7月は、晴れ間をほとんど見なかった。
一転、8月は猛暑。
マスクをして1時間も歩けば、確実に死ねる。
浮浪者同士は日陰を奪い合う。
このサバイバルで老人に勝ち目はない。若者に歯向かえば、憂さ晴らしに使われるまでだ。
木に吊るされたブーマーを何度か見かけた。
生身の体じゃカラス除けにはならないんだなあ。
東京都の衛生職員は枯渇している。
警官は、出れば襲撃されるから交番に籠城している。
コロナさえ現れなければ今頃オリンピックをやっていたなんて夢のような話だ。
来年、やるんだってよ。
それもまた、夢のまた夢。
カマス報復戦は順調に進行中。
俺はマルーハおばさんの誘拐でフォネティックコードを与えられたが、その後は雑用しか仰せつかってない。
なんせ志願者が多いのだ。
邸内に盗聴器を仕掛けたり乗用車に細工をしたりするのは機敏な少年たちの方が適任だし、格闘や銃撃戦の実績だって敵わない。
ありつける仕事といったら、実行班が乗り捨てた車を拾いにいって清掃するとか、襲撃や作業地点周辺の見張り乃至人払い。せいぜい陽動班の子供たちをワゴンで回収して逃げ去る役とか、そんなところか。
外野へ行けば行くほど、作戦の全体像を知る機会が遠ざかってゆく。
厳しい世界だなあ。
せめて名前のついた役が欲しい。セリフのひとつでももらえる役が欲しい。
なんてつぶやいてたらエヴァンズから「ヤクがほしいヤクがほしいって、まるでシャブ中だ」と言われた。
やべえ、まだ引き返せるうちでよかった。
さらに哀しいことに、アヴァンティからも干された。
俺がミスをしたわけではないのだが、残業続きでスタートに遅れがちだったし、店は祝勝会や作戦打ち合わせで連日大賑わいなのだ。
スターンは俺の代役を雇った。
そいつのスジがいいので、俺の方が補欠扱いにされてしまった格好だ。
日没前に帰ってこれても、お呼びがかかってなければ711号室へ直行しシリアル食って寝るしかない。
発狂しそうだ。
いま目の前にシャブがあったら、俺は救いを求めてしまうかもしれないなあ。どっちが楽かなあ。
歯を食いしばって耐えたところで、この先いいことなんてあるんだろうか。
ぜんぜん話はかわるが、エヴァンズから本を借りた。
きっかけは、ロシアで世界初の新型コロナ対応ワクチンが誕生したというニュース。
それについて話していたところ、俺があまりにもロシアとその前身であるところのソ連について無知だったので、エヴァンズが呆れたのだ。
「まあ無理もないか。
待て待て、君が書店でロシア史に関する文献を漁ったところで、ヤポが書いたものなら似たりよったりだ。
かといって僕の愛読書をまる一冊プリントアウトしてくるのも御免だ。どうしたものかな。
とりあえず数日待て」
そうして持ってきてくれたのが、少し古めの翻訳本だった。
著者はマリー・イタルヴナ。
とりあえずこれを読め、と言われたものの条件がつく。
ゴステロ様の所有物だから汚さないこと。
俺は部屋に異物を持ちこむ権限を持っていないため、日中車内で読み、毎日エヴァンズに返すこと。
何日もかかっちゃいますが、とおそるおそる白旗を揚げたところ、エヴァンズより速読の手ほどきを受ける。
「あくまで僕のやり方だから、君なりにアレンジしろ。
まず冒頭5ページ程度を普通に読む。
いけそうだったらそのまま進め。息切れしてきたら目次を見る。
少しは全体像が掴めてきているだろう。
気になる項目からつまんでいけ。何ヶ所か試し掘りだ。
総ページ数の10%程度までこの調子で読めば、自分に合うか合わないかの見極めがつけられるだろう。合っていなければ、いま読む必要はない。
この本は僕の個人的なお気に入りなんだが、君の感想次第で次の本をチョイスするとしよう。
どうだ?」
少し緊張がほぐれた。無理してまで読まなくていいってことですか。
それならばと手にとってみたところ、面白すぎて夢中になった。
内容はそれなりに難しいので何度も前の方へ戻って読み返したりするのだが、とにかく先へ進みたくてたまらない。
そんなパワーと狂気にまみれた傑作だ。
俺はソ連を、野蛮で物騒で汚くて寒い国だと勝手に思いこんでいたのだが、現実はもっとひどかった。
寒いなんてものじゃない、極寒だ。
その地に生きる動植物はすべからく堅固な要塞をねぐらにし、何もかも燃やすことによって歴史をつなぐ。
毎分毎秒たゆまず熱血。
それが、ロシアン魂さ。
こんな熊たちの大陸に、共産主義がやってきた。
なんだそりゃ。誰もそれを知らなかった。
まだ世界のどこにも存在していないものだった。いわば新型ウイルスだ。
だがそいつはロシアの首都モスクワへ定着し、政治と経済を動かし始めた。
なんだこりゃ。調子がいいぞ。
これまで王様に支配されてカツカツで暮らしていた民衆に希望が生まれた。
共産党に入ればいくらでも仕事がもらえて、食事にもありつけるんだ。
共産党は教育にも熱心だった。
文字を読めなかった熊たちが手紙を書けるようになった。
歌や踊りも奨励された。
街はどんどん発展し、住民たちは自信を漲らせ、熱量をますます高めた。
共産主義って、すばらしい!
共産主義は、新しい哲学だった。
資本家と労働者間の階級差別を撤廃し、民族・宗教・国境による地図上の分断を無くすことによって世界全体をひとつの共和制に導こうという理想を掲げた。
ロシア周辺の諸国家にもこの思想は広まり、巨大なソヴィエト社会主義共和国連邦が結成された。
さらに中央ヨーロッパにもその輪は広がり、なんと世界地図の東側約半分が共産主義勢力となる。
共産圏の人々は仕事を融通し合うことができた。
先行者であるモスクワの指導がゆきとどいて、第二次世界大戦からの復興も順調に進んだ。
一方、西側諸国では共産主義を拒絶する論調が年々強くなっていく。
二度に及ぶ大戦争以前はイギリスが世界のトップランナーで、政治・経済・社会制度などあらゆる分野でお手本とされる傾向があった。天邪鬼な方々はフランス・ドイツ・オーストリアなどを選ぶこともできた。
ヨーロッパ全土がボロボロになった結果、戦場にならなかった最西端の田舎者アメリカが急に存在感を高めだす。
かれらは赤狩りを始めた。
アメリカの外交戦略にはひとつのパターンしかない。
不況や社会不安の原因をすべて敵国のせいにして、映画で盛大にプロパガンダを広めるのだ。
西欧諸国に対してはこうも言った「今から共産圏に入ってもモスクワ大先輩には口ごたえできませんし、これまで誇りにしていた自分たちの文化や歴史も捨てさせられちゃいますよ」と。
いやいやおまえこそ世界中をアメリカナイズドさせたいだけだろうがと開いた口も塞がらない。
共産圏はバカを相手にしない方針で応えたのだが、これはよくなかったかもしれない。バカは自分から気付けないし、際限なく増長するものだからだ。
そうこうしているうち共産圏にも大きな問題が生じてきた。動脈硬化だ。
完成度の高さが災いして民衆は政府にありがたみを感じにくくなり、社会はマンネリ感に浸されてゆく。
若者は刺激を求めて自暴自棄になり始めた。
これではいけない。
問題が顕在化したきっかけのひとつが、1986年にウクライナで起こった原子力発電所のマシントラブル。
その7年前にアメリカでもやらかしているが、原発事故というものはご近所に多大なる迷惑がかかる。
当時のモスクワ最高指揮官ミハイル・セルゲーエヴィチは原因究明を徹底的にやらせた。その結果、安全管理や指示伝達などのプロセス全般に重大な脆弱点がいくつもあったと判明して、緊急大手術の必要が叫ばれる。
この時期いろんな事件が起こったが、決定打はベルリンの壁崩壊ということになろうか。
89年11月9日。コンクリート製の壁が物理的に撤去されたのはもっと後のことだが、それまでベルリン市の東地区と西地区を往来するのに煩瑣な手続きがいくつも必要だったのを、共産圏側から廃止したのだ。
大勢の両市民がゲートに押し寄せ、何年も会っていなかった家族や友人と抱擁を交わして「もう争い合うのはまっぴらだ、西も東もひとつになって新しい秩序をつくるべき時代だよ」と声を限りに叫んだものさ。
世界中が、アメリカさえもが、この光景に感動したはずだ。
ミハイル・セルゲーエヴィチも、そうするべきだねと改革をより大胆に推進する宣言をした。
ここからもすったもんだがあったんだけど、1991年のクーデター未遂でモスクワの共産党本部は解体される展開となり、ミハイルは部下たちに裏切られた側だったにもかかわらず長としての責任をとって辞任する。
後継者ボリス・ニコラエヴィチはもっと大胆な改革者だった。歴史あるソヴィエト連邦を解散させ、CISという新たな共同体に再編する。
今後はモスクワを頂点とした中央集権体制ではなく、各国がそれぞれ自分で問題解決するべしと規定したのだ。
時代にそぐわなくなったシステムを、自分たちで脱ぎ捨てていく。
なかなかできることじゃない。
だが、それをやっちまったんだよ。
どうだい、熱血がたぎっているだろう?
これが、ロシアン魂さ。
マリーおばあちゃん、ありがとう。
めちゃくちゃ面白かったよ。
俺、ソ連がこんな国だって知らなかった。
ユートピアだったんだね!