芦屋ユリコは2016年、20人のライバルを蹴散らして東京都知事の座を手に入れた。
就任から3日後、リオデジャネイロ・オリンピックが開幕する。
4年後の東京へ大会旗を引き継ぐのは都知事の役割だ。
彼女は前都知事が予約していた航空券を使ってブラジルへ飛んだ。ファーストクラスで、オプションもてんこ盛りだったらしい。
第19代都知事・八幡ヨウイチはこうした私的流用を頻繁にやっていたことを議会から糾弾されて辞任に追いこまれたので、芦屋ユリコにもさっそく初手から失点がついた。
彼女は帰国後、最低料金との差額を給与から差し引くことで追及を躱す。
そこまでしなくとも、とは思うのだが、本ではこれも、彼女のしたたかな頭脳プレイの一幕としてエピソードに加えている。
リオデジャネイロの閉会式では芦屋が大会旗を受け取ったが、それよりも注目を集めたのは日本から中継されたビデオメッセージだ。
日本を代表するゲームキャラクターたちがオリンピック競技を象った様々なコスチュームとシチュエーションで世界中を駆けめぐる12分間のアニメーション。
最後に、海底トンネルを抜けて実写の岸首相が登場。
五大陸を柔らかな光で包みこみ、TOKYO2020の文字を輝かせた。
圧倒的で強烈で最高のパフォーマンスだった。世界中が感動した。
すごい話題になり、俺も配信で見た。
本統に、すばらしかった。日本人であることを誇りに思った。
ショーは大成功だったのだが、芦屋にはそのすべてが面白くなかったらしい。
旗を都庁に飾るより先に、大会運営費の再再計算を命じた。前都知事が既にやってTOCやIOCと再調整をしたあとなのに、それをふりだしに戻す専横だ。
しかも最大限高くなるように見積もれという悪意に満ちた号令で、その結果なんと3兆円を超えますという報告がつくられた。
芦屋はこれを根拠に、関連諸団体との仁義なき戦争を開始する。
そんなことをやっていたのか。知らなかった。
あらゆる工事が遅れに遅れるわけだよな。
しかも結局、芦屋の求めた縮小案や削減案はすべて却下され、この協議に費やされた時間とカネ、そしてなにより2020年へ向けての純粋なスピリッツが失われた。
委員たちは疲れ果ててしまった。
芦屋だけは鼻息荒く、ネバーギブアップを宣言する。
翌2017年7月、都議会選挙が実施された。
芦屋は自ら結成した濃緑党から大量の候補者を出馬させ、この応援に全力を注ぎこむ。
選挙の不正は発覚していないが、形成は大逆転した。何十年も日本の成長を支えてきた、穏健派の代表である紫党が議席を大幅に減らし、濃緑党が4割近くを制したのだ。
さいわい過半数はとられなかった。
しかし芦屋の野望を阻止するためには、紫党が残る少数政党の全員を味方につけて反対票を投じさせる必要がある。
芦屋の味方ではないが紫党はもっと嫌いだと広言する無所属議員も多いし、態度を曖昧にして一票の値をとことんまで吊り上げたがる輩だって出てくるものだ。
こんな、予断を許さぬ不毛な状況が生まれてしまったのである。
芦屋以外の全オリンピック関係者が、怒りの声を押し殺し、耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶことで、なんとかそれ以降は都知事に癇癪を起こさせないですんでいる。
現場の労働者は汗と涙で報い、アスリートとそのファンたちもただひたすら前を向いて大会の成功に全力を注いでくれているというのに。
なにが目的で、彼女はこの国の分断を策するのか。
オリンピックが延期されなくとも、芦屋の任期は開会直前に終わるのだ。あなたの出番など最初から存在しないのだ。おとなしく、元いた場所へ帰りたまえ。
ステイ・ホーム。
ステイ・ユア・ホーム。
そして賢明なる東京都民の皆様には、次の選挙で、正しい判断のもとに清き一票を投じてくれることを、切に願う。
……読破して、しばし余韻にひたっていた。
要するに、都知事が癌だったわけか。ひどい話だ。売国奴だ。
こんな人が勝ち抜けるなんて、4年前の選挙は相当に混乱していたんだろうなあ。
今年……あれ?
俺は選挙に行けるのか?
カモッラは行かせてくれるのか?
「無理じゃないか?投票券を手に入れることができないだろう。
君の住民票は現在、宙に浮いている。
失踪者扱いだから、区役所で申請しない限りは有権者と見做されないはずだ」
は?
はあああああああ?
「君が元麻布で暮らし始めた翌日には、アパートからすべての痕跡を消した。もう新しい住人が入っているはずだよ。
言ってなかったかな。
スターンからも、聞いてないか」
ひでえ。ひでえ。ひでえ。
おまえら、ほんと、ゆるせねえ。
「それにしても、紫党は必死だねえ。
こんな本を出してまで芦屋ユリコの再選を阻止したいらしい。
それほどの脅威だってことなんだろうけどさ」
再選?されますかねえ。
都民だってバカじゃないですよ。
こんな人をもう一度なんて、ありえません。
「ふうん。
ちなみに君は、この本に書かれてあることを、読む前にどの程度知っていた?」
はあ?
何言ってるんですか。
読む前に知ってたら超能力者ですし、知ってたら読む必要なんてないでしょう。
「TOCのボスが誰だか言える?ちなみに、この本では登場しない」
TOC会長は能美ヨシロウ元首相と書いてありましたけど、もっと上に誰かいるんですか。
「ミスター観音。
岸がTOCの中核にこの人物を据えたことで、東京オリンピックの性格は決定した。
だからBWI、国際建設林業労働組合連盟が調査に乗り出したんだ。
その辺りの顛末がまったく書かれてないので、物足りないなあと思ったわけだよ。
この本は、芦屋ユリコ人気にダメージを与えることを目的につくられている。
その意味では終始一貫してるんだが僕としては、能美が都知事に吐き続けたハラスメント発言の数々も並べてみればどうだい、読者は能美に共感を抱くはずだから堂々と載せればいいよ。とか思うところさ。
なんて話を君にしたって始まらないな。さあ行こうぜ」
はいはいあんたは博識だよエヴァンズ。
だがなあ。人としてのモラルは最低だぞ糞野郎。
ああ、いらいらする。
「運転が荒くなってきたぞ。冷静になれないなら代われ。
あと1回注意させたら懲罰だ。
今夜は一番ひどい部屋に泊めさせるからな、慎重にいけ」
くそっ、くそっ、くそっ。こいつが憎い。
どこまで人の心を踏みにじるつもりなんだ。
殺してやりたい。
「聞き流してくれ。
……新宿、晴海、世田谷、江戸川。
TOCが絡んだ建設現場では、どこでも壮絶な労働力搾取がまかり通っていた。
BWIの報告書では、28日間不眠不休あたりで休ませろとの指示がやっと出されるとか書いてあったな。
たしかに強壮剤がよく売れてたんだよねえ。
そもそもは飯山ナオキの作成させた甘すぎる見積金額が発端なんだが、ミスター観音はこの予算内でなんとかできると岸に請け合った。
それだけの実力を持つマネージャーだったから、岸だって頼りにしたわけさ。
23歳の現場監督が、死体になって長野県で発見されたことがある。
長野といえば飯山の郷里だ。
あれは警告だったんだろうな。この事件が全国紙でも紹介されたことは観音にとって痛恨のミスで、翌日には訂正文が載った。記者は消された。
以後、警戒は一層厳重となり、TOCに対して、いやオリンピックに対してネガティヴな発言を誰もしなくなったんだよ」
なんだそりゃ。
ジャーナリズムはなにをやっている。
「時々、現場から脱走者が出て、警察や新聞社へ駆けこんでる。
飛んで火に入る虫よ憐れだ。新聞社は、TOCへ突き出せばご褒美をもらえる。
むしろ、記事になんてしてごらん。ミスター観音から睨まれる。
やポは賢いから、どっちが得かはすぐわかるよね?」
嘘だ。嘘だ。この日本で、そんなひどい話がありえてたまるか。
聞くな。聞いちゃだめだ。
この男こそ、人の情けなどカケラも持っちゃいない、犯罪者なんだぞ。
「そんな連中相手に4年も戦ってきた芦屋ユリコは、たいしたものだなあと思うわけだよ。
ある日突然ホトケさんになってなきゃいいけどねえ」
エヴァンズがユリコ推しなのはわかった。
じゃあ、あなたはユリコに投票するのか?
「僕に投票権は無い。
ヤポの国籍も、住民票だって持っちゃいない。差し出されても迷惑だが。
それから、もし仮にだが、TOCから芦屋ユリコの拉致あるいは殺害を依頼されたら粛々と遂行するよ。仕事なら情を挟む余地なんて無いからね。
とはいえ、そんなことは万が一にもありえない。
ミスター観音は超のつくドケチだ。
人ひとり殺すのに、僕たちなんか雇わないよ」