曇り空を、今日もいつもとおんなじ様に見上げていた。
少し前なら、そこに理由も目的も無かったけれど。今となってはそうではない。
まだかまだかと、アツコは何かを待ち続けていた。
ヒョイと。塀の向こうから何かが小さく顔を出した。
「よっ」
軽く右手を上げて、少年はアツコに挨拶を送る。
ぱぁっと、アツコの顔に、笑顔の花が咲き誇る。
「いらっしゃい」
今では日課となったこの時間が、とにかく待ち遠しかった。
塀の向こうから現れたその少年は。曰く、アツコを閉じ込めているのと同じ“大人”によって、キヴォトスの外から連れ込まれたとのことだった。
言われて確かに意識を向ければ、彼の頭上にヘイローの気配はなく、体の至る所が生傷だらけで、ボロボロだった。
自分が“ヒケンタイ”だと語る彼は、本来ならばアツコと、同じとまでは言わずとも監視し、管理されている身の上だと言うが。どうにも閉じ込められているのが性に合わないらしく、監視と禁錮の合間を縫って抜け出して、時間を見つけては人目を避けてこの辺りを探索、冒険しているのだと言う。
そんな話を聞いたアツコはが、彼へとこう問いかけるのは、ある意味当然だった。
「外の世界は……どうなってるの?」
純粋な興味と、好奇心。幼い少女は、見知らぬ男の子がやってきた、彼の知る“外の世界”に憧れていた。おぼろげな記憶の中にある世界の光景は、もう掠れて殆ど形を成していなかった。
アリウスの現状は、教え込まされ知っている。話に聞いてわかっている。音に聞こえて、察している。
けれどやっぱり、その目で見たことのない世界は。アツコにとっては未知が広がる、お伽噺の世界だった。
「いいぜ、何でも教えてやるよ!」
少年は、それに答えた。そして、自分の知りうる限りの全てを話してくれた。
塀の向こうの、些細なこと。どれだけ荒れていようとも、何処かに草木が生えること。
空の広さや、風の香り、たとえそれが瓦礫の上でも、彼は風の良く吹く秘密の場所で、昼寝をするのが好きだとか。
それは、今にして思えば随分閉じた世界の話で。彼の知りうる世界も、自分とそう変わらない小さな世界の中だった。
けれど、それでも。当時のアツコに取っては――彼の話は、とても魅力的で、豊かなイメージを運んできてくれた。
彼の話は、1日では終わらなかった。
彼がアツコの居る庭にいられる時間は、そう長くはなかった。アツコの予定があることもあるし、彼が抜け出していられる時間にも限りがあったからだ。
しかし、それでも彼は何度もアツコの元を訪れて。何度でもアツコの求める“外”の話を彼女に聞かせた。
そうしているうちに――二人がこうして話す時間は、二人にとっての共通の日課となっていた。
そんな、ある日のことだった。
「今日はアツコにプレゼントがあるんだ」
いつもより少し汚れた服装の少年が、突然そんな事を言い出した。
「プレゼント……?」
「うん。外の世界が見たい。って言ってただろ?だから、少し持ってきた!」
「持ってきた?何を?」
不思議そうに自分を見つめるアツコの姿に、少年はいたずらっぽい笑みを浮かべてから、自分の服を捲り上げ、その下に隠していた“プレゼント”を手に取った。
「はい、これ。やるよ!」
ずい。と、差し出されたそれは――数本の小さく、淡く蒼い花達だった。
「……お花?」
「そう!綺麗だろ?」
摘んできたばかりの様なそれは、所々力が加わった事で妙に萎れていたりしたモノの、健気に花弁を広げていた。
少年の差し出したその、小さく、飾り気のないその束を、アツコは両手でしっかりと受け取った。
「……可愛いね」
けれど、アツコにはその花が――輝いて見えた。
「この花、なんて名前なんだろう?」
「名前……?…………そういや、何なんだろ?」
何か名前があるのだろうか。それとも、名前のない花なのだろうか。その判断も知識も、今の彼らには無い。
ただ、それでもたしかに一つ分かるのは。そこにある、小さな花束は。たしかに二人にとっては他のどんなものよりも輝いて居るということだった。
キュッと。その小さな花束を大切に抱えたアツコは、満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう。とっても……嬉しい」
「へへっ……良いんだよ。俺も、偶然見つけて、喜ぶかと思っただけだからさ」
泥だらけの手のひらで、鼻の下を擦る少年に、アツコは一歩、歩み寄る。
「ねぇ。私からもお返し、してもいい?」
「お返し?」
「うん」
“お返し”。と聞いて、少年は首を傾げる。今のアツコが、何か自分の物を持つということができない事は彼も理解していたし、そもそも、見返りが欲しくてこの花束を用意したわけではない。
必要ない。なんて、そんな事を言おうとして。それよりも先にアツコが口を開いた。
「16番くん。なんて呼び方、良くないでしょ?」
「……んぁ?」
16番、正しくは、“
キヴォトスの外で元々孤児であった彼に、“名前”は無い。いや、あったのかもしれないが、今の彼の所有者である“大人”――少年が“ババア”と呼んでいる存在――は、彼に名前を用意しなかった。
16と言うからには、1から15までの“番号”があったのかもしれないが、少なくとも、彼は自分の他にそんな呼ばれ方をする人間には会ったことがない。
知り合いもアツコ程度の物で、自分を“ジッケン”に連れて行く大人達に呼ばれる時ぐらいにしか用のないそれに、少年は頓着していなかった。
「私が……君に、名前をあげる」
「名前?俺に?」
「うん。君の、君だけの、君の為の――“名前”だよ」
それにどれほどの意味があるのだろうか。“名前”等というものは、識別が出来れば十分で、だから彼にとって“
――今、この瞬間までは。
「『ヒロ』」
少女は、優しい眼差しを彼へと向けて、その名を呼んだ。
「“
「ひ……ろ……?」
「うん。そうだよ、ヒロくん」
『ヒロ』。そう呼ばれて、少年はなんだかソワソワした。
“
「この名前、ただの語呂合わせじゃないんだよ?」
そんな少年を知ってか知らずか、アツコは笑顔を絶やさない。
「いつの日か話してくれた、“外の世界”のお話に出てくる。ヒロくんの憧れの事も考えたんだ」
それは、ヒロが一番大好きな思い出。
颯爽と現れて、誰かの為にその身をかけて悪を砕く――。
「――正義のヒーロー。大好きだもんね」
「え……あ……、うん」
「ヒロくんなら、きっと成れるよ。大きくなったら、きっと立派な、正義のヒーローになれる」
アツコは、心の底から嬉しそうに、弾んだ声で彼に伝える。
「だから、『ヒロ』なの。……どう、かな?」
きっとそれは、いつか、もしかしたらとアツコが頭の片隅で考えていた“贈り物”。
そんなものを、突然受け取った少年は――。
「――ヒロ」
「うん。ヒロくん」
「俺は、ヒロ」
「そうだよ。君が、ヒロくん」
「俺の、俺の、名前は――」
そうして、『ヒロ』は、目を輝かせてその名を口にする。
「――『ヒロ』だ……!」
産まれて初めて、大切な人から贈られた。特別な『名前』を、自分につけて。彼は弾んだ心で、そう言った。
「ありがとう、アツコ。俺、この名前、大切にするよ。絶対、忘れない」
「ふふっ……。喜んでくれて嬉しい。……でも、自分の名前を忘れるなんて、普通はないから、大丈夫だよ」
「それでも、忘れたくないんだ」
ヒロは、興奮した様子でアツコの手を取り、その目をまっすぐに見つめる。
「ありがとう、アツコ」
「……うん、どういたしまして」
つられてなんだか恥ずかしくなってしまったアツコは、自分の頬が熱くなるのを感じながら、けれど、ソレが悪いようには思わなかった。
「――こうして、一人の少年は。『ヒロ』という名前をお姫様から贈られたのでした……なんて」
まるでお伽噺でも話していたかの調子で、自分と『ヒロ』の思い出話を締めたアツコは、にこやかに彼の方を見る。
「どう?すこしは思い出した?」
「……」
視線を向けられた男は、伏し目がちに視線をそらし、少し呼吸をおいてから……小さく首を横に振る。
「いや。俺が覚えているのは、“
「…………そっか」
悲しむと。傷付くとわかっていても――嘘は、吐けなかった。
「すまな――」
「大丈夫だよ」
彼の謝罪を、アツコは遮るようにしてその手を握る。
不意に手を掴まれて、視線が引き寄せられる。
「約束は、破ってないから」
「……約束?」
「うん。約束」
眼の前の少女の、宝石のような、赤く輝くその瞳に。視線が吸い込まれていった。
「大事な。私達二人の約束だよ」
曇りのないその眼で見上げられ、彼は小さく息を呑む。
「……さっきの話の“外の世界”か?だとしても、それは――」
「ううん。ちがうよ」
「なら」
それは何かと問おうとしたその口へ、少女は静かに人差し指を押し付けた。
そうして口を閉ざした彼を見て、少女はくすくすと笑みをこぼしながら小さく笑い、掴んでいた彼の手を離して、一歩後へ。
「ナイショ♪」
小さく笑うその口に、人差し指を添えながら。悪戯好きの子供のようにそう告げて。くるりとその身を翻す。
白いコートが、ふわりと舞った。
「私、ご飯の支度してくるね」
その場の誰もがそんな彼女の仕草に言葉を失う中、アツコは一人、上機嫌な様子でその場を後にする。
「……ヒヨリ、私達もいくよ」
「えっ。あっ、はい」
アツコを一人にするわけには。と、ミサキがヒヨリを連れて彼女の後を追う。
サオリとタカツキだけが、その場に残された。
「…………約束」
タカツキは、まだアツコの手の温もりの残る、自分の掌を見つめて、ぼんやりと呟いた。
「姫……アツコは」
そんなサオリの声に、タカツキは彼女の方へ振り返る。
「昔、私達に良くいろいろな話をしてくれた。……それは、“ヒロ”が教えてくれた話だと、笑いながら」
「だから、“ヒロ”を知ってたんだな」
「会ったことはないがな」
サオリは、遠い過去を思い起こすように天井を見上げる。
「私達が知っているのは、“ヒロ”という少年が、アツコにとって特別で、大切だと言うことだけだ。その少年が一体どんな見た目で、どんな声で、何をしていたかは何も知らない」
「……“ヒロ”は、どうなったんだ?」
「さあな。アツコは、彼との別れの時の話だけはしてくれない。どうして彼が我々……アツコの前に現れなくなったのか。それを知っているのは、アツコだけだ」
サオリは、静かにタカツキを見た。
「だが、予想はつく」
「予想?」
「マダムの“実験”が関わっているのだろう。……彼女が企んでいることの全てを計り知る事はできないが、それでも、その断片程度は私達でも知っている」
「“血”だ」
「……“血”?」
「ああ。マダムは“血”に関する何らかの研究をしていたらしい。それも、特別な“血”に関するものだ」
「特別な“血”……」
“血”と聞いて、タカツキが最初に思い浮かべたのは、己の通り名だった。
――夜のトリニティには、吸血鬼がでる。
タカツキは、たしかにそう呼ばれていた。
「マダムがアツコの“血”を使って何を企んでいるのかは知らないが。アツコには代わりになるような存在が居ない。特別なんだ」
それが、アツコが“姫”と呼ばれる理由。本来であれば、顔も声も悟らせぬ為に仮面をつけて、手話での会話を強いられていたのは、彼女の力のみを運用し続けるためのものだ。
そうして、逃げる彼女達を、決してマダムが逃がそうとしない理由。
「そんな存在を“実験”に使えると思うか?」
「……なるほどな。それで、“
被検体番号16。それはつまり、“ヒロ”と呼ばれた彼より前に、15の被検体がいた事を示す。
だとしたら、その15人は一体何処へ?などという想像の結末は、そう難しくはない。
「私はオマエが“ヒロ”とは、認めていない」
サオリは、タカツキを見ていた。
「私達を……アツコを助けてくれる事は感謝している。“トリニティの吸血鬼”であるオマエが、私達を裏切ったところで何の意味もない事から、ある程度の信用もある」
だが。
「それでも、私には“ヒロ”が生きていた。などとは思えない。……キヴォトスの外に生きる人間は、我々よりも遥かに脆い。そんな人間の、まして幼い子供が偶然生きているなどと言うのは、あり得ない。奇跡だ」
「……同感だな。死んで、そんで極めつけに蘇りでもしたんなら、それはもう禁忌の“
サオリの言葉に、タカツキは肩を竦めて首を振る。
「安心しろよ。だから俺は、“
乾いた笑いを浮かべるタカツキに、サオリは静かにキャップのつばを掴んで、目深に下ろす。
「……そうだな」
その表情は、伺えなかった。