せめてスマホを返してほしい。エヴァンズに、そう要求した。
「返すよ。この契約が終わったら。
それまでは預かっておく。あんなもの好き勝手に扱わせていたら、僕たちの業務に支障をきたすから。OK?」
無駄だと内心あきらめつつ、粘る。
ひどいじゃないですか。人権無視だ。仕事中には使いませんよ。それでも不可ですか?
「人権云々はおいとこう。仕事中は使わないって?ならいいじゃないか。君は今、契約に基づいて仕事をしている最中だ。だから終わったら返すよ。FIN」
これを仕事中だと抜かすか。
あの豚舎に閉じこめられている時間も仕事扱いだ、とか言いそうだな。
だが俺はもっと重要なことを訊いた。
1週間くらい拘束されることには同意した。そろそろ1週間だ。いつ帰らせてもらえるのか。
「帰る?どこへ?」
うわあ、しらばっくれやがるよコイツ。
俺のアパートへですよ。休日には帰らせてもらいます。これは当然の権利です。
「1週間?初耳だが。
僕は住み込みでと説明した。宿泊費はこちら持ちで、ともね。
第一、君の
……おっと。今のはキャンセル」
ムカムカする。1週間と言ったのは広瀬だったか。グルのくせして。利き腕も確かめてたしな。
契約書を確認したいんですが。いまお持ちですか?と訊いた。
「おいおい、なぜ僕が君との契約書を持っているっていうんだ。
僕が契約した相手は派遣会社だ。カモッラは君と直接取引などしていない」
うわあ。
完全にやられた。
俺は、人身売買の罠に陥ちたのだ。
呆然としているうちに、車はアジトの地下通路へと潜っていった。
暗闇の中をぐねぐねと走り、駐車して、降りる。
少し歩いて、エレベーターに乗った。
「ここからは前回と同じ。ガウンに着替えて1106号室で待機。
なお君の一挙手一投足は逐一監視されているから、指示に違反すればペナルティが課せられる。
一度だけ試すよ。こんな感じだ」
エヴァンズはスマホをタップした。俺の右手にチクッと電流が走った。
「今のは最弱だ。4段階ある。最強にすれば、君の体を吹き飛ばす。くれぐれも腕を斬り落としたり、されたりしないでくれよ。じゃあ、アリヴェデルチ」
言われたとおりにするしかなかった。
1106号室に入り、ドアを……閉める。
自力で出ることは、やはり不可能に思う。
直後の俺は、正気ではなかった。ひとしきり暴れたあと水を飲んで寝た。
俺がもう少し意志の強い男だったら、壁に頭をぶつけて自殺でもしたことだろう。
そんなことしなくたってどうせ半年後にはこっぱみじんに殺されるよと思ったら、わざわざ自分から痛い目に遭う必要も感じなかった。
いや、怖かったのだと正直に言おう。
頭の中もぐちゃぐちゃになっていたので、もう、何もかもがどうでもよくなっていた。
そして今回もまた、起こされて目覚めた。防護服の男に。
話しかけたがノーリアクション。1対1なら戦えそうだが、そのあとどこへ逃げたらいいか。無策だったので、おとなしくついていった。
前回と同じ手術室へ入る。
防護服の顔ぶれは前回と同じかな。ただ、ボス格が今日はいなかった。
それでもチャットで室外から全部指示を出しているようで、ピリピリした雰囲気は変わらない。
こいつら、派遣だろうか。
だとしたら情報交換して一緒に大脱走できないか。
なんて考えて探りも入れたりしたのだが、俺と会話すること自体を禁止されているようだ。
防護服の下には、俺と同じスマートウォッチだって嵌められているかもしれない。
前回の採血ほどは、ダメージを受けなかった。
2人の防護服が車椅子で俺を1106号室へ運び、ベッドの上に置いて出て行ったのがなんとなく意識に残っている。
実験動物に知性があったらこんな気持なんだろうか。きついな。なんて、ぼんやり考えながら、眠った。
時計をつけてるから日付と時刻はわかるはずなのだが、まったく無意味な記号でしかないので、むしろ見なくなった。
目が覚めたとき猛烈な空腹に襲われ、シリアルをむさぼり食う。水もたらふく飲んだ。そしてまた眠った。
そのサイクルの合間に時々防護服がやってきて、血を抜かれに行ってやる。
そんな単調な周回ミッションが、何度か繰り返された。
このループを終わらせたのは、またしてもエヴァンズだった。
「おつかれさま。
君の献身のおかげで、なんとかワクチンが完成したよ。
ひとまず採血は終了となる。今日からは社会復帰のために体を整えて、経過が順調なら週明けから僕のアシスタントをしてもらう。
大丈夫だよ、無茶はさせない。
むしろ日中は今よりずっと退屈になるはずだ」
いったいどこまでが冗談なのかと考えるのも面倒なので、俺は黙々とコーンポタージュをすする。
温かい飲みものというのは、味がしなくても、こんなにも心をおだやかにさせてくれるものなのだな。
今日は、値段や好みはおいといて、食感と見た目の華やかさでメニューを選んだ。
目の前に所狭しと並ぶ料理の数々。
奴隷商人に捕まる前だって、こんな贅沢な気分で食事をしたことなんてなかったかもしれない。
ゆっくり一口ずつ頬張って、俺は満足を消化する。
「WHOが新型コロナウイルス感染症の正式名称を決定したから、covid-19と呼ぶよ。
こいつは実に画期的な特性を備えていてね。感染させることが優先で、発症を重視しないんだ。
しかも肺の表面に定着して増殖を始めるから吐息に混じってどんどん空気中に拡散する。致死率の低さも特徴で宿主をなかなか殺さない。おかげであっという間に、爆発的に拡がるわけさ。
すでに世界はパニックに陥っているが、本当の恐怖はまだまだこれからだよ。
こんな世紀の大イベントを間近で見られていることに、君も感動したらいい。今日はずいぶん落ち着いているようだが」
何を言ってやがるのだ、こいつは。
目の前で人が楽しく食事をしてるっつうのに。無視無視。聞かない。関わらない。
「CNの対応は今回、称讃に価する。SARSの教訓をちゃんと活かせてるね。
政府は情報の即時発表を声明し、武漢市を速やかに封鎖。covid-19専門の病院を急遽市内に建設し、この光景をライヴ配信までしている。2棟目が先週完成したが、合わせて2500床だそうだ。
この迅速な行動によってCN国内でのcovid-19は収束へ向かっている。さあ自称先進国の皆さんは、これをお手本にできるだろうか。見ものだね」
ふーん。収束してるって?
ほっといてもどうせすぐ無害化するんじゃなかったでしたっけ。
今日はずいぶん興奮しているなあエヴァンズ。
同じ話を彼女の前でもまくし立てて、フラれでもしたか?
「CN政府の勇猛果断に対して、今回はWHOがその足を引っ張っているのが痛々しい。
未だに脅威は低い、と言い続けているしね。
その言葉を真に受けてロクな検疫もせずに帰国者を町なかへ放出しているヤポ政府みたいな連中にも、はなから付ける薬は無いわけであるが」
ずっと気になっているのだが、エヴァンズの口癖であるヤポっていうのは、日本国や日本人のことだよな。
ふざけんなレイシストめ、とブン殴ってやりたいところである。
自分が今いるこの国で、正真正銘の日本人を前にして口にすべき言葉であるはずがなかろう。ああもう、我慢ならぬ。
しかし今ここで暴れても犬死にだ。
俺は、じっと心を落ちつける。とりあえず話題をかえさせよう。
このスマートウォッチ、令和表示ですけど、これはこれで慣れないので、2020.2.14金、みたいな表示にできませんか?
「そのくらい自分で変更したらいい。マギア・テクニカ・ラ・ミーア・コンパッタ、マギア・テクニカ・ラ・ミーア・コンパッタ。日付表示を、西暦年月日-曜日に」
その呪文、もう一度教えてもらえますか。
「イタリア語は、君には難しいだろう。英語でもいいよ。テクニカル・マジカル・マイ・コンパクトだ。それでも難しければ、ヤポ風にテクマクマヤコンと発音してみたまえ」
テクマクマヤコン、テクマクマヤコン。
ああ、これなら。忘れないよう覚えておこう。
1106号室へ戻ってから、俺はまた、ひとしきり暴れた。そのあと冷たい水を飲んで熟睡した。