ワクチンとは、そもそも何か。
治療薬ではない。
病気に罹ったあとで呑んだり注射したりするそれとは違い、感染させられる前に対策しておこうという発想だ。いわば、抑止力である。
ホンモノの戦争はまっぴらだから、シミュレーションをできる限り真剣にやっておいて、日頃ここまで準備しているのだと内外に告知もして、肚をくくっておく。
仮に斥候が侵入しても、初期段階で発見し退治することができれば。敵本隊との決戦を前に、これほど有益な演習はない。
自信と余裕を持つことは、平和を掴み取るための大きなステップとなりえよう。
その道具が、ワクチンだ。
賢者は、予防をするのである。
すべての動植物は免疫機能を持っている。
体内で異物を発見すると防御態勢をとり、生命活動に害をもたらすと判断すれば攻撃し無力化を試みる。
敵が勝ち実害を被ってしまった状態が、いわゆる病気だ。
免疫機能が勝利しても生物個体が意識することは稀だが、戦績はアーカイブされ、同じ敵を再度発見した際は速やかに発動する。
平時から真剣な訓練をしているからこそ有事に最大の働きができる理屈。地球に生まれたいきものが30億年かけて磨きあげた伝統芸のひとつである。
ありがたや、ありがたや。
人類がこのシステムを理論化したのは18世紀末。やがて病原体の種類や特性への知識を深めるにつれ、人工的にワクチンをつくれるようになった。
病原体の毒性を弱めたり、感染力や増殖能力だけを奪った状態で培養し、製品化する。乳幼児向けのポリオワクチンや、毎秋の恒例行事となっているインフルエンザワクチンなど、様々なヴァリエーションがある。
治療より安上がりだし、接種後の安静期間も予定調和しておけるのがメリット。
ホンモノに罹ってしまうと、いろんな予定が吹っ飛ぶからね。
さて、突如流行したコヴィッド。
新型なので、初期は考えつく限りの治療法や薬が試された。どうやら既成の薬品で特効を期待できるものは存在しないようだ。世界中の製薬会社は報道直後から走り始めていて、新薬の研究開発に人員と予算を割り当てた。
過去にないスピードと規模で感染が拡大するにつれ、治療よりも予防が重視されるようになる。
コヴィッドの致死率はそれほど高くなくて、10ヶ月で100万人を殺したといっても世界人口77億からしたら予備軍のほうが圧倒的に多い。
ちなみに感染者数だって、まだ3000万台と微々たるもの。
検査を受けてない人がこの何倍何十倍いるとはいっても、企業だったらワクチンのほうをつくりたがるでしょ。という市場原理は枉げられない。
「1月の下旬だったよねえ。
ゴステロが君を見つけて、僕に連絡してきた。そのときたまたま博士と打ち合わせ中でね。新型コロナに感染して治療した直後のヤポがいるみたいですよと言ったら、博士が瞳をぎらつかせて
手に入れろ!
と。で、夜のうちに君のアパート周辺や前職、出身地など大まかなプロフィールを調べておいて、翌朝引き取りに行ったんだよね。
あの頃僕はパンデミックでオリンピックが中止になってくれればいいなあと毎日ウンザリしていたはずだ。
なつかしいな」
そうですね、俺も忘れたいです。
ともかく、博士はワクチンをつくった。3月にはもう。
企業も、本気でやればそのくらいで作れるものなんですか?
「薬学も疫学も僕の専門じゃないから全部博士の受け売りなんだが、ウイルスのゲノム情報をWHOが公開した翌週には、もうワクチンの設計図をアップした企業があったらしいよ。
農作物や家畜の遺伝子改造を普段から手掛けているプログラマーにとっては慣れた仕事だろうからね。そこまでは机上で完結する」
ゲノム情報とは譜面のようなもので、それがあるからといって同じ曲がすぐに弾けるわけではない。
聞いていると、3Dプリンタで銃をつくるような感覚だ。
まず設計図が必要。基本構造を理解している者がグリップ・トリガー・ハンマー・マズル・スライド・セイフティーなど部品単位で図面化していく。
ウイルスの場合は300から600のパーツに分解できるらしい。ここまでを1週間でとは、何人がかりだとしても驚異的な速さだと思う。
それからプリンタに造形させ、組み上げて銃の形にする。
モデルガンならこれでじゅうぶんだ。すぐ量産して売り出せばいい。
しかし実用銃となると、ここから先に課題が続く。
力のかかる箇所。
熱のこもる箇所。
カスのたまる箇所。
摩耗しやすい箇所。
それぞれに適した素材を使い、壊れにくくすることが求められる。
ワクチンにも同様の強度が必要で、人体の免疫機能に発見され敵として攻撃されるまで生きていなくちゃ意味がない。
ワクチンとはつまるところ、防犯訓練用のダミー犯罪者。
人間ではなく犬を調教するのだと考えてみよう。役者はホンモノを演じきらなくてはならない。真のテロリストは犬なんて真っ先に殺すけど、犬にその恐怖と覚悟を知っておいてもらうにはどうすればいいのか。
なめたらあかんに決まっておろう。
ワクチンは人間に創られた、人間の味方であるはずのものだが、肉体にとっては非情な悪役を貫いてもらう必要があって、かつ最後には倒されるという微妙な弱さも求められるわけだ。
8月に、ロシアが世界初のコヴィッド対応ワクチンを国家承認したと発表した。これも異様な速度といえる。
だが国際的にはイマイチ評価されてなくて、追試も積極的ではない。
次に承認秒読みとされているのがアメリカとドイツ。こちらは日本はじめ、多くの国が手付け金を払って購入予約を競い合っているらしい。
「西洋列強さんはRUやCNのやることなすことに偏見を持っているから、今回もずいぶんひどい言いがかりをつけているよ。ウラジーミルも、だったら買うなと強気だけどね。
さてUSなんだが、こっちはこっちで来月の大統領選に間に合うかどうかが今最高に盛り上がってて愉快だ。君でも予想できるだろう」
ワクチンの承認は、アメリカの厚生労働省みたいなところがやってるんですよね?
国の機関だから、ドナルド大統領が早く承認しろって言ったら早くするものではないんですか。
まだしていないということは、深刻な問題でも発生している?
「承認機関はFDA。直訳すると食品医薬品局だ。
保健福祉省の管轄で、まじりけのない公務員たちが運営している。
たしかにヤポの感覚からしたら、厚労省の役人が首相に楯突くなんて、想像もつかないんだろうなあ」
楯突いてるんだ。
ドナルドを嫌っているということは民主党員が多い官庁なんですか。
「それもまたヤポらしい偏見だな。
FDAは政治よりも、特定企業の思惑に沿って動く傾向が強い。深刻な問題は起きていない。手順通り慎重に治験を行っているところだ。
その結果、どうやら11月3日の大統領選には間に合わなさそうなのでドナルドが怒っている。
早くしろとせっつくばかりで、具体的にどこを端折れという指示ができないから、いまさらFDAだってスケジュールを縮めようもないさ」
承認が間に合わないとなると、選挙でドナルド続投が決まればいいですけど、民主にとられちゃえば、この1年間ワクチン開発に努力していたのはオレ様なんだぞといってキレそうですね。
「そういうこと。
努力といってもドナルドは現場をひっかき回してただけだし、マスクするより気迫でウイルスと戦おうとか公序良俗に反する悪いお手本をいっぱい示してきたわけだから、医療従事者の多くが共和党には票を入れたくなくなっているんじゃないかな」
共和党じゃなければ民主党、というものでもないんですか。
「ロビネットならこの困難を乗り切れるんじゃないか、と期待させる魅力が乏しくてね。
ドナルドほどひどくはないが退屈で沈滞する4年間が約束されているなら、わざわざ投票しないという選択肢もある。
そして投票率が低い場合は、現職であるドナルドが勝つ。ドナルド支持者は必ず投票所へ行くからね」
どちらが勝っても、もうすぐアメリカ製のワクチンが承認されて、大量生産も始まるわけですよね。
被害の大きい地域から提供されていくと思うんですけど、これでコヴィッドの流行は、ひとまず終わってくれますか。
「そう単純にもいかない。
特許と配分の問題で今も揉めに揉めているが、この先もっと揉めるだろう。
たとえば今月、ジェネリック薬品製造の大工場を持つ国々がWHOへ、covid-19に関しては最新の製品でも特許権による保護を免除するよう要望した。
緊急承認される見通しだが、これが早速ワクチンにも適用されるとなれば、FDAや開発企業が喜んで従うと思うかね」
喜びはしないでしょうね。
でも、考えたらアメリカだけが開発力を持っていてアメリカだけが儲かりつづける構造が今回さらに拡がるところでもあったんだ。申し立てた国の言い分もわかります。
「配分についても、すでにコヴィックスという団体ができている。
FRがWHOにやらせているというのが正確なところだが、WHOが承認したワクチンならその配分はWHOに一任すべしという連合だ。
つくった国がいつまでも自国民にワクチンを射てないということになりそうだが、ワクチン開発力の無い国は当然こぞって加盟する」
これも、アメリカが割を食いますね。
猛反対してるのでは?
「ところが7月にUSはWHOを脱退してるんだ。だからどちらにも従う義理はない。
USの全国民にとって、これはドナルド大統領の英断だ。自分たちだけが勝者でいられるうちに、貧しい連中と綺麗さっぱり縁を切ったんだから」
なんと。まあ、そうでしょうね。
「ロビネットはWHOと復縁するべきだと主張している。猛反発もくらうさ。
さあ、女神はどちらに微笑むかな」