東京五輪殺人事件   作:ひねもす@HAMELN

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TokyoMassacre2020-01-003.hmos

派遣会社では、すぐに個室へ通された。

体があたたまる暇もなく、スーツの男性が現れる。

広瀬さんというそうだ。マスクをしていた。予防のために付けているのだと言って、個包装された新品をひとつ、俺にもくれた。

俺は朝からマスクをしていたのだけれど。今後、品不足が確実にくるから持っておくといい、というのでポケットにしまう。なんて太っ腹な会社だろう。

 

「宮澤さんは、求職中だとうかがいました。

先に話したいことがあれば、お聞きします。無ければ私の方からシステムを説明させていただいて、その上でエントリーシート作成に移らせていただきますが、どうされますか?」

 

手際がいい。

ハロワでは、カウンターが衝立で仕切られていただけで、周囲の会話がダダ漏れだった。急き立てられる圧迫感もあった。

広瀬さんは、やわらかな眼差しで、俺が話し出すのをじっと待っている。

包み隠さず話しておいた方がいいな、と思った。

コロナに罹ってしまったこと。前の会社に電話をかけ、医者に行ったら即入院となったこと。5日目の午後、帰ってきて会社へ報告。その場でクビ。土日は体を休めて、今日は朝から、かくかくしかじか。

 

「ひどい話ですね。しかし、前の会社と綺麗に別れられてよかったという捉え方はとても前向きで、よいことだと思いますよ。

役所の対応については、実に公務員らしい仕事ぶりだなあという感想を抱きます。かれらは自分たちに落ち度があったなんて考えすらしないでしょう。余裕があれば仕返しするのもいいけど、まずはその余裕をつくるのが先決ではないですかね」

 

胸のつかえが、すーっと取れる。くよくよ考えていたことが、アホらしくなってきた。

そうだ。まずは仕事に就きたい。さっそくエントリーします。よろしくお願いします。

 

登録手続きは、タブレットを使った。完全ペーパーレスだった。

資格や職歴について、やや細かいことも尋ねられたが、広瀬さんは要領よく整理して簡潔に欄を埋めていった。その手際にも感動した。

人材派遣会社には、無職が大勢エントリーしているのだろう。俺みたいな、大した資格も持っていないあぶれ者が、ほとんどなんじゃないかと思う。

広瀬さんのような有能で優しい人が、そんなのいちいち相手してくれていることが、不思議でたまらない。

広瀬さんて給料どのくらいもらっているのかな。登録者よりも広瀬さんを雇いたいって企業もいっぱいあるんじゃないかな。

公務員を教育・指導するお仕事とかさ。

そうすれば日本ももっと、良い国になるのに。

エントリーシートが完成し、2人で確認したあと、広瀬さんはもう一度頭から読み返して、こう呟いた。

 

「宮澤さんを推薦したい、ぴったりな仕事がひとつ、あるんですよね。ただ、ここがなあ。……宮澤さんは、英語はまったくダメなんですよね?」

 

喜びと悲しみが、同時に襲ってきた。しかしどうにもならない。英語は、まったくわかりません。

 

「中国語、ハングル、フランス語、スペイン語、……イタリア語も、もちろん、ですよね?」

 

はい、からきし。

 

「わかりました。正直に答えていただくのが正解ですから。先方さんにはそう伝えます。

他が完璧なので、日本語しかできなくても務まるポジションがあれば、採用してもらえるでしょう」

 

他が完璧?

……え、どこが?

普通自動車免許くらいしか持ってないけど。体だって丈夫じゃないし、コロナに罹ったばかりだし。……あれ、なんだかすごく、すごくそこ、気になる。

何が採用基準なんですか?

いったい、何をしてる会社なんですか?

 

「10分ほどで戻ります。ここで待っていてください。トイレでしたら、入口脇にあります」

 

広瀬氏は、タブレットを持って出て行った。

突然の静寂に、名状しがたき不安が募る。

だが、深く考えないことにした。たまたま、すぐに挙げられた候補が、少し高い基準を求めていた、それだけのことじゃないか。

失うものは無いんだから、不安になるのがそもそもおかしい。

広瀬さんを信じろ。むしろ、もし採用されたら俺はラッキーマンだし、そこで英語を学ぶチャンスだって得られるかもしれないんだぞ。

弱気を見せるな。堂々としていろ。

なんとかそんなイメージトレーニングをしていた。

きっかり10分ほどで広瀬氏は戻ってきた。目元からだけでは、その表情は探れない。

 

「先方さんが、明日、面接を希望されているのですが、可能ですか?」

 

は、はい。いつでも可能です。

 

「じゃあ、朝10時にここへ来てください。服装は、スーツが好ましいかな。ネクタイは、あってもなくても構いませんが」

 

あ、大丈夫です。靴も、革靴を履いてきます。

 

「それで、もし採用になった場合なんですけれど、そのまま1週間くらい自宅へ帰れなくなる可能性があります」

 

……はい?

 

「不採用の場合、明日はそのままお帰りいただいて、私からの、次の連絡を待っていただくことになります。

宮澤さんが他で仕事を見つけられた時は連絡をもらえればエントリーを削除できますけど、原則、クライアントの求人にマッチングする待機者に私たちマネージャーが声をかけていく、というのが人材派遣業のシステムなんですね」

 

ええ、それはエントリー前にお聞きしましたので承知しています。

それより明日、採用になった場合は、その場で即お仕事開始という意味でしたか?

 

「理解が早くてありがたい。その通りです。

先方さんは少々特殊な業態なので、こういった長期の拘束が頻繁に発生します。

いま確認してきたところですが、採用の見込みは非常に高い。なので冷蔵庫の中身などある程度処分してから面接に臨んでもらえると、いいでしょうね」

 

……もう少し、どういった方面の会社なのかとか、教えてもらうことは、できますか?

 

「残念ながら、これが限界です。先方にも宮澤さんの個人情報は一切、伝えてないんですよ。

守秘義務は徹底されています。これは私たちの仕事の根幹ですから」

 

……採用されたとして、私はその会社について、一切口外しないことを求められそうな気がしているのですが、そういう感じで合っていますでしょうか……?

 

「多分そうなるでしょう。先方は、守秘義務においては、おそらく相当に厳しい基準を設けているはずですよ」

 

お給料も、高いのでしょうかねえ。

 

「配属されるポジションによって、違ってくるでしょう。そこは面接で提示される予定です。

どうしても不安が大きいようであれば、今ならまだ面接自体をキャンセルすることも可能ですが?」

 

あ、いえ。面接は受けたいんです。

面接した上で、私の方からゴメンナサイってことを言うかもしれませんけれども、私もちょっとまだそこは、そのう、あのう、うーんと。

 

「ペットは飼ってないし、同居人もいないとエントリーには記入されています。そこも推薦した根拠なんですよ。

そろそろ決断を願います。明日朝10時、しばらくアパートへは戻れない前提で、ここへ来る。OK?」

 

OK、です。よろしくお願いします。

 

「ありがとう。私も、推薦した甲斐がありますよ。明日は堂々とした気合を纏って来てください。

ところで……ちょっと気になってたことなんだけど、宮澤さんは生まれた時から左利きですか?」

 

え?……はい、左利きですけど、それが何か?

 

「ペンも、箸も、包丁も、ハサミも、全部左手で持ちますか?」

 

はい。左手で持ちます……けど、それが一体、何か?

 

「だとすると、腕時計をするなら右手になるのかな」

 

ええ。するなら右手にしますね。

 

「普段から、あまり腕時計はしない派?」

 

しません、ねえ。時刻はスマホで見ますから。腕時計は持ってないんですよ。

 

「そうなんだ。今のはちょっと、僕の好奇心でね。すみません。じゃあ、今日はこれで。気をつけて帰ってくださいね」

 

外はすっかり薄暗くなっていた。

少しだけモヤモヤしたものを抱えながら、帰宅した。

 

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