士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話   作:kish

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逢瀬

 

 

 

「はぁ……」

 

 昼休みの来禅高校の校舎裏で、穂村士道は深いため息を吐いた。

 自作の弁当を持ち込んだ昼食の途中だが、箸はいまいち進んでいない。

 本日は、一昨日とは打って変わった晴天である。

 とある事情を抱えた士道は、気分を変えるために屋外かつ人気のないこの場所までやってきたのだが、あまり効果は見られなかった。

 

「令音さん……」

 

 ある女性の名を呟く。

 村雨令音……この来禅高校で物理教師、及び士道と同じく二年四組の副担任を勤める女性。

 そして、秘密組織〈ラタトスク機関〉の解析官でもある。

 加えて言うのなら、士道の意中の相手でもあり、本日のため息の原因でもある。

 

『……もし我慢できなくなったら、いつでも言うといい。できる限り力になろう』

 

 昨夜、彼女が去り際に残した言葉がリフレインする。

 一体その『我慢』とはどんな状態で、『力になる』とは具体的にどのような行為を指すのか。

 深く考え出すと悶々として何も手がつかなくなるというのに、そもそも頭から離れないという、何とも酷い悪循環だ。

 おかげで今日は寝不足であり、色々と散々であった。

 こんな有様では、次の精霊の攻略を待たずして倒れかねない。

 右頬をさする。

 まだあの時の……彼女の唇の感触が残っているような気がした。

 

(俺の名前、呼んでたよな……)

 

 いつもの『シン』ではなく、確かに『士道』と。

 なんで普段からそう呼ばれていたのかは今一つ謎だが、それが変わったのなら、何かしら心境の変化があったということだろうか。

 ならばその変化とは一体……そこまで考えて、横に激しく首を振る。

 ちょっとでも油断すると、すぐに彼女のことを考えてしまう。

 思考を切り替えるために、士道は勢いよく白米を掻き込んだ。

 

「うっ……!」

 

 しかしそれがいけなかった。

 一度に許容量を越える分を流し込まれた食道は、あっさりと渋滞を起こした。

 喉詰まりである。

 胸元を叩くが中々落ちていかない。

 慌てて持参したお茶のペットボトルに手を伸ばすが、何故か空振りした。

 代わりに触れたのは、何か暖かく柔らかい感触である。

 

「これ、飲んで」

「むぐっ!?」

 

 訳も分からないまま、今度は口に何かが突っ込まれる。

 流し込まれる液体は、苦味の中に甘味を含んだ清涼感のある――――

 

「ぶはっ……って、これ俺のお茶かよ」

「平気?」

「……鳶一か。悪いな、助かったよ」

 

 何かもう、気がついたらそこにいるのが恒例になってきているような気がする。

 自分の注意不足なのか、彼女の気配の消し方が巧みなのか。

 それよりも問題が一つ。

 どういうわけか、お茶の搜索に当てていた左手が、折紙の胸元に接触しているのだ。

 令音や十香よりは小振りなものの、十分な張りと弾力。

 どうやら、暖かくて柔らかい感触の正体はこれだったらしい。

 自分が何をしでかしたかに気づいた士道は、弾かれたかのようにその場から飛び退いた。

 

「本っ当にすまん! 俺の不注意だった!」

 

 そして正座して地面に頭を擦りつける。

 日本において最上の敬服、或いは謝罪を示す伝統的な姿勢……土下座である。

 今まで緊急避難的に体に触れたことはあったが、故意ではないとは言え今回は場所がマズい。

 これでは汚名を返上するどころか、淫行教師の蔑称を上塗りしかねない。

 向こうからは割と好き放題触られているような気がするが、士道からしたら不可抗力である。

 そこまで気にしていては最早どうしようもない。

 謝罪の中に「いやもうホント勘弁してください」という念も込めておく。

 

「顔を上げて」

「あ、ああ――――って何やってんだ!?」

 

 顔を上げかけた士道だったが、即座に土下座に逆戻りした。

 そうしろと言った本人は、何故か立った状態でスカートの前面をたくし上げていたのだ。

 そんなことをしていれば当然、隠されているべきものが見えてしまう。

 純白だった……ついでに言えば、小さな赤いリボンがアクセントになっていた。

 女物の下着は家族の物で見慣れているが、着用している状態となれば話は別だ。

 焦りやら疑問やら罪悪感やら当惑やら興奮やら……とにかく混乱していた。

 訓練の一環でやらされたギャルゲーに、似たようなシチュエーションがあったのを思い出す。

 まさか現実にこんな事が起こるとは……一体常識はどこへ行ってしまったのか。

 

「と、とにかくそれは下げてくれ。このままじゃ顔を上げられない」

「わかった」

 

 恐る恐る顔を上げてみると、スカートはちゃんと下がっていた。

 ホッと息をついたのも束の間、折紙が目線を合わせて身を乗り出してくる。

 戸惑う士道と鼻先が触れそうな距離で見つめ合ったまま、彼女は口を開いた。

 

「あなたは覚えている。五年前のことも、ASTや精霊のことも」

「……もしそうだと言ったら、どうなるんだ?」

「私が報告したら、最悪の場合あなたは『保護』される」

 

 明言はしていないが、その意味するところは十分に察せられた。

 再度の記憶処理……今度こそ顕現装置や精霊に関する記憶を封じられてしまうかもしれない。

 加えて、今後は監視が付く可能性もある。

 記憶処理の方は〈ラタトスク〉がどうにかしてくれるかもしれないが、精霊の攻略を進める上でそれは明確な足枷となる。

 なるべくなら避けたい事態だった。

 

「安心して。私から報告はしない」

「そりゃ助かるよ」

「でも、隊長が気にしている」

「隊長……ああ、もしかして日下部か? あいつ、出世したなぁ」

 

 一瞬だけ変態の顔が浮かんだが、すぐに思い出の彼方へ放逐する。

 あんな歩く事案発生器に意識を割くのは、時間の無駄というものだ。

 代わりに一個年上の後輩、日下部燎子について振り返る。

 出会いはおよそ六年前……彼女が防衛大の四学年の時だったか。

 陸自の会計科に配属予定だったところを、適性検査を受けさせられてASTに回されたようだ。

 正式な配属までは出動に駆り出されることこそなかったものの、共に訓練をしたり、士道が面倒を見たこともあった。

 当初の初々しい様子には、年上ながらほっこりしたことを思い出す。

 そんな彼女が今やASTの隊長なのだから、時間の流れというものを意識せざるを得ない。

 防衛大学出のエリートなので、順当な話ではある。

 この前は精霊……十香と一緒に居る場面を見られてしまったが、あれをどう受け取られたのか。

 性格的には真面目で少々頭の固いところはあるが、それでいて他者を思いやる心もある。

 どう転ぶかは正直わからないが、ある種の確信はあった。

 

「ま、あいつだったら悪いようにはしないだろ」

「……」

 

 そう言って士道は穏やかに笑い、折紙は半眼でジトッとした視線を向けた。

 かつての後輩の事を振り返る様は、ASTの現隊長がかつての先輩の事を語る時のものとそっくりで、そこに垣間見える信頼とも呼べる何かは、二人の間にある確かな繋がりを感じさせた。

 それが恋だの愛だのという感情ではないと分かってはいても、羨ましく思ってしまったのだ。

 

「それにしても、こっちの事情込みで話すのは初めてになるな……って、どうした?」

「……何でもない」

「そうか?」

 

 基本無表情な折紙がこんな表情を見せるのは珍しい。

 しかし本人がそう言うのだから、士道は深く突っ込むのはやめた。

 

「あれから五年か……無事でいてくれて、正直ホッとしたよ」

「目的を果たすまでは、倒れるわけにはいかない」

「……やっぱり、精霊への復讐か?」

 

 士道の問いに、折紙は小さく頷いた。

 五年前、天宮市南甲町で起きた大火災で、彼女は両親を失っている。

 その火災が精霊によるものだとどうやって知ったのかはともかく、やはりASTに入った目的は復讐で間違いがないらしい。

 別段、珍しい話ではない。

 空間震の被災者は数多くいるし、そう言う理由でASTに入隊する者もいる。

 ただ、途中で現実を知って復讐心を折られるのがほとんどだ。

 立ち向かうのがバカらしくなるぐらい、精霊の力は人類とは隔絶している。

 それは、たとえ顕現装置という超常の力を手にした所で変わることはない。

 折紙のように、いつまでも心にその火を絶やさずにいられる者は希少だ。

 しかしそれは同時に、一歩間違えれば道を踏み外す類の、仄暗く危うい情熱でもある。

 

「それに、これ以上私のような人を増やしたくない」

「そうか……そうだよな」

 

 しかし、続く折紙の答えに、士道はその根底にある優しさを感じ取った。

 その気持ちがあれば、もし道を踏み外しそうになっても、きっと踏みとどまることが出来る。

 それでも足りないというのなら、自分が手を引けばいい。

 具体的に何が出来るかはわからないが、それこそが士道が教師になった理由なのだから。

 

「よし、じゃあ進路相談でもするか」

「進路? 私はこのままで構わない」

「戦いが終わったらって意味だよ。いつまでもそのまま陸自にいるのか?」

 

 考えたこともなかったのか、折紙は顎に手を当てて考え込んだ。

 戦いの終わり……それは復讐対象の討滅か、全ての精霊の根絶か。

 きっと士道とは相容れない部分の方が多いだろう。

 それでも、歩み寄れはするはず。

 自分が精霊を知っていったように、これから知っていけばいい。

 仇である炎の精霊との折り合いさえ付けられれば――――

 

(……炎の精霊? ちょっと待て、なんだよそれ……そんな奴、俺は知らないぞ)

 

 炎に包まれた街、自分の肌が焼け焦げる臭い、そして泣きじゃくる自分の大切な……そんな彼女に対して、自分は顕現装置を握って――――

 白昼夢のようなフラッシュバックに、堪らず頭を押さえる。

 

「大丈夫?」

「悪い、ちょっとぼーっとしてた」

 

 覚えのないはずの光景に、混乱をきたしてしまう。

 あれがもし、抜け落ちた記憶の断片だとするのなら、五年前に自分が封印した精霊とは……

 そこまで考えて、士道は思考を打ち切った。

 それ以上はマズいという予感があった。

 気付いてはいけないことに気付いてしまう……そんな感覚だ。

 

「それより、何か思いつきそうか?」

「それなら……永久就職」

「永久就職? 結婚って意味か?」

「千代紙。子供の名前」

「そ、そうか……また気が早いな」

 

 どうやら既に子供の名前まで決めているらしい。

 まずは相手からだと思うのだが、そこはどうなっているのだろうか。

 しかしここを深く突っ込んだら、何かとんでもない事態になりそうだ。

 藪をつついたら、蛇どころかドラゴンが出かねない。

 向かい合った折紙の並々ならぬ眼力に押され、士道は無意識のうちに後ずさった。

 しかしすかさず距離を詰められる、どころかゼロになった。

 密着状態……折紙は士道の膝の上に向かい合うように跨ったのだ。

 十香とはまた違った匂いが鼻をくすぐり、心拍数が跳ね上がる。

 

「あなたは夜刀神十香を名前で呼ぶ」

「まぁ、そうだな」

 

 そもそもの名付け親が自分だというのもある。

 ちなみに苗字の方は令音が命名したらしい。

 とはいえ、士道も十香が転入してきた当初はそちらで呼ぼうとしていたのだ。

 それは生徒と教師の線引きというか、関係を怪しまれないための苦肉の策というか。

 とにかく、淫行教師の汚名を払拭するための涙ぐましい努力だったのだ。

 ところが、名前で呼ばないと不機嫌になるという事実が発覚し、断念した次第である。

 自己紹介の際のインパクトで最早手遅れだったという説もあるが、そこには目を背けた。

 

「それなのに私のことは苗字で呼ぶ……これは非常に不平等。不公平極まりない」

「そんなに対抗意識を燃やさなくても……」

「折紙、そう呼んで欲しい」

「……いや、でもな」

「呼んで欲しい」

「……」

 

 有無を言わさぬその雰囲気に、士道は閉口した。

 気迫すら漂ってくるようだった。

 一体何が彼女をそこまで駆り立てるのか。

 十香相手には失敗したが、士道が生徒を苗字で呼ぶのは一種の線引きである。

 淫行教師呼ばわりの元凶とも言える折紙を、もし名前で呼ぼうものなら、どうなることやら。

 クラスの女子……主に三人娘の反応を予想して、士道は息を詰まらせた。

 殿町を始めとした、男子たちの誤解も余計に深まっていくのだろう。

 考えるだけで頭痛がしてくるが、最早今更だという見方もある。

 生徒が教師としての自分を慕ってくれるのなら、それに応えたいという思いもあった。

 頭の中で散々に苦慮を重ねた上で、士道は重たい口を開いた。

 

「お、折紙……」

「…………」

 

 無言のまま立ち上がると、折紙は何故かその場でピョンと跳ねて士道から離れた。

 その際にまたもスカートの中が見えてしまったのだが、立派な不可抗力というやつだろう。

 即座に目をそらしたのだが、突然すぎて間に合わなかったのだ。

 教師になった当初は、こんな形で生徒に困らされるとは思いもしなかった。

 スカートの中身に翻弄される現状が、非常に情けなく感じてならない。

 内心で若干落ち込んでいる士道をよそに、折紙は傍らの食べかけの弁当箱に目を向けた。

 

「……ポテトサラダ、ミニトマト、ブロッコリー、厚焼き玉子、唐揚げ、白飯」

 

 そして羅列したメニューは、今日の士道の弁当の中身である。

 特におかしなものを入れた覚えはないが、何をそんなに気にしているのだろうか。

 恋人もいない独身男性教師が手作り弁当を持ってくるのは、少々珍しいのかもしれないが。

 士道にとっては趣味と実益が伴うため、多少の早起きを我慢したら実にお得なのだ。

 何一つ恥じることはないと胸を張れるのだが、続く折紙の言葉で固まる羽目になった。

 

「全て、今日の夜刀神十香のお弁当の中身と同一。これは偶然?」

「…………は、はは……すごい偶然だなー」

 

 誤魔化すように笑ってみせたが、物凄くぎこちない笑顔になっていた。

 もし訓練や作戦の最中に見せようものなら、司令官様から罵倒が飛んでくるだろう。

 折紙の指摘は、実にクリティカルな部分だった。

 少し前から、十香は五河家を仮の住まいとしている。

 世間的には他人同士の生徒と教師が同棲しているとなれば、そこには問題の種しかないだろう。

 なので余計な憶測や風聞を避けるために、関係者以外には秘密にしているのだ。

 出勤と登校、退勤と下校の時間がズレているため、その点を気遣う必要がないのは幸いだった。

 しかしながら、弁当の中身は別である。

 士道は自分の分だけでなく、毎朝琴里の分の弁当も拵えている。

 それが一人分増えたところで、今更という話なのだ。

 つまり、十香の弁当の中身が全く同じメニューなのは、士道が作っているからに他ならない。

 

「み、見間違いとかでは?」

「本人に尋ねてみてもいい」

 

 一応、十香にも同棲していることは隠すよう言い含めてあるが、効果はあまり芳しくない。

 誤魔化しや嘘が苦手というか、とにかく素直なのだ。

 クラスでの様子を見る限り、深く突っ込まれたら早々にボロを出しかねない。

 折紙はそこをきっちり見切っているようだった。

 言葉に窮した士道は、最早相手の出方をうかがうしかなかった。

 まるで沙汰を待つ罪人のような気分だった。

 すると、背中に冷や汗を伝わせる新米教師の膝の上に、折紙はちょこんと腰を下ろした。

 先ほどのように向かい合わせではなく、士道に対して背中を預けた姿勢である。

 

「……あの、とび――折紙さん?」

「なに?」

「これは?」

「お昼、まだだから」

 

 そう言うと、折紙は小振りな弁当箱を取り出して食べ始めた。

 当然、士道の疑問に対する答えにはなっていない。

 下腹部に押し付けられた柔らかい感触と、髪からふわっと漂う匂いで気が気でない。

 こんな時こそ、最近の訓練の成果が生きるというもの。

 

(平常心平常心平常心平常心平常心……!)

 

 舌を噛んで必死に自分に言い聞かせるが、相手は更なる一手に打って出た。

 もぞもぞと臀部を揺らし、とある部分を刺激しにかかったのだ。

 故意かどうかはともかく、ここで反応してしまっては立派な淫行教師である。

 引きちぎるほどの勢いで脇腹を抓ることで、意識をどうにかそらした。

 今のはどうにかなったが、これ以上の追撃を許しては耐えきる自信はない。

 士道は自分の弁当箱に手を伸ばして、残りを一気に掻き込んだ。

 この状況をどうにかするには、とにかく昼食を早く終わらせるしかない。

 しかし焦りのためか、先ほど同じ事をしてどうなったのかは、すっかり頭から抜け落ちていた。

 

「うっ……!」

 

 再び喉を詰まらせた士道は持参したお茶に手を伸ばすも、飲み干して既に空になっていた。

 胸元を叩こうにも、折紙の体が間にあるため出来そうにない。

 今、手を前に回したら、それこそ彼女の胸部に接触してしまう。

 切羽詰った士道に、ペットボトルが差し出された。

 

「飲み物は用意してある。これを飲んで」

 

 こういった事態なら一も二もなく飛びつくところなのだが、ここで第六感が仕事をした。

 二〇〇mlのペットボトルの中身は、コーヒーのような何かだった。

 よく見てみると、コーヒーよりかは泥と呼んだ方が適切な気もしてくる。

 とにかくどろりと淀んだその液体は、飲み物とは思えないほどの禍々しいオーラを放っていた。

 

「大丈夫、飲めば喉の詰まりも取れて非常に元気になる。一石二鳥」

 

 その「非常に元気になる」というフレーズは、ついこの間も耳にしたものである。

 果たして、これを飲んで無事でいられるのだろうか。

 きっと体に悪いものは入っていないのだろうし、元気になるのも間違いないのだろう。

 ただ、やはり脳内でアラームが鳴り止まない。

 生徒を疑いたいわけではないが、今はあまりにも余裕がなかった。

 飲むべきか、飲まざるべきか、それが問題だ。

 そんな、どこぞの英文学のような一節が頭をよぎった時だった。

 

 ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――

 

 突如、街中にけたたましい音が鳴り響いた。

 空間震警報……即ち、精霊の現界の予兆。

 

「……あなたは速やかに避難を」

 

 折紙は名残惜しそうに立ち上がると、士道にペットボトルを押し付けて駆けていった。

 彼女はASTの魔術師であり、精霊と対するのがその役目なのだ。

 見送る士道の心境は複雑だが、こちらはこちらで切羽詰っている。

 喉の詰まりが、いい加減限界に達しようとしていた。

 震える手で、渡されたペットボトルのキャップを捻る。

 そして、中身を一気に呷った。

 

「――おぼふ……ッ!?」

 

 刺激的な臭いと味が、爆撃をかけるかの如く士道の嗅覚と味覚を蹂躙した。

 苦いとか酸っぱいとか辛いとかじゃなく、ただただ痛い。

 イメージの話になるが、きっと強酸の類を飲んだらこんな味がするんじゃなかろうか。

 喉の詰まりは解消されたものの、今度は口の中が大惨事である。

 一刻も早くうがいをすべく、士道は近くの水道まで駆けていった。

 

 

 

 

 

 ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――

 

「む?」

 

 突然鳴り響いた耳障りな音に、十香は唐揚げを頬張りながら眉をひそめた。

 現在は昼休み、クラスメイトの亜衣麻衣美衣と共に昼餉の真っ最中である。

 教室にいる他の生徒たちは皆一様に動きを止め、水を打ったかのように静まり返った。

 

「うわっ、警報だ」

「私らも避難しなきゃだねー」

「マジ引くわー」

「ぬ? まだ昼餉の途中ではないか。一体皆でどこへ行こうというのだ?」

 

 当然お弁当の中身もまだ残っている。

 果たしてこれを置いて、他に優先すべきことがあるのだろうか。

 十香にとって食事以上の重大事は、中々に思いつかなかった。

 クラスの皆がどこかへ向かおうとしているようだが、何が何やらさっぱりである。

 この耳障りな音と関係があるのだろうか。

 

「学校の地下にあるシェルターだよ。もうすぐ空間震が来るみたい」

「シェルター? 空間震?」

「いーからいーから」

「悪いようにはしませんぜ、お嬢さん」

「マジ引くわー」

「ぬ、ぬう……」

 

 三人娘に促され、十香は渋々席から立ち上がった。

 よくわからないが、どうやら移動する必要があるらしい。

 食べかけの弁当が非常に名残惜しいが、そんな場合ではないようだ。

 

「みみみ、皆さぁーん! 空間震警報ですよぉー! 慌てず騒がず避難ですよぉー!」

 

 教室に飛び込んできたのは、タマちゃん先生だった。

 慌てず騒がずと言っている本人が、慌ただしく騒いでいるのは如何なものだろうか。

 むしろそれだけの緊急事態なのかと、十香は警戒を深めた。

 そうなると心配なのは、ここにいない士道や令音のことだった。

 そういえば、今日はあの鳶一折紙の姿も見えない。

 どうやら昼休みが始まって早々に、教室から出たようだ。

 その際にこちらに一瞥をくれたような気がするが、弁当に集中していたためよく覚えていない。

 何故だか嫌な予感がした。

 あのいけ好かない女は、ちょっとでも目を離せば士道をどこかへ連れて行こうとするのだ。

 避難の前に、まずは士道の身の安全を確かめるべきだ。

 意を決して、十香がシェルターへ向かう列から離れようとした時だった。

 

「……ああ、ここにいたか」

 

 眼鏡の下に分厚いクマ、白衣に包まれた佇まいは頼りなく、今にも倒れそうな印象を覚える。

 村雨令音……十香が特にお世話になっている人間の一人だ。

 士道程とまではいかないが、ある程度気を許せる相手でもある。

 

「おお、令音ではないか。シドーは一緒ではないのか?」

「彼なら心配ない。ただ、別件で少々合流が遅れるそうだ。君はこのまま皆と避難してくれ」

「むう……そうか」

 

 その行方は気がかりだが、令音の口ぶりから無事なことはわかる。

 難しい顔で唸りながらも、十香は納得した。

 

「……それでは岡峰先生、彼女をお願いします」

「む、村雨先生っ! 一体どこへ!? 早く避難しないと危険が危ないですよ!」

「……お気になさらず。ちょっとした見回りです」

 

 タマちゃん先生のやや支離滅裂な制止を振り切り、白衣を翻して令音は走り去ってしまった。

 いつものふらふらした姿からは想像がつかない程の俊敏さだった。

 見回りと言っていたが、何か尋常ではない事態が動いているのでは……

 漠然とした不安を抱えつつ、十香は列に従ってシェルターに向かうのであった。

 

 

 

 

 

 精霊の攻略を控えた〈フラクシナス〉艦橋は、少々張り詰めた空気に包まれていた。

 これと似たものを士道は知っていた……ASTの出撃前の雰囲気だ。

 命をかけた戦いに赴く前の、独特の緊張感。

 そして精霊攻略の矢面に立つのは、士道自信である。

 当然、死地に向かう当人なので、それを一番に感じているはずなのだが……

 

(……やべぇ、全っ然治まらん)

 

 現在、士道は全く別の脅威と格闘中だった。

 体の火照り、そしてとある部分の形状変化。

 異変を感じたのは〈フラクシナス〉に拾われてすぐだった。

 急な息切れとともに、熱っぽさに襲われたのだ。

 それだけなら風邪か何かで体調を崩したと判断するのだが、変化はそれだけに留まらなかった。

 士道の、男性特有のとある部位が、意に反して隆起し始めたのだ。

 もちろん、そんな事を考えてはいないし、ここに目の毒となりそうな格好をした女性はいない。

 もしくは、心身ともに疲れ果てたせいかなどとも考えたのだが、残念ながら心当たりはあった。

 

(まさか、アレのせいか……?)

 

 アレとは、つい先ほど喉の詰まりの解消のために、やむを得ず口にした飲み物である。

 飲み物と呼んでいいかもわからない代物だったが、思い当たるものはそれぐらいだった。

 非常に元気になるという謳い文句だったが、これでは元気の意味がまるで違う。

 今はベルトに挟んで封印している状態だが、あまり大きなアクションを取れば外れかねない。

 精霊の攻略が話し合いだけで済めばいいのだが、あまり楽観はできないだろう。

 果たして、股間を押さえて前屈みになった男に口説かれて、心を開く女性はいるのだろうか。

 とんでもない変態が相手なら望みはあるかもしれないが、そんな微粒子レベルの可能性に自分の尊厳を懸ける気にはならなかった。

 必死に目を閉じて、憎き大魔王の顔を思い浮かべて沈静化を図るが、効果は全くない。

 熱っぽいため息を吐き出して目を開けると、小魔王が覗き込むように迫っていた。

 流石は親子……たった今思い浮かべた顔の面影に、士道はたじろいだ。

 

「ど、どうした、琴里?」

「……様子がおかしいとは思っていたけれど」

 

 ぎくりと、頬を汗が伝った。

 仮に可愛い姪っ子にこんなことがバレて、「不潔」などと軽蔑されようものなら、親指を立てて溶鉱炉に沈む自信すらあった。

 自分の黒歴史というロクでもない一子相伝もあるのだが、それとはまたベクトルが異なるのだ。

 びっしりと顔中に汗を浮かべる士道に、琴里はため息を一つ。

 

「作戦中に倒れられても困るし、今のうちに薬でも飲んでおきなさい。医務室の場所はわかるわよね?」

「あ、ああ」

「ボケっとつっ立ってないでさっさと行く。それとも、お尻を蹴飛ばして欲しいのかしら?」

「――っ、司令、その栄誉は是非――――ふぎぃッ……!」

 

 どうやら具合が悪いと勘違いされたようだ。

 士道がホッとする傍ら、何やら変態が身を乗り出していたが、足を思い切り踏んづけられて悶えていた。

 

「ああ、いい……やはり足を踏まれるのには、いぶし銀的な良さがある……」

 

 そんな戯言にかかずらっていても仕方がない。

 艦長席の横で絨毯となった変態と目が合うが、即座にそらした。

 

「……私も同行しよう。こちらの準備は大体終わっているからね」

「ん、そうね。じゃあ令音、士道をお願い」

「いや、一人でも大丈夫なんだが……」

「あなたが倒れたら元も子もないの。少しは自覚しなさい」

 

 琴里の言い分はぐうの音も出ない程の正論だった。

 精霊攻略の最終目的は、その力の封印だ。

 それを行うのは士道であり、そのためには直接精霊と接する必要がある。

 つまり、自分が動けなくなれば全てが瓦解するということだ。

 それは大いに理解しているつもりだが、今回のケースは少々事情が異なる。

 しかしまさか、具合が悪いのではなく興奮が治まりません、などと正直に言えるはずがない。

 結局士道は、令音の同伴で医務室に向かうことになった。

 

「……一人で歩けるかい?」

「いや、別にそこまで具合が悪いわけじゃないんで……」

「そうか……では、行こうか」

 

 いつかと同じように、ふらふらと歩く彼女の背中を見つめる。

 あの時はちょうど正反対に、医務室から艦橋へ向かっている最中だったか。

 再会を喜ぶ暇もなく、こうして――――

 

(あ、ヤバい)

 

 襟元から覗くうなじ、白衣に包まれてなお形を主張する臀部、裾から伸びた脚。

 それらの全てが、士道の欲望を大いに刺激した。

 以前はそこで踏みとどまったのだが、今は……

 

「――令音、さん」

 

 伸ばした手を引き止めるはずの理性は働かず、衝動のままに士道は後ろから抱きついた。

 懐かしさすら覚えるその感触と匂いに、安心を覚えるとともに欲望が膨れ上がっていく。

 いきなり抱きしめられた令音は抵抗するでもなく、あくまで常と変わらない様子で対応した。

 

「……ふむ、我慢できなくなったらと言ったが、そういう事でいいのかな?」

「……すみません」

「確かに、このままでは作戦に支障が出かねないね」

 

 こうも密着していたら、熱くなった隆起を誤魔化すことはできない。

 謝りながらも、士道の頭の中から踏みとどまるという選択肢はほとんど消えていた。

 踏みとどまれないのなら、後は道を踏み外すか、それとも――――

 

「――構わないよ」

「……え?」

「できる限り力になる……そうも言ったと思うがね」

 

 令音はまるで赤子をあやすように、士道の頬をそっと撫でた。

 そのあまりの心地よさに、抱きしめる腕の力が緩んでしまう。

 

「……あまり猶予がない。手早く済ませてしまおう」

 

 やんわりと士道の腕を解くと、令音は妖艶に微笑んでその手を握った。

 そして耳元で、そっと囁く。

 

「さあ、おいで……」

 

 そのまま、二人は医務室へと消えていった。

 

 

 




折紙氏、痛恨のミス。
七罪出てこねぇ、とは書いている当人が一番思っているので勘弁してください。
次回はちゃんと出てきます。
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