脳がないクラゲなら、くだらない事で泣いたりしない。
口がない死人なら、日常にそれらしい答えを求められることもない。
暗闇でやっと呼吸をしていた頃のことを思い出せなくなった。柔らかな光の中で、私は今日もかさぶたを剥がす。
CRYCHICがどうしてなくなってしまったのか。
祥ちゃんはどうして、私の前から居なくなってしまったのか。
本当は知っている。
祥ちゃんの家の事情も、そこに踏み込まれたくなかったことも。
けれど──
『ボーカル必死すぎww』『聴いててしんどいわ』
私がもっと上手く歌えたら、祥ちゃんは今も私と目を合わせてくれただろうか。そんな悔恨だけが、酸素ボンベのように私を生かしている。
羽丘の校門を潜る。
まだ、祥ちゃんは校内にいるはずだった。誰もいない音楽室や視聴覚室で独りピアノを弾いているのだろう。
ピアノを捨てないでいてくれて嬉しい。祥ちゃんが私に与えてくれた音楽が、未だ彼女の中の大切なものであると確かめられたことへの安堵が、かろうじて私を動かしている。
教師の目が届かなくなったあたりで、イヤホンを耳に挿す。以前は全く聴かなかった音楽を、最近は意識的に聴くようになった。歌詞を通して伝わってくる他人の感性、曲に込められた演出が、私の歌を磨く。
山の石が川の流れに削られて丸くなるようなもので、私は幾分、まともになった。代わりに、やすりで磨かれた傷が痛むけれど。
──俯いたまま大人になって、追いつけない ただ君に晴れ
なんて。ほんとうに、アスファルトを見つめたまま私は大人になろうとしている。
もし、もう一度、祥ちゃんと歌えたら。
そんな贅沢は言わなくても、祥ちゃんに私の歌を届けられたら──きちんと私の中のCRYCHICを終わらせられるだろうか。
詮無いことを考える。
たとえば、昨年、私の入学と入れ替わりに卒業した先輩──Roseliaだったか。あの人たちのように、メジャーレーベルに入るほどの知名度があったら、祥ちゃんにも私の歌は届くだろうか。
目指すにはあまりにも遠くて、絵空事だ。
河川敷を歩く。幹線道路と花咲川が交わる橋の下に潜り込んで、先客がいないことを確認した。時折、ダンスの練習をしている女の子がいて、先を越されてしまったときには私が退散する。
今日は、ツバメが二羽飛んでいるだけだった。
イヤホンからカラオケの音源を流す。本当はカラオケボックスに行くべきなのだろうけど、1高校生が歌の練習の為だけに通うのは少し難しい。……その、金銭的に。
深呼吸、腹式呼吸、リップロール、ロングブレス……準備運動の後に歌い始めて、二曲目から録音を始める。
自分で聴き返してみても、日に日に上手くなっているとは思う。人に比べれば遅々たる歩みだとしても、自分の興味が向いている事象に対してはそれなりに集中力を向けられる。
数曲歌ったところで、誰かが河川敷をこちらへ歩いてくるのに気が付いた。通り過ぎる人は珍しくもないから、すぐに視線を切ったものの、どうやら私を目指して歩いてきているような雰囲気があって、曲の切れ間に振り返った。
少し年上の──大学生くらいに見える女性だった。浅葱色の髪をセミショートに切りそろえていて、彼女が首を傾げた拍子に揺れた。
目が合う。ひどく平熱な瞳だ、と思った。高架下の影に浮かぶ大きな瞳が、月のようだった。
「練習の邪魔をするつもりはなかったのだけど……ごめんなさい、気になってしまったものだから」
「えっと、ご迷惑でしたか?」
「いいえ、素敵なボーカルだと思って。ピルグリム、好きなの?」
「流行りの曲しか、知らなくて」
「ああ、なるほど。これは酷い思い上がりね」
恥ずかしいわ、と言いながら、彼女の感情は揺らいだように見えなかった。
ピルグリム、と名前をあげられたのは、今まで歌っていた曲の作曲者だ。共感できる歌詞としにくい歌詞があって、実際に作曲者の作風が好きかと言われると難しい。けれど好きな曲はたくさんある。そんな立ち位置だった。
ふと、気が付いた。この声──
「初めまして、私は氷川紗夜。貴方の名前を訊いても良い?」
「高松、燈です」
「ああ、
二重の衝撃に、私の思考は停止した。
心臓がドラムスのように跳ねて、数秒後に再起動する。呼吸が浅くなっていることを自覚した。
CRYCHICを知っている人が……しかも、この人は、私がたった今流していた曲の──
動揺を隠せている気はしないまま、しどろもどろに口を開く。
「その、はい。ライブを……一回だけ」
「今は別のバンドを?」
「私は、独り、です」
CRYCHICを知っている人に声をかけられるなんて思わなかった。立希ちゃんやそよちゃんの友人だったりするんだろうか。もしかすると睦ちゃん経由かもしれない。駆け出しで、ライブの評価も良くなかったし、次にライブをしないまま解散してしまったから、私たち以外に覚えている人がいるとも思わなかった。
「そう。でも、練習は続けているのね」
「……それしか、ないから」
彼女が初めて感情を滲ませたような気がした。それが好意的なものに見えて、咄嗟に、私は二の句を継いだ。
「どうしたら、あなたみたいになれますか」
「私?」
「どうしたら、そんなに人の心を動かせるんですか。私の言葉も、歌も、祥ちゃんには届かない……」
支離滅裂なことを言っている自覚はあった。目の前の彼女は私のことも、ましてCRYCHICの事情なんて知らないはずなのに、不躾に問いをぶつけている。
彼女は少し考え込んで、「取引をしましょう」と言った。
「私がお願いする通りに歌ってくれないかしら。代わりに曲の作り方も、歌い方も、練習場所も提供するわ」
「…………それは、バンドをするってこと、ですか」
「ユニットでもバンドでも、なんでも構わないけれど」
私に都合が良すぎる提案だ、と思った。私は騙されているのだろうか。目の前の彼女は私が思った通りの人ではなくて、ただ言外に騙っているだけなのかも。
だって、理由がない。どんな歌手とでも組めそうな実績を手にした人が、こんな河川敷で独り歌っている高校生を拾うことに、大きなメリットがあるとは思えない。
「一生」
「一生?」
「一生、続けてくれますか」
無茶を言っていると知りながら、そんな問いを投げかける。思い付きで投げられたような提案に対して、釘を刺すつもりで。
別れとは動き出すことだ、とたまたま読んだエッセイに書いてあった。では、出会いとは立ち止まることだろうか。そうだとすれば、私は時計の乾電池を抜いておきたい。
「死がふたりを分かつまで。あるいは、貴方が私を裏切らない限り。それで構わないのなら」
彼女はあっさりと答えた。私の言葉を茶化すでもなく、かと言って、重く捉えるでもなく。ただ契約期間を打ち合わせたような、そんな声色で。
私は頷いた。投げた釘が打ち返されて私の心臓に刺さる。口約束に意味はあるのか。けれど、無意味と断じてしまえば、私たちが書く歌詞にも価値はない。
差し出された手のひらを握る。ひどく冷たくて驚いた。
「この部屋をスタジオとして使ってもらって構わないわ」
二日後に呼び出されて、アレが夢や嘘ではなかったのだと改めて実感する。マンションの一室を丸々仕事場として借り上げているらしい彼女にカードキーを渡される。
マイクやアンプ、楽器が無造作に置かれた部屋は、防音室に施工されているらしい。
「……さて、少し先走ってしまったけれど、真面目な話をしましょう。これから私が高松さんに歩ませようとしている道は、富と栄誉と引き換えに、安寧を焚べる道よ。後悔しない?」
「後悔は、きっとします。けど、私は祥ちゃんに
「答えとしては悪くないわね」
PCを立ち上げながら、彼女はワーキングチェアに腰かける。スツールを勧められて、私も腰を下ろした。
「では、改めて。私は氷川紗夜。『ピルグリム』という名前で芸能活動をしているわ。と言っても、歌声以外の個人情報は秘匿されているけれど」
ピルグリムとはどういう意味か、昨日電子辞書で調べた。「巡礼者」あるいは「放浪者」を意味するらしい。スマホで調べたところによると、氷川さんは今この国で最も評価されているアーティストの一人で、その匿名性の高さから色々な推察、考察が行われていた。複数人であるとか、名前の由来がどうとか、未来人であるとか、とある有名作曲家の別名義だとか。
「意味? ……ああ、『外来種』よ」
「外来種?」
「どうでも良いでしょう。それよりも考えるべきは高松さん、あなたの事よ」
頷いた。
「私の望みは、私以外のボーカルを得ること。代わりに、私は貴方に『知名度』『歌手としての実力』『作曲者としての基本技能』を与える。貴方はそれを望みを叶えるための武器とする。……認識に相違は?」
首を横に振った。いささか、私に優しすぎる取引だとは思うけれど、そこは一旦考えないことにした。……なんと呼べばいいのだろう。氷川さん……の、求める水準がどれほどなのかも、想像ができない。私が寝食を削ってなお届かない域にあるような気がして、すこし恐ろしい。
「私の今の投稿ペースは、平均すると週に一曲程度かしら。今のところ、ペースを落とすつもりはないわ。つまり、最低でも週に一度はレコーディングね」
週に一曲を仕上げる。ボーカルだけならともかく、作詞作曲、編曲、演奏まで全てを一人でこなすのは現実的なのだろうか。
「がんばり、ます」
「よろしく。私は基本的にここに詰めているから、いつでも練習に来て貰って構わないわ。ディレクションも可能だし、ボーカルの指導もできる」
私はあまり歌が得意ではないけれど、と付け加えて、氷川さんはPCの画面を私に見せた。指示されるままにスマホにトークアプリをダウンロードして、簡単に使い方を習う。共通のサーバーに、音源や歌詞、歌い方のディレクションのメモがまとめられたフォルダがぎっしりと詰まっている。
未収録、のフォルダが日付順にざっと20曲以上並んでいた。
「どれからでも構わないけれど、日付が新しいものはまだ詰められていない部分があるから注意して」
並んだタイトルは、明るそうなものから暗そうなものまで。二字熟語ひとつだけ、というタイトルもあって、このリストだけで『ピルグリム』の作風の幅というものを体現している。そんなことにも無頓着な氷川さんが……形容するならば、そう、グロテスクに見えた。
世界から孤絶しているような、そんな、才能。
「それから、貴方の名義を決めておきましょう。私たちのユニット……バンドか。バンドの名前も」
「名前は、燈のままで。祥ちゃんに間違いなく届くように」
「リテラシー……いいえ、私のように極端なタイプの人間が言うことでもないわね」
私はきっと、顔も名前も隠さないだろう。CRYCHICだった私たちに……祥ちゃんに、私の歌が届くように。
「バンド名は『ミッドナイト・サン』としましょう」
「真夜中の太陽?」
「名前から拾っただけよ。それと、全て燃やし尽くせるように」
♦
「ミッドナイト・サン」というバンド名でスタートした私たちのアカウントは、「ピルグリム」からの誘導もあって瞬く間に登録者数と知名度を伸ばした。
前のボーカルの方が良かった、という声が大きくて心が折れそうになりながらも、ひとまずは3ヶ月、合計13曲をリリースしたことになる。
紗夜ちゃんの主義である「匿名性」は、少なくとも大衆音楽において不利である、というのが「ミッドナイト・サン」を経た紗夜ちゃんの結論だった。曰く、 「透明な作曲家には魅力がない」らしい。歌手の相貌に抱く親近感も、仕草に抱く愛着も、当たり前のように楽曲への好印象に加算される。今では「そういうキャラだ」と理解されているピルグリムでさえ、気味悪がられているところがないとは言えない。
少なくとも顔と声と、それから少しばかりのメッセージをオープンにした私は、紗夜ちゃんの予想よりもずっと多く、ピルグリムを受け付けなかった人種を取り込んだらしい。
深く、深く息を吸う。
眼前には、スタンディングのホールに観客が
独りは恐ろしい。
けれど、今日は独りでなければならなかった。
最後まで迷っていた紗夜ちゃんが、右隣りに立っていたら、私の緊張の幾らかは安心感に紛れていただろう。私よりも曲のことを知り尽くしていて、私よりも歌が上手くて、私よりもはるかに人気がある「ピルグリム」がいれば、何もかも上手くいくに決まっているのだから。
結局、紗夜ちゃんはオケ音源の作製に終始した。
独りで練習していた頃よりも何十倍も早く上達した私の歌も、半分は紗夜ちゃんが作り上げたようなものだ。ステージに立つのは私独りだとしても、このライブは「ミッドナイト・サン」のものだった。
祥ちゃんは来てくれているだろうか。難しいかもしれないけれど、そうだったら良いなと思う。特に今日は、私の心に近い歌を歌うから。
「初めまして。『ミッドナイト・サン』の燈です。今日は、私一人です。ピルグリムを期待していた人はごめんなさい。サプライズがないことを、先に言っておきます」
冗談めかした落胆の声。
それでも会場の空気は期待に溢れている。
「それから、ピルグリムのことを話したりもしません。私たちは互いの目的のために尊重し合っているからです。……じゃあ、私はどんな目的のためにここに立っているのか。私を空っぽにしたただ一人に、まだ取り憑かれているからです」
MCは長く話してもいい、と紗夜ちゃんが言っていた。
ただし最初からはおすすめしない、とも。
「私の歌を聴いてくれているのかも分かりません。音楽を捨てないでいてくれていることだけ、嬉しく思います。お客さんに、『必死に歌いすぎ』と揶揄されたことがあります。私は、必死に歌うことしかできません。歌えなければ、死んでしまうから。今日も、必死に歌います」
頭を下げた。
拍手を受けて、背筋を伸ばす。
もう一度、深く息を吸ったところで、ドラムとギターのイントロが流れ始める。
少し、緊張する。
今日のセットリストは、大半を私が考えて、紗夜ちゃんが少しだけ修正したものだ。半分が未発表の曲で、もう半分が既存曲。紗夜ちゃんが歌詞の一覧を並べたものから、私が幾つか選んで、それに曲をつけてもらったもの。
最初と、最後は祥ちゃんのための曲。
どれだけ緊張しても、恐ろしくても、それなら歌える気がしたから。
『凛として花は咲いた後でさえも揺るがなくて
今日が来る不安感も奪い取って行く
正午過ぎの校庭で一人の僕は透明人間
誰かに気付いてほしくて歌っている』
かつて、祥ちゃんに褒められた私のコトバは、そうは言っても素人らしい拙さに溢れていた。ピルグリムの歌詞(紗夜ちゃんの書いた歌詞、と言うと不機嫌になる)と比較しても、洗練されていない。所詮は現実逃避の書きなぐりの色を拭えない。
『凛とした君は憧れなんて言葉じゃ足りないような
そんな色が強く付いていて
どんな伝えたい言葉も
目に見えないなら透明なんだ
寂しさを埋めるように歌っていた』
言葉が透明だなんて、私に書けただろうか。
詩は筆者の感性の鏡写しで、だからこそ紗夜ちゃんが私に選んだ歌詞は、私が私の心を表現するための手本になる。
新規の曲にも関わらず、観客のボルテージは上がっていた。私が以前観たライブよりもずっと大人しく、噛み締めるようなオーディエンス達が、それでも熱の篭った視線を私へと注ぐ。
スポットライトの中心の私は、光の中でそれを受け止めた。
『誰の声だと騒めきだした
人の声すらバックミュージックのようだ
あの日君が歌った歌を歌う』
声が響く。
肺が震える。
息を吸う。息を吸う。息を吸う。
ぼやけた世界で光が滲む。酸欠で思考が遠くなる。
祥ちゃんは、私の翼だった。手をひかれるままに、私は水溜まりを飛び越えて走ることができた。
今は、水溜まりばかり探している。
『体の何処かで
誰かが叫んでるんだ
長い夜の向こう側で
この心ごと渡したいから
僕を全部、全部、全部透過して』
祥ちゃん。あなたを追いかけて、私はこんな所まで来てしまいました。
「準透明少年」を歌って、MCを挟まずに次の曲へ。
息が上がって苦しい。
マイクスタンドの脇に置いたラベルレスのペットボトルから水を含んで、熱を持った手のひらを冷やす。マイクを握った左手は汗ばんでいる。
セットリストは物語なのだ、と紗夜ちゃんは言った。そのように組むのが宜しい、と冗談めかして。
私が綴ったのは、手紙だった。祥ちゃんへの手紙。私の絶望を、希望を、悲哀を、享楽を、出会いを、別れを。さよならの言葉を、否定できない未練を。
『流れもしないよ 停滞のさなか
景色は似たり寄ったりだね
変わってみろよと挑発したとこで
世界は今日も臆病だね』
臆病だったのは世界ではなく私だ。
停滞を良しとしてきた。いつも通りの通学路、いつも通りの公園、いつも通りの歩道橋。毎年同じ花が咲いて、毎年同じ軒先にツバメが巣を作る。
『挑みもしないよ泥濘のさなか
僕らの尾ひれ胸びれは
逃げるためだけに生えたわけじゃない
この身を捩って前にゆく』
私は海原を泳ぐような魚になれるだろうか。
群れを成してぐるぐると渦を巻き、国境さえ渡っていけるような。
傷付いて剥がれかけた鱗がきらきらと輝いて、海原を彩るような。
冷たい水の中を、震えながらも登っていけるような──
私が一匹の魚だったら、きっと深海魚だろう。
冷たい水の中、深く、深く、深く沈んでゆく。
目は退化して、
泥濘に横たわって、餌が降ってくるのをひたすらに待っているような。
『たった一呼吸分の
君のくれた酸素で
その心の最深部
誰より速く行くから
そこでいいよ』
……だけど、誰よりも深く潜っていけると信じている。
『歌ってほしいよ ロックンロール
踊ってあげるよ screaming dance
ここでふたり起こした逆流で
世界がどよめけばいいと思うんだよ 水流のロック』
上層とは真逆の深層海流の中で、白く細かな泡を吐いた。
紗夜ちゃんの「ロックンロール」に手を引かれる私の決意表明。
ピアノとドラムで演ぜられる曲が終わって、3曲目に移る。4曲目、5曲目と続けて、ライブを通して私の心を叫ぶ。
明るい歌を、悲しい歌を、連ねて私の手紙が厚みを増してゆく。
客席の中で、祥ちゃんの影を見た。
本物か、それとも私の願望が見せた幻か。
そんな判断さえつかないまま、足りない酸素に茹だる。
息が切れる。
喉が痛む。
どれだけトレーニングを重ねたって、私はこうなってしまう。
この先何十年経っても、そこそこにセーブして歌うなんて芸当ができる気はしない。
「つぎが、最後の曲です」
えぇ、とどよめきが走る。
それがなんだかおかしくって、思わず笑みが溢れた。
大半が私よりも年上の、男女を問わない観客たちがおどけているようで、心が温かくなる。紗夜ちゃんが引き上げてくれた舞台は、ぼやけていても美しかった。見渡す限りの瞳には、高揚や衝動が色を落としている。
「ごめんなさい、アンコールもありません。そのぶんも歌ってしまいました」
ライトから放たれた光がペットボトルに砕け散る。
見下ろしたスニーカーの靴紐は固く結ばれている。紗夜ちゃんが選んでくれた衣装は、グレーを基調にマゼンタの差し色が入っている。パーカーの心臓部に施された刺繍は「ミッドナイト・サン」のロゴだ。
最初より少し掠れた声で、私は観客に問いかける。
「……その。楽しんで、貰えましたか?」
歓声と拍手が上がる。
少しばかり安堵した。
「今日はありがとうございました。また会えることを祈っています」
マイクを握り直す。
ピアノから始まるイントロにあわせて、ステージの端、観客席から最も近い位置に立つ。たとえ手を伸ばしても届きそうにはないけれど。
『忘れはしないよ 時が流れても
いたずらなやりとりや
心のトゲさえも 君が笑えばもう
小さく丸くなっていたこと』
カラオケに行ったこと。
喫茶店に行ったこと。
初めてノートを見せたこと。
スタジオでライブをしたこと。
祥ちゃんの記憶を回顧しながら、別れの歌を歌う。
セットリストに選んだ最後の曲は、さよならの歌だった。
『かわるがわるのぞいた穴から
何を見てたかな』
当て書きを疑うほどに私の心境をトレースする歌詞を、繰り返し心に染み込ませてきた。
私の心を覆う、まだ形のない感情たちを紗夜ちゃんの歌詞は忽ちに具体的な像を結んで、歌詞の内容に当て嵌る形になる。心が歌詞に釣られているようで、実の所、言葉にされてようやく、私は自分の心を自覚しているだけなのかもしれない、とも思う。
「死別の歌でしょうね」と紗夜ちゃんは言った。自分が書いた歌詞に対する感想としては不自然なその言葉の意味を、理解してはいない。最終的には聴衆の解釈に委ねる、という意味に受け取るのが自然なのだろうか。
『一人きりじゃ叶えられない
夢もあったけれど』
私が別れを告げる祥ちゃんは亡くなってなんかいないし、永遠の別れというわけでもない。それどころか、学校まで同じになって、物理的な距離は近付いてさえいる。
『さよなら 君の声を 抱いて歩いていく
ああ 僕のままで どこまで届くだろう』
お別れであり、決意表明だった。
祥ちゃんへ。そして、祥ちゃんが大好きだった私へ。
かつてCRYCHICだった、私たちへ。
私はあなた達を忘れない。
メモ
・準透明少年
・水流のロック
・死んでしまったのだろうか
・畢生よ
・Runner
・ネクストネスト
・Surges
・TRAIN-TRAIN
・サウダージ
・君の神様になりたい
・Re:Re:
・季節は次々死んでいく
・ホワイトノイズ
・銀の龍の背に乗って
・Beautiful World
・楓
あとりんさよらしいです。メジャーカプ……????
https://syosetu.org/novel/396035/