今日は目黒に来ている。
ふと思い出したかのようにつぶやいてみた。
この先に、台湾大使館ありますよね。
「台湾大使館?ああ、あるね。今日は寄らないよ」
ちっ。誘いに乗ってこない。
自然な感じを装って、話を広げる。
実家の近所に台湾人が開いてた料理店があって、安くて量が多いからよく通ってたんですけど、バンティアオとかシャオビンとか無性に食いたくなってきました。
台湾って小さな島なのに、大使館はでっかいですよね。
親日だから特別なんですかね。
「おいおい。どうした急に。
台湾がヤポに好意なんて持つわけないだろう。
冗談じゃない。どこでそんなデマを覚えた」
ん?
予想外の部分に違和感。
エヴァンズはいつも、国名を2文字のアルファベットで語る。
いま台湾を台湾と呼んだぞ。
そこを指摘した。
「ああ、なぜTWと言わないのかって?
中華民国国民にとって、国際標準化機構から割り振られたTWという国名コードは屈辱的な意味を持つからさ。
相手がこう呼んでほしいと望む名前で呼ぶ原則に従う場合、台湾をTWと呼ぶだけで溝は深まる。
かの国とのおつきあいにはデリカシーが求められるんだ」
日本をヤポと呼ぶのは構わないんですか。しかも本人を前にして。
と言ってやりたかったが今日は勘弁してやろう。
ところで台湾って国なんですか?
国家承認されていないと聞いたことがあるんですが。
「誰が承認してないんだ?
主語をはっきりさせてから論じようじゃないか」
ええと。まず日本が承認していない。国連もだし、多くの国が承認していないはずです。
すみません、うろ覚えですが。
「ふうん。それにしてはさっき、大使館と言っていたね。
国でもないのに大使館が目黒にあるっておかしくないか?」
い、言われてみればそうでした。
あの建物、正式にはなんと言うんでしょう?
「台湾中日経済文化代表処だよ。
諜報員の拠点という意味では大使館のようなものだがね。
で、質問は台湾が国かどうかだっけ。本人たちが政府をつくって国家宣言しているのだから、国でいいんじゃないか。列強およびマンハッタン社交クラブが認めるかどうかは二の次だ」
さっき、台湾を親日だと言ったらデマだと返されました。
俺は台湾と日本をとても親密な間柄だと思っていたんですが、それはマスコミがつくりあげた幻想なのでしょうか。
「ヤポはお世辞を信じこむからな。いわゆるあれだ、童貞チョロイというやつだ。
台湾人から素敵ですねと言われただけで、こいつ俺にメロメロだぜと脱がせる準備にとりかかる。
とっくに財布は抜かれているよ。
それにすら気付いてもいないようだが」
あの敷地も建物も、日本政府からのプレゼントなのかしらと考えたら怖くなってきた。
あれ、そこまで掌の上で転がしてる童貞くんが台湾を国家承認してあげてないのは何故だろう。
「ヒントをやるか。CNのせいだ」
ああ。中国が台湾を自分たちの領土だからと主張して、圧力をかけている?
いやしかし中国なんて世界中の嫌われ者だし、いくら図体がでかいからって労働力の安さしか取り柄のない劣等生でしょう。
頭脳明晰、才色兼備な台湾との連帯を強めるほうが、日本にとってずっと実りが大きいはず。
なぜ、しない?
「CNの国力のどれひとつとっても遠く及ばない、澱みの黴菌ふぜいがずいぶんでかいこと抜かすじゃないか。
マンハッタンが台湾を承認していないという事実ひとつあればヤポは発言すらしない。
台湾だって、こいつが日和見のビビリ虫だってことをよく理解しているから、適度に貢がせる以上の期待はしないよ。なんたって頭脳明晰な精鋭集団だからな」
はあ。勝負にもなっていませんね。
台湾・中国間の争いだと、もっと真剣にやってるんでしょうか。
「そうそうそんな風に、他人同士の真剣勝負をしっかり見ておくことから始めるのが常識だよ。
それすらしてこず、おだてられりゃカネをばらまく芸ひとつで世渡りしてきたつもりになってる劣等貴族はこれからも黙って引きこもってろ。
で、台湾とCNの対立だったか。
これを説明するには、それぞれの歩んできた歴史から繙かなくてはならないが、そんなの一からやってられるか。
君の方がもう少し高みまで上がってこい」
今日もエヴァンズの機嫌を損ねてしまった。
しかしやや長い時間しゃべらせられたと思う。
まずまずの戦果じゃないか。
あせらず次回へつなげていこう。
「ところでスターンから今日出られるかと打診がきている。OKでいいか?」
はい。ガボさんかな。了解です。行けます。
厨房裏口からアヴァンティへ入場。
カムパネルラに目配せし、エアコンのスリットに手をつっこむ。
メモがあった。すばやく一読。
ポケットに入れ、ホールへ出てスターンに挨拶。
開店準備にとりかかりつつ、トキオからのメッセージを反芻する。
「日本へ帰るとほっとする。日本は一番良い国だ。空気も水も澄んでいて食べ物がおいしい。人は優しく、娘たちも美しく、不平も漏らさずに働く。時間を守り、不正に厳しく、平和を願うことに誰よりも真剣だ。誇りに思うよ。T」
トイレで読み返してみた。
縦読み、斜め読み、2文字ずつ3文字ずつと飛ばしてみたりする。
補助線や辞書が必要なほど複雑な暗号ではないはずだ。それともストレートに心情を綴ったものか。
わからん。
カムパネルラにそっと尋ねてみる。
トキオって俺より頭いいかい?
深くうなずかれる。こんちくしょう。
やはりメッセージが隠されているはずだ。2年以上カモッラで働いてきた腕利きが、こんな素人じみた日本讃美など書くわけなかろう。
店が開く。
俺はいつもの暗がりに腰かけた。スターンからは何も言われないし、これが俺に求められている芸なのだからと居直ってみせる。
客の入れ替わり時にだけ、静かに立ち上がって、片付けをしてすぐ戻る。
俺がいる日は、女の客って来ないんだな。
そう思っていると、ひとり来た。
あれ?山田さん……山田マリエさんだ。
数度しか会ったことないけど今日はわかった。
連れの男はスーツ姿の中年。あの留学生じゃあない。
オフィス街の職場から連れ立ってきた同僚という雰囲気で、仕事仲間を越える親密さは感じとれない。
ふたりとも俺には気付いてなさげだが、そんなわけもあるまいに、とも思う。
カウンターに並んで掛け、スターンとも語らっているが、日本語ではない。小声で早口なのもあって聞き取れない。
スーツの男はパスクァーレと呼ばれている。
過去にもこの店で見かけた顔のような気もするけど自信が持てない。会話の内容がわかればな、記憶にひっかかるものなんだが。
ボックス席の一団が帰っていったので、片付けに行く。
そこで不意に、マリエさんから話しかけられた。
「ジョバンニ、いつもありがとう。君の評価は高いよ。今日もクールでいい感じだ。
そのうち大きな役を任せるかもしれないから、よろしくね」
ドキリ。つとめて冷静を装い、軽く会釈だけをする。
食器を厨房に下げて定位置へ戻ると、パスクァーレがマリエさんに、彼と話をしてみたい、のようなことを言う。
俺は呼ばれてスターンの脇に立った。
はじめまして、ジョバンニですと自己紹介。
パスクァーレの日本語は流暢だ。この声どこかで聞き覚えがある。しかし思い出せない。
ラジオの外国語講座で解説者が読み上げるような話し方。
特徴がつかめない。
スパイ術のひとつだったりして、まさか。
「ほう、運転手。
なるほど信頼性が高いのですね。
ジョバンニは日本語しか話せないそうですが、KRやCNで左ハンドル車の運転をした経験はありますか?」
マリエさんが、KRは韓国でCNは中国だと解説を入れてくれる。
それくらいはわかってますけど、素直にお礼を言った。
左ハンドルは未経験ですが、すぐ慣れるものでしょうか。なにか気をつけるべき点があれば教えてください。
「右ハンドル車で左車線を走行することができれば、左ハンドル車で右車線を走行することは、さほど苦になりません。
左車線を左ハンドルで走行する、これは大変。
駐車場へ出入りするたび、シートベルトを外さなくてはならない」
たしかにそうだ。
ところで韓国も中国も日本と逆なんですね。アメリカもそうだな。
世界では、右と左どちらが多いものなんでしょう。
「圧倒的に右車線走行が多いですね。
左車線の国はGB・AU、アジアではINが代表的です」
それぞれイギリス・オーストラリア・インドだとマリエさんが解説してくれる。
ありがたい。GBはグレートブリテンの略だそうだ。
「面白いのは、CN本土は右車線なのですが香港だけは左車線なのですね。1997年まではGBの領土だったから。
道路の左右を入れ替えようとすると、すべての信号や標識をつくりなおす必要が生じるし事故件数も跳ね上がりますから、永遠にこのままでしょう。
むしろ統一させようなんて考えちゃいけない」
あはは、と皆で笑った。
ところで台湾はどっちですか。あそこも領土的にややこしい地域ですけど。
スターンが意外そうな顔をしたのを、俺は見逃さなかった。いつまでも世間知らずと思うなよ。
台湾は右車線。
香港よりは、中国人ドライバーも走りやすいということだ。
歓談はたのしかった。
ガボさんは来なかった。今日スターンが俺を呼んだのは、マリエさんのリクエストか?別にいいけど。
帰る前、トキオへの伝言を置いていった。こう書いた。
「本気で言ってるか?素直に喋ってくれていいぜ。G」