正銘本物だし、ヤポの民衆は5年後の今でもこれが岸の外交力だと褒めちぎっているよ。
理解しなかった悪辣国家アイシルはひどい、という論法でね」
アイシル。えーと、なんだったっけ?
ア「誰に理解できるというのでしょう。
アラブ人同士の抗争に突然割って入って、しかもそれを挑発目的で公表する。
自分にだけは弾が飛んでこないと本気で思っていたんでしょうか」
博「カメラ映り以外のことを一切考えようともしないのが岸だし、ヤポだよ。昔からずっとそうなんだ。
実際すぐに弾が飛んできたわけだね」
ア「その前に、アラブ人と握手した汚い手ですぐ我々の国へ入ってきた神経も解せません。
どういうつもりだったのでしょう」
博「岸は、いやヤポにとって世界は、ヤポ・白人・その他大勢、くらいしか区別がつかないんだ。
それ以上の分類をするつもりもない。EG・JO・IL・PSさらにアイシルまで一緒くたさ。
さあ中東のみなさん吾輩のカネを受け取れ。そう宣いながら観光旅行をしていただけなんだよ。
悪気はない。そこはわかってやれ」
ア「侮辱にもほどがあります。その中にILを含めないでください」
博「岸に直接言っておくれよ。なんなら縛りあげて連れてきて、君に渡すけど?
5ミリオン・シェケルでどうかな」
ア「考えておきます。
この時点でアイシルはすでにJPの捕虜を2人以上確保していた。
それを突きつけられた形ですが、岸首相は事前にまったく知らなかったのでしょうか?」
博「出国前に知らされていたかどうか、かあ。
これはね、我々、裏をとってある。すでに調べて確認もしているという意味だ。
どうしようかなあ。
よし、サービスだ。ただで教えよう。
アイシルは2014年中に、捕虜2人の家族へ向けて身代金を要求しているのだ。電子メールでね。
ヤポに住む家族は警察に通報するが、警視庁・警察庁・外務省が対応を押しつけ合って埒が明かない。
政府としては外国のテロリストとは交渉しない方針である、と家族からメールを見せてもらうことすら拒んでいる。
一方、自称最高責任者の首相は12月いっぱいまで衆議院選挙の街頭演説で忙しくて、それが終わったらさあバカンスだと奥さん連れて中東へ飛んでいった。
だから、知っていたといえば知らされてはいたんだが、そんなの覚えてないし気にも留めてなかったというのが真相だね」
店内が静寂に包まれた。厨房からの音さえ途絶えた。
いったい何を言いやがるんだ博士。
古い話だからと好き放題に。
言い方ってものもあるだろう。悪意に満ちすぎている。
人命の尊厳を学び直してきやがれ。
博「現地時刻で1月20日の朝だったと思う。アイシルが動画を公開し、岸を名指しして、きっちり2億ドルの身代金を要求した。
これに対し岸、エルサレムのホテルからテレビ中継で声明を出す。
卑劣なテロを批難する。ただちに人質を解放したまえ。私は怒っていると思うんだ。EGに提供した2億ドルはアイシルからの避難民のために使ってもらえると信じている。ニッポンバンザイ。
直前まで本人が推敲した日本語のまま朗読。
放送後にアラビア語への翻訳を業者に依頼したというが、チェックした形跡は無し。
ヤポ国内で誘拐事件が起きた場合でも岸を名指ししておけば同じようなメッセージを読み上げるんだろうか、なんて当時カモッラでも議論したものさ。
岸のワンマンショーといえば、KPとの拉致疑惑問題交渉も負けず劣らず面白いんだが、聞きたい者は手を上げておいてくれ。そっちは有料にするかな」
ア「エルサレムからの声明は、その2日前にマリオが我々に示した希望をこっぱみじんに打ち砕きました。
彼は中東の現実に無知すぎた。自ら危険を招き、対処能力が無いことをさらけだし、知恵も力も絶無であると強く印象づけて帰国しました。
しかも出発直前まで、またアラブ人と会って相談をしていたんですよ。哀しく思います。
子供たちはゲームで遊ばなくなりました。
あんなに大好きだったのに。
私は責任を感じましてね。
あれがいったい何だったのか。
ちゃんと、あの子たちに説明してやれないといけないなあって。
その決着をつけるつもりでこの国へ来てみたんですが、却ってわからなくなります。
こいつら、いったい、何なんでしょう。
神はなぜ、こんなものをおつくりになったのでしょう」
再び沈黙が支配する。
よくわからんが、アモス、おまえも博士に負けず劣らず失礼だぞ。
もう少しだな、人に優しく構えなさい。
勉強しに来てる国で、その地の住民をここまで愚弄するなんて人として最低だし、そんなだから世界には争いが絶えないのだ。
とはいえ俺もぐったり疲れたし、うまく言葉にできねえ。
また今度、会うことがあれば説教してやる。逃げんなよ。
客たちも、くたびれたようだ。
ポツポツと帰り始めた。博士とアモスも出ていった。
俺は掃除にとりかかる。今日はもう、店じまいだ。
ス「オリンピックが1年延期されるとなると、いろいろ予定が狂ってくるねえ。エヴァンズとの契約も更新されるんじゃないかい?」
え?……あ、そうか。そう……
いやいやちょっとまて。
もう1年、この奴隷状態が続くってことかい。あれ?
そうじゃない場合って……
ス「この秋でやめるつもりかな?
そうかい。好きにしたまえ。うちは君がいなくなっても特に構わないよ。
今の君程度の雑用係なら、いくらでも代わりはいる」
はっはっは。あんたも失礼きわまりないぜスターン。
でもちょっと思いついたので、訊いてみた。
いったい今の俺に、これ以上なにを求めているんですか?
ス「やれやれ。まだわからないのかい。
言われるまでわからないやつは、言ったってわかりゃしないのさ。
今のがヒントだ。さ、もう帰れ。1027号室を開けておく」
部屋へ向かいながら考えた。
契約終了したからって、カモッラが俺を自由の身にさせるはずがないのだ。死体袋に詰められるのがオチだろう。
考えようによっては、俺の余命は1年半先まで延ばされたことになる。岸首相に感謝せねばだな。
エヴァンズはともかく、スターンから用無し判定されないためには何をするべきなのか。
実行するしないはともかく考えてはおこう。雑用係としてキビキビ働いても、それだけでは不満足らしい。
ちくしょうめ。
たとえばカムパネルラは厨房で調理を一人で任されているし、スターンにとっていなくなられては困る存在だ。
同じような存在感を示せればいいのか。
ただ、何度もトライしているがカムパネルラは助手を必要としていない。洗い物さえ、俺が手をつけようとすると激しく拒絶を示す。
スターンについても同じで、カウンター内は完全に彼だけのテリトリー。
俺は隅に腰掛けて、雑用をする以外に動く余地がないのだ。実際。
さすがに俺がいなくて2人だけだと、便所掃除だってどちらかがしなくちゃいけないわけで、もう1人必要なんだろうということはわかる。わかるが、しかし、今以上に一体なにができるっていうんだ?
翌朝、エヴァンズに、オリンピック延期のことを話した。
彼は首相官邸で盗聴されたと思しき一連の流れは知らず、ふうん、そうか、決まるとしたら今日なんだね、と気怠げな反応を返した。
「世界中から延期してくれって要請がきてたからね。開催しても参加はしない、とか。
ヤポは、それなら自分たちだけがメダルを独占できるじゃないかって下世話に喜んでた。
それにしても、聖火を待ってたのか。さすがに気付かなかったよ。
1年間も灯し続けられるんだろうか。
どうせこいつら、もったいないからって消してしまいこんでおくんだろうけどさ。
大使館を回って、何パターンもの作戦プランを立てる作業は僕も辟易してた。
やめてくれるのが本当は一番なんだが。ともかく、これで当分僕たちには国内での業務に取り組む余裕が生まれる。
ヤポ語しかわからなくてもできる仕事は多いから、君にも大いに働いてもらうぞジョバンニ」