8月29日、土曜日。
朝、エヴァンズから大ニュースを告げられる。
「岸、首相やめるってよ」
え、どちらの岸さんですか?
って首相の岸さんですよね。
ええええええっ
なんで?なんで?どうして?
雑に切り貼りされた、日本の報道各紙プリントアウトに目を通す。
昨夜11時頃、記者を集めて緊急発表をしたらしい。
「持病の潰瘍性大腸炎が再発し、しばらく入院することにした。国民の負託に応えられる状態になく、まさに断腸の思いである。新型コロナ対策もオリンピックも、できれば自分の手で幕を下ろしたかったが、次の首相に任せる。日本人がこんなにも気高く、がんばれる一族なのだということを、世界に伝えつづけていってほしい」
脂汗をしたたらせながら語るその姿に、全国民が涙したそうだ。いや、俺、今知ったばかりだけど。
「率直な感想を聞きたいね。君の、偽らざる、今の心情を」
うーん……ただただ、びっくりです。
無念でしょうね。でも、病気ですから仕方がないし、ぎりぎりまで無理をするのじゃなく、着実に引き継ぎをしてから療養に専念するという姿勢は、責任感ある正しい在り方だと思います。
「ヤポメディアの街頭インタビューならそれでいい。相手は僕だぜ。もっと気の利いたコメントをおくれよ」
なんで夜中に?てのは気になりますね。
具合が悪くなったから記者を集めて発表した。しかも、後継者も決めずに。
国民も閣僚も、海外だって、不安にしかなりません。もう少し根回しして、方針を決めてから落ちついて発表すべきじゃなかったんでしょうか。
カモリスタは真相を知ってるんでしょ?
「うーん、まだ40点というところかな。どうする?ファイナルアンサーでいいかい?」
慌てて首相を辞めなくてはならない事態が発生した……芦屋都知事が刺客でも放ったかな?
いや、岸首相の方が手札を持っているはずだし、海外へ逃げるのでなくては意味がない。
首相を辞める、内閣を刷新する、自分の責任じゃない形で……
コロナ対策かオリンピックの開催に、致命的なトラブルが生じた。その責任を肩代わりさせられる次期首相にキラーパスを渡す必要に迫られ……た?
「いい線だね。55点をあげよう。
少しヒントも出そうかな。
例の報復戦、標的は11人。いま4人片付けた。
そろそろ残りのやつらが気付き始める。
もちろん、これも計算のうち。
あとになるほど追いつめられる苦しさがプラスされていく趣向だ」
もうそんなに?
そうか、首相はラスト・ターゲットでしたっけ。
自分が狙われていることに気付いたから、逃げることにしたと。
脂汗もかくわけだ。
「急いだ理由はそれが一番だろうね。記者の前に立ってみせるのは、これを最後にすると思うよ。
それ以外にも、公金横領・粉飾決算・経歴詐称・文書改竄・脱税・公職選挙法違反・政治資金規正法違反・夥しいパワハラにセクハラなど首相をやっていた間の穢れが溜まりすぎていたから、どこかでリセットするつもりではいたはずだ。
今週の月曜日に、ヤポ首相として連続在職日数が歴代トップになったそうだから、もう充分やりとげたよとか思ってるところじゃないかな」
え、そんなに長かったですか。
「二期目だけで7年半だ。
こんなので史上最長内閣だと誇れるヤポジョークは底が浅すぎるよ。笑いどころがつかめない」
任期満了は来年でしょ?
だからてっきりオリンピックまでは続けると思ってました。
「その説もあった。それでも、任期めいっぱいまでは続けなかっただろうね。
この理屈はわかるかな?」
任期満了より前に辞めるメリット?ですか。
日本独特の処世術なんですかねえ。
俺、もう降参です。
「情報公開が原則の社会だったら、生まれにくいロジックかな。
面倒だから正解を言うよ。
紫党は、司法・行政・立法をすべて支配しているから、犯罪をしたくらいでは官公庁の査察なんて恐れない。
しかし党内派閥同士の抗争では、命じられた役人が、相手候補を失脚させられるだけの証拠を押さえにくる。
政権が移行するタイミングは、この証拠が第三者の手に最も触れやすくなるよね。有象無象が官邸を訪れて、挨拶がてら書類を持ち出したり、盗聴器を仕掛けていったりするわけだから」
ああ、見えてきました。
任期ぴったりで引っ越しをすると、そんなスパイたちにばっちり準備されちゃうんだ。
政権を操ってる間は必要だけど、手放すときに綺麗さっぱり消しておかなくてはならない資料は、ギリギリより手前で処分しておくことが重要なんですね。
「岸は三代目だけあって、そういう知恵を叩きこまれている。
もう少し基礎的な教養も身につけさせておけよと言いたくもなるんだが、これもヤポジョークなのかね」
ちっとも笑えません。ところで、次期首相は誰になりそうですか。
岸首相には人望がありました。
日本国民からの支持率が非常に高かった事実は認めてください。誰がなるにしても、次の人にはかなり厳しいプレッシャーがかかってくると思います。
「ヤポに世論とか民意とか呼ばれるものが仮にあったとしても、メディアさえ手懐けておけばいい話だろう?
目立つスピーカーには税制優遇措置を。この餌さえケチらなければ、従順なままでいさせられる。
外交にしたって、世界との付き合い方を最低限わきまえたヤポなんて望むべくもないので、これまで通り民衆から搾りとったロイヤルゼリーをせっせとUSへ貢ぐ使役人という立場でいるつもりなんじゃないのか。
僕の関心はせいぜい、都知事とのバトルがどうなるかなんだよね。
次の首相が一年もてばオリンピックにも影響するかもしれないが、やる本人だって自分の寿命がそこまで続くなんて期待はしないだろう」
日中、エヴァンズと話したのはそんなところだった。
夜、久しぶりにアヴァンティからお呼びがかかったので、行った。
スターンから、俺目当ての客が来る予定だと聞かされる。
はて。マリエさんかな。
ゴステロだったら厭だな。
店に子供が多いのは、夏休みだからかな。なんて妙なことを考えてた。
そもそも、ここはバールだぞ。しかも犯罪組織内のサロンだ。
ひときわ騒がしいグループは、おそらく朝鮮語で話してる。カン高い声で早口でまくしたてられると、離れていても恐怖を感じる。本人たちには日常会話なのだろうけど、まるでナイフを投げあっているような風切り音だ。
おまわりさんも、こわいだろうなあ。
交番にこんな子たちが入ってきたら、どうするのが正解なんだ。道を聞きたいだけかもしれない。財布を盗まれて困り果てているのかもしれない。日本語は通じない。
じゃあ身振り手振りに絵文字でも住宅地図でもなんでも使って、誠心誠意コミュニケーションする姿勢を示すべきかしら。もし襲撃目的だったとしても、世話になったこいつだけは助けてやるかって思ってもらえるかも。
殺されたとしても、夢見は悪くないだろう。
おい、何を考えてるんだ、俺。
今日はなんだかおかしいぞ。
意外な客だった。いつかの白髭さんだ。
ニコニコと笑顔を湛えて、少しぎこちない日本語で、ガブリエルです、と自己紹介。
話しているうちにだんだんと思い出す。
山梨カルテルのブレーンじゃないかと俺は推理してたんだった。
ガボさん、日本語はパブロ親方よりは覚えたが話し言葉が限界で、文字になると特に漢字が難しすぎて発狂しそうになるそうだ。
そんなときは少量のコカインをたしなむ。
コカインて鎮静作用もあるのか、知らなかった。
少し試させてもらう。
うーん、よくわからない。
不必要ならなるべく吸わない方がいいよと教えられる。
そうみたいですね。
薬物に頼らず漢字を覚える秘訣とは何かねと真顔で質問される。知らんがな。
スターンはどうでしたか?
なんでも適当にやることだよ、だって。
このおっさんは嘘つきだから。
まったくです。
みんなで、大笑い。
「ゼンカイ、キミがそこのクラヤミからワタシをずっとカンサツしていたのがスゴくインショウテキだった。ハジめてウワサのニンジャにデアえたとコウフンしたよ。そのゴ、アえなくて、ドコにヒソんでいるのだとオソろしくてタマらなかった。
クスリもかなりノんだよ。スターン、ありがとう。ツギにクるトキもヨヤクするから、またジョバンニをヨんでほしい。カレはユニークだ。キョウ、ますますスきになったよ」
なるほど。ガボさんが初めてアヴァンティへ来た日、俺もここにいて、スターンのアシスタントをした。次に来たとき、似ているが別の男がいた。その次もそいつだった。あのときの忍者はどこに隠れているんだ、と気になり続けていたらしい。
誤解ですよ。俺はただの下人です。
ちなみに俺のポジションを奪った男はトキオという名前だ。俺が来たから、今日は休みらしい。
「シナガワのバクハツは、ワタシどものセキニンです。NH4NO3のイチジホカンバショにミスがあって、アンゼンでナいソウコにシマわれてしまった。あのジコではカモッラにもメイワクをかけた。ごめんなさい」
そうだったのですか。でも警察は花火のせいにしちゃったようなので、セーフだと思います。
それでもパブロさんは慎重なので、硝酸アンモニウムの輸入を打ち切り、今後はセムテックスという爆薬を使うことにしたそうだ。かっこいい名前ですね、セムテックスって。
楽しい閑談を終え、ガボさんをお見送りし、スターンにも褒められて上機嫌で裏口から出ていく直前、カムパネルラに一枚の手書きメモを見せられた。
「トキオ アザリア」
アザリア?
な。まさか。おい。