東京アラートは金曜日の深夜0時に解除された。
都知事が全国からの猛烈なバッシングに耐えかね、ついに白旗を掲げたという図式だ。
翌朝の新聞各紙では、笑顔の都民たちがデカデカと第一面を飾る。
リコリコはすでに100万人ぶんの署名が集まっていると発表。新しい都政への期待感を盛り上げている。
数日前に、東京オリンピック組織委員会が声明を出していた。
「延期による予算超過が甚大であり、1年後の大会はより合理化をめざしたものとする必要がある。可能であれば簡素化し得る部分も検討していきたい」
これには政府も前向きで、全面的に協力しましょうと官房長官がコメントを寄せている。
既視感の正体に、あとから気付いた。
その1週間前、芦屋都知事がほとんど同じ発表をしていたのだ。
合理化と簡素化が必要だと。
このとき官房長官は「聞いてない。勝手な放言は慎め」とかなり強い不快感を顕わにした。
根回しという下準備が、ほんと下手なんだな都知事は。
ここまで全方位に敵を作っちゃったら、政治家としては完全に終わったも同然じゃないか。
頼みの綱は、都議会で多数派を形成しているという、いわゆる芦屋チルドレンだけみたいだが、ここからも今は離反者が続出しているのじゃないだろうか。
しょうがないね。身から出たサビ。
誰もが御愁傷様と考えていたはずだが、なんと芦屋ユリコだけは違った。
外出規制を解除して迎えた金曜日の夜、来月の都知事選へ出馬を表明。
本日の朝刊では、苦悶に顔を歪ませながら立候補を届け出た彼女の顔が並んでいる。デカデカと。
なにを考えているのだ。
本人はもとより、マスコミがだ。
こんな醜悪な画像を世間にさらすんじゃない。明るい週末気分が台無しじゃあないか。
俺には週末関係ないから知らんけど。
「ジョバンニ。今日の新聞に、札幌の話題は載っていたか?」
戻ってきたばかりのエヴァンズに訊かれた。
いえ、見なかったですね。
なにか起きたんですか?
「福岡の次は北海道だ。
また、医療スタッフの大移動が発令されるだろう。
来週中には過労死による損耗率が2桁台に届くんじゃないかな」
え?また感染が拡がってるってこと?
今度は北か。
ロシアが持ちこみやがったのかな。
「どうして国外から来てるとばかり考えるのかが不思議だね。
ヤポの警戒心は弛緩しまくっているんだ。たまに検査をしてみれば陽性報告が増える理屈さ。
その数字を見て、大騒ぎする。
収束させたくなったら検査キットの補給を止めればいいんだ」
どうしてそんな悪意に満ちた発想をできるのかが不思議なんですがね。
日本人はマスクをし続けてますよ。アルコール洗浄だって止めてないし。
これでどうして国内で蔓延するんですか。
「庶民の数少ない娯楽であるカラオケ店がクラスターの温床になっているみたいだよ。
狭い室内で大声で歌いながら酒を無理矢理飲ませあい、時には乱交もする。
ウイルスにとってこれほど繁殖に適した社交場はないね」
それはない……とは言いきれないか。
東京アラート解除後も、カラオケ店だけは制限を続けると書いてあった。
一番危険だと都知事は認識しているのだろう。
そして、東京以外では規制が一切、外れている。
だとしたら流行るよな。
「マスクを続けているのだって、公然と顔を隠せるのが都合よいから付けているだけじゃないのか?
特に女性は、化粧にかける時間と経費を大幅に減らせる上、男たちの下劣な視線から身を守る基本防具として歓迎していると聞いてるよ。
ヒジャーブ文化がヤポ社会でも広まる契機になれば画期的だなんて思うんだが、同時にカラオケ店は不浄すぎるから絶滅させてほしいものだ」
またわけのわからんことを。
カラオケは日本発祥の文化であり、世界中で愛されている娯楽だぞ。
けしからん使い方をする輩もいることは認めるが、正しく健全に広めていくことが、たったひとつの冴えたやり方というものだろう。
なにが絶滅だ。
カモッラこそ絶滅しろ。
「清浄と不浄か。
ねえ、ヤポは自分たちを世界一清潔を好む民族だと信じているというジョークが昔からあるけど、君もそう信じこんでいる一人かい?」
なに抜かす。
ここは胸を張って言い返してやる。
日本人は清潔だ。マルコ・ポーロもイザベラ・バードも、日本を訪れた西洋人が最初に激賞するのがまず、そこだ。
知らないなんて言わせないぞ。
「ポロ兄弟の遠征隊がヤポまで来ていたなんて初耳だが。
へえ。ついでだから清潔だという根拠も教えてくれ」
日本人は食事の前に手を洗います。
毎日お風呂にも入ります。
どんな小さな町でも上下水道が完備されています。
ゴミを散らかしません。
風邪をひいたらマスクをするのが当たり前。
コロナ以前から、アルコール除菌は普及していました。
インドのガンジス川で行われているような、飲料水も排水も、洗濯だって入浴だって全部同じところでするみたいな生活習慣を持っていません。だから疫病も流行らないんです。
コロナも被害軽微だったし、その前のサーズやマーズだって、日本には上陸すらしていないでしょう。
「清潔だと強弁する根拠を訊いたつもりだったんだが、雑音が多すぎだ。
要するに、水資源が豊富だと自慢しているだけだろう。
だから清潔だと?」
あー、まあ、水ありきって部分は大きいかもですね。アルコールでの除菌もしますけど。
「水は君たちが努力して手に入れたものとは認め難いし、使い方を見ていても無駄がとにかく多すぎる。
ヤポは島国だから海岸線を豊富に持つが、海水を淡水化する必要に迫られないから海洋汚染も無制限状態で深刻だ。
若狭湾のような原子力発電所超過密地域もあるしね」
それこそ清潔から離れていってませんか?
素直に、きれい好きな民族だって言ってるだけですよ。
なにがご不満ですか。
「綺麗事にだけ神経質すぎるんじゃないか?
応接間は塵ひとつ無い状態に保ち続けて窓の外にはゴミを撒き散らすディスコミュニケーション症候群患者を、普通の感覚では清潔だなんて言わないよ」
カチーン。
なんなんだよてめえ。だったら日本よりもっとひどい国いっぱいあるだろうが。
中国の大気汚染の劣悪さなんて、世界中が批判してるんだぞ。
ゴミの押しつけ合いだって、どこでだってやってることじゃないか。
おまえが清潔だと考えてる国はどこなんだ、言ってみろよコラ。
「ヤポがつくる基準でヤポが1位になるのは当然だが、それにしても普遍性が無さすぎて面白いよね、と嗤っているだけなんでね。
実は明日から出張に行ってくる。その国の人たちは、清浄と不浄の区別にきわめて厳しくてね。
かれらの基準では、ヤポはあまりにも穢れすぎていて、近づくことさえ忌まわしいんだ。
だから僕も気をつけなくちゃならないんだが。それでちょっと訊いてみたまでのことさ」
ほう?
その話しぶりだと、俺はお留守番てことになりますか。
「ああ。また奥多摩でもよかったんだが、素敵なバカンスを与えてやる。
今度の場所は、女がいるぞ」
喜べるか。厭な予感しかしねえ。
それよりエヴァンズはどこの国へ行くんですか。
「PKだ」
パ、ピ、プ、ペ、ポ……ポーランド?違うな。
「大使館は南麻布にある。白い壁の建物だな」
パキスタン。
「正解。他に知っていることは?」
インド・パキスタン料理の店ってけっこうありますけど、インドのお隣なんですか。
「PKは1947年、INと共にブリティッシュ・エンパイアから独立した。
宗教上はINの主勢力がヒンドゥーで、PKはイスラームの国ということになる」
さっきの、日本が穢れているって価値観はイスラム教によるものですか。
「その通りだね」
でも、南麻布にでっかい大使館持ってて、日本に料理店も多くあるんですよね?
「そればかりか、成田からは週2便、エアバスが往復しているよ。経済交流は、かなり活発だ」
話が矛盾しすぎてませんか。
近づくことさえ忌まわしいとか言ってませんでした?
「限りなく危険な隣人だからこそ、そいつの行動原理から持ち札まで、すべてを知っておかなくては安心できないという理屈なんだけどねえ。
つまり、君にはまだまだ国際社会で生きる能力が無いということだ。僕が無事に帰ってこれたら、もう少しわかりやすく説明してあげられるようになっているかもしれないけどな」
何をしに行ってくるんですか。
「僕も知らない。向こうで、いったい何をやらされるのやら」
ふうん。カモッラらしいや。
夜、アヴァンティで、スターンにその話をした。
エヴァンズが出張している間、俺もアヴァンティを休むことになる。それは既に承知していて、ウイスキーをひと瓶、俺の前に置いた。
「明日、車のトランクにこれが入っている。
合宿先で、マッサンという男に会うはずだ。君から直接渡してくれ。スターンからだと言えば、それでわかる」
了解しました。
ついでに訊いていいですか。俺はどこへ合宿させられるんでしょう?
エヴァンズからは、素敵なバカンスだとしか言われてないんですけど。
「最高のリゾート地だよ。たっぷり羽を伸ばしておいで。
銃も女も、よりどりみどりだ。できれば生きて帰ってこい」