士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
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「おーい、琴里ー? 琴里さんやーい」
五河家の二階にて、士道はドアの前で呼びかけた。
時刻は午前七時前。
今日は始業式なので、その準備のために多少早く出勤しておきたい。
なので、こうして家を出る前に琴里に声をかけているわけなのだが……
『ふみゅぅ……あと一〇分……』
まともな返答はなく、この状態なのだった。
こんなセリフを現実で聞いたのは初めてだった。
思わず額に手を当てる。
このまま放っておけば、寝坊して遅刻しかねない。
古来より個人の、とりわけ女子の部屋に勝手に立ち入ることは、禁忌であるとされている。
しかしながら、今の士道は琴里の保護者的立場である。
これはそう、いわば未成年の監督義務の延長線上にあるものなのだ。
心苦しいことだが、大人には時に子供に憎まれようとも果たさねばならない責任がある。
心を鬼にして、士道は姪のプライベート空間へと踏み入った。
カーテンが閉め切られた室内は薄暗く、自分の部屋とは違う匂いがした。
ベッドの上の膨らみに手をかけると、覚醒を促すように揺さぶってやる。
「ほら琴里、起ーきーろー」
「ん~~、そんなとこ触っちゃダメだってばぁ」
「どこも変なとこは触ってないからなー」
「おかーさんに言いつけちゃうぞー」
まるで小学生の必殺文句だった。
これが小学生男子なら、恐れおののいたかもしれない。
琴里の母である遥子は士道にとって暴君だが、それでも話を聞いてくれるタイプではある。
少なくとも、娘の言い分だけを聞き入れるなんてことはないはずだ。
別に後ろめたいことをしているわけではないので、恐れる必要は微塵もない。
それはそれとして、こうもはっきりとした反応があると、とある疑問が湧いてくる。
それを確かめるため、士道は琴里に対してくすぐりを敢行した。
「――!? ~~~~~~っ」
最初にビクッと大きく体を震わせたかと思うと、その後も堪えるように小刻みに震える。
その様を見て、士道はついに確信を得た。
即ち、こいつ狸寝入りしてやがる、と。
そうとわかれば話は単純だ。
剥がれかかった化けの皮を完全にとっぱらうべく、指の動きをさらに激しくして責め立てる。
「ほーらほらほら、どんどん激しくなるぞー?」
「あはっ、あはははは! しーくん、そ、それダメっ、あはははははっ!」
掛け布団を跳ね飛ばすと、琴里は体をよじらせて笑い出した。
これにてミッションコンプリート、姪の狸寝入りは見事に暴かれた。
指を止めた士道が胸の中を達成感で満たしていると、抗議の視線が突き刺さった。
言うまでもなく琴里である。
暴れたせいでパジャマが乱れ放題捲れ放題、随分とあられもない姿になっていた。
息も絶え絶えで、目の端には涙が浮かんでいた。
年頃の娘がなんてはしたない、と注意すべきかもしれないが、これをやったのは士道である。
今更ながら、少しやりすぎたかもしれない……冷や汗が頬を伝う。
「う~~……絶対おかーさんに言いつけてやる!」
「えーと、その……ちょっと話し合おうか」
泣く子と地頭には勝てないと言うが、士道の場合は姉にも姪にも勝てないのである。
「穂村先生、おはよぉございます!」
「おはようございます、岡峰先生」
「いよいよ今日から、生徒の皆さんと本格的にご対面ですよぉ。一緒に頑張りましょうね!」
予定よりも遅ればせながら学校に到着した士道は、同僚の岡峰珠恵と挨拶を交わした。
ややサイズの合っていない眼鏡に、小柄で愛嬌のある、ともすれば生徒と同年代……下手をすればさらに年下に見られかねない程の童顔の女性である。
これで士道より年上で先輩なのだから世の中はわからない。
初対面の時は随分失礼を働いてしまったことを思い出して、苦笑してしまった。
「うんうん、特に緊張はしてないみたいですねぇ」
「今日は岡峰先生の胸を借りさせてもらいますよ」
「どぉーんと任せてください!」
こうして胸を張っていると、子供が背伸びをしているみたいで微笑ましかった。
生徒からしても親しみやすいのか、『タマちゃん』と呼ばれている場面を何度か見かけている。
その慕われっぷりに、士道が尊敬の念を抱くのに時間はかからなかった。
タマちゃん先生は偉大なのである。
「たしか、自分たちの担当は二年四組でしたっけ?」
「ええ、みんないい子たちなので穂村先生もすぐ仲良くなれますよぉ」
「それは楽しみですね」
二人が担当するクラスは二年四組。
珠恵が担任であり、士道は副担任だ。
同じ教師という立場だが、士道はぺーぺーなので学ぶことは多い。
この一年は、主に珠恵から教師のなんたるかを教わることになるだろう。
新しい環境に身を置くのは少なからず苦労を伴うものであるが、きっとなんとかなるはずだ。
「出席簿、見てもいいですか?」
「ええ、もちろん。どうぞどうぞ」
手渡された出席簿を開くと、中には名前が羅列されていた。
これから一年、士道が担当することになる生徒達のものだ。
当然、知らない名前ばかりだ。
上から順になぞって確認していくと、とある生徒の名前で指が止まった。
(そうか、あの子が……)
士道の胸中に飛来したのは、五年前のとある日の記憶だった。
むこうが覚えているかはわからない。
これまで、どのように過ごしてきたのかもわからない
それでも、少なくとも生きることを諦めてはいないようだ。
感慨と共に出席簿を閉じる。
あの日の少女は、今どんな顔をしているのだろうか。
この後、自分の担当するクラスに向かうのが少しだけ楽しみになった。
「ん?」
デスクの上に置いてあった携帯が、一度だけぶるりと震えた。
この震え方からしてメッセージだろうか。
音は消しているため、振動のみの通知だ。
手に取ると画面が点灯して、メッセージが一件の表示。
『デラックスキッズプレート!』
内容はこの上なくシンプルだった。
差出人は琴里である。
これは士道に対する念押しだろう。
家を出る前の話し合いの結果、今日の昼は琴里とファミレスに行くことになった。
言ってしまえばご機嫌取りだが、これを疎かにしては後に自分の立場が危うくなるのだ。
しかしながら、教師である士道は生徒と違い、午前中で終わりというわけにはいかない。
それでも昼休憩の時間はあるので、その間に琴里と合流してランチというわけだ。
移動時間を考えれば慌ただしい昼になりそうだが、今日は多めに休憩時間をもらっている。
それを活用すればなんとかなるだろうという目算だった。
琴里はよほど楽しみなのか、家を出る時も念の押しようが半端じゃなかった。
地震、火事、空間震が起きても、ファミレスがテロリストに占拠されても絶対とのことだ。
無茶苦茶を言ってくれる、とは思ったものの、そこまで楽しみにされては悪い気はしない。
今頃は士道が作っておいた朝食を食べているだろうか。
今日の帰りには、好物のチュッパチャプスでも買って行ってやろう。
ご機嫌取りを抜きにしても、なんだかんだ姪には甘いのだった。
『――今日未明、天宮市近郊の――』
誰かが携帯でテレビを見ているようだ。
アナウンサーの明瞭な声が、聞きなれた街の名前を読み上げた。
天宮市とは、士道の暮らすこの街のことである。
大きな災害の跡地に置かれたもので、遠くから街を見渡せば、すっぽりとクレーターの中に収まっているように見えるだろう。
「また空間震か。最近多いな」
「場所も近いし、いつこっちに飛んでくるかわかったもんじゃないな」
そしてこの地でかつて起きた大きな災害こそが、空間震である。
読んで字のごとく、空間の地震と称される広域振動現象であり、三〇年前のユーラシア大空災を皮切りに、世界各地で発生している災害だ。
突発的であり、被害規模も大きく、原因は不明……とされている。
(それにしても……飛んでくる、だなんて言い得て妙だよな)
その表現がなんとなくおかしくて、士道は不謹慎にも思わず笑ってしまった。
双子の台風は、今も元気に飛び回っているのだろうか。
「そういえば、この学校の空間震対策ってどうなってます?」
「そうですねぇ、設備自体は新しいですけど、マニュアルは他と大差ないと思いますよ?」
過去に大量の犠牲者を生み出した空間震。
だが、人類もただその被害を甘受していたわけではない。
地震と同じく、空間震には前震がある。
それを観測することで、予測される被害区域一帯に警報が鳴るのだ。
天宮市にはいたる所にシェルターが備え付けられているため、空間震警報が発せられれば一斉にそこへ避難が始まる。
もちろんこの学校にも、地下に全生徒を収容できる規模のシェルターが設置されている。
加えてこの街ではしつこいぐらい避難訓練が多いため、いざという時に恐慌状態に陥って動けなくなる者も少ないだろう。
それもこれも、全ては過去の被災経験から来るものだ。
世界全体で見比べても、この天宮市は空間震災害に特化した造りをしているのだ。
携帯を覗き込んだ教師たちにどこか余裕があるのは、そのおかげだろう。
無理に肩肘を張る必要はない。
一般人である士道は、ただ避難訓練通りの動きをすればいいのだ。
「それとあともう一つ、生徒との接し方についてなにかアドバイスお願いします」
いつ来るかわからない災害より、今は目先の生徒たちとの対面だ。
ここは一つ、先輩の胸を思い切り借りることにした。
『いいですか? 生徒の皆さんと仲良くなる近道は、残念ながらありません』
『まずは顔とお名前を覚えて、一つずつ向き合っていきましょう!』
そんな金言を賜ったのが数十分前。
士道は緊張した面持ちで、二年四組の表札を見上げていた。
これからいよいよ、自分の担当するクラスの生徒との対面である。
教室の中からは、話し声が雑多な音となって廊下まで漏れ出ている。
気持ちの問題かもしれないが、教育実習の時とは背中にかかる重圧が段違いだった。
珠恵はそんな士道を気遣うように笑いかけると、教室のドアを開いた。
「はい、皆さんおはよぉございます」
教卓に着いた珠恵が挨拶に次いで軽い自己紹介を行うと、教室は小さなざわめきに包まれた。
どうやら担任として概ね好意的に受け入れられているようだ。
タマちゃんという愛称と共に、歓迎の声がそこかしこで上がった。
そして次はいよいよ士道の番である。
尊敬すべきタマちゃん先生が、教卓から横にずれてスペースを空けていた。
ぎこちない足取りで教壇に登る。
ざわめきが静まり返り、教室中の視線が士道に集まるのを感じた。
なんとか黒板に自分の名前を記すと、教卓に手をついて振り返る。
ここからは生徒たちの顔がよく見えた。
残念ながら、まだ顔と名前は一致しない。
唯一、窓際最後列の女子以外は。
あの頃よりも背が伸びて、顔も大人びている。
かれこれ五年は経っているので、当たり前だろう。
肩口をくすぐる程度の長さの髪に、人形のような無表情。
こちらに興味がないのか、その視線は窓の外に向いていて横顔しか見えない。
しかし、彼女がここにいる事自体が士道を奮い立たせた。
絶望を乗り越えて生きている彼女に、情けない姿を見せるわけにはいかないのだ。
「今日から一年間、このクラスの副担任を努めさせていただきます、穂村士道です」
言い終わるや否や、窓際最後列の少女が机に手をついて、すごい勢いで立ち上がった。
先程までの無表情がウソだったかのように、目を見開いて士道を凝視している。
他の生徒は何事かとその少女――――鳶一折紙へと目を向けた。
それらの視線を意に介することなく、折紙は軽やかなステップで席を発つと瞬く間に教壇まで距離を詰め、士道目掛けて飛び込んできた。
恐るべきスピードだった。
このままでは確実に衝突……しかも顔と顔がだ。
瞬時にそこまで判断すると、士道は身をよじってどうにか直撃コースを回避した。
その際に尻餅をついてしまったのは、体が鈍っているせいかもしれない。
「――何故避けるの?」
「いや、なんではこっちのセリフなんだけどね」
折紙は教卓に軽やかに着地して首を傾げた。
さも不思議そうにしているが、わけがわからないのは士道の方である。
予想だにしなかった事態に、背中に変な汗が伝ってきた。
こんなことをされる理由も意図もわからない。
出方をうかがっていると、折紙は今度は雷のような俊敏さで士道に馬乗りになった。
起き上がる暇すらなかった。
さっきから身のこなしが、一般人のそれではないように思えるのは、気のせいだろうか。
「大丈夫、じっとしていればすぐに済む」
「いやいやいや、待て待て待て!」
マウントポジション……格闘技の世界ならばここからパンチの雨が降るもので、染み付いた習性からか士道は咄嗟に防御の構えをとっていた。
しかし実際にそんなことはなく、衣擦れの音と何かがパサりと落ちる音。
ブレザーを脱いだ折紙が、リボンタイを解いて自分のワイシャツに手をかけ始めたのだ。
いきなり脱ぎだそうとする生徒の手を掴んで止めようとするが、それがあらぬ誤解を招いた。
「ほほほ、穂村先生!? 鳶一さんの制服に手をかけて何をしているんですか!?」
「ちょっ、ちがっ……これは止めようとしているだけで――――」
珠恵を皮切りに、教室内がにわかに騒然とし始めた。
折紙の暴走にフリーズしていた生徒たちも、現状を理解(誤解)したようだ。
ガタイのいい、髪を逆立てた男子が愕然とした表情で叫んだ。
「こ、恋人にしたい女子ランキング三位……学校一の才女が即落ちしただとぉー!?」
「ちょっと、あの先生早速鳶一さんに手ぇ出したわけ!?」
「この淫行教師!」
「マジ引くわー!」
「皆さん落ち着いてぇー! こんな時こそおかしですよぉー!」
席から立ち上がった三人の女子に罵倒されて、士道は気が遠くなり始めていた。
もういっそのこと、夢だと思いたかった。
タマちゃん先生が事態を収めようと頑張っているが、まるで収まる気配がない。
というか、一体この場合のおかしとは何を指すのか。
(ああ、あの人は今何をしてるんだろうな……)
現実逃避気味に名も知らぬ思い人の顔を思い浮かべながら、士道は今度は自分の服を脱がせにかかる折紙との攻防を繰り広げるのだった。
「あ、あははは……た、大変でしたねぇ」
「……大丈夫です、あれしきのことではメゲませんよ」
「穂村先生、ファイトですよぉ!」
職員室にて、士道は珠恵に大いに気遣われていた。
デスクで項垂れている姿は、あまり大丈夫そうには見えなかった。
後に『鳶一インシデント』と呼ばれることになる事件から、およそ三時間後。
本日の予定を全て済ませた生徒たちは、これから帰宅していくことだろう。
そしてまた、明日から通常通りに登校してくるのだ。
その明日からを考えると、士道の胃が重くなった。
『ごめんなさい、寝不足で朦朧としていた。折紙うっかり』
あの後、正気に戻った折紙のそんな言葉によって、事態は一応収まった。
人のいいタマちゃん先生はその言葉を信じ、今こうして励ましてくれているわけだ。
しかし生徒の方はそうはいかなかったようで、始業式の後のホームルームは針の筵だった。
その時のことを思い出すと無限に気が沈み込んでいく、負のスパイラルである。
とはいえ、琴里との約束を控えている中、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
「……ちょっとトイレ行ってきます」
顔を洗って出直すべく、士道は職員室を出た。
この来禅高校は、数年前に改築……というより新築された学校である。
元は約三〇年前に二つの高校が統合されて出来たものなのだが、数年前に空間震で派手にブッ壊れた際、せっかくだからと大規模な改築がなされたのだ。
その結果、最早原型を留めない程に造り替えられたので、実質新築なのである。
士道も来禅高校の卒業生なのだが、当時の面影は無いに等しい。
そこに寂寥感を覚えなくもないが、やはり便利になった面のほうが大きい。
トイレにしても動線を考えられているからか、通いやすい。
どうでもいいことのように思えるが、こういう地味な部分が効いてくることもあるのだ。
この職員室から教員用のトイレまでの具体的な距離は、ほんの十メートル程。
しかしその短い距離の間で、自分のクラスの生徒と出くわしてしまった。
先ほどのことを思い出し、自然と手が上腹部をさするように動いた。
ガタイのいい、髪を逆立てた男子……たしか、殿町宏人。
二年四組の教室は近いわけではないので、ここにいるのは職員室に用があると見るべきか。
その内容はともかく、ここで無視するわけにはいかない。
士道はぎこちなくも笑顔を浮かべて、用向きを尋ねてみることにした。
「や、やあ殿町、なにか職員室に――――」
「おみそれしました!」
食い気味に叫ぶと、殿町は士道に向かって勢いよく頭を下げた。
この生徒とは今朝が初対面で、今日は会話すらなかったはずだ。
それなのに何故、自分はこんな風に頭を下げられているのか。
そしておみそれしましたとは、侮られていたということだろうか。
そこは新任教師ゆえに仕方のない部分もあるだろう。
問題は、士道がその侮りを覆すほどの活躍をまだ見せていないことだ。
良くて、女子生徒に押し倒される情けない男性教師。
悪くて、新任早々女子生徒に手を出す淫行教師。
生徒の自分への印象はこんなもののはずだ。
……なんだか無性に泣きたくなってきたので、それ以上考えるのをやめた。
「俺、先生のこと尊敬してます!」
理由はさっぱりだが、殿町はキラキラとでも形容できそうな目を士道に向けていた。
正直悪い気はしないが、どうにも引っかかるものがある。
その眼差しは、自分の高校時代によく見たものに似ている……ような気がした。
もちろん、士道も殿町が彼らのような人種ではないことは理解している。
実質新築されて来禅高校は設備も充実したせいか、少々入試難易度が引き上げられた。
それまでは柄が悪い生徒もそれなりにいたので、そのふるい落としを狙ったのかもしれない。
理由はどうあれ、この高校に所謂不良と呼ばれるような生徒はほぼいない……はずだ。
ここは気のせいなのだと結論づけることにした。
「ええっと、そう言ってくれるのは嬉しいんだけど……君になにかしたかな?」
「もちろんですよ! 俺、あの勇姿は忘れません……!」
だからその勇姿に関して、全く心当たりがないのである。
ここには士道の高校時代を知る者はほとんどいないので、黒歴史が漏れているとは考えにくい。
そして前の職場のことが知られているというのは、万が一にもありえない。
まさか、今朝の情けない姿を見てそう言っているわけでもないだろう。
「あの鳶一折紙を一瞬で落とすなんて……その手管、是非ご教授下さい!」
士道は大いに脱力した。
まさかのそのまさかだった。
あの情けない姿が、彼には勇姿に映っていたようだ。
またしても高校時代を思い出して、思わず渋面になってしまう。
そんな士道にお構いなしに、殿町は自分の携帯を差し出してきた。
見ると、画面の中央には女の子が立っており、その周りに四角い枠がいくつか表示されている。
所謂ギャルゲーというやつだろう。
もしかして、この画面内の女子を攻略するためのアドバイスを求められているのだろうか。
「俺の彼女が中々に手ごわくて……ここは恋愛マスターの穂村先生に助言を頂きたく!」
士道は大いに頭を抱えた。
まさかのそのもしかしてだった。
二次元の女子を彼女と言い切る姿に少々悲哀を感じたが、趣味嗜好は人それぞれである。
そんなことで人間を判断するほど、器は小さくないつもりだった。
それよりも問題は、自分が恋愛マスターだのと誤解を受けていることだ。
現実には生身の女性はおろか、二次元の女子とも付き合ったことがないというのに。
今日はもう一杯一杯だった士道は、ひとまず先延ばしという選択肢を選んだ。
「その、な? ちょっと今は時間ないから……また後で!」
「って競歩速っ!? 待ってください師匠~!」
廊下を走ってはいけないという校則通り、歩きながら速やかにその場を去るのだった。
「はぁ、はぁ……どうにか撒いたか」
校舎の端で、膝に手をついて荒い息を吐く。
トイレに向かっていたはずなのに、どうして自分はこんな所にいるのだろうか。
これから先、生徒とどうやって接していけばいいのか。
明日からのことを考えると、気が重くて仕方がなかった。
しかし、これしきの事でへこたれるわけにはいかない。
士道は自分が教師になった理由を思い出して、気合を入れた。
「……よしっ!」
「――――先生?」
「うわぁっ!」
突然声をかけられて、情けなくもその場から飛び退く。
平時ならともかく、一瞬の油断が命取りになる場では、即座に動けないと立ち行かないのだ。
そもそも不意を打たれているのはツッコミどころだが、それを指摘する者はこの場にいない。
士道に声をかけてきたのは、今朝に大暴走した鳶一折紙だった。
「今朝はごめんなさい」
折紙は深々と頭を下げた。
あれからまともな接触はなかったので、声を聞いたのは今朝以来だ。
どうやら、自分がいけないことをしたという自覚はあったようだ。
それならば士道の方から殊更に注意することはない。
「わかってるならいいよ。まぁ、あれはちょっといけなかったよな」
「そう、あれは二人きりの時にするべきだった」
「違う、そうじゃない」
「つい長年の感情が爆発してしまった。折紙うっかり」
一体どのような感情を熟成させたら、出会い頭に馬乗りになるという暴挙に出るのか。
もしかして、この子は自分を社会的に破滅させようとしているのだろうか。
行き場のない感情が士道への怨恨という形に落ち着いたのなら、理解できなくはない。
逆恨みではあるが、時にはそれが生きるための原動力になったりもするのだ。
悪感情を向けられるのは悲しいことだが、幸いにも誤解を解く時間には事欠かない。
士道はそうやって折紙に寄り添うことを、自分の当面の目標に定めた。
「――っ」
思案から抜け出して顔を上げると、折紙の顔が間近に迫っていた。
そういえば、ここには自分たち以外の姿はない。
図らずも二人きりの状況なのである。
身の危険を感じた士道は一歩、後ずさった。
そうすると、すかさず折紙は一歩距離を詰める。
それを繰り返しているうちに、あっという間に壁際に追い詰められてしまった。
男女は逆だが、漫画で言うところの壁ドンの体勢だった。
強引に押しのけるしか逃げ道はない。
しかし今朝の出来事の手前、女子との接触には慎重にならざるを得ない。
淫行教師という罵倒は、思いのほか士道の胸をえぐっていた。
「が、学校でこういうことは、しない方がいいと思うんだ」
「そう。でも、私はもう我慢の現界」
士道の苦し紛れの制止に、表情を動かさずに折紙は淡々と答えた。
しかしよく見れば呼吸は少し荒いし、目も潤んでいるように見えた。
我慢の具体的な内容とは、一体何なのだろうか。
生徒にいいようにされているこの状況だというのにに、どうしようもない焦燥と共に奇妙な興奮も湧き上がってくる気がした。
自分の中の変化に戸惑いながら、士道は生唾を飲み込んだ。
「じっとしてて」
折紙の手が、士道の頬へ伸びる。
このままではいけないと思いつつも、体は動かない。
それは教師にあるまじき劣情か、かつて命を救った少女への責任からか。
その奥にある答えに、士道が気づくことはなかった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――
校舎をビリビリと震わせるような、耳障りな音が街中に響いた。
それに次いで、避難を促すアナウンスが流れる。
空間震警報――――二人は跳ねるように顔を上げた。
その際、士道は折紙の体から別の音が鳴ったのを聞き逃さなかった。
「先生は急いで避難して」
言葉短かに告げると、折紙は走り去っていった。
その方向にシェルターはないため、避難に向かう動きではない。
教師としては当然引き止めるべきだが、そうなる以前の自分がそれを許さない。
士道は拳を握り締めると、生徒の避難誘導のためにその場を後にした。
「お、落ち着いてくださぁーい! だ、大丈夫ですから、ゆっくりぃー!」
廊下に避難誘導を進める珠恵の声が響く。
生徒たちは慣れたもので、特に慌てることもなく粛々と誘導に従っている。
警報が鳴ってからも幾分かの猶予があるのだ。
状況的に見れば、当のタマちゃん先生が一番落ち着いていなかった。
「おかしですよ、おーかーしー! おさない・かけない・しゃれこうべーっ!」
それだとむしろ避難に失敗しているのでは?
生徒たちのくすくすという笑いと共に、士道も苦笑した。
テンパっている姿に威厳こそなかったが、それがかえって安心を引き出しているらしい。
それもこれも人徳のなせる業かと、同時に感心もした。
是非とも見習いたいところなのだが……
「ガルルルルッ!」
「フシャー!」
「マジ引くわー!」
担当クラスの生徒の中にこちらを威嚇する女子が三人。
今朝の騒動の中で、士道に対して非難の声を上げた生徒たちである。
猛獣のような声を上げているのが山吹亜衣。
三人の中で一番背が高く、制服を着崩したギャルっぽい見た目の女子だ。
猫の威嚇のような声を上げているのが葉桜麻衣。
三人の中で一見一番まともに見えるが、士道を『淫行教師』と罵倒したのは彼女である。
そして唯一人間の言葉を発しているのが藤袴美衣。
長い黒髪に眼鏡と、一見したら文学少女のような出で立ちの少女なのだが、出会ったばかりの士道は、彼女の口から「マジ引くわー」以外の言葉を聞いたことがない。
三人は似たような名前の縁から、一緒に行動することが多いらしい。
それは結構なのだが、三人揃って警戒の目を向けてくるのには少々堪えるものがある。
これからも関わりはあるだろうし、どうにか誤解を解いておきたいところだ。
そして男子の方に目を向ければ、殿町がいい笑顔で親指を立ててきた。
こちらの誤解も解かねばならず、考えれば考えるほど頭が痛かった。
「ほ、穂村先生っ、私たちも早く避難ですよぉ!」
「ですね。落ち着いていきましょう」
付近の生徒の避難が終わったことを確認すると、珠恵がワタワタと避難を促してきた。
ここでもたついて空間震に巻き込まれてしまっては、一巻の終わりである。
その恐ろしさは、身にしみてよくわかっているつもりだった。
慌ただしい先輩教員の後ろに着いて避難する傍ら、士道は自分の携帯を取り出した。
琴里に対する安否確認である。
まさか避難誘導の最中に携帯をいじるわけにはいかず、ここまで先延ばしになってしまった。
しかし送ったメッセージに反応はなく、電話にも出る気配がない。
(ちゃんと避難してるんだろうな、あいつ)
胸の内を突き破りそうな不安を押し殺す。
中学校にいるのなら既に避難しているだろうし、この街の中なら公共シェルターに事欠かない。
人の手が入っていない山中等、余程変な場所にいない限りは避難場所に窮することはないのだ。
だというのに――
『絶対だぞ! 絶対約束だぞ!』
今朝、家を出る前の琴里の言葉が頭から離れなかった。
そんなはずはない、とどれだけ自分に言い聞かせても、焦燥が這い上がってくるのだ。
震える手で、携帯の位置確認サービスを呼び出す。
琴里の携帯はGPS機能付きで、このサービスに対応していたはずだ。
画面に、街の地図と赤いアイコンが表示された。
それらが示す琴里の現在地は――――
「あんの、馬鹿っ……!」
「ちょっ、穂村先生、どこ行くんですかぁ!?」
「逃げ遅れた生徒がいないか、もう一回確認してきます!」
焦燥に急き立てられるがまま、士道は走り出した。
琴里の携帯の位置を示す赤いアイコンは、約束のファミレスの前で静止していた。
(琴里、琴里琴里琴里……ッ!)
無人の街の景色が、視界の端を流れていく。
道交法違反を承知の速度で、士道は公道をバイクで駆け抜けていく。
避難が進んでいるためか、ほとんど車の姿もない。
あったとしても道端に放置されたもので、爆走する士道の妨げにはならなかった。
空を見上げれば、四人ほどの人影が白い尾を引きながら飛行している。
いよいよ猶予がない。
フルスロットルで、目的地へと更にスピードを上げていく。
「――っ!?」
その矢先、士道の進行方向の空間が突如として歪んだ。
今まさに空間震が起ころうとしていた。
しかし、この速度では急ブレーキをかけても止まりきれない。
舌打ちをすると、士道はバイクの背から思い切り後ろに飛んだ。
そして歩道との境にあるガードパイプにしがみつき、無理やり体をその場に留めた。
減速していたとはいえ、バイクの速度は時速百キロ近く。
腕に尋常ではない負荷がかかる……どこか関節がイカれたかもしれない。
乗り捨てたバイクは慣性のまま進み続け――――次の瞬間、まばゆい光が視界を埋め尽くした。
次いで、凄まじい爆音と衝撃波。
ガードパイプを掴んでいた士道もこれには堪らず、吹き飛ばされて宙を舞った。
「ぐあっ……く、そ……俺のバイクが……!」
地面に打ち付けられ、顔を上げると、目の前の景色は一変していた。
右肩を押さえながら立ち上がる。
妙に風通しがいい……率直な感想がそれだった。
そこにあったはずの街並みは、えぐり取られたかのように消え去っていた。
止まらずに進み続けたバイクも同様である。
残ったのは、隕石が落ちたかのようなクレーターのみ。
その中心に、士道は妙なものを見つけた。
(あれ、は)
そびえ立つ玉座と、その肘掛に足をかける少女。
この世のものとは思えない、光を織り込んだかのようなドレス。
士道の全身が粟立った。
「ん……?」
少女が気怠げに夜色の長い髪を翻し、士道の姿を認めた。
そして自分が足をかけた玉座の背もたれから、ゆっくりと幅広の大剣を引き抜いた。
刀身が虹、もしくは星のような煌めきを放つ、幻想的な刃。
特殊災害指定生命体が振るう、天使と呼ばれる兵器。
少女がその剣を振りかぶったところで、ここからは相当な距離がある。
届くはずがない――――そんな常識を捨てて、士道は即座にその場に伏せた。
少女が横薙ぎに振り抜いた刃の軌跡が、先程まで頭があった位置を通り抜けていった。
数瞬の後、背後から遠雷のような崩落音が響いた。
何が起こったか確認する余裕なんてない。
この瞬間、少女から目を離すことが死に直結すると、士道は正しく理解していた。
(――どうする?)
目を一切背けないまま、思考を回転させる。
考えるのをやめれば、待っているのは死だ。
立ち向かうのは論外……相手に対抗する手段が、士道にはない。
逃げるのも悪手……というより、逃げきれる保証がない。
ならば、残る手段は――――
「――おまえも……そのような目で、私を見るのか……」
「……っ」
一瞬たりとも目を離してはいないのに、士道の視界から少女の姿が消えていた。
その代わり、頭上から酷く疲れたような声がした。
クレーターの中心にいたはずの少女が、いつの間にか傍らに立っていた。
そうして初めて、士道はその姿をはっきりと捉えた。
膝まで届く夜色の髪、紫水晶のような瞳。
凛々しくも愛らしい顔を、憂鬱そうに曇らせている。
鎧のようなドレスのような、幻想的な光を放つ装いは、まるでファンタジーから抜け出してきたプリンセスを思わせた。
士道はこの少女を知らない。
しかし間近でその瞳を見て、その奥に抱え込んだものを確かに感じ取っていた。
絶望と諦念……自分がかつて抱いていたものと、同じものだ。
(……全く、冗談じゃねぇ)
地面に伏せた体勢から、その場にふてぶてしく座りなおす。
そして立ち向かうことも逃げ出すこともせず、ただ目の前の少女を見据える。
「俺は穂村士道。君は?」
「……私、は――なんなのだろうな。災厄、害悪……そう呼ばれてきた」
「……名前は?」
「――そんなものは、ない」
少女の泣きそうな表情に、士道は息を詰まらせた。
向けられた剣の矛先よりも、よっぽど胸を締め付ける。
「君は、俺を殺すのか?」
「当然ではないか。おまえも、私を殺しに来たんだろう?」
「そんなわけ――――伏せろっ!」
士道の正面上空――少女からしたら死角――に複数の人影。
ボディスーツのようなものを身に纏い、機械の翼を背負って滞空した女性たちだ。
それがこちらに向けて、ゴルフバック大の何かを構えていた。
咄嗟に少女の手を引こうとしたが、振り払われてしまった。
次の瞬間、二人を目掛けて多数のミサイルが飛来した。
再びその場に伏せた士道だが、いつまで経っても衝撃はやって来なかった。
少女がかざした手の前に、ミサイルは何かに掴まれたかのように空中で静止していた。
「……こんなものは無駄と、何故学習しない」
そしてかざした手がグッと握りこまれると、ミサイルが圧壊してその場で爆発した。
しかし爆風は士道に届かない。
外から握りつぶされるように、爆風も押さえ込まれたのだろうか。
その後も次々とミサイルの雨が降るが、どれも少女を傷つけることは叶わなかった。
「消えろ、消えてしまえ……っ!」
少女が上空に向けて剣を振るうと、飛来する斬撃に堪らず人影は散開した。
直接向けられていないのに関わらず、凄まじい衝撃波が士道を襲った。
地面にしがみつきながら、少女を見る。
その姿はまるで、泣き叫んでいるようだった。
それに急き立てられるように手を伸ばす。
つい先程、振り払われたことは頭から飛んでいた。
「――ぐっ!?」
目を灼く光が、横合いから殴りつけるように飛来した。
伸ばした手を引っ込めて、目を覆う。
新手の攻撃――またも少女が防いだのか、士道に被害はなかった。
光がおさまると、それを放った者の姿が露わになる。
全身をボディスーツのようなもので覆い、背には機械の翼を背負った少女。
鳶一折紙……士道が副担任を務めるクラスの生徒が、そこに立っていた。
憎しみと敵意を宿した瞳。
疑問はなかったが、思わず顔が歪んでしまう。
彼女が今何のために生きているのかを察して、やりきれない気持ちになった。
「先生……?」
あちらも士道に気づいたようだ。
無表情ながらも、声には怪訝を示す色があった。
一般人は既に避難しているはずなので、その反応は当然だ。
こういうケースは、どのような対応になるのか。
それを思い出そうとしていると突然、士道の体が衝撃とともに宙を舞った。
「――去ね。私を害する気がないのならな」
軽く十メートルは飛んだだろうか。
受身を取り損なった士道は、地面に強かに打ち付けられた。
意識が遠くなる……霞む視界の中に、少女の寂しげな顔。
「さもなくば、同胞に討たれることになるぞ」
きっと、戦闘に巻き込まれないように遠ざけたのだろう。
手加減もしていたはずだ。
でなければ、士道は今頃跡形も残っていない。
気まぐれなのかもしれないが、そこにはたしかに少女の優しさが感じ取れた。
(これだから、精霊ってやつは――――)
それは悪態のような、安心のような……その先は言葉にならなかった。
そして、そのまま士道の意識は途切れた。
「……んんっ」
頬に柔らかく湿った何かが触れて、それが覚醒を促した。
士道が目を開けると、真っ先に光が飛び込む。
瞼を閉じようとしたが、何かに押さえられているようで片目しか閉じれなかった。
「……ん? 目覚めたね」
光が消えて、メガネをかけた眠たげな女性の顔が視界に飛び込んできた。
ペンライトのようなものを持っている。
どうやら、気を失った士道の眼球運動を見ていたようだ。
漂うシャンプーの匂いに、胸が高鳴った。
この女性に、士道は確かに見覚えがあった。
「あ、あなたは……!」
「……ん、ああ」
眠たげな目元に深いクマ、不健康そうな顔色だが、それらを差し引いて余りあるほど美しい。
士道が一夜を共にした相手……名前も知らない思い人だ。
あの時のように全裸ではなく、無造作に髪をまとめて、軍服らしきものを身にまとっていた。
そのポケットから覗く、くたびれたクマのぬいぐるみがいやに目を引いた。
「……ここで解析官をやっている、村雨令音だ」
その名前を士道は心に刻みつけた。
しかし、相手の反応は驚くほど平坦だ。
単に忘れているのか、どうとも思っていないのか。
世の中には自分によく似た人間が二人は存在するそうなので、全くの別人説もある。
相手に対する不安と興奮が綯交ぜになって、とにかく心が落ち着かない。
そのせいか、この場所や現状への疑問は浮かんでこなかった。
ふと、自分の右頬をさする。
先ほどの感触はなんだったのだろうか。
すると、彼女は微笑んで――――
「……また、会えたね」
見事に心を撃ち抜かれた士道は、放心状態で再びベッドに倒れるのだった。
折紙とかいう、士道くんが淫行教師呼ばわりされる最大の原因