血に濡れた手は、地獄への片道切符。
分かっていた。
少年は救われてはいけないのだと。救いを求めていけないのだと。苦しみながら激痛と後悔の中で生き続けなければならないのだと。
それでも、彼は安寧を望んだ。
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
いい匂いに包まれ、脳がグズグズに蕩けており不意に、俺は押し倒されてベッドに倒れこむ。
「……?」
ん? 何が起きた。
押し倒された? 俺が?
唐突に起きたことで、情報処理が追い付かない。
「あ、顎くん……」
「ちょ……! 燈⁉」
「もう少し……このまま……」
ここは家ではないのだ。
流石にこれ以上は不味い気がして愛音さんに助けを求めようと視線を向けるのだが、そこに愛音さんの姿は影も形も無く、いつの間にかいなくなっていた。
居ない!
気配的には扉の前にいる。逃げやがった。
やられた。
俺はため息を吐き、現状を受け入れる。もうどうにでもなってしまえばいい。俺は、もう一度、燈を抱きしめる。俺よりも小さくて細い身体。
闘技者とは違い柔らかく、温かい。
サラサラとした髪にほのかに香るミルクのような甘く、安心する匂い。今回はちゃんと守れたのだと、改めて実感する。
同時に、俺は、彼女たちの側に居ない方が良いのかもしれないと、思ってしまった。
「顎くん……」
「何だ?」
「顎くんは、一生傍にいてくれる?」
ドキリとした。
心の内を読まれているような感覚。どう返すべきか少し迷い、答える。
「なら、何処かに行かないように掴んでてくれよ」
「じゃあ……するね」
「は?」
「ん……」
唐突に燈が顔を近づけてきて唇同士が接触する。
チュッとリップ音が響き、顔が離れる。頬を真っ赤にしながらもジッと俺を見つめる燈は少し息が荒く、目もトロンと垂れ下がっていた。
「おい、それ……誰に教わった」
「あのちゃんが、こうすれば……男の人は離れられないって、言ってたから……」
「愛音さん……」
あの女、髪色だけじゃなくて頭の中もピンク色なのか。
冗談でもそんなこと言うなよ。
この子、純真無垢で信頼している人の言っていることを疑いもなく信じそうなんだからそんなこと言うなよ。
「もっと、して……いい?」
「はっ?」
「だめ?」
「ちょっと、駄目だな」
あからさまに残念そうな顔をする。
もう、起きてしまったことをどうすることもできない。だからこそ、質が悪い。
俺は、逃げることは許されない。そうすれば立希さんに殺される。知られても一生粘着される。どちらに転んでも最悪な光景が想像できる。
頭を抱えていると、病室の扉が勢いよく開かれる。
「おや~猟犬と呼ばれた嘉村宜も女の前じゃ形無しか?」
「
「おいおい、主治医に対してそんな態度はねぇだろ?」
「なら、助けてください」
「無理だろ?」
諦めんなよ。
「あ、そうそう。キミ、今日で退院だから」
「はぁ⁉」
「叫びたいのはこっちだよ。退院前に私闘騒ぎで怪我しやがって。病院だから何しても良いってわけじゃねぇぞ!」
「それは……すいません」
「謝るくらいならちゃんとした場所でやってくれ……」
あ~眠い。
程よい温かさが身体全体を包んでいるため眠気がくる。
「あの、ひと眠りしてからでいいですか?」
「ダメに決まってんだろ? お前、今の状況分かってる?」
「……」
「何か言えや。おい、寝るな」
と言いながら、鼻をつままれる。
「痛ぇえええ!」
「ほら、起きてさっさと部屋を空けろ」
「もうちょっとやりようがあるだろうが!」
「眠ろうとするのが悪い。ほら、迎えが来てるぞ」
燈が転げ落ちないように腰と頭を抱き寄せて顔を上げて扉の方を見ると、立希さんが女の子がしてはいけないような顔になっており、ぶっちゃけ怖い。
常に冷静さを欠いている彼女であるが、今回は理性が残っているかすら怪しい。今にも襲い掛かって来そうな雰囲気を醸し出している。
「燈? 燈さん? ちょっと離れてくれません?」
「もう少しだけ……」
「おい、嘉村宜顎。説明しろ。私は今、冷静さを欠こうとしている」
アンタは燈が絡んだらいつだって冷静じゃねぇだろうが。
そう言うとこがヤバさを引き立たせているんだよなぁ。
「愛音さん! アンタが入れ知恵したんだから責任もってどうにかして……何やってんの?」
「あっきー……助けて……!」
見えにくいが、愛音さんは廊下で正座していた。しかもバンドメンバーの重そうな荷物が膝の上に置かれている。その姿を見て推測するに、すでにお仕置きを受けたということか。
ダメじゃん。
助けてくれる人居ないじゃん。
もう、動けないじゃん。
などと言い訳が通るわけもないので俺は引っ付き虫になった燈を引っぺがし立希さんに押し付ける。
「ちょっ! 顎!」
「じゃ、着替えるからよろしく」
そう言って扉を閉める。
扉越しからワイワイと声が聞こえるが無視して着替えるためにベッド脇にかけてある紙袋の中身を確認する。
「これは……」
黒のインナーシャツに上着はアッシュグレーのパーカーで蒼の差し色がありフードを絞る紐は紅だった。下は黒のズボンで今までの衣装の中ではかなりシンプルなモノだった。
靴はスニーカーで非常に軽い。
いつもは重めの靴だっただけに違和感がある。
一通りの確認を終え、俺は再び扉を開くと俺の姿を見て皆、少し驚いていた。
「何?」
「いや、意外と似合ってる」
「あっきー、カッコいいね!」
「愛音さん、そんなこと言っても燈に何を吹き込んだのかは話してもらうからな?」
「う……そんなぁ~」
「自業自得でしょ?」
「そよりんまで~」
別に、そこまで怒っている訳ではない。
ただ、知っておきたいだけ。できるだけ今回のような事を避ける為でもある。
対応に困っていると、こちらに向かって走ってくる音が聞こえ、俺は視線をそちらに向ける。
「蓮花……」
「ぁ……顎くん」
「何だ?」
「七深さんが来たよ」
七深さんに連れられて見舞いに来てくれたのだろうか。だが、蓮花の表情は重く、今にも泣きそうな顔だった。
「どうした?」
「あ……えっと、あぎ……アンタの見舞いに……」
「そうか。来てくれてありがとう」
「え……」
俺は彼に近づいて軽く頭を撫でる。
困惑する彼をよそに、俺はただ黙って撫でる。
「顎……兄ちゃん……」
「もう、
「でも、俺は……!」
「頼むよ……」
「ぁ……」
殺しは罪。
それは変わらない。
俺たち闘技者はそうやって給金を貰い、暮らしている。
同じ穴の狢。だからこそ、人様に迷惑をかけることなくお互いに地獄へと堕ちることができる。道を選べないわけじゃない。選択肢がないわけじゃない彼を、俺は引き込みたくない。
「お前は、俺と違って、選ぶことができる。だから、急いた事をして後悔してほしくない。分かってくれるな?」
「……」
そう言うと彼――蓮花は黙って頷く。
その頬には涙が伝っていた。
「よし。じゃあ、もう泣くな。男の子だろ?」
俺は蓮花と目線を合わせるためにしゃがみ、その涙を拭いてやる。
「ゔん……」
「強い子だ。じゃぁもう帰りな。俺ももう行くからさ」
「また、会えるかな……」
「会えるよ」
「姉ちゃんみたいにいなくなったりしない?」
「約束するよ」
「うん……じゃあ、顎兄ちゃん。またな!」
そう言って、蓮花と七深さんは行ってしまう。
もう、大丈夫だ。俺なんかがいなくてもやっていける。
約束は、守れないかもしれない。だって、俺たちはもう会わない方が良いから。
「顎くん……」
「燈……」
「大丈夫?」
そう聞かれ、俺は振り向くことができない。
心の奥がズキズキと痛む。俺だけが、ずっと取りこぼしてきた。
否、取りこぼしていたのだ。分かっていながら、俺はそれを救い上げることをしなかった。
「ごめん、燈……」
「え、ぁ……!」
「少しだけ……抱きしめさせてくれ」
俺は、燈の胸に顔をうずめ、静かに泣いた。