PCR検査について軽く、おさらい。
ポリメラーゼ・チェーン・リアクション。
唾液や鼻の粘膜を綿棒で採取し、この中に特定の遺伝子が含まれていればそれだけをひたすら増殖させて検出可能な量まで増やす。
昨年までは結果が出るのに数日かかっていたところが、今年はコヴィッドのせいで急激に需要も高まり、なんと数時間で判定できるようになった。
探している遺伝子の配列が正確にわかっていないと増殖させられないし、感染初期だったりしてサンプルの中にウイルスが含まれていなかった場合は陰性と診断されてしまうので、絶対確実とはいえない。しかし現状もっとも信頼できる検出方法とされる。新型コロナに罹患しても発症しないケースはけっこう多いらしいので、不安を感じているなら検査を、と広告もばんばん打たれている。
発症せずとも感染はさせる。家で、職場で、密会してても。誰かれ問わず容赦なく。
ウイルス名はサーズツー。こいつは肺の中で増殖し、吐息に混じって体外に漏れる。咳やクシャミをすれば数メートル飛んでいくし、指先に付着してありとあらゆる物質の表面に乗り移っていったりもする。
動物の呼吸器はかれらにとって無上の楽園だが、そこへたどりつけなかった場合は最大72時間で増殖する能力を失うらしい。死滅ともいう。
アルコールが天敵という構造上の弱点があり、こまめな消毒が効果覿面である。
かように敵の正体を知れば、撃滅までは難しくとも防衛はできるのだ。
「まだ公表はされてないんだが、ドナルド大統領が先週、定期検診でPCR陽性だったらしくてね」
ハア?
「彼はマスクを嫌うし、大声だし、堂々たるリーダーシップを気取りたがるじゃないか。
選挙まであと2ヶ月なので、ますます弱みを見せられない。
スケジュールを一切変更せず、精力的に会食や握手会で愛嬌を振りまいて回っているよ」
愛嬌だけにしてください。
症状は出てないんですか?
「さすがにアンコールは控えているみたいだけどね。
で、さっそく側近や支持者がバタバタと倒れ始めていて、誰が大統領に進言するかと揉めているところだな」
間抜けすぎやしませんか。大統領ともあろう者が、あまりに無用心だ。
「ヤポにまで言われちゃったら全米が泣き崩れちゃうけど、確かにそうだよね。この失点は高くつくよ」
民主党の候補は?
さすがにあっちはちゃんと対策してますか。
「ロビネット側はリアルな集会を基本NGにしていて、メッセージは動画で配信するから自宅で見てくれと。まあ冷静にやっているね。
投票所がクラスターになる危険もあるから、早めに郵便でとも呼びかけているんだが、共和党がこれに猛反発している。
郵便投票の利用率が上がると自分たちが不利になるからさ」
え?なんでだろう。
郵便だと民主党に入れる人が増える?逆に投票所では共和党に入れる人が増える?
そんなことが、ありえますか。
「わからないかな。たとえば君が南部州の黒人有権者だとして、屈強な白人警官が厳戒態勢で見張っている投票所へ足を運ぶ勇気があるかね。
そこで顔を知られている警官から、よおジョバンニちゃんと正しい方に入れたか?と聞かれて、ごまかしきれる自信があるかね」
あー……すごくよくわかりました。
郵便だと、ちゃんと正しい方に入れられますね。
でも、だったら黒人有権者はこれまでも郵便投票に頼ってきたはずではありませんか?
「郵便公社に対する信頼度は低くてね、USでは。
どの地域でも慢性的な赤字と人手不足で苦しんでいるから、現金ぽいものが入っている郵便物はすぐ消えて無くなるし、投函後の投票専用封筒を買い取ってくれる業者だっていくらでもいる。
郵便投票はアテにならないと拒絶してる支持者は共和党にも民主党にも多いんだ。
ただ今年はすでに過去の何倍も郵便投票が利用されている。当然、すべて集計されて次期大統領が決まるまでに、いつもより日数がかかるだろう。各州の郵便公社は臨時の作業員を雇うことになる。開票までの保管態勢だって、果たして万全だろうか。
共和党はこういった問題点をいろいろ指摘しているわけなんだが、期待に反してドナルドが勝った場合は、同じことを民主党が叫んで調査させるだろうね」
ああ。まあ、そういうものでしょうね。
自分たちが勝ちさえすれば、そこまでのプロセスはすべて正しかったのだとしておくべきでしょうから。
……いいのか?それで。
「さて。あと10分ほどで目的地なんだが、どこへ向かっているかわかるかな?」
え。中野じゃありませんか。
もしかして今日これから遊ばせてもらえるんですか?
「残念だが寄り道はできない。
先週来たときは僕も知らなかったんだが、あのモールから800メートルほど西に何があるか言える?」
はい?ええと、公園があったかな。
駅前が区役所ですよね。そのくらいしか。
「病院があるんだよ。東京警察病院。今日はそこの下見をする」
警察病院?
てことはまさか……負傷した警官が大勢、入院してますか。
「してるだろうねえ。
9階建て、400床あまりの総合病院なんだが。4月に院内感染を発生させて以降、一般外来の受け入れを停止した。
今じゃ警察官・紫党員・コネクションを持つ官僚とその家族ばかりが通う秘密基地になってるわけだ。
狙うには申し分のない物件だろう?」
あの、もしかして岸首相もそこに?
「あいつは別のところに隠れているよ。
警察病院はセキュリティも緩いし、内緒のおしゃべりなんて絶対できっこないから。
ほんと、そういうとこ見る目だけは確かなんだよな。あの外道は」
あれ?外来を受け付けてないということは、我々も入っていけないんじゃないですか。
「ああ。病院の敷地へは入らない。
すぐ隣に大学のビルがある。そちらへ入館するんだよ」
まさしく、名門私立大学の立派なビルが建っていた。
なぜかエヴァンズはIDパスを持っていて、駐車場へもフロアへも平気で入っていける。
俺もついてくるように言われ、堂々と続いた。
最上階の会議室前で白手袋を渡され、装着。すばやく中へ入り、施錠する。
ドアの脇へ立っているよう指示された。
エヴァンズはビジネスバッグから……ドローンを取り出し、窓から飛ばす。
あとはタブレットとにらめっこだ。
以前にもこんなこと、やったな。晴海だったか。
デカい外人と来て、俺はそのときも見張り役だった。
約10分経過。
プロペラ音がして、ドローンが戻ってきた。エヴァンズはすばやく翼を折りたたみ、バッグへ収納。
立ち上がり、撤収だと指示される。
痕跡を残さず部屋から出てエレベーターを降り、何食わぬ顔で、というより誰とも顔を合わせること無く道路へ出る。
元麻布へ帰投せよ。
アイアイサー。
「あの病院では、府中や小菅の刑務所で病気になった囚人の診療や手術なども行うんだが、過去何度も脱走されているんだ。合点がいった。
だがしかし、なぜだろう。普通に考えれば構造上の欠陥は明らかなのに、どうしてヤポは改善する気すら無いのだろう。それとも、管理職が求めてくるまではひたすら欠陥を放置し改善の余地を蓄えておくのが末端の知恵なのか。
合点がいかないねえ。ふしぎでたまらないよ」
冗談であることを願ってやまないのだが、いかにもありそうな話なので生唾を呑みこみながら俺も考える。
しかし、わからん。犯罪者逃がし放題の警察病院なんて、そんなことあるわけ、あってたまるか。
「ああ、そこのドライブスルーへ寄ってくれ。コーヒーを飲みたい。……ククク」
なにを笑っているんだろう。おまえがぶきみだよ、エヴァンズ。
商品を待つ間、画像を一点見せられた。
窓からの隠し撮りだ。
たくさんの空き缶とツマミや菓子類の袋が散乱した畳敷きの部屋で裸の男女数名が寝転がっている。
死んでたりしないよな?
さっき撮ったばかりのスナップですか?
だとすると、これはおそらく超過勤務でくたくたのボロボロになった医師や看護師が、ひとときの休息をとっている光景なんでしょう。
ああやだ、見るに堪えない。
「およそ病院とか診療所と名乗っているところは、いま世界中のどこでもひどい有様だけどね。さすがはヤポだ。抜きん出ていて笑う。
強めのクスリを処方してやりたいものだが、警察病院じゃあ売り子もやって来ないか?外にも出られなさそうだし、だいたい何日帰ってないんだろう」
指摘したいことはいっぱいあるけど、ここじゃなければクスリ売りまくっとんかい。
そりゃ売れるだろうよ。やらなきゃやってられないだろうよ。
山梨でも新モデル開発に猛烈な追いこみかけてる最中だろうなあ。ああ俺もまぐわ……
いやいやいや、気をしっかり持て自分。
善悪の彼岸を越えちゃダメだ。
「機械室は4階か。珍しい構造だな。
南方面へ倒壊させたほうが周辺への被害を少なくできるとして、東隣の合同庁舎を先に潰しておくべきか?
いや、まずは病院を破壊しよう。警官たちに道路を封鎖させ、民間人の避難を開始させてから追撃に移る方が手間も省けていい。そうしよう。
20分もあれば封鎖完了するか?
そんなに早くはできないか。30分では?
ヤポだからなあ、ちゃんと市民の安全を確保できるだろうか。……あれ?
スターンからだ。今日、出られるか?だって」
え?あ、はい。OKです。アヴァンティですよね。
それ以上聞かないことにした。運転に集中する。
おまわりさんたち、がんばってくれ。
中野を災厄から守ってくれ。