8月末までの国内旅行支援政策利用者は、のべ550万人を超えたそうだ。
東京都を除く日本中の全国民が、良い夏を過ごせたと喜びを讃えあい、後継者が決まり次第退陣する岸首相への感謝とともに大腸炎手術の成功を祈願する。
懸念された新型コロナ新規感染報告は、旅行者に限定すれば、たった6人。驚異的な少なさである。
完璧なまでのコロナ対策と、経済活動再開との両立は、決して不可能なことではない。日本はその範を世界へ示すことができたと言えるだろう。
ただし東京は除く。
「旅行から帰って1週間以上経過してからの発症は、旅行中の感染とは見做さない、というロジックらしい。
こんな浅はかすぎる数式操作を、まさか本気でWHOに提出したりもしないだろうが。
まあ、したところで受理さえされればあとは双方、知らんぷりかな。
WHOも、こんな幼稚な詐欺にいちいち構っている暇なんてないから」
全国での新規感染者数は昨日も600人を超えた。依然、その大半が東京都。
エヴァンズの集めてくるニュースのプリントアウトからは、地方の新聞が最近はすっかり東京の話題を載せなくなったことが窺える。
以前はどこでだって首都発信の情報がトップを飾っていたはずだが。
しかし東京都内向けの報道も、現実味に乏しい記事ばかりで、違和感だらけだ。連日俺の目の前で繰り広げられている銃撃や爆破の光景が、紙面にはさっぱり載らない。
まるで、そんな事件が日常茶飯事ですなんて知られたらオリンピックの開催権を返上させられてしまうじゃないかと脅えているみたいにも映る。
「陸自幕僚とその家族が連続で襲われてる事件だって、サーチしてもまったく出てこない。
僕たちとしては、いささか残念に思う。捜査をミスリードさせる仕掛けも含めて、これでもかと趣向を凝らした演出を繰り出して舞台を盛り上げてやってるっていうのに。無観衆じゃあねえ。
ターゲット7番なんて、自分が狙われていることに気付いてすらいない。
最近は欠勤者が多いようだが旅行にでも出かけているのかね、国防を担っている自覚が足りないぞ。とか手下の前で延々説教してる。
こんな連中にマッサン一家が殺されたんだと思うたび、涙が滲んでくるよ」
まったくです。俺だってやりきれない気持ちです。
俺、あれ以来全然お呼びがかかってませんけど、何でもいいから参加したいです。
マッサンたちの仇を討ちたいです。
「おい……
いま、信じられない言い草を耳にした。
運転中でなければ、反射的に君を殴りつけていたかもしれない。
どこが間違っていたか、自己診断できるか?
できなければ、おまえは今すぐヤポニカ送りだ」
え……?
あまりにも突然、空気が変わった。
エヴァンズがマジギレしてる……ようだ。
俺、なにかまずいこと言った?
身をすくめつつ、考える。
……失礼しました。
ちょっと、心拍数を落ち着かせたいので、徐行します。
1.お呼びがかかるのを待っている限り、お呼びはかからない。自分にはこれができますと宣言してアピールしていかない限り、役なんてもらえない。
2.何でもいいから参加したいと俺は言いました。何でもいいから、なんて傲慢で冒瀆でした。反省します。
3.マッサンの
「もういい。次は無しだ。口に出す前に気付け。
今日は僕の気が落ち着くまでもう喋るな。以上だ」
どうした。今までに無いくらい、怖い思いをした。
あれがエヴァンズの本性か?
軽口だったことは認める。それにしても、あそこまでキレるか。
カマスの話題だったから、だけではないよな。
もっと深いところで、エヴァンズのなにかを刺激したのだ。
怖かった。今も、無性に、ただ怖い。頭の中がぐるぐる、どんどんネガティヴになっていく。
俺は、カマスのことを、なにも知らない。
かれらがいなくなる、ほんの最後の2週間足らず、たまたま一緒に過ごしただけだ。
エヴァンズもスターンも……マリエさんなんて父親を殺されたんだし、その復讐心はどれほど強いことだろうと思う。
マユミさんが言ってたよな、ノンマルトの末裔は木更津や流山にも隠れて暮らしてるって。
たぶん全国に、世界中に、自分たちの耕した土地を、歴史を、記憶や尊厳さえも踏みにじり消し去られようとしていることに、どれほど怨んでも怨みきれないほどの憎しみを抱いている同志が、山ほど、いることだろう。
そんなかれらが総出で仕掛けている報復戦なんだ。
その重みに、鈍感だったと思う。
エヴァンズが戻ってきた。
ゴミ入れの、ティッシュの山に気付かれた。
「また泣いてたのか。どれだけ泣き虫なんだ。なにか言いたいことがあれば聞いてやる。話せ」
……ありがとうございます。でも、うまく言葉にできません。次はどちらへ行きますか。
「それだけナーバスなのに運転するつもりか。席を替われ。引き続き喋るのは禁止するが、むせび泣くのは許してやる」
いたたまれない沈黙が続く。
エヴァンズは、どうしてここまでメンタルが強いのか。カモリスタ流の鍛えられ方なのか。
陸自のトップクラスを殺しまくっているんだよな。計画的に。
かないっこない。
しかも、ただ殺しているだけじゃない。徹底的に後悔させて、最後のひとりは一番苦しめてやるんだみたいに言っていた。
どうしてここまで憎まれるようなことをしてしまったんですか、岸首相。
俺には止められません。
どうしようもなく苦しいです、俺自身が。
「おやおや、スターンからだ。
君のメンタル数値がひどいようだが、俺がまた虐めたのかって。ひどいこと言うなあ。
今夜、ガブリエル氏が来るみたいなんだが、ジョバンニは出てこれそうか?だってさ。
どうする。決めろ」
行きます、と即答した。
今の気分で独りの部屋へ戻ることは耐えられなかったからだ。
ヤポニカ送りにするぞと脅されていたのも効いていた。
それに、なぜかガボさんは俺を気に入ってくれているので、キツいことは言われまい。
スターンの前で愚痴ったり泣いたりは厳禁なのでせいいっぱい気丈に振る舞おう。そのきっかけにすがりたかったのだ。
だから、行きます。
ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア氏、通称ガボさんは山梨カルテルの書記長である。
コロンビアの元ジャーナリストで、パブロさんの記事を書くうちに交流が始まり、パブロ氏が政府の特殊部隊から命を狙われるようになったので、一緒に国外脱出した。
日本は寒いが、山梨の森林地帯が故郷のアンティオキアに似ていたことと、国際警察などの捜査が及びにくい閉鎖性が評価されて定住先に選ばれる。
誤算だったのは、言語の難しさ。
パブロ氏は完全に諦めてしまったが、書記長は対外交渉や報道の監視に責任を負う。アシスタントや機械翻訳に頼るのはいいが、最終チェックは自分自身で判断できなくてはならない。
これが途轍もなく、つらいそうだ。
日本の官僚は、とくに警察長官なんて書類を見もしないで部下にハンコを押しておけと指示するんだってね、これじゃあインターポールもお手上げだよ。と陽気に笑うガボさん。
近々セムテックスで試してみるが、日本の警察が本統にその程度の管理体制しか敷いてないなら、コロンビアよりもっと派手な花火を演出できるという。
花火ですか。
日本人も大好きです。
ぜひ、でっかいのを打ち上げてください。
パブロ氏のカルテルは、コロンビア政府および軍と長年にわたって激しい攻防戦を繰り広げた。
政府はアメリカの追従者なので、コロンビア国民の生活を犠牲にしてでもアメリカの理不尽な要求を呑もうとする。
麻薬撲滅キャンペーンなどは、その最たるものだ。
コロンビアで生産され消費される天然由来の純粋コカインは世界に誇れる健康促進剤であるのに、アメリカが低劣に加工して広めたがため、すっかり評判を悪くしてしまった。
しかもアメリカは国営企業が巨利を貪っていることは黙認しておいて、国外の従順でない業者や農園に対しその牙を剥く。
こんなの許してなるものですか。
まったく、おっしゃる通りです。
つい力がこもった。
ガボさんは、嬉しいよと言ってくれる。
「しかしJPコクミンまでがUSイゾンショウであるのがイマもフシギです。ダンアツをオソれているのか?しかしグンはいるんだかいないんだかわからないソンザイだし、ケイサツもフヌケばかり。かれらをボウリョクソウチとはとてもヨべません。なぜコクミンはヨロコんでドレイのままアマんじているのか。シュウキョウがそうメイじているのですか?わからない。ねえ、ジョバンニにはこのナゾがトけますか」
もっともな疑問です。なぜ日本人はアメリカを正しいと思いこめるのか。
俺も、去年まではその一員でした。
おそらく、幼い頃からそう教えられてきたからというだけの理由です。
そして、日本人はたしかに閉鎖的で排他的で保守性が強く、与えられた情報で満足してしまってそれ以上考えるクセがついていない。これらを繰り返してきたからでしょう。
しかし潜在能力は高いはずです。
きっかけを与えてやれば、真実へ向かって大いなる力を発揮できると思います。そのための花火を打ち上げてやりましょう。
厨房で、カムパネルラがエアコンのスリットを指さした。
手をのばすと紙片が挟まっていた。
カムパネルラは目を、次いで窯を指さす。
俺は了解したことを合図で伝え、読んで、焼いた。
その後メモとペンを借りて、トキオへの返事をしたためる。
この文面を考えるのに時間がかかった。伝えたいことを絞りこみ、相手が暗記できる程度まで縮める必要があった。
死刑囚が外部の味方と脱獄の連絡をとりあうのってこんな感じかな。
あながち外れちゃいなかろう。