山梨は、海無し県だ。
南に富士山を臨み、反対側を関東山地や赤石山脈に囲まれている。
県庁所在地である甲府市は盆地のどまんなかにあり、夏冬の寒暖差が壮絶に厳しい。
この特殊な地理条件ゆえに果樹栽培が盛んで、日本のワインといえば山梨産という圧倒的なブランド力も築きあげた。
登山家やキャンパーも年がら年じゅう集まってくる。この夏、どれほどの観光客が訪れたことだろう。
政府のキャンペーンは終わったというのに、それでも全国各地の観光バスを市内で見かけた。
東京だけが、すっかり置いてきぼりをくらっちまってる。
そんな現実を突きつけられる。
もうひとつ気付いたこと。
浮浪者や、破壊された建物が見当たらない。
人々は普通に生活している。マスク率が高いことでコロナ禍が続いていることは忘れないでいられるが、まるでタイムスリップしたような、並行世界へさまよいこんできたような、不思議な感覚を味わった。
こんな平和な土地が、まだ日本にはあるんだ。
オリンピックまであと10ヶ月ほどになったけど、このまま本統に東京で開催していいんだろうか。
都知事は発狂してるし、国政も宙に浮いているけど、今ならまだ最良の選択肢を検討することが可能なんじゃないのか。
そんなことをぐるぐる考えた。
市内の遊園地へ入る。関係者専用の駐車場から、事務所へと向かう。
ドアの外で待っていろと言われ、待機。
エヴァンズが清楚そうな娘を連れて出てきた。
20歳前後かな、大学生くらいに見える。
1時間くらい打ち合わせをするから、エスコートしてもらって園内を楽しんでこいという。
二人きりになると、まずサチカと呼び捨てにすることを求められた。
ロングヘアーで、笑顔も声もかわいらしくて、腕を組まれるとすごく良い香りがする。
ドキドキしながら外へ出る。
彼女はペースを崩さなかった。余計なプロフィール交換はしない。堂々と、いかにも1年くらいつきあっているカップル風に見えるような仕種をしてくださいと、レクチャーされる。
なんだかそんな気になってきた。
俺、サチカと一緒に、もっともっと幸せになりたいんだ。今日、ここへ来れてよかったよな。なんて感じのシチュエーションにひたりきる。
俺には未知の体験だった。試す機会もなかったし、教えてくれる人も男女問わず、いなかった。
サチカはすべてを心得ていた。
何者だよこの女。カルテルのエージェントか。ハニートラップのプロフェッショナルか。
どんな男になれば、こんな女と本気でつきあえるようになるんだろうか。
カネは必要だが、それだけじゃ続かないよなあ。すべてを持てる男はもっと上の女を狙うんだろうしなあ。
おそろしい世界だ。
そんなところまで考えていたら、1時間なんてあっという間だった。
「意外に冷静だったな。
瞬間最大血圧は記録更新レベルだが、もうすっかり落ち着いてやがる。
次はどうする?運転でも助手席でも、好きな方を選ばせてやろう」
迷わず運転手を選択した。助手席にいたら、手のやり場に困る。
「さっきの遊園地は、もともと山梨の地元企業がつくったんだが、経営不振に陥って、covid-19でとどめを刺された。
それをドン・パブロが買い取って、自分の名は出さずに再建させているところだ。
そんな施設が山梨には沢山あってね。僕たちがカルテルと言う場合、広義にはこれらもすべて含むことがある。覚えておきたまえ」
山梨県の税収は相当パブロさんに依存しているんでしょうかね。
奥多摩町役場はコジモが完全に牛耳っていると聞いてますが、あれと同じような体制が、山梨でもできあがっている?
「さすがに奥多摩町と山梨県じゃあ規模が違いすぎるからそこまで単純ではないが、概ね正解としておこう。地方行政なんて世界のどこでも、そういうものだけれどね。
むしろヤポにおいては東京都と国政府との関係がイビツすぎるんだ。
あそこまで醜悪な首都モデルというのも、なかなか稀なカオスといえよう。世界中の歴史を見渡しても、ちょっと例がないね」
だったらそれ、ユニークだと解釈してはいけませんか。
山梨と比較すれば問題だらけなんだなあってことは実感しますけど、東京という都市が世界的にも珍しいんだったら、貴重なモデルケースなんだと考えてみればいいんじゃないですか。
「ミス・サチカのおかげかな?急にマトモなことを言えるようになったじゃないか。
水を差しておくが、東京でもヤポ全体でも、今よりどうにかしようと思うのならば、死病に取り憑かれて心身を蝕まれていながら自覚を持たない重症者を介護するのに等しいチャレンジとなるからな。
病根を取り除くことができたとして、果たしてそれで幸福か?
誰にとっての幸福か。余命を生き永らえる限り、手ぐすね引く業者を喜ばせるだけの道化でしかないだろう。それでもやりたいなら、やってごらん。
自分自身の背後にも、しっかり気をつけてな」
何にたとえているのやら、さっぱりですが。せいぜいあらがってみせますよ。俺にとっては祖国なんで。そりゃカモリスタとはモチベーションが違いますから。
とはいえ。
パブロ氏は山梨では名士で、救世主のようだ。はるばるコロンビアから来て、こんな地方都市を再建させている功労者ということか?
カモリスタは悪党だが、カルテルは善玉だ。水と油ではないのか。それなのにこいつら、組んで、これから何かを始めようとしている。不吉な予感しかしないのだが、はたしていったい。
俺は気が気ではなかった。
ハイエースは、山奥を突き進む。
未舗装の区画に、いくつものゲート。
廃業したホテル群をパブロ氏は合法的に買い取り、拠点化しているようだ。
肌寒くなってきて、暖房を入れる。
到着。
ロビーに、パブロ氏とガボさんの姿。
よく来なすった、と盛大なもてなしを受ける。
エヴァンズと首脳陣は、さっそく会議へ。
俺はここでも案内役の女性をあてがわれる。
ナツミさん。
サチカよりひと周り齢上で、雰囲気も熟女っぽい。声は幼げだが。
俺も緊張しなくてすむ。
「商品の製造工場。射撃場にアスレチックフィールド。それとも湖畔をめぐるムーディーなデートコース。お望みならバーでお酒をしっぽり。
どれもアリだけど何がいいかな?」
帰りの運転もあるから、飲酒と疲労は御法度だな。
デートコースもいいですが、工場を見たことないので興味ありますね。
お願いできます?
ずばり、ドラッグの精製をここでやっていたのだが、想像とはずいぶん違った。
農専でも前の職場でも、食品加工場を見学したことは幾度となくある。
たいてい外部に見せてくれるのは、その工場でいちばんカネのかかった自慢のオートメーション区域だけであることがほとんどだ。
いかなる過程を経て原料からパッケージまでの変化を遂げるかという物語を見せるという基本があって、てっきりそんな説明を受けるものだと思っていた。
コカの葉を何度も乾燥させながら炭酸カリウムや無水アルコールとなじませていって、スノーという結晶をつくる。
このスノーがすべてのコカイン製品の基本となるのだが、鮮度が大切なので加工は原産地で行われる。
日本へ輸入された段階では、もうスノーになっている。
日本人向けのブレンドと味付けが山梨での工程となるが、作業風景は極めて地味なので見栄えしない。
では、見学するとしたら何が目玉となるか。
テスト・ルームである。
老若男女の被験体が個室でストレスチェックを受けていた。
どれほどの精神的苦痛に対し、最大効果を期待できる調合と適量はいかほどか。
これを1年かけてみっちり数値化して、トレンドをつくりだしていくのだという。
さすがにここまでやっているとは思わなかったし、どこでこれだけ多彩な人たちを集めてきたのかと疑問も湧いた。
まさか志願兵じゃありませんよね?
「年間、全国で8万人くらい失踪届けが出てて、自殺者は発表されてるだけで約2万人。
だからほぼ天然モノの捕獲で間に合ってるよ。
その時点でストレス限界値に達しているのが普通だから、すぐ個室へ放りこむ。
あたしたちも無駄な手間が省けていいし、社会のお役にも立っているという自負があります。
今年はcovid-19のおかげで過去にない種類のストレスが蔓延しているから、既成のデータがあんまり役に立たなくてね。研究に拍車がかかってるとこ。
もう9月だもんね。
来年はとてつもなくクレイジーに攻めるほうがいいのか、それともフルーティーでトロピカルな甘さが必要なのか。
どうなるのかなあ。楽しみでもあり、ハラハラしちゃうね」
ここで、衝撃の真実を知る。
カモッラ・セレクションをつくっていたのは山梨カルテルだった。
カモッラは麻薬販売でのし上がった組織だ。しかし製造分野にまでは関与してこなかった。純粋に、小売業だったわけだ。
日本で、コジモと提携した。以降は小売も完全に委託するようになって、もっと外側の仕事に専念するようになった。
コジモは山梨カルテルともカモッラとも密接な関係を構築していたが、裏稼業の仁義を守り、身内の話題はつとめて避けていた。だがひとたびカモッラがカルテルに興味を示しはじめると、たちどころに縁結びのキューピッドへと変身する。
3者は急接近。なんという急展開。そして今、世間をあっと驚かせるデビュー公演の準備を急ピッチで進めているところなのらしい。
それはさておきカモッラ・セレクションって1年に1作だけなんでしたっけ。
何種類もを一斉にリリースしてはダメなんですか?
「アリだけど、提供する側が迷ってそうしましたっていうのは最低だね。
やるなら計算し尽くされたカップリングで全ユーザーを虜にさせてしまえるヴァリエーション展開をしないと。
とくに、迷いを抱えてる人に与えるものだからさ。
そこで選ぶために迷わせるなんて愚の骨頂だと知っておかないといけない。
なーんてことを、私たちは日々、悩みに悩みぬいているわけさ。
アッハッハ」
チャーミングに笑い飛ばすナツミさん。かっこよかった。
俺、こんな女ともつきあえる男になりたいなあ、なんて不埒なことを想像していたら、エヴァンズが戻ってきた。
ガボさんから、近々またアヴァンティへ寄るからヨロシクネと肩を叩かれ、山梨名物をお土産にいろいろもらって退場する。
これで今日は全予定終了ですか。
それじゃあ、安全運転で帰ります。
「セムテックスが来週いよいよ上陸する。
四肢をふっとばされて泣き叫ぶ同僚を前に、ヤポの警察官がどれほど敢闘できるか試してやるってさ。
やれやれ、ヤポは熱帯じゃないからテストステロンなんて生成できやしないってのに」