士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
この期間にFF8リマスターでジャンクション抜きでパラメーターカンストに手を出した愚か者です。
運の能力値を上げるのがひたすら時間がかかります。
『きひ、きひひ、きひひひひひひひひひひひひッ』
路地裏に、妖しい笑い声が反響する。
追い立てられるように、雑然とした狭い通りを駆け抜ける。
息を切らし、顔中にびっしり汗を浮かべ、そこに余裕と呼べるものは一切なかった。
それもそのはず――彼はとある脅威から逃れるために、必死で走っているのだ。
何故こうなっているのか、全く以て訳が分からない。
休日に特にあてもなく歩いていたら、みゃあみゃあという鳴き声に誘われて――――
「――っ」
足元が、何かを撃ち込まれたかのように小さく爆ぜる。
振り返らずに、更にスピードを上げる。
まるで悪夢のような状況だった。
自分が何故こうなっているのか、彼女が何故あんなことをしていたのか、何もかも分からない。
ただ一つ分かっているのは、足を止めたら確実に自分の命はない、ということだ。
やがて、大きな通りに繋がる出口が見えてくる。
逃げる男の目に希望が差した、その時だった。
「――――駄ァ目、ですわよ」
「なっ――――」
その出口を塞ぐように、後ろから追いかけてきているはずの少女が立ちはだかっていた。
血の赤と影の黒に彩られた、最悪の
「――ああ、ああ、いけませんわ。いけませんわ。わたくしのあぁんな姿を見られてしまうだなんて、とてもとても恥ずかしくて、恥ずかしくて――――」
その真珠のように白い頬に、赤が差す。
輪郭は判然としないのに、表情の変化だけは何故かはっきりとわかった。
しかし次の瞬間には、少女は冷酷な表情で手にした短銃を構えた。
「――――思わず、あなたを殺してしまいたくなりますわ」
そして、その引き金に指がかかり――――
「――――っ」
意識が現実に引き戻される。
目覚めるとそこは薄暗い路地裏ではなく、自室のベッドの上だった。
カーテンから光が漏れている……どうやら朝が来たらしい。
見慣れた天井を見上げて、穂村士道は深く息を吐いた。
全身にしっとりと湿った感触が付きまとう。
最近は気温も上がってきたし、梅雨入りして湿度も高い。
寝汗をかくには十分な環境だろう。
それに加えてあの悪夢である。
およそ寝起きとしては最悪の部類だった。
枕元で充電してある携帯を手繰り寄せると、時刻は午前八時前。
ちょうど目覚ましが鳴る手前だった。
いつもならば慌てるような時間だが、今日は休日だ。
よって士道の朝もゆっくりなのだ。
「ふわぁ……シャワーでも浴びるか」
欠伸をしながら体を起こそうとするが、思うように動かない。
そもそもなんだか体が重いような気がする。
日々の業務に疲れが溜まって体調を崩したのか、もしくは金縛りにでもあっているのか。
金縛りはともかく、疲労に関してはありえそうで決して馬鹿にはできない。
士道は現状、いわゆる二重生活状態にある。
教師で秘密組織のエージェントという、どこかのフィクションのような立場なのだ。
都立来禅高校で教鞭を執る傍ら、秘密組織の任務……と言えば聞こえはいいが、要は精霊たちのご機嫌取りに追われているのである。
体力的な面ではもちろん、精神的な負担も大きい。
何せ相手は世界を殺すと称される存在。
精霊たちと関わって、士道が命の危険を感じたのは一度や二度では済まない。
とはいえ、今や十香は来禅高校の生徒だ。
慣れないことに戸惑いながらも周囲と交流していく姿は、何とも微笑ましい。
そして偶発的ながらその力の封印に成功した七罪も、これから様々な人と関わりを持つだろう。
二人のこの先は、残念ながら平坦とは言えないのかもしれない。
それでも、自分の手を取ってくれたことを思うと、自然と頬が緩んで来るのだ。
疲労はあるかもしれないが、幸い体の丈夫さには自信がある。
今日はまず、二人の顔を見に行くとしよう。
そして琴里がいたら、存分に可愛がらせてもらおう。
そうしたらきっと、この体の重さもどうにかなるだろう。
そうして再度体を起こそうとした士道だったが、やはり思うように動かなかった。
これは明らかな異常事態……どうしたものかと、視線を下げる。
すると、その答えは至極単純なものだった。
「――んぅ…………大将ぉ、きなこパンを一丁…………」
まず士道の目に入ったのは、頭頂部だった。
どうやら誰かが上に乗っかっているらしい。
この声と夜色の髪の持ち主は、十香だろう。
寝息を立てながら、何やら呟いていた。
まるでカウンター席で寿司を注文するかのような口ぶりだが、頼んでいるのはきなこパンだ。
士道の頭の中に、いなせな寿司職人が「へいお待ち!」と、和食器の上にきなこパンを乗せて提供するという、何ともカオスな光景が展開された。
ともかく、上に乗っかられていては、寝苦しいのも体が重いのも納得である。
一体朝から何をしに来たのだろうか。
夜這い……と言うには外が明るすぎるし、十香がそんな事をしてくるとは思えない。
しかしながら、色々と余計なことを吹き込む連中もいるのだ。
以前に近藤さんを持ち込んできて、肝を冷やしたことを思い出す。
普通に考えれば、起こしに来たがそのまま自分も眠ってしまった、というところか。
先日までこの家に居候していた十香だが、現在は隣に新築されたマンションに居を移している。
琴里が言うには精霊専用の特殊住宅だそうだ。
着工は先月の中頃……それから一週間足らずであっという間に完成してしまった。
通常ならありえない速度だが、顕現装置を使ったとなれば納得がいく。
自衛隊の災害復興部隊と似たようなものだろう。
この部屋の窓から見える外観に、これといって変わった点は見られないが、実際には顕現装置を惜しみなく使った仕様らしい。
入り口のセキュリティも厳重なもので、一体どこの銀行の金庫かというのが士道の感想だ。
ともかくお隣さんになった十香は、結構な頻度で遊びに来る。
なんならこの家で食事をしていくことも珍しくもないし、士道もそれを快く迎えている。
今朝も、朝食を一緒にと訪ねてきたのかもしれない。
それならいつまでも寝ているわけにはいかない。
まずは体の上からどいてもらうべく、十香の体を優しく揺する。
「十香、起きてくれ。これじゃあ俺が起きられん」
「んぅ……んんっ?」
「おはよう、お姫様」
「おはようなのだ、シドー……すまぬ、ついウトウトと――」
寝ぼけ眼を擦りながら挨拶をしてきた十香だが、士道の顔を見ると何かを思い出したかのように目を見開いて、一気に覚醒を果たした。
むむむ、と眉をひそめて、何やら不満がありそうな様子だった。
こうして馬乗りになっていることにも関係があるのだろうか。
ここ最近、女心の不可解さに振り回されまくっている士道は、思わず頬をひくつかせた。
なにしろ予想外の方向から砲弾が飛んでくるようなものだ。
ああも不意打ちを食らい続けていては、苦手意識も芽生えてくる。
「先日、七罪とやらと顔を合わせたぞ。何やら小さくなっていたが」
「そ、そうか……お前と同じで琴里たちのとこでお世話になるみたいだから、仲良くして――」
十香の眉が吊り上がる。
もしかすると、七罪がなにかイタズラでもしたのかもしれない。
本当の姿での人との接触には及び腰だが、あれで中々お茶目な性格をしているのだ。
それで十香を怒らせたというのは、ありえない話ではない。
ただ、こんな表情でもその凛とした美貌は損なわれない。
何とも頭の痛くなりそうな事態に、半ば現実逃避気味にそんなことを考えていた。
「あの娘がいるということは……したのだな?」
「な、なにを?」
「私の時と同じように、その……荒々しく唇を奪ったのだな!?」
十香の剣幕に、士道はようやく何を槍玉に挙げられているのかを悟った。
そしてこの前、七罪を助けに行く際に、とある約束をさせられたことを思い出す。
『だから、これから他の女にしたのと同じだけ、私にも……その、するのだ』
何を、と問われれば、キスを、である。
士道は、規格外の存在である精霊の力を封印する事ができる唯一の人間らしいのだが、それにはとある条件と、とある行為が必要とされる。
その条件とは一定以上の好感度、そして行為とは他ならぬキスである。
精霊とデートしてデレさせた上で、キスをして無力化するというのが、自身が所属する秘密組織である〈ラタトスク機関〉から期待されている役目なのだ。
その期待通り、士道は十香の力を封印……もとい、唇を重ねた。
そして七罪とも同じように唇を重ね、約束を履行するのなら十香とまたキスをすることになる。
しかし、状況の違いという点には留意すべきだろう。
同じ行為を指すにしても、自分からしたのと相手からしてきたのでは、やはり違いがある。
「ご、誤解だ! あれは俺からじゃなくてだな!」
「五回だと!? そんなにもしたというのかっ!」
「ちがっ――――」
士道の言い逃れはそこで途切れた。
物理的に口を塞がれたのである。
間近に迫った紫水晶の瞳には、何やら炎が見えた……ような気がした。
それから言葉を発することも許されないまま、たっぷり五回分、唇を奪われるのであった。
「朝からえらい目にあった……」
タオルで頭を拭きながら、口元に手を当てる。
朝食を終えシャワーを浴びてすっきりしたのはいいのだが、唇に残る感触は中々消えてくれなかった。
士道は生物学上は立派な男性であり、人並みの性欲も当然ある。
いくら十香が自分の生徒とはいえ、先程のようなことが続けばいつかは我慢の限界が来る。
そうすれば待っているのは、名実ともに淫行教師の汚名である。
若干手遅れなような気もするが、これ以上の上塗りを許すわけには行かない。
そもそも十香は、キスをどのような行為と捉えているのか。
一度、情操教育について考えてみた方がいいだろうか。
「あら、朝からシャワーなんていいご身分ね」
脱衣所から出た士道を出迎えたのは、チュッパチャプスを咥えた琴里だった。
どんぐりのようにくりくりっとした目が可愛らしい姪っ子なのだが、今は不機嫌そうに細められている。
ツインテールを括っているリボンの色は、いつもの白ではなく黒。
普通の女子ならば気分で変えることもあるだろうが、琴里の場合は気分どころか態度までガラリと変わってしまう。
今はバリバリの司令官モード……何にしても可愛い姪であることに変わりないのだが、この状態では可愛がらせてはもらえないだろう。
少しばかり残念だが、七罪の封印の影響で忙しくしていたのは知っている。
今朝も早くから〈フラクシナス〉に趣いていたのだろう。
労いの言葉をかけようとする士道だが、姪っ子の頬に薄らと赤い線が数本、並んで浮かんでいることに気がついた。
まるで猫に引っ掻かれたかのような跡だが、それが誰によるものなのかはわかっている。
「お疲れ。やっぱり難航してるみたいだな」
「本当、よくあの子を口説き落とせたわね……」
士道が苦笑しながら声をかけると、疲れた様子で琴里はため息をついた。
現在、七罪は〈フラクシナス〉内で検査を受けながら暮らしている。
状態が落ち着けば、十香と同じようにマンションへ居を移す予定なのだが、その見通しが立たないのが現状なのだそうだ。
事務的に検査を進めるだけなら大丈夫なのだが、コミュニケーションを取るとなると、突如として不安定になるらしい。
その結果が琴里の頬の引っかき傷である。
力を封印しているおかげでその程度で済んでいるのもあるだろうが、精神状態が不安定になれば霊力が逆流してしまう。
そんな状態では外に出せないのだろう。
七罪は自分に自信がなく、強烈なコンプレックスを抱え込んでいる。
一朝一夕にそれを克服するのは不可能だろう。
だとしても、このままでいいとは思えない。
どうしたものかと顎に手を当てるが、すぐに妙案が思いつくものではない。
とりあえず今朝は一度、顔を見に行くとして……
「琴里、朝飯はもう食べたのか?」
「まだよ。片付けなきゃいけない仕事も残ってるしね」
「なら丁度いい。お前の分も用意しといたから、十香と一緒にテレビでも見ながら食べてくれ」
「耳が悪いのかしら。仕事が残ってるって言わなかった?」
「栄養補給や体調管理も立派な仕事だろ? ほらほら」
「ちょっ、押さないでよっ」
抵抗などものともせず、士道は姪っ子をリビングへと押し込んだ。
朝食の匂いが残る中で、十香がおやつのきなこパンを頬張りながらテレビと向き合っている。
起こしに来た時の剣幕はどこへやら、すっかりご機嫌である。
散々キスをして満足したのだろう。
あの様子なら、鋼の精神で色々と我慢した甲斐があるというものだ。
「十香ー、ちょっと出かけてくるから琴里と留守番しててくれるかー?」
「おお、いってらっしゃいなのだ、シドー」
「琴里は朝飯まだだから、用意してやってくれ」
「ぬ、それはいかん!」
極めて真剣な表情で、十香は琴里の手を取るとテーブルに着かせた。
お腹が減っているというのは、彼女にとって一大事なのだ。
姪っ子は何か言いたげに睨みつけてきたが、笑いながら親指を立ててやる。
いくらなんでも、その好意を無下にしたりはしないだろう。
観念してここで休憩していってもらおう。
琴里の茶碗にご飯をよそう十香に手を振ると、士道は出かける準備をしに自室へと向かった。
「入るぞー」
コンコン、とノックした上でスライド式の扉を開く。
その中は一般的な家具が備え付けられた、一見変哲もない部屋である。
しかしながら、ここは〈フラクシナス〉内に用意された精霊用の居住スペースだ。
最近隣に出来たマンションと同じく、見た目以上に頑丈なはずだ。
娯楽品の類が散見されるが、これは使用している当人の趣味というより、〈ラタトスク機関〉が精霊のために用意したものだろう。
一人用の部屋という限られたスペースながらもその種類は幅広く、屋内で扱えそうなものならば一通り揃っていそうな印象だった。
明らかな子供向けから高齢者向けまで、年齢を考慮していない部分も見受けられるが、そもそも精霊にその概念があるかどうかはわからない。
これは見境がないというより、どうにか興味を引くために苦慮した結果だろう。
何せ相手は気難しい部類に入る。
その当人はというと……部屋の隅で何やらぬいぐるみを抱えて縮こまっていた。
十香に引き続き、先日力の封印に成功した精霊・七罪である。
手入れの行き届いていないボサボサの髪に、今朝は検査があったのか病衣を纏っている。
エメラルドの瞳は不機嫌そう……どころか、明らかに警戒を露わにしていた。
小柄な体も相まって、小動物が威嚇しているようにも見えた。
先程の琴里の様子からも、一悶着あったのだろう。
この数日、似たようなことが起きて、士道が呼び出されたことも何度かあった。
まずは警戒を解くため、七罪に対して笑いかける。
「おはよう、七罪。今朝は――――」
挨拶に次いで調子を尋ねようとしたが、言葉が途切れる。
寝起きのように物理的に口を塞がれたわけではないが、小さな衝撃があった。
七罪が、縋り付くように飛び込んできたのだ。
いつもとは違う様子に、士道は目を白黒させた。
「な、七罪、どうかしたのか?」
「か、髪の長い胡散臭くて気持ち悪い男が……ナイスバディって私の腕を掴んできて…………!」
「よし、あいつ殺そう」
この〈フラクシナス〉で髪の長い変態の男といえば一人しかいない。
犯人に制裁を与えるべく、怯える七罪を優しくベッドまで運ぶと、士道は部屋を飛び出した。
「おいゴルァッ! 神無月ぃーーッ!!」
「あれ、穂村さん? おはようございます」
「おはよう、今朝は荒れてるね。何かあったの?」
「あ、おはようございます」
勇んで艦橋に乗り込んだ士道だが、そこに目的の姿はなかった。
それどころか、今日は当番なのか待機している女性二人――箕輪梢と椎崎雛子に挨拶され、気勢はすっかり削がれてしまった。
手元のコンソールに手を置く箕輪は、ウェーブがかったミディアムヘアが特徴の女性である。
普段はさばさばとした彼女だが、遠距離恋愛中の恋人には随分と入れ込んでいるらしい。
彼女の前のモニターには、どこかの室内の映像が表示されていた。
この〈フラクシナス〉の内部というわけではなさそうだが、自宅の見守りカメラだろうか。
しかし、女性の部屋というには男物が多いし、カメラの位置も少し気になる。
画面の上下左右に何かの影が入っており、どこか奥まった場所……そう、例えば棚の奥に隠すかのように設置されているような……
そこまで考えて、士道は思考を打ち切った。
きっとあれは防犯用で、男物が多いのも自分の趣味か、離れて暮らす恋人のものに違いない。
この、見てはいけないようなものを見てしまった、という気分はきっと気のせいなのだ。
汗を一筋頬に流しつつ、椎崎へ目を向ける。
前髪で常に片目が隠れている、長い黒髪の女性である。
この艦橋では、琴里を除くと唯一の年下だ。
そのためか、ここでは新米に当たる士道にも敬語で接してくれる先輩なのだ。
何かデータの処理をしているのだろう、モニターには何らかの文字列が表示されている。
箕輪のように私用で〈フラクシナス〉の設備を使うわけでもなく、真面目なものだ。
ただ、コンソールの脇に置かれている藁人形が異様な存在感を放っていた。
あれは一体何なのか……気にはなるが、あまり積極的に触れるのは躊躇われた。
そんな士道の微妙な視線を察知してか、箕輪が口を開いた。
「ああ、それ気になる?」
「ま、まあ……そこまで積極的に知りたいってわけじゃないんですけど」
「アクセサリーみたいなものよね、ヒナちゃん?」
「そうですね。今は何の触媒も埋め込んでませんし、お守りみたいなものですよ」
「…………」
それは翻すと、触媒を埋め込めばお守り以外の何かになる、ということだろうか。
士道の頭に、丑の刻参りという言葉が浮かんだ。
白衣に扮した椎崎が頭をロウソクで飾り、深夜に神社の境内で藁人形に釘を打ち付ける。
そんな光景がありありと目に浮かぶようだった。
それを振り払うように笑ってみたが、ぎこちない笑顔になった。
姪っ子に見られたら、気持ち悪いの一言で切り捨てられてしまうかもしれない。
もしそうなったら、士道には涙の海に沈む自信がある。
「あ、あはははは……お、お二人にはいつもお世話になってますよね。正直、助かってます」
精霊に対する作戦行動中は〈フラクシナス〉のサポートがある。
士道の目には見えないが、この二人も奮闘しているはずだ。
それ以外にも、十香や七罪が穏やかに過ごせるよう尽力してもらっている。
その尽力が過ぎた結果、余計なことまで吹き込んでいるような気がするが、まあ置いておこう。
とにかく感謝はあるのだが、今一つ気後れしてしまうのは、先日の件があるからか。
七罪を攻略している最中、士道は子供姿にされていた期間がある。
その際に、この二人が世話をしてくれたタイミングがあるのだが……何が琴線に触れたのやら、大層可愛がってくれたのだ。
そうして頬をつつかれたり体を弄られたり、もみくちゃにされる内に苦手意識が芽生えたのだ。
そんな士道の内心など知らない二人は、気を良くしたのか笑顔で胸を張った。
「任せてください。これからも精霊攻略、バッチリサポートしちゃいますから」
「こう見えても私達、恋愛に関してはある種のエキスパートなのよ」
「は、はあ……それは頼もしい限りです」
「気になる相手の『追跡』なら、私に相談してね」
「邪魔な相手の『排除』なら、力になれると思います」
頼もしいのはいいのだが、出てきた言葉は少々物騒だった。
特に、椎崎の言う『排除』とは、一体どのような状況を想定しているのか。
士道はとりあえず比較的触れやすそうな、箕輪の『追跡』について聞いてみることにした。
「ええと、その『追跡』というのは?」
「そうね、一言で言うなら……愛の電波かな」
「愛の、電波」
それこそ電波じみた説明に、思わずオウム返しをしてしまった。
キメ顔で語る箕輪には悪いのだが、要約しすぎてこれでは全く要領を得なかった。
何か相手の位置を察知できるような超能力の類だろうか。
そういったものに否定的な人間なら一笑に付すかもしれないが、士道は元魔術師である。
魔法を再現するような技術を知っている身としては、にわかには否定できなかった。
それに、最近はごくごく身近に精霊という、よりスピリチュアルな存在がいるのだ。
「彼の部屋に仕掛けた盗聴器や隠しカメラが、私達を繋ぎとめてくれるの……」
「え? と、盗聴? 隠しカメラ!?」
「触れ合うことはおろか、言葉を交わすことさえ許されない……でも、私はそれで幸せなの」
「それってまさか、スト――――」
「ピュアラヴよ」
「…………」
箕輪の気迫に圧されて、口を閉ざす。
そこまでして、その話題に触れる勇気がなかったのである。
彼女の二つ名は〈
その愛ゆえに法律で愛する者への接近を禁止された女であるが、士道はそれを知らない。
しかし明日は我が身……何故だか、無表情な自分の生徒の顔が思い浮かんだ。
「ええと箕輪さん、訴訟されたのに全く懲りてませんね……彼氏さんに迷惑がかかるのでは?」
「大丈夫、足がつくようなことはしない主義なの」
頬に汗をにじませた椎崎の言葉に、箕輪はきっぱりと言い放った。
その言葉には、プロフェッショナルのような風格すら漂っていた。
犯罪は明るみに出なければ犯罪ではない、という理屈だろうか。
何にしても、これ以上触れるのはヤブヘビ案件だろう。
それよりも気になるのは椎崎の反応だ。
箕輪の言葉に若干引いているような様子から、案外普通の感性の持ち主なのかもしれない。
先程の『排除』の一言が気になるが、あれは何かの比喩なのだろう。
士道は気を取り直して、冗談めかして尋ねてみることにした。
「それにしても椎崎さん、『排除』だなんて物騒だなぁ。まさかその藁人形で?」
「あ、はい。すぐに用意できるものだと、第二種呪法になるんですけど」
「それってもしかして、丑の刻参りみたいな?」
「いえいえ、そこまでいっちゃうと呪殺になっちゃいますから。手間も時間もかかりますし」
「そ、そうですか」
「第二種だと、せいぜい釘を打った場所に原因不明の痣ができたり、謎の鈍痛や呼吸困難に襲われたりするだけですから」
「…………」
まるで何でもないことのように語る椎崎に、またも閉口する。
冗談なのかもしれないが、それにしたって妙な凄味があった。
彼女の二つ名は〈
恋のライバルが原因不明の不幸に見舞われる、午前二時の女であるが、士道はそれを知らない。
とりあえず、あまり怒らせないようにしようと心に誓うのだった。
「そういえば副司令を探してたみたいだけど、何かあったの?」
「――そうだった! あのクソ変態の居場所、知りませんか!?」
二人の異様さにすっかり忘れていたが、士道には制裁を与えねばならない相手がいる。
いつかやらかすと思っていたが……というか、過去に通報された経験もある男だが、身内に手を出したとなれば最早一切の容赦もならない。
にわかに怒りを漲らせる士道に、箕輪と椎崎は顔を見合わせた。
「ちょ、懲罰室に入れられた……?」
「はい、あまりにも言動が気持ち悪かったので……」
「七罪ちゃんを思いっきり怖がらせちゃって、司令もカンカンに怒っちゃってね」
二人の説明に、士道は大いに動揺した。
だが当然といえば当然の成り行きだろう。
あんな変態を野に放てば、警察の厄介になることは目に見えている。
地上から隔絶された空中艦内なら、懲罰室行きがお似合いだ。
既に罰を与えられているのなら、士道がとやかく言う事ではない。
しかし、振り上げた拳の手前、少しばかり感情がささくれ立っているのも事実。
(やっぱり一発だけぶん殴っておこうか……? いや、やめておこう)
思考がややバイオレンスな方面へ傾くも、思い直した。
暴力は教師にあるまじき行為だ。
それに、単純に殴ったところで相手を喜ばせるのがオチである。
神無月恭平は、想像を絶する程のドMなのだ。
そして体の発達しきっていない女子中学生は、奴のストライクゾーンど真ん中。
琴里はもちろん、見た目で言うのなら七罪がズバリ当てはまる。
本来ならば、この〈フラクシナス〉に乗せておくのも危険なのだ。
それを七罪の部屋へ向かわせるなど、一体琴里は何を考えていたのか。
「ったく、琴里のやつ……人選はしっかり考えて欲しいよ」
「あー、それなんだけどね……」
「実は、私たちも全員ダメで……副司令はラストリゾートだったというか……」
リゾートといえば『行楽地』というイメージが強いが、動詞だと『頼る』という意味を持つ。
ラストリゾートならば、どうにもならなくなった時に最後に頼る手段、といったところか。
切り札や奥の手と表現すれば聞こえはいいかもしれないが、それは要するに普段は使用されないものを持ち出すということだ。
そして、温存されている理由はについては、推して知るべし、である。
ともかく、中々心を開かない七罪に対する最終手段が、神無月恭平という
「ほら、七罪ちゃんってこっちの言葉をネガティブに受け取っちゃうじゃないですか」
「司令も粘り強く頑張ってたんだけどねぇ……」
「そ、そうだったんですか……」
そしてそれを投入しなければならない程、琴里も苦心していたのだろう。
士道は学校の方が忙しく、呼び出された時以外は放課後に様子を見る程度しか関われなかったのが悔やまれる。
「せめてもう少し相談してくれたらな……」
「穂村くん、気持ちはわかるけどさ、それは言わないであげてよ」
「言葉にはしてないけど、司令は穂村さんにあまり負担がかからないようにしてるんです」
「自分の休みも返上して、毎日ここに詰めてるんだから」
「私たちも見習わなきゃなって思うんですけど、休める時は休めって怒られちゃって」
二人の言葉に、士道は小さく口元を緩めた。
今まであまりこの艦の内情には触れてこなかったが、姪っ子は部下に慕われているらしい。
ここも琴里の立派な居場所なのだ。
ならば、見ているだけという選択はありえない。
少々強引に休憩を取ってもらっているが、その間に少しは穴を埋めておこう。
差し当たっては、七罪の問題か。
士道に対してはマシだが、やはり他の人間とのコミュニケーションは難しいようだ。
自分の容姿に対するコンプレックスが、どうやっても拭いきれないのだろう。
(とは言っても、そこまで悲観する程か……?)
七罪の悪戯っぽい笑顔が頭に浮かぶ。
そして力が封印される直前の、涙に塗れた不器用な笑顔も忘れられない。
普段の不機嫌な表情で隠れがちだが、十分に可愛らしい顔立ちをしているのだ。
しかし、それを素直に伝えたところで、受け入れるかは怪しいところだ。
なので、事前にもう少し自信を持たせなければならないだろう。
そのためには、どうすればいいのか。
演技だったのかもしれないが、大人の姿に変身していた時は、自信に満ちていたのだが……
「……そうか、変身だ」
「変身?」
「どうしたんですか、いきなり」
唐突な言葉に、箕輪と椎崎が首を傾げた。
士道は過去に、二種類の変身をした経験がある。
一つは七罪の攻略中に子供姿に変えられたという、身体ごとまるっきり変化してしまうもの。
そしてもう一つは……黒歴史に抵触するので、ここでは控えておこう。
あの変態が余計なことを話していなければ、これは琴里も知らないはずだ。
とにかく、今回はその時の経験が役立ちそうだ。
とりあえずは、必要なものを用意するところからだ。
「七罪のことで、お二人に少し協力をお願いしたいんですけど――――」
「ね、ねえ……」
「おっと、動くなよ。手元が狂っちまう」
まぶたを閉じたまま、七罪は顔をさわさわと撫でる感触に身をよじった。
士道の台詞はまるで刃物を突きつける悪役のものだが、実際に握っているのはペンシルタイプのコンシーラー……いわゆるコスメである。
肌を広範囲にカバーするファンデーションとは違い、ピンポイントで気になる部分をメイクするものなのだそうだ。
他にもアイライナーやリップグロスやらチークやら、とにかく色々あるようだ。
自分には無関係のものと思い込んでいたため、説明されても細部まで理解は及ばなかった。
そもそも化粧をするまでもなく、〈
もっとも、今は力を封印されているため、自由には扱えないのだが。
それよりも気になるのは……
(何でこの人、こんなに化粧に詳しいわけ……?)
一般論ではあるが、化粧で自らの顔を作り上げるのは、大抵の場合が女性だろう。
他人に化粧を施すことを職業にしているものもいるだろうが、士道は教師である。
一体いかなる経緯で、このような技術を身につけたのだろうか。
気にはなったが、尋ねると「昔取った杵柄」と影を背負いながら答えるのだ。
その尋常ではない様子に、それ以上の追求は躊躇われた。
とりあえず、過去に化粧に関わる仕事を志したものの、挫折して教職に就いたのだと思っておくことにした。
士道は二十七歳になったばかりと言っていたか……新米の教師にしては年齢が高いのも頷ける。
(あれ? でも士道って魔術師なのよね?)
現代においては、単独で顕現装置を使用できるものを魔術師と呼ぶ。
七罪の調査によると、この国では魔術師という存在は、ASTに所属しているはずだ。
部隊の隊長と思しき女性とのやりとりも、昔からの関係をうかがわせるものだった。
士道が過去にASTに所属していたというのは、間違いなさそうだ。
その事に思うところがないわけではないが、あれだけのことがあった後である。
最早疑うのすらバカバカしい。
過去はどうあれ、あんな状況でこんな自分を助けに来る物好きなど、士道の他にいない。
その酔狂っぷりには呆れ果てるばかりだが、七罪にとってはそれが絶対の真実なのだ。
知らずの内に、頬が綻ぶ。
「ん、悪い。くすぐったかったか?」
「わ、笑ってなんかないんだから……ッ」
「もうちょっとで終わるから、我慢しててくれよ」
この謎の時間も、もうすぐ終わりを迎えるらしい。
まず手始めに化粧乗りを良くするための洗顔から始まり、ついでと言わんばかりに洗髪もされて……化粧水などというアイテムを使ったのは、今日が初めてだった。
とにかく、士道の美容に対する姿勢は並大抵のものではなかった。
それでいて、所々で何やら悲壮な様子も覗かせるのだ。
やはり挫折した夢を引きずっているのだろうか。
七罪の中では、すっかりそういうことになっていた。
だからというわけではないのだが、助けてもらった恩はある。
化粧道具を手に戻って来た時は何事かと思ったが、未練を解消したいのなら仕方がない。
自分に対して化粧など無駄でしかないと思いつつも、渋々受け入れたのだ。
「――よし、完成だ。目を開けていいぞ」
言われた通りに目を開ける。
別に閉じていろと指示されたわけではないのだが、何となく怖くてそうしていたのだ。
当たり前だが、目を少し閉じていたところで部屋の中に大した変化はない。
士道が持ち込んだコスメが一式、机の上に転がっているくらいだ。
それにしても、七罪が想像していたよりもあっさりと終わってしまった。
自分に化粧を施すのだから、整形レベルの顔面工事になると覚悟していたのだ。
これでは、洗髪や洗顔にかけていた時間の方がずっと長い。
「ほら、見てみろよ」
「……どうせそんなに変わらないでしょ――――」
渡された手鏡を覗き込んで、七罪は言葉を失った。
そこに映っていたのは、紛れもなく自分の顔だった。
いつもより少し目元がすっきりしていて、頬はほんのりと朱く、唇は薄く桜色に彩られている。
士道が手を加えたのは最小限で、どれもこれも僅かな違いでしかない。
だというのに、そのほんの小さな違いの重なりが、七罪の顔を可愛らしく仕立てているのだ。
これで全く面影の違う顔が映っていたのなら、化粧の力と納得ができただろう。
しかし、これは確かに自分の顔……そう、はっきりと認識してしまった。
理解ができない、納得ができない――――困惑と戸惑いが頭の中を埋め尽くした。
それなのに心の奥底からは、喜びや嬉しさや顔を見せている。
動揺のあまり、この場から叫んで逃げ出してしまいそうだ。
「顔の方はともかく、ヘアメイクはまぁ、俺じゃここらが限界だった。でも、どうだ?」
「え、あ……わ、悪くない…………と、思う」
「髪や服や本格的なスキンケア、ここらへんは他の人に相談してみないとな」
「ほ、他の人……?」
七罪の声に、怯えの色が混じる。
積み上げた苦手意識は、そう簡単に解消されることはないのだ。
俯いたまま、鏡の中の自分と向き合う。
内に抱え込んだ強迫観念が、顔を覗かせた。
『――そんなの出来っこない。また散々馬鹿にされるだけなんだから』
そう、自分がどれだけ着飾ろうとも、まともに相手になんてされない。
ましてや、他人がそんなことに力を貸してくれるはずがない。
天使の力も借りずに変身なんて、出来るはずがない。
黙りこくる七罪の頭に、優しく手が置かれた……士道だ。
何も言わずに、安心させるように、笑いかけてくれていた。
士道が瓦礫に押しつぶされそうになった時、〈
出来っこないと諦めず、出来なければぶっ飛ばすと自分を奮い立たせたのだ。
あの時の熱――自分を変えたいという原動力は、埋もれてしまってもまだここにある。
それを掘り起こすため、七罪はギュッと目を閉じた。
「~~~~~~っ」
そしてしばらくの間唸ってから、顔を上げた。
挑みかかるように、半ばヤケっぱちになって士道を睨みつける。
「どうだ……変身、してみないか?」
「――――やるっ!」
七罪の説得に成功した後、士道は買い物に出ていた。
これから色々と入用になるものを見繕うためである。
今回は箕輪や椎崎から道具を借りたが、肌の具合は人によって違うものだ。
個々の、そして年齢による肌質の違いにも考慮しなければならない。
七罪にはちゃんと彼女の肌に合うものを用意するべきだろう。
そして、今後自分でやっていくことを考えれば、扱いやすいものが好ましい。
本当なら本人を連れてくるのが手っ取り早いのだが、先程の一件で気力を消費したらしい。
今頃は部屋のベッドでダウンしているに違いない。
士道はその光景を思い浮かべて苦笑した。
これからはきっと、そんなことが多くなっていくだろう。
しかし、初めの一歩さえ踏み出せたのだから、きっとどうにかなる。
メイクの技術は黒歴史の一つであるが、こうして役立ったことを考えると捨てたものではない。
元凶である変態に感謝する気は更々ないが、少なくとも悪い気分ではなかった。
琴里には事後報告になったが、許可はもらっている。
今頃は〈ラタトスク〉の方でも色々と手配してくれているだろう。
しかしながら、電話越しの声は呆れているというか、不機嫌そのものだった。
それに関しては士道には思いっきり見に覚えがある。
強引に休憩を取らせたのもあるし、今回も勝手に話を進めてしまった。
独断行動が恒例になっている現状は、改めなければいけないだろうか。
ともかく、ご機嫌取りのためにチュッパチャプスを買い物の予定に加える。
ついでに今日の夕飯の買い物も済ませてしまおう。
恐らく十香も食べるだろうし、中々帰りは荷物が重くなりそうだ。
「まったく、しょうがないな」
言ってしまえば姪っ子や精霊たちのご機嫌取りのための買い物だが、足取りは軽い。
なんだかんだ、世話好きな性分なのだ。
「にしても、本当に暑くなってきたな……」
日差しを遮りながら、誰に言うでもなく呟く。
朝は曇り気味だったが、今は太陽が出ている。
暑くはあるが、こんな日ならば風を切って走るのは気持ちがいいだろう。
士道はご臨終した愛車に思いを馳せた。
新しいものを用意したいが、今は時間的な余裕がない。
以前のように気楽にふらっと出かけることはできないだろう。
これが家庭を持った父親の悲哀というやつなのだろうか。
身近な実例である義兄は妻にも娘にもデレデレで、あまり苦にしている様子はない。
懐の広い人で、士道が尊敬する人物の一人ではあるのだが、参考にはならなさそうだ。
陽光を避けるように日陰を歩いていると、軽い衝撃が走る。
「っと……すまない、不注意だった」
「いえいえ、お気になさらず。お互い様ですわ」
考え事のせいか前方に気が回らなかったのだろうか、ぶつかってしまったようだ。
とはいえ余所見をしていたわけではなく、士道としてはいきなり出現したかのように思えた。
目線を下げるとまず目に入ったのは、黒い髪だった。
日陰の中にあって影に溶け込むような漆黒……真珠のように白い肌が、まるで浮かび上がるように際立っている。
その少女は来禅高校の制服を身に纏っていた。
この休日にそんな格好をしているのだから、学校に用事がある、或いはもう済ませたのだろう。
ぞっとするほど美しい少女だった。
趣は違えど、容貌の美しさだけで言えば十香に比するだろう。
天真爛漫な十香が陽性だとすれば、彼女にはどこか陰のある魅力があった。
前髪で隠れた左目、そして露わになった右目の血を思わせる赤が、その印象を強める。
こんな生徒がいたら話題になっていそうなものだが、見覚えがある程度で今一つ判然としない。
もっとも、全校生徒の顔を隈なく覚えているわけでもない。
正確に把握しているのは、それこそ英語の教科で担当しているクラスぐらいだろう。
軽く会釈して歩き出す。
あまりジロジロと注目するのも失礼だ。
何より、このままここにいてはいけないと、頭の中でアラームが鳴っていた。
そして、その横を通り過ぎる瞬間、風が彼女の前髪を揺らした。
「――――」
その下に一瞬だけ見えたものに、士道は言葉を失った。
人間の瞳ではありえない、金色の時計の文字盤。
夢の中の判然としない輪郭が、この少女と重なった。
流れる汗は、この暑さのせいではないだろう。
騒ぎ出した心臓を抑えるように胸元に手を当て、それでも歩調は保ったまま。
下手に刺激をしたら、命の保証はない。
あの時のように、命を助けてくれる存在はいないのだから。
息を押し殺して、動揺を悟られないよう注力する。
しかしそんな努力も虚しく、背中に声がかけられる。
「あらあら、随分とつれないじゃありませんの」
よく通る声でその少女は、士道を呼び止めた。
「――お久しぶり、ですわね。穂村士道さん」
これは、今朝の悪夢の続きだろうか。
そうだとしたらまだ自分は眠っていて、現実ではベッドの上でうなされているのかもしれない。
一縷の希望にかけて自分の胸に爪を立てたが、痛みはあくまでリアルだった。
少女の名は時崎狂三。
血の赤と影の黒で彩られた〈ナイトメア〉。
士道が
というわけで狂三さんの初登場でした。
彼女は士道くんにとって色んな初めての相手です。
それでは、また次回。