士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
後悔は多分これからすると思う。
四月の夜、雑居ビルが立ち並ぶ通りに、一台のタクシーが停まった。
時刻は午後十一時前。
今日は休日なのも相まって、周囲にはほとんど人の気配がない。
そこに男が一人、タクシーから降り立った。
足取りは怪しく、実際にシートから立ち上がるのに失敗して、一度転びかけていた。
締りのないその表情は、ほんのり赤く色づいている。
飲み会帰りのその男――穂村士道は、すっかり出来上がっていた。
「すいませーん、ここらでらいじょーぶです」
「言ってた住所まで距離あるけど、本当に大丈夫?」
「あははー、腹ごなしの散歩っつーの? とにかくしょんな感じれー」
「はいはい、お代は一五五〇円ね」
酔っぱらいの相手は面倒と見たのか、タクシーは勘定を済ませると足早に去っていった。
残された士道は、夜風の冷たさを気にかけることなく歩き出す。
自宅からは見当外れな方向だが、それを咎めるものは本人含めて誰もいない。
気の赴くまま、目的地も定まらないまま歩き続ける。
散歩といえば聞こえはいいが、前後のあやふやな酔っぱらいがやると彷徨や徘徊の類である。
そしてどれくらい歩いたのか、前から同じようにフラフラと歩く人影――見たところ成人女性。
飲み会帰りのご同輩か、などと呑気にすれ違おうとしたが、いや待てと思い直す。
こんな夜中に女性の一人歩き……考えるまでもなく危険だ。
士道は特別な正義感を持ち合わせているわけではない。
しかし、これまで生きてきた中で、良識を蔑ろにしたことはない。
それは、頭にアルコールが回ろうとも揺らぐことはない彼の善性だ。
どこまで関与するかはさて置き、声かけぐらいはしておくべきだろう。
ただ、この時の彼は、やっぱりすっかり出来上がっていたのだ。
「へーい彼女! せっかくらし、今から俺とお茶れもどーらい?」
「……この時間にかい?」
街灯の下でキョトンと首を傾げる見知らぬ彼女は、まるで女神のようだ。
自分が何を口走ったか理解するよりも前に、士道はフワフワの頭でそんなことを考えていた。
『ごめんね、一緒にいてあげられなくて』
一面の白い世界の中で、遠い記憶が呼び起こされる。
小さな自分の手を握る暖かい誰かの手に、悲しみを含んだ声音。
幼い身では何も言うことが、そもそも言葉を発することができない。
文字通り赤子の体では、ただ泣くことしかできなかった。
やがて暖かな手が離れていく。
別れの時が来たのだと悟る。
せめて夢の中でぐらい振り向いて欲しいと思うものの、どうにもままならない。
伸ばした手は届かず、背中は遠ざかっていくだけ。
視界がぼやけ、白い世界の輪郭が曖昧になる。
これは幾度となく経験した夢の終わりだ。
起きた時には、この夢の記憶も薄れているだろう。
そしてまた一人、訳も分からずに涙を流すのだろう。
「待って、待ってくれよ――――」
意識が薄れゆく最中、伸ばした手は見慣れた大きさに、そして口からははっきりと言葉が出た。
けれどあの人は振り返らない。
そもそもこのぼやけた視界では、そこにいるのかも定かではない。
「かあ、さん……」
懇願するように絞り出した声はどこにも届くことはない。
なんてことはない……この絶望も諦念も、起きたら露と消える。
ただ、胸の中に空虚を残すだけ。
浮き上がる感覚、夢から覚める兆候。
完全に意識が途絶える寸前に――――
――久しぶり。
――また、こうして触れ合えたね、■■■。
――でも、もう少し、もう少しだけ待っていて。
――もう絶対離さない。もう絶対間違わない。
――だから、どうか私を……
慈しむように、悔いるように、そして懇願するように。
躊躇いがちに握られた手の温もりは、ずっと求めていたものだった。
「…………んあ?」
茫洋とした意識が、現実に浮上する。
驚くほど間抜けな声が出たが、起き抜けなんてこんなものだろう。
気怠さに任せてもう少しこのまま惰眠を貪りたいところだが、今日の予定はどうだったろうか。
そもそも昨日どうやって寝床についたのかさえ定かではない。
頭を働かせようとすると鈍い痛みがわだかまり、どうにも思考が晴れなかった。
この調子では、姉に最早耄碌したのかと笑われてしまう。
(あー、士道士道、穂村士道……うん、自分の名前は大丈夫だな)
まずは思考に取っ掛りを作って、それを更に広げていく。
就職、教師、来禅高校、就職祝い、飲み会。
直近のキーワードを並べ立てて、士道は昨夜のことを思い出した。
海外に出張予定の姉夫婦が、自分のために祝いの席を用意してくれたのだと。
となれば、この頭に響く鈍痛は二日酔いによるものだろう。
これでは寝る前の記憶がないのも納得だった。
今は何時だろうと携帯を手繰り寄せようとしたが、どうにも右手が動かない。
目を向けると、見知らぬ美人がすぐ隣に横たわっていた。
「えっ、まっ、ちょっ――――」
「マッチョ……ふむ、所謂筋肉質な体型を指す言葉だね。君の体は程よく引き締まっている。俗に言う細マッチョというやつかな?」
見知らぬ美人は士道の右手を取りながら、士道の体の品評をしていた。
そこでようやく、自分が全裸であることに気がついた。
ベッドのシーツで覆われてはいるものの、明らかに裸の感触だった。
混乱と焦りでじわりと汗が滲んでくる。
(一体どうしてこんな状況に……)
恐る恐る、再び見知らぬ美人へと目を向ける。
眠たげな目元に深いクマ、不健康そうな顔色だが、それらを差し引いて余りあるほど美しい。
ベッドの上に無造作に散らばった長い髪、シーツに包まれた起伏のはっきりとした曲線。
かろうじて隠された胸元には、白く深い谷間があった。
つまり自分と同じように彼女も……
「らっ……裸裸裸裸裸ぁああ!?」
「起き抜けに歌唱かい? 元気そうでなにより。昨夜は酷く酩酊していたから心配していたんだ」
正直に言えば、女性特有の丸っこい体のラインは見慣れている。
しかしこれは状況も相まって淫靡さが段違いだった。
今だに混乱は続くものの、酩酊という言葉で頭痛と共に士道の記憶が呼び起こされる。
そう、昨夜は少し遅めの就職祝いで、羽目を外して飲みまくっていたのだ。
飲みまくっていたというより、飲まされていたというのが正しいか。
姉という生き物はやはり横暴なのだと思い知った覚えがある。
結果としてハイになって見知らぬ美人……つまり彼女に声をかけたところまでは思い出せた。
そして状況証拠から見るに、やはりヤってしまったのだろう。
「ふふ……そんなに見つめられると、少し恥ずかしいね」
「~~~~っ」
その眠たげな微笑みに、堪らず顔を逸らす。
正しく目の毒だった。
これに耐えられる男が、一体この世にどれほどいるのだろうか。
正視していたら、とてもじゃないが我慢していられる自信はない。
そして同時に後悔も湧き上がってくる。
この穂村士道、生まれて二十数年恋人ができたことはなく、当然の如く童貞だった。
初めての相手がこんな綺麗な女性だったと言うのは、率直に言ってものすごく光栄だ。
だが悲しいことに、先ほど起きるまでの記憶が飛んでいるため、まったく実感がないのだ。
士道は心の中で両手両膝を地面についた。
まさかただ介抱されていただけなのでは……そんなオチすら思い浮かんできてしまう。
「あ、あの……昨夜は、その」
「ああ、気にしなくてもいいよ。私も性行為は久しぶりだったからね」
「そ、そうですか……」
内心でガッツポーズを取る。
中学時代は黒歴史で恋人が作れず、高校時代もまた別の黒歴史で恋人が作れなかった。
更に振り返ってみれば、小学校時代の初恋も気が違ってたとしか思えないようなもので、まさに真っ黒な青春だった、黒歴史だけに。
社会に出てみれば、最初の職場では変態上司のせいで女性に蔑視され、浮いた話は一切なし。
そして教師を目指して大学に入れば、バイトと勉強の日々でそんな余裕はなかった。
今日に至るまでそこまでがっついていたわけではないが、無関心だったわけでもない。
士道にも「出来れば彼女が欲しいなー」ぐらいの気持ちは常にあったのだ。
そんな自分が、こんな女性と……思わず涙ぐんでしまう。
そこでふと疑問がわく。
どうしてこの人は、自分なんかの相手をしてくれたのだろう、と。
これほどの美人が相手では、まだ美人局だったという方が納得できそうだ。
「あんなに熱烈に口説いてきた君が、それを聞くのかい?」
「一体俺、なんて言ってたんです?」
「良ければ再現してみようか?」
「いえ、やっぱ勘弁してください……」
聞いてしまえば黒歴史が増える予感しかしなかった。
心の平穏のために、知らなくてもいいことはそのままにしておこう。
ここで重要なのはそう、魔法使いにならずに済んだということだ。
「まあ、強いて言うのなら……君が私の好みだったから、かな?」
完璧に不意打ちだった。
状況の理解が進んでようやく混乱から脱したというのに、今度は顔が熱くて仕方がない。
握られた手はきっと、汗でひどいことになっているだろう。
不快に思われてはいないだろうか。
そもそも、どうして彼女は自分の手をずっと握っているのだろうか。
「あの、そろそろ手、いいですか?」
「もういいのかい?」
「はい?」
「寝ている間も、ずっと握って欲しそうにしていたからね」
そう言って目を伏せた彼女は、まるで赤子を慈しむように士道の手に頬を擦り付けた。
その感触だけで、右手の手汗や不自由さなんてどうでも良くなってしまった。
もっとこの時間が続けば――――いっそ止まってしまえばいい。
何もかも忘れて、この人に抱かれて眠りにつきたい。
そんな欲求さえ湧き上がってきてしまう。
しかし鳴り響いた携帯のコール音がそれを許さない。
聞き慣れないものなので、士道のものではない。
右手から伝わる温もりはあっさりと離れ、代わりに触れた空気はいやに冷たかった。
この世に神様が存在するとしたら、それはきっと天邪鬼な性格をしているに違いない。
「……ん、済まない、呼び出しだ。先に失礼させてもらうよ」
「あのっ」
「チェックアウトまでまだ時間があるから、ゆっくりするといい」
脱ぎ散らかされた衣服を身につけると、彼女はそのまま部屋の出口へ。
その光景が何かに重なり、思わず手を伸ばしてしまった。
言い知れない心細さから、そうせざるを得なかった。
「じゃあ、またね」
振り返ってそれだけ言うと、彼女は部屋から出ていった。
その際に見せた寂しそうな微笑みが、士道の頭に焼きついて離れなかった。
連絡先はおろか、名前さえも知らない。
ましてや再会を保証するものなんて何もない。
言ってしまえば行きずりの相手だ。
だというのに、この安心感は、胸の高鳴りはなんだというのか。
ベッドに仰向けに倒れる。
見知らぬ天井が視界に入り、今更ながらに自分の家ではないことに気がついた。
彼女について知らないことはあまりにも多い。
ただ一つ、わかったことと言えば……
「ヤバい……完っ全に惚れた」
「~~♪」
お城のような建物から出て、浮かれた気分のまま帰路を歩く。
正しく生まれ変わった気分だった。
小鳥のさえずりも春のうららかな日差しも、全てが祝福してくれているように感じられた。
自分が今、恋をしているのだとはっきりと自覚することができた。
初恋……はアレなので除外するとして、こんなに浮かれているのはいつ以来だろうか。
それこそ、黒く塗りつぶされた青春が蘇ったと思ってしまうほどに。
名前も知らないあの人のことを想うだけで、新しい環境への不安や緊張も消えていく。
どこか夢見心地のまま、士道は幸せというものを噛み締めた。
「あー……」
しかし、たった一つの着信音で現実に引き戻されてしまった。
気分はまさに天から急降下。
誰からかなんて見なくてもわかる。
他の人と区別するために、わざわざ設定して着信音を変えているのだ。
正直に言うと出たくはないが、出なければ相手がどんな手段に訴えてくるかがわからない。
士道の人生を破滅させかねない程の秘密を、相手は握っている……!
「……もしもし――――」
『出るのがおっそーい!』
年甲斐もなくハイテンションな声が、容赦なく耳をつんざいた。
五河遥子……もう結婚して姓は変わっているが、士道の姉だ。
しかし既に四十を過ぎているというのに、どれだけやかましいんだこのクソ姉貴。
そんな悪態が出そうになるところを、どうにか押さえ込んだ。
「ちょっと手が離せなかっただけだよ」
『あんた、出たくないとか思ってたでしょ』
「なんでもいいだろ。今こうして出てるわけだし」
『ま、中学校時代のノートはこっちにあるしねー』
「くっ……!」
電話の向こうでケラケラと笑っているが、士道は手の震えと動悸が止まらなかった。
中学校時代のノート……つまり黒歴史の塊。
そんなものを握られているせいで、おいそれと逆らうことができないのだ。
「……もう向こうに発つんだろ? 兄さんは?」
『たっくんなら寝てるわよ。昨日はしゃぎすぎたみたいね』
五河竜雄……遥子の夫であり、士道の義理の兄だ。
昨日の祝いの場では、教職についた事をまるで自分のことのように喜んでくれた。
昔から世話になり通しで、頭が上がらない相手だ。
『私たちがいない間、ことちゃんのことよろしくね』
「当たり前だろ。……で、まだ何かあるのか?」
『なによー、一応心配して電話かけたのに。昨日帰るときはフラフラだったじゃない』
「あれだけ飲ませた張本人が言うと説得力が違いますねぇ!」
『あはは、そうだっけー?』
ふざけるなと言いたいが、あれだけ酔っていなければ士道は未だに童貞だったかもしれない。
そう考えると感謝しなければいけない気にもなってくる。
それでも士道は、この姉がキューピッドだなんて死んでも思いたくなかった。
なのでここはプラマイゼロで手を打つことにした。
『ま、これから頑張んなさいよ、しーくん』
「……わかってるよ」
『じゃ、何かあったらすぐ連絡しなさいよねー』
一般的な兄弟と比べると少々年が離れているからか、いつまでも子供扱いが抜けない。
だけど、それ程に世話になってきたのもまた事実なわけで。
だから今みたいに『しーくん』なんて呼ばれてしまうと、すっかり毒気を抜かれてしまう。
「狙ってやってるんだったら最悪だな……」
通話の切れた携帯に向かって、士道は一人つぶやくのだった。
「――待たせたわね」
少女が室内に入ると、その場にいる者たちが一斉に立ち上がって敬礼した。
一様に軍服にも見える制服に身を包んだ大人たちだ。
それに対するは、黒いリボンで左右の髪を括った年端もいかない少女である。
色違いの制服や、肩にジャケットを羽織るだけの着崩しが、更にこの光景の異様さを訴える。
不要とでも言うように少女が手をひらひらとさせると、皆すぐにもとの姿勢に戻った。
数段高い位置に設えられた席に腰掛けると、チュッパチャプスの包装を解いて口に咥える。
「状況は?」
「つい先ほど、天宮市西部地区に空間震が発生、及び〈プリンセス〉が出現しました」
「それを受けてASTが出動、そのまま交戦状態に突入して現在に至ります」
「そ、つまりいつもどおりね」
部屋の中央の巨大なスクリーンには、まるで映画のような光景が映し出されている。
機械の鎧で身を固め、空を飛びながら銃火器を放つ人間。
不思議な輝きを放つ光のドレスを身に纏い、幅広の大剣でそれを迎え撃つ少女。
降り注ぐミサイルが轟音と共に凄まじい爆発と煙を巻き起こし、澄んだ響きと共に放たれた剣閃がそれを真っ二つに断ち切る。
これは妄想でもなければCGなどでもなく、現実に起こっている出来事だった。
「それにしても、最近多いわね。前はいつだったかしら?」
「前回は三週間前、前々回はその一ヶ月前。段々と現界頻度が高まっているね」
眠たげな目をした女性が少女の問いに答えた。
いつも通り目の下を分厚いクマで彩っている彼女だが、今日はどことなくすっきりしているように見えるのは気のせいだろうか。
「そうね……そろそろ、私たちも次の段階に移るべきかしら」
「……というと、ついに彼を?」
「ええ、彼ならばきっとやってくれるでしょう」
少女の背後に控えていた長髪の男性が、前に出て腕を組みながら大仰に頷く。
次の瞬間には、なんでお前が答えるのか、と脛を蹴られて喜びの悲鳴を上げていた。
悶えながらも体をくねくねさせるその様は、正に変態の一言。
異様な光景ではあるが、他の者たちは呆れるような目を向けるだけだ。
これが日常茶飯事なのだろう。
「このまま情報を集めるわ。解析をお願い」
少女の言葉に、皆が目の前のモニターに意識を集中させた。
武力ではなく、愛をもって未曾有の天災を鎮める。
いわばこれは、そのための戦いの前準備なのだ。
少女は唇の端を上げて呟いた。
「さぁ、私達の戦争(デート)が始まるわよ」
「っと、こんなとこだな」
物がなくなった室内は声がよく響く。
ドラム型のバッグの口を閉じて一息。
お城のような建物から帰宅した士道は、引越しの最終チェックを行っていた。
昨日の内に荷物の運びだしは済んでいるため、残ったものは細々したものだけ。
それらを詰め込めば、後はここを発つのみだ。
「それにしても、もう五年か……」
今日引き払うこの部屋は、大学時代も含めておよそ五年間住んでいたことになる。
こうして離れることになると、少なからず寂寥感が募る。
忙しい日々だったが、確かに充実していた。
色恋沙汰とは縁遠かった事に目をつぶれば、いささか遅い青春だったと言えるのかもしれない。
引越し先が姉夫婦の家なのは少々格好がつかないが、これにはもちろん事情がある。
遥子と竜雄は仕事の関係上、割と頻繁に海外出張に赴かなければならない。
その間は五河琴里……二人の娘である彼女は、家に一人取り残されることになる。
当然心配でないわけはなく、以前からも折を見て様子を見に行っていたのだが、この際だから一緒に住んでしまえということである。
これは五河夫妻からの提案であり、幸いな事に琴里は士道によく懐いてくれていた。
そのため反対意見はなく、後は本人の気持ち次第。
若干抵抗の意識はあったものの、士道はその提案を受け入れた。
可愛い姪のためならば、ちっぽけなプライドなど問題にならないのだ。
「それじゃあ、今までお世話になりました」
大家さんに挨拶して鍵を返却すると、士道は愛車に跨った。
通っていた大学がやや遠かったため、移動用にこさえたバイクである。
今日までの住居は家賃が安い代わりに、あまり交通の便が良くない物件だったのだ。
決して女子にモテそうだなんて浅はかな思考は微塵も入っていない。
……なんてことはなく、白状するとほんの数ミリはあった。
だがそれも結局は空振りに終わったので、今となっては瑣末な問題だろう。
ともかく、今は人生の新しい局面へと足を踏み入れた直後であり、希望に燃えているのである。
その情熱のままエンジンを吹かすと、士道は五河宅へと出発した。
「――ただいま!」
合鍵で玄関のドアを開けると、士道はドッシリと腰を落として身構えた。
その姿勢はさながら、ピッチャーの投球を捕ろうと構えるキャッチャーの如し。
とびきり元気のいい姪っ子は、いつも弾丸のような突撃で出迎えてくれるのだ。
それを受け止めてワシャワシャしてやるのが、毎回の二人のやりとりだった。
「……あれ、いないのか?」
しかし、いつまで経っても衝撃はやってこない。
よく見ると、玄関には誰の靴もなかった。
アメリカへ発った姉夫婦は当然として、琴里もどこかへ出かけているのだろう。
しゃがみこんだ体勢からそのまま立ち上がると、士道は頬をかいた。
これでは正に一人相撲である。
仮に姉に見られでもしたら、また喜々としてからかってくるのが容易に想像できた。
「……監視カメラとかないよな?」
住人のいない家の玄関先で挙動不審に周囲を警戒するさまは、控えめに見ても不審者だった。
しかしこれは士道にとって死活問題である。
弱みを握られているか否かで、心の平穏具合に大きな影響が出てしまうのだ。
もう既に黒歴史ノートが握られていることは、頭から締め出しておいた。
時には現実逃避が必要なこともある……そういうことなのだ。
ともかく、今日からここが新しい住居になる。
勝手知ったる姉の家ではあるが、一応軽く頭を下げてからその敷居をまたいだ。
そしてそのまま階段を上がり、自分の部屋へ向かう。
琴里がいないのなら、先に片付けを済ませてしまっても構わないだろう。
とはいえ昨日の内にある程度片付けているため、荷解きが終わってないのはダンボール二つ分。
その内の一つには漫画類が入っているはずだ。
読み入ってしまい片付けが滞ることを危惧して、後回しにしていたのだ。
そしてもう一方は、士道の大学時代の推し活のアイテムだ。
こちらは思い出と共にそっとしまっておくつもりなので、開ける予定はない。
若干の寂しさを滲ませつつ持ち上げると、押入れの中に安置しておいた。
次にカッターで漫画類のダンボールを開くと、中身を取り出していく。
漫画類とは言うが、読む娯楽品全般を詰めているので、中には雑誌や小説もある。
種類やシリーズ毎にまとめているので、本棚に収めるのには苦労しないだろう。
しかしながら、それは作業が滞りなく進んだらの話である。
事前に危惧していた通り、とある漫画を手にした時、士道の片付けの手は見事にストップした。
シリーズの一巻目を開き、そのままベッドに座り込む。
こうなればもうどうにもならない。
これは片付けや勉強の合間に現れる恐ろしい魔物なのだ。
士道には最早、時間を無為に浪費することでしか逃れる術はない。
そうしてたっぷりと時間をかけて既刊を全て読み終えるころには、すっかり昼を過ぎていた。
朝食もまともに摂っていないので、流石に空腹も限界だった。
本棚に読み終えた漫画を収め、その背表紙を撫でる。
『SILVER BULLET 本条蒼二』
士道の高校時代に連載を開始したその漫画は、五年前からめっきりペースが落ちこんでしまったものの、まだ連載は続いている。
それは少し苦い記憶を想起させるものではあるが、同時に確かな救いでもある。
とにもかくにも、今は食料の調達だ。
冷蔵庫を覗いてみて何もないようなら、買い物に行かなければならないだろう。
夕食も冷蔵庫の中身次第だが、琴里の好物であるハンバーグを作るのもいいかもしれない。
姪っ子のキラキラした目を思い浮かべながら、士道は階段を下りていった。
「ひき肉に玉ねぎっと、後は……」
昼食をファストフードで適当に済ませた士道は、近所のスーパーを訪れていた。
目的はもちろん、夕飯の材料である。
家を出る前に冷蔵庫の中身を確認しつつ、琴里に夕食のリクエストを募ったところ、
『ハンバーグ!』
と秒で返ってきたのだ。
案の定というか、素直すぎる返信には思わず頬も綻ぶというもの。
ここは一人暮らしで培った料理の腕の見せどころである。
心の中で腕まくりをしていると、メッセージの通知音が鳴った。
夕飯の追加注文だろうかと、携帯をポケットから取り出す。
『私が来た!!』
「……なんだこりゃ?」
どこぞのヒーローの決め台詞のようなメッセージだった。
送り主は琴里……大方、最近読んでいる漫画にでも影響されたのだろう。
ここは『僕がいる』、あるいは『俺が来た』とでも返しておけばいいか。
返信を打つために指を動かそうとして、そこでようやく士道の勘が仕事をした。
即座に背後を振り返ると、既に姪弾丸(メイブリット)は放たれた後だった。
「しーくぅぅぅぅぅんっ!!」
「ぐふっ!」
「あははは! ぐふだって! 陸戦用だー!」
衝撃のコトリ・ブリットをモロに受け、士道は悶えた。
適当に済ませた昼飯がリバースしてきそうな威力だった。
ドングリのように丸っこい目、白いリボンで括ったツインテール。
通り魔的なタックルの下手人は、士道の姪である琴里だった。
レスリングでもやらせれば、将来は姪弾丸の琴里として名を馳せるかもしれない。
しかし、このままやられっぱなしというわけにはいかない。
飛びついてきた琴里をがっちりホールドして、士道は反撃を開始した。
「よーしよしよしよしよし、ういやつめー」
「わー♪」
猫を可愛がるように頭や背中を撫でてやると、琴里は声を弾ませた。
それどころか、アゴ下をくすぐってやるとゴロゴロ言い出す始末。
このように士道が琴里を猫可愛がりするのは、五河家ではお馴染みの光景である。
しかし、ここはご近所のスーパーなのだ。
猫吸いならぬ琴里吸いまで敢行しようとして、店内放送がいやに響いていることに気がついた。
顔を上げてみると、周囲の人たちの視線&視線。
士道たちの周りには、まるで結界を張ったかのように空白があった。
そして、その向こうからこちらを遠巻きにうかがうギャラリー。
「ねぇママー、あの人なにやってるのー?」
「見たらダメっ、変態が感染るわ!」
「そっか、あのおにーさんヘンタイさんなんだね」
不自然に静まり返った中、無邪気な子供の言葉が士道の胸に突き刺さる。
これはあくまでも家族のスキンシップであって、断じて変態行為ではないのだ。
冷や汗を垂らしながら、心の中でそう主張してみる。
しかしながら、それは当人達のみの認識である。
事情を知らない人間の客観的視点からは、きっとこう見えるだろう。
成人男性が、女子中学生の体を弄り、うなじに顔を埋めようとしている……と。
ギャラリーの中に、どこかへ電話をかけようとしている者がいるのは気のせいだろうか。
それが1が連続して0で終わる三桁の番号だった場合、教師としての生命が絶たれかねない。
「さぁ琴里ー! 今日は奮発してデザートも作ってやるぞー!」
「おー、しーくん太っ腹ー!」
士道は必要以上に声を張り上げると、琴里を脇に抱えてその場から退散した。
「お疲れ様です。〈プリンセス〉の解析、順調ですか?」
「ああ、悪いね椎崎。丁度終わりそうなところだよ」
溶け残った砂糖が浮かぶコーヒーを受け取ると、それに躊躇いなく口を付ける。
本当ならもう少し甘いほうが好みだが、これは好意で提供されたものだ。
文句をつけるわけにはいかない。
「司令、真っ先に帰っちゃいましたね」
「たまにはいいさ、今日は大事な日らしいしね」
離れて暮らしていた家族と一緒に住むことになったのだと。
年下の友人が嬉しそうにそう語っていたのを思い出す。
本当なら朝から到着を待っていたそうなのだが、折悪しくもこちらに赴かなければならない用事が発生してしまったのだ。
本日行われるはずだった定例会議も昨日に前倒ししたというのに、気の毒なことだ。
天災とは得てして、人間の事情を考慮してくれないのである。
その事に不満を漏らしていたわけではないが、逸る気持ちは抑えきれなかったようだ。
本人は至って冷静なつもりだったろうが、あれは明らかに浮き足立っていた。
この場所では表に出さない、年相応の少女の顔がバッチリと漏れてしまっていた。
なんとも微笑ましい限りである。
「残務処理ぐらい、我々だけでも問題ないだろう」
「ですね。……ところで、なにか良い事ありました?」
「私が、かい?」
「いつもより血色がいいというか、肌がツヤツヤしているというか」
「……そうかな?」
「あと、いつもより表情が柔らかいような」
「ふむ」
自分の頬に手を当ててみるが、よくわからなかった。
しかし、思い当たることがないわけではない。
昨夜、彼に声をかけられたのは全くの偶然だった。
立場や状況を考えれば、断るべきだったかもしれない。
それでも、結局は受け入れてしまった。
その理由はきっと――――
「長年逢えなかった恋人に、出会えたからかもしれないね」
「――っ、むむむ、村雨解析官、ちょっとそのお話詳しく!」
「残念ながらこれ以上はノーコメントで、ね」
「そんなー!」
続きは近いうちに