楽園があるとするなら。それは少なくとも此処じゃない。
“エデン条約”という単語を聞いて、タカツキが最初に思ったのは、そんな事だった。
「
タカツキは、トリニティの街をいつものように、両手をジャージのポケットに突っ込んだままパトロールしつつ、呆れたように呟いた。
「長きに渡るトリニティとゲヘナの因縁を終わらせるための取り決めに関わる事です。相応の混乱や不平不満は出てくるのも仕方が無いのでしょう」
そんな彼の隣を歩くスズミは、僅かな苦笑を浮かべてフォローの言葉をかけた。
「何事にしても、“変化”には痛みを伴うモンだからな」
「そうですね。ですが、私個人としては……平和に向かうのであれば、良い試みであると思います」
スズミが通っている、“トリニティ総合学園”の宿敵とも言える学校、それが“ゲヘナ学園”である。
両校の間には古くからの因縁があり、そこには深い溝が存在していたが、長い時を経て初めてお互いに歩み寄りを果たそうというのが、“エデン条約”の概要であった。
トリニティには、ゲヘナを忌み嫌う生徒や派閥が少なくない。そんな彼女達にとっては、この“エデン条約”が望ましくない約束事であることは間違い無い。これまで喧嘩をしていた嫌いな相手と、握手をしたからと言って『はいこれで仲直り』とはいかないのが、人間関係と言うものだ。
故に、ここ数日の間、トリニティのティーパーティーを中心とした何らかの一悶着があった……らしい。
らしい。というのは、対外的にはその情報が公開されていない為だった。
しかし。ティーパーティーの内部の問題ともなれば、トリニティの公的治安組織である“正義実現委員会”は対応せざるを得ず、そちらに人員を割くということは当然、市井の治安に割く人手が減るということでもある。
つまるところ、それは“自警団”にとって無関係な問題とは言いがたかった。
その為、自警団の内、トリニティの情報に詳しい生徒が独自に調査を進めた結果……、“ティーパーティー”の一人、“聖園ミカ”がクーデターを起こしたらしい。と言うことが判明した、というのが今回で言うところの“いざこざ”の概要である。
「和平を拒む理由……。私には、理解しかねる所です。どんな理由があるとしても、平和に勝ることは無い。と、思うのですが……」
「さあな。誰が何を感じて、考えてるかなんざ解り様もないが……、一つだけ言えることがあるな」
「言える事?」
タカツキの言葉に、スズミが首を傾げて彼を見上げた。
「“嫌悪”は理性を凌駕する。って事だろ。例外はあるみたいだがな?」
そんな言葉とともに、意味深な視線を向けられ、スズミは眉間にシワを寄せた。
「…………タカツキ」
「ハハハッ。ジョーダンだよ」
ジョークにしては、後ろ暗い要素が含まれすぎだと咎められたタカツキは、そんなスズミの視線を笑って躱す。
そんなタカツキの様子に、スズミは観念したように深くため息をついて、視線を前へと戻した。
「いずれにせよ。政治に執心な方々にとって、市井の人々の安寧は後回しになる。と言うことなのでしょうか……」
スズミは、小さく首を振った。
「大事の前の小事。とは言いますが……思うところがないと思えば、嘘になりますね」
「その為の“自警団”って話だろ」
思い悩んだ様子のスズミに、タカツキは敢えて少しばかり語気を強めて語りかける。
「だから、最近は俺もこうして朝から自警団活動に加わってるんだ。お偉方にはお偉方の、俺達には俺達の、やるべき事を果たすしかねぇってことだ」
「……タカツキの言う通り、ですね。私がここで何かを考えたところで、大局が変わるわけでも、眼の前の危険を退けられる訳ではありません」
「そういう事。それに――」
チラリ。と、タカツキは通り過ぎる傍らにあった路地裏へと視線を向ける。
「何かありましたか?」
「……いいや。なにも」
スズミが追ったタカツキの視線の先には、確かに不自然なものは何も無い。
路地裏は人の目が届きにくく、それ故に人気の多い道に比べて治安も悪くなるものだ。そこに気を払っているのだろうと解釈したスズミは、タカツキのその視線の意味を考えるのをそこで打ち切った。
「しかし、どうにも今日は人が多いな。平日だろ、学校は無いのか?」
「……すみません。言い損ねていました。今日が“エデン条約”の調印式の日なのです」
「あァん?」
どういう事だと言わんばかりに細めた眼を、タカツキに向けられたスズミは、静かに視線を逸らす。
「ティーパーティーの方針で、エデン条約の調印式を華々しいイベントにしたいらしく……今日はトリニティの学校は休校日となっているのです」
スズミの言葉を受けて、タカツキは改めて周囲の様子を伺った。
彼らがいる場所は、トリニティ自治区の中心地からはいくらか離れた場所であり、目立つレジャー施設がない代わりに、いくらかの洒落たカフェがあるような場所だった。
普段から人通りが多くない場所であるはずのカフェの様子を覗いてみれば、そのいずれもが客で賑わっている事が見て取れた。
「それでこのお祭り騒ぎか。これだけ浮足立ってりゃ、妙な犯罪も増えそうなもんだがな」
「同感です。ですが、平和に浮かれる余裕があるというのは、良いことだと思いますよ」
「俺にゃあ、“
「タカツキ」
「へいへい……」
タカツキの皮肉屋は今に始まった事ではない。元より、マトモな生活は送ってきていないのだ、多少性根がひん曲がっているのは、スズミにも理解がある。それに、彼の不満は市井のアレコレを憂いての物が多く、それが彼の優しさが捻くれた形で表出しているものである事は、言うまでもなかった。
「まったく……。できるだけ早く先生に相談したいところです」
「センセイ?……あぁ、シャーレの」
「エデン条約については、先生も関与しているらしく、今日も調印式の来賓として現場にいらっしゃるそうです。それもあってここ数日は忙しそうにしていましたよ」
「ふーん。それで連日俺とパトロールしてたって訳か」
「当番も見送られていますからね。……先生は立派な方ですから、きっとタカツキの体質についても力になってくれますから、早く紹介できると良いのですが」
「あっそ」
ふい。とそっぽを向くタカツキ。
なんだか急にそっけなくなったタカツキの様子に、スズミは少し首を傾げ、その顔を覗き込もうとして、一つの説に思い至った。
「……タカツキ。もしかして――」
「そういや、その話題のエデン条約の調印式ってのはどこでやるんだ?」
スズミの言葉に被せるようにして、タカツキは少し大きめの声でそんな事を言う。
随分とわかりやすい“逃げ”だと、思わずスズミは苦笑をこぼす。
「通功の古聖堂と呼ばれる場所です。古くは、第一回公会議が行われたトリニティにとっての由緒正しい場所で……ほら、見てください」
何かを思いついたらしいスズミは、懐から取り出したスマートフォンを操作して、その画面をタカツキの方へと差し出した。
「どれどれ?」
タカツキが少し上体を折り曲げるようにして、その画面を覗き込むと、そこには何やらニュース番組のような物が映し出されていた。
スマートフォンか、便利そうで羨ましいな。なんて、そんな事を頭の片隅で考えながらタカツキはスズミに示された画面を見つめる。そこでは、一人のレポーターの少女が今回のエデン条約に関する情報を伝えながら、その背後には大きく白い、まるで巨城のような白い建造物が映っていた。
「大分古いな。俺の家のデカいヤツみたいな感じか」
「タカツキの
画面をしばらく見ようとして、立ち止まる為に道の脇へと寄りながら、二人はそんな他愛のない会話を交わす。
『画面の向こうの、関係のないもの』そんな認識が、二人の中には、確かに存在していた。
――今、この瞬間までは。
「……なんだ?」
耳に小さな違和を捉えたタカツキが、視線をふと上へと上げる。
コォォォォォッ!と、何かが空を裂いて飛んでいた。
瞬間。
世界が。
「……ッ!?」
日常が。
「タカツキ!画面を!」
一瞬にして――
『――一体、何が起きたのでしょう……!?突然の爆発が――』
――火と、血に染まる。
「今の……ミサイル!?攻撃、誰が、何処からッ!」
スズミのスマートフォンの画面は、一変していた。
激しい揺れと、轟音を流し。次の瞬間にはその視界は地獄の様相となっていた。
壁は崩れ、塔は燃え、悲鳴と怒号があたりに響く。
外観を映すために建物から離れていたリポーターは、直撃を逃れ、大事には至っていなかったらしい。とにかく、現場の混乱をまとまりのない言葉で並び立てるばかりだった。
「――チッ!!」
タカツキは、すぐさま駆け出していた。
「タカツキ!何処へ!」
「着弾地点だ!」
駆け出したタカツキを止めるため、スズミがその腕を掴む。
「離せ!今は時間が惜しい!」
「落ち着いてください、今貴方があの場に行ったところで、何ができるのですか!」
「第二波が来るなら、今なんだよ!」
タカツキは、スズミの方へと振り返り、言葉を荒げる。
「エデン条約を阻害するのが目的としか思えない攻撃。だが、殲滅が目的なら間髪入れずに次が来る。奇襲で混乱を呼んだなら、後はゲリラで現地の頭を確実に抑えるだけで良い!その状況でトリニティはまともに動ける組織なのか!?」
「それは……」
「この場で唯一、俺は“
タカツキの言葉のすべてが正しいとは、スズミも考えてはいない。だが、すべてが的外れだとも思えなかった。
「なら、自警団が……」
「自警団は学園の混乱を収めるべきだ。俺には学園の都合がわからない。部外者がとやかく言った所で生徒の奴らは納得しない」
「…………」
情報が錯綜し、混乱の広まった今。危険なのは現場である古聖堂だけではない。そして、そんな彼らの不安に寄り添える組織は……“自警団”しか無かった。
「です、が……」
「大丈夫だ。約束する」
不安そうに己を見つめる彼女の眼を、彼は強い瞳で真っ直ぐに見つめた。
「必ず帰ってくる。必ずだ」
その言葉に、少女は。一瞬の躊躇いの後……掴んでいた彼の腕を離し、そして、両手でゆっくりとその手のひらを包んだ。
「おい……!」
「餞別です」
肉体に直接触れたことで、スズミの神秘がタカツキへと吸われてゆく。
今はそれで、良かった。
「私は貴方と共にいます。……約束、ですからね」
揺れていたはずの少女の瞳は、いつの間にか力強くタカツキを見上げている。
時間にして数秒の接触。けれど、十分だった。
タカツキは、離れた彼女の手の温もりが己の身体に残っている事を感じながら、再び足を踏み出した。
「――学園のほうは、任せるぞ」
振り返らずに、言葉を残してタカツキは戦場へと駆け出した。
ぐんぐんと遠のいてゆき、雑踏の中へと消えゆく彼の背中を見つめ、スズミは小さく息を整えた。
「……行きましょう。“自警団”の、すべきことを果たす為に」
それぞれの戦いが、始まる。