トレッドミルというのは、ランニングマシンのことだった。
寝床の反対側に据え付けられており、コンセントは壁の中に埋め込まれているようだ。
それ以外はいつもの部屋とかわらない。むしろ、飛び散った汗のシミが床や壁のあちこちにこびりついており、不潔だし気味が悪い。
スイートルームだなんて。
ちょっとだけでも期待した俺がバカだったよ。
これだけ騙され続けていて、なお。
とりあえず使ってみる。
ルームウェアとスニーカーだけは新品なので、これだけは満足している。
けっこう汗をかいた。
しっかり洗って、ぶら下がり棒に掛けて、俺は寝転がって実に久々のオナニーに励んだ。
これは進化なのか。退化なのか。
俺は人間に戻ろうとしているのか。それとも猿になりかけているのか。
わからん。
以前から不思議だったことのひとつに、誰が洗濯や掃除をしているんだろうという謎がある。
エヴァンズは「ヤポがしてるよ」としか答えない。
これまで4つくらいの部屋を巡ってきたが、まず、衣類の準備が完全にカスタムなのだ。その日俺がさせられる仕事に合わせて、サイズ含めきっちり準備されている。
朝と同じ番号の部屋へ戻ってきても、シリアル食のかけら一つどころか髪の毛一本残っていない。
このアジトに飼われている日本人は少なからぬ数いるはずだが、カムパネルラとさえ、二人一緒に廊下を歩いたことはない。指定された部屋以外のドアは開かず、日本人同士の接触が発生しないよう仕組まれているのだ。
掃除人も、然りなのだろう。
なんとかコンタクトをとれないものか。カモリスタに、知られないように。
次の日、少し筋肉がつった。
それでも、また走りたくてたまらなかった。
アヴァンティの仕事を終え、トレッドミル付きの1501号室へ帰り、ゆったりしたジョギングを楽しむ。
ちょっとずつ慣らしていこう。
体力は大事だ。
逃げ出してやる、その日のために。
日曜日。
エヴァンズはオシャレをしていた。
プリウスで横浜へ行き、遊園地の駐車場で丸一日、俺はお留守番をする。
デートかな。女とデートしてるんだろうな。
一人で行けよ。
ドライブもしなよ。
なんで俺をつきあわせるんだ。無意味だろ。
夕方、エヴァンズ一人で戻ってきた。
まっすぐ元麻布へ帰還。
俺は、今日もアヴァンティ。この店に定休日は無い。
山田のおばちゃんがいつか来るかな、とソワソワしているのだが、まだお目にかかっていない。
不意に、知った顔が現れた。
忘れもしない。広瀬だ。派遣会社の。
俺をカモッラへ売り飛ばしやがった、鬼畜野郎。
俺は硬直してしまった。
広瀬はカウンター席へ掛けて、スターンとおしゃべりを始める。
ス「久しぶりですね。ずいぶん、お疲れのようだ」
広「うん。豊作。選別が大変。毎日、夜中までかかってる。
書類は全部コピペでもいいんだけどさあ、それだと高く売れないからね」
ス「今は、どのあたりがホットな市場ですか?」
広「RUだね。
ほら、コロナウイルスってアルコールに弱いじゃない。ロシア人は罹りにくいわけよ。
だからパンデミックが続いてるうちに、どれだけ西側を追い詰めておけるかって勢いが猛烈でさ。弾よけがいくらでも必要なんだ」
ス「弾よけになりますか?
ヤポは貧弱だから、3段重ねくらいでようやくレベル2A程度かと思いますが」
広「そういうザコはコンテナ単位でまとめ売り。
値がつくのは、多少でもルッソを話せるおじいちゃん。北海道でたまに穫れる」
ス「北海道なら今、感染者が急増してるから、解雇も盛んでしょうね。
ああ、それで出張が多かったんだ」
広「北陸・東北まで全部カバーしてたからね。
で、ほら、エヴァンズが成田でチョコマカやってるじゃん。
あれが大迷惑でさ。羽田ではやらないでくれって伝えといて。俺、泣いちゃうから」
つい、嗚咽が漏れた。
2人がこちらを振り向く。
俺は話しかけた。
広瀬さんでしょ?覚えてますか。宮澤です。
広「はあ?知るかクソガキ。
それから、俺様をその名で呼ぶな。
ここはアヴァンティだぞ。場所と身分をわきまえろ」
な、な、な。
俺は、二の句が継げなかった。
ス「ジョバンニ、謝りなさい。お客様に対して失礼だったぞ、今のは」
ス、スターンまで。ひどい。ひどすぎる。
なにが客だ、こんなやつ。
広「なんなのコイツ」
ス「すみませんでした。エヴァンズのスレイヴですよ。それでつい、反応したんでしょう」
広「エヴァンズ?
はん、主人に似て貧相なツラだ。
おい小僧、ここを綺麗にしろ」
言いながら広瀬は、床にチェリーの種を飛ばした。
こいつ……俺は、こいつを、ゆるさない。
ス「ジョバンニ。早く片付けろ」
スターン。おまえもだ。
おまえも、絶対にこの拳で殴り殺してやる。いつかな。
俺は、雑巾を取ってきて、床を拭く。
いきなり、後頭部を踏まれた。
頬が床についた。
その状態のまま、頭上から声を聞く。
広「教育がなってねえなあ。
二、三日預からせてもらおうか。少しは値のつくヤポにしてから返してやんよ。
なあスターン、どうだい?」
ご……ごめんなさい。ごめんなさい。
それだけは……勘弁して。
さっき思ってたことは取り消します。
どうか、どうかゆるしてください。あやまちはくりかえしません。
ス「エヴァンズなら、逆らいませんよ。私から伝えておきますか?」
スターンにも、ごめんなさい。本統にごめんなさい。心よりお詫びします。
広「泣いてんじゃねえよ、このウスラダコ。
ほら、濡らしたぶんまで綺麗にしたらとっとと消えろ。
これ以上、酒を不味くするんじゃねえ」
足がどいた。
俺は、丁寧に丁寧に、急いで床を拭いて、そそくさと立ち去る。
厨房の陰にすっこんだ。
カムパネルラに手招きされる。
頭をなでなでされた。
また泣きそうだったが、こらえた。
声を立てたら、次はどんないじめをされるか。考えただけでも怖い。
それから20分くらいして、広瀬は帰っていった。
スターンに呼ばれ、テーブルを片付ける。
そのあと定位置へ戻り、閉店までいつもどおりの仕事をするよう命じられた。
メンタルがボロボロだった。
スターンは最後まで、何も言ってくれなかった。ああいうお客さんもいるんだよとか、よく耐えたねとか、なにか、言ってほしかった。
俺はぐったり疲れ果てて1501号室へ戻り、水だけ飲んで、眠りについた。
翌朝、エヴァンズから、休めとのメッセージ。
お昼前にはスターンからも、本日休業との通知。
24時間この部屋から出られないわけか。懲罰ということだな。
広瀬が俺のこと、上層部へ告げ口したとして、このあと何が始まるんだろう。
いよいよ始末されるのか。
せめてひと思いに殺してほしいものだが。そんなご褒美は、もらえないよな。
走って、眠って、オナニーして。
それを何周もループした。
俺はハムスターだった。
それは進化なのか退化なのか。わからない。
意味のない問いだと思う。
これは悟りですか?いいえ、ペンです。
火曜日の朝らしい。右腕に痛みを感じ、開いているドアから出た。
駐車場にエヴァンズがいて、プリウスに乗り、走り出す。
日常。
よくわからないが、俺はループから脱出できたようだ。
「話はだいたい聞いてる。ゴステロにまで気に入られるとは、君もなかなかやるな。
どうだい、彼のところでも働いてみるかい?
さすがに3つ掛け持ちは、しんどいか」
ゴステロ……それが、広瀬さんのカモッラネームですか。
「広瀬?ああ、そうか。地上では広瀬なんだったね。
アヴァンティでまた会ったときは、君は彼のことをゴステロ様とお呼びしなさい。たぶん彼はそれを一番喜ぶから」
あの……気に入ったっていうのは、どういう意味でしょう?
「調教しがいがあるってことじゃないかなあ。ハードコアで陵辱しても耐え抜きそうだとか、そんな風に言っていたらしい。
スターンも僕も、君の扱いがなっちゃいないってさ。それは承知してるし反省もしてるんだがね。
やはり本職のブリーダーに躾けてもらっておくべきか、なんてねえ」
いえ、あの、その、それは、ごめんなさい、俺には、ちょっと……
「まあゴステロにも当分そんな暇はなさそうだし、彼もタダではやってくれない。
結構がめついんだ、やつは。
でも、せっかくだからヒントをやる。
スターンが君に何を求めているか、考えたことはあるか?」
はあ……スターンは、俺が何かを始めるのを待っているようではあるんですけど。
でもアヴァンティで俺が今以上に何かを工夫するなんて、さっぱり思いつけないんですが。それのことですか?
「なるほど。やっぱり、わかっちゃいないようだ。
たとえばだね、日曜日、君はゴステロに頭を踏まれただろう。
あれで君の評価はアップした。
この意味、わかるかな?」
わ、わかりません……普通は、お客様をあそこまで怒らせるのは、いけないことだと思ってました……
「普通はね。世間的にはNGだろう。
でもアヴァンティは、日々ヤポと接してストレスを溜めまくったカモリスタが憩いを求めてやってくるところなんだ。
お客様のストレスを解消するために君は雇われている。だったら、もっと率先してお客様から踏まれ蹴られ唾を吐きつけられボッコボコに殴られなくちゃあ存在理由を示せないじゃないかって理屈だよ。
わかる?」
ああ……なるほど、わかりました。腑には落ちました。
でもそれって、なかなかの地獄じゃないかと思うんですけど?
「ジョバンニ。心掛け次第だ。
君のカミカゼ精神が僕たちを幸福にする。
それに気付け。使命感を持つんだ」