士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
タイトル通りというか、今回の話は原作に対するネタバレが多分にあります。
一応、原作やアニメを終盤まで見てない方は注意してください。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――
街中に耳障りなサイレンの音が鳴り響く。
空間震警報……一般市民にとっては避難の合図だが、特定の立場にいるものにとっては違う。
即ち、精霊の現界。
本来の所属は別だが、現在は日本の対精霊部隊、通称・ASTに所属する魔術師である真那は、その脅威に立ち向かわなければならないのだ。
しかし、通常であれば精霊は空間震と共に現れるのだが、今回は既に目の前にいる。
対峙するのは〈ナイトメア〉――天災と称される精霊の中でも、最悪と恐れられる個体である。
この警報は、その身から放たれる霊力を感知して発せられたものだろう。
身に纏うCR‐ユニットの肩部にマウントされたパーツを分離させ、腕に装着する。
そしてそこから出現した光の刃を、真那は油断なく構えた。
(――兄様は……気を失ってるみてーですね)
対する相手に注意を向けたまま、生き別れの兄――穂村士道の安否を確認する。
触れることはおろか、視線さえ向けていないが、彼の体は真那の随意領域のうちにある。
簡易的にだが、こうして体調を確認する程度なら造作もない。
そしてそのまま、士道の周りを防性随意領域で覆う。
本当なら遠ざけるべきなのだが、そんなことを相手が許してくれるとは思えない。
となれば、
「速攻で片を付けさせてもらいます。さっさと死にやがってください」
「いいえ、いいえ、今回ばかりは、簡単に
この屋上という遮るものがない空間で、奇妙にも笑い声が反響する。
いや、これはまるで音源がいくつもあるような……そんな音の重なり方だった。
最悪の精霊は踊るように二度、踵を打ち鳴らした。
「さあ、さあ、おいでなさい――〈
打ち鳴らした足元の影が背後へ伸びる。
その中からゆっくりと、巨大な時計が姿を現した。
呼び出した当人の身の丈を優に超える巨体。
その文字盤に収まった長針と短針が離れ、最悪の精霊の手元に渡る。
細緻な装飾を施された、古式の歩兵銃と短銃。
その非対称な二丁銃が、〈ナイトメア〉の戦闘スタイルなのだ。
しかし、そんなものはとうに見飽きている。
その命を刈り取るため、真那はスラスターユニットに指令を送った。
「〈
巨大な時計の文字盤の『Ⅶ』から、影が滲み出て歩兵銃へ吸い込まれていく。
しぶとさだけはピカ一だが、〈ナイトメア〉の攻撃力は真那の随意領域を貫くには至らない。
生半可な攻撃なら、このまま押し切るだけ――――
「が――ぁ……ッ!?」
次の瞬間、真那は屋上の地面に倒れ伏していた。
体が動かない――すぐさまスキャニングを開始……四肢がズタズタに撃ち抜かれていた。
ちょっとした傷ならば、自然治癒能力を高めて塞ぐこともできるだろうが、こうも原型を留めない程ぐちゃぐちゃにされてはそれも叶わない。
しかし壮絶な痛みよりも、その意識を最も大きく占めているのは、別のことだった。
痛みと屈辱に顔を歪めながらも、頭の中は何故という疑問に埋め尽くされていたのだ。
少なくとも真那の目は、相手の姿を一瞬たりとも見失っていない。
だというのに斬りかかった次の瞬間、こうして無様に地面に這いつくばっていた。
死角からの攻撃を察知できなかったのか――それはありえない。
現代の魔術師が操る随意領域は、文字通り己の意のままになる空間だ。
体の周囲に張り巡らされたそれが、自分の身に迫る脅威を見逃すはずがない。
真那の認識では、相手はたった一度銃弾を放っただけだ。
その一発が、ここまでの事態を引き起こしたとでも言うのだろうか。
何か恐ろしいものの片鱗に触れた気がして、歯を強く噛みしめる。
それに応えるように、最悪の精霊――時崎狂三は屈み、動けなくなった真那の顔を覗き込んだ。
「貴様……一体何を――――」
「わたくしの天使の前には、如何なる速さも強さも、意味を成しませんわ」
そして後頭部から伸びる
そこだけ切り取れば熱を測っているように見えなくもないが、状況が異常にすぎる。
一体この行為にどのような意図があるのか、真那には全くわからない。
間近に迫ったその瞳を睨み返すことしかできない。
右の瞳は血のように赤く、左の金色の瞳の中では長短秒三つの針が無機質に時を刻む。
その二つを細く歪め、狂三は声を歓喜に打ち震えさせた。
「さあ、さあ、真那さん。私の知りたいことを、是非教えてくださいまし……!」
「何のことやら、さっぱりですが……貴様に、教えやがることなんて、何一つねーんですよ」
「きひ、きひひひひひッ、ええ、ええ、勿論素直に教えていただけるだなんて思っていませんわ。〈
狂三の背後にそびえ立つ、巨大な時計の文字盤から影が滲み出す。
そしてその影は、彼女の手に握られた短銃へと吸い込まれていった。
硬い感触が、真那の後頭部に押し当てられる。
「わたくしが尋ねるのは、あなたの記憶そのもの。さあさあ、御開帳してくださいまし」
「やめ――――」
抵抗の言葉は虚しく、銃弾は放たれた。
しかし想定していたような衝撃も、意識の断絶も訪れることはなく、真那の脳裏にはこれまでの記憶が走馬灯のように駆け巡った。
ここ二年か三年の、DEM社に拾われてからの記憶。
魔術師としての資質を見出され、最悪と呼ばれる精霊を
しかしながら、それ以前の記憶は奇麗に欠落していた。
真那は家族も友人も、そして自分自身のことさえ、何一つ覚えていなかったのだ。
だから今駆け巡るのは、魔術師としての戦いの記憶だけのはずだった。
だけど、空白であるはずのその場所に浮かび上がるものがあった。
穂■■子――おしゃれに詳しい自分のド親友。
■河竜■――兄の友人で、自分のド親友が思いを寄せる先輩。
崇宮■士――少々朴念仁ながらも優しい自分の兄。
そして、ある日兄が連れてきた少女――■。
自分を取り巻いていた日常……どれもこれもノイズ混じりで、ちっとも鮮明じゃなかった。
それでもその温かい記憶に、真那は手を伸ばした……伸ばしてしまった。
結果触れたのは、冷たく暗い、痛みと苦しみの記憶だった。
「あ、あああっ、ああああああああああああああああああ…………ッ!!」
「これは……」
突如として叫びだした真那を前に、狂三は眉根を寄せた。
垣間見えた不快な光景に、嫌悪を隠すことが出来ないでいた。
崇宮真那……DEM社に所属する魔術師。
この幼さで、曲がりなりにも
当然、それは彼女自身も把握していないだろう。
でなければ、こうして苦しんでいるはずがない。
あまりの凄惨な体験に記憶が失われたか、もしくは何者かによって封じられたか。
何にせよ、その一端に触れたことで彼女は壊れようとしている。
ガクガクと痙攣する真那を、狂三は感情のこもらない目で見下ろした。
まだ十全な情報が得られたとは言えない。
しかしこれ以上は、彼女を再起不能なまでに壊しかねない。
別段ここで彼女がどうなろうと、自分が痛痒を覚える理屈はない。
時崎狂三は最悪の精霊――〈ナイトメア〉なのだから。
そもそも、誰かが何者かに利用されて食い潰されるなど、この世界ではよくある話だ。
しかしそれは、狂三にとって非常に気に食わない……ただそれだけのことなのだ。
「士道さんは――――まあ、今はいいでしょう」
穂村士道……精霊数人分の霊力をその身に宿す人間。
近くで倒れていたはずだが、その姿はどこにもない。
自分の餌としてしか見ていなかった彼だが、今回の件で思わぬ付加価値が生まれた。
彼と真那、この二人にあの女――崇宮澪が接触してくる可能性は、無視できない程度に高い。
もしくは今もすぐ近くで見守っているか……どちらにせよ、すぐに頂いてしまうには勿体ない。
何もないはずの空を見上げ、狂三は薄く笑みを浮かべた。
「〈
背後にそびえる天使――身の丈を優に超すほど巨大な時計。
その文字盤に刻まれた『Ⅳ』の数字から影が滲みだし、手に握る短銃へと吸い込まれていく。
そしてそれを真那に向け、狂三は躊躇なくトリガーを引いた。
炸裂音と共に、影の弾丸が小さな体へと撃ち込まれる。
随意領域を纏った状態ならともかく、今の真那にはこれを防ぐ手立てはない。
しかし狂三の放った銃弾は、その体を傷つけることはなかった。
それどころか損傷した体は、まるで時を巻き戻すかのように元の状態へと復元した。
その光景を無感動に見つめると、狂三は自分の足下の影を踵で軽く叩いた。
すると平面であるはずの影が浮かび上がり、自分の主の姿を覆い隠していく。
「では、後は任せましたわ、
そして影の中から現れたのは、影に覆われる前と寸分の違いもない狂三の姿。
「ええ、任されましたわ、
自分からの要請を自分で引き受けるという奇妙な一人芝居の後、狂三は顔を笑みで歪めながら、立ち上がる真那を出迎えるのだった。
一面の白い世界の中で、穂村士道は目を覚ました。
果ても境界も曖昧なこの空間は、明らかに現実感が乏しい。
ここが夢の中であると結論付けるのに、そう時間は要さなかった。
この場と同じく前後の記憶は曖昧で、現実の自分が今どうなっているのかは判然としない。
それどころか、自分が何者かすらも揺らぎそうになっていた。
穂村士道、来禅高校の教師、〈ラタトスク機関〉のエージェント。
自身の名前と最近得た肩書きを並べ立てるも、やはりどこか実感が薄い。
立ち上がって、あやふやな足下を固めるように地を踏みしめると、つい最近の記憶が映像として現れた。
『時崎狂三と申しますわ』
如何なる目的か、士道の勤める来禅高校へやって来た精霊の少女。
苦手意識どころか、トラウマさえ抱いている相手である。
背筋を走る緊張に、自分が彼女をデレさせようとしていたのを思い出す。
そう、士道の使命は、精霊をデレさせてその力を封印する事なのだ。
それに付随して蘇ったのは、今まで力の封印に成功した精霊二人の顔だった。
七罪を助けるために地下に降りて、瓦礫に押し潰されたこと。
十香を説得するために顕現装置を手放して、右腕を斬り飛ばされたこと。
振り返ってみれば命懸けの展開ばかりで、思わず苦笑が漏れる。
だがそれと引き換えにあの二人が笑っていられるのなら、決して割に合わない取引ではない。
歩き出すと、まるで時を遡るようにこれまでの記憶が映し出される。
『――歓迎するわ。ようこそ〈ラタトスク〉へ』
いつの間にか秘密組織の司令官になっていた琴里。
目に入れても痛くない程可愛い姪っ子であるが、反抗期の訪れはやはりショックだった。
どことなく表情や態度が彼女の母親、つまりは自分の姉に似てきたのも悩みの種である。
それから、自分の母校である来禅高校での、とある再会。
かつて命を救った少女は、やや特殊な立場ながらも元気な姿を見せてくれた。
……その元気がやや奇抜な方向に発揮されるのは、少々勘弁してもらいたいところだが。
物静かながらもアグレッシブな様を思い出して、士道は冷や汗を流した。
彼女にどのような意図があるかはともかくとして、自分が淫行教師と呼ばれるようになった直接的な原因なのは、まず疑いようもない。
『ふふ……そんなに見つめられると、少し恥ずかしいね』
そして何より鮮明だったのは、自身の初体験の記憶だった。
とは言うものの、泥酔していたせいか事の最中の記憶は全くない。
焼き付いているのは彼女の眠たげな、そして寂しげな微笑である。
村雨令音……彼女との関係を何と言い表せばいいのか、士道にはわからなかった。
表面的な部分だけ切り取るのなら、同僚だろう。
来禅高校においても〈ラタトスク〉においても、令音には支えてもらっている。
しかしプライベートな面で親密かと言うと、手放しでそうとは頷けない。
これまでにも何度か、彼女との間にそういう行為があったのだが、ただの一度として唇を許してもらったことはない。
譲れない一線なのだろうとは思うが、何らかの隔意を感じるのは確かだった。
そもそもとして、士道が十香たちに手を出さないよう、身を呈してくれているような側面も見受けられるのが、また悲しいところだった。
少し肩を落としつつ、記憶に焼き付いた笑顔に目を向ける。
そのどこか愁いを帯びた微笑が、遠い彼方の――それこそ自分でさえ関知していない領域の――記憶の中の誰かと重なった。
脳を揺さぶるような頭痛を堪えながら、更に記憶を遡る。
ほぼ勉強とアルバイトに明け暮れていた大学時代は、取り立てて語ることはない。
敢えて語るとしたら、雨のハロウィンの出会いと、当時応援していたアイドルのことだろうか。
七罪との出会いはともかく、いなくなってしまった彼女のことは明確に悲しい記憶だ。
余裕のない日々における心の支えを失った喪失感は、今でもふとした時に滲み出てくるものだ。
そして大学時代を通り過ぎれば、士道が最初の職場、つまりはASTで働いていた時期となる。
黒歴史というほどではないが、あまり良い思い出はない。
それもこれも主に、思い出したくもない変態のせいなのだが。
このまま〈ラタトスク〉に所属していれば、嫌でも思い出してしまうのは大きな難点だろう。
もう辞めてから五年近くになるだろうか。
実際にはクビになったと言う方が正しいのだろうが、その処分が下る前に士道は次の目標を既に定めていた。
その切っ掛けとなった少女――鳶一折紙は、今や自分の生徒である。
しかし大火災で彼女を助けた後の記憶は、どうにもはっきりしない。
ASTを辞める際に受けた記憶処理の影響なのかもしれないが、自分の記憶の中に不明な領域があるのは、どうにも座りが悪い。
そもそも、他のことはほぼ鮮明に覚えているのに、そこだけ忘れているのも奇妙な話だ。
気にはなるが、何故か積極的に思い出そうという気は起きなかった。
思い出してしまえば根底から日常が覆るような、そんな予感がしたのだ。
理由はわからないが、今よりずっと幼い琴里の泣き顔が思い浮かんだ。
真っ当にASTで働いていた時期で他に印象に残っているのは、やはり精霊との遭遇だろう。
士道は狂三との邂逅で精霊に人間性を見出し、〈ベルセルク〉の双子に挟まれたことで精霊に人格を認め、そして〈シスター〉の世話をした末に精霊に刃を向けることに疑問を覚えた。
そして色々やらかした結果、最強の魔術師にボコられたのだが、言ってしまえば自業自得だ。
間違ったことをしたとも思っていないが、邪魔をしたことに対する申し訳なさもある。
AST以前となると、そこは最早黒の地平である。
思い出すのは精神衛生上よろしくないので、年代スキップの勢いで通り過ぎる。
そうやって中学高校の黒歴史をやり過ごせば、次は小学校時代である。
もし士道に反抗期があったとしたら、この時期だろう。
どうしようのない孤独から家族に反発した日々――――そして、叶うはずもなかった初恋。
それらを見送って、更に遡っていく。
その先である幼少期は、はっきりとした記憶があまりない。
時を隔てすぎているのもあるし、そもそも生後数年の範囲は幼児期健忘で記憶の定着が難しい。
ただ一つ覚えているのは、赤子の自分の手を握る暖かい誰かの手が離れて行ったことだけ。
心に穴を空けるような寂寥感に、士道は自分の胸に手を当てた。
そして再度、自分が何者なのかを確認する。
「――――俺は穂村士道。穂村の家の養子で、クソ姉貴と竜雄義兄さんの弟で、琴里の叔父で、元AST隊員で、来禅高校の教師で、〈ラタトスク機関〉のエージェントだ」
最後の肩書きはなんとも胡乱な響きだが、本当の事なのだから仕方がない。
士道は事実、精霊にハニートラップを仕掛けるために奔走する工作員である。
ともかく、これでようやく自分の立つ足下が固まった気がした。
記憶を遡る行為は、正にアイデンティティの再確認に他ならない。
しかしながら、一体どうしてこんなことになっているのかは思い出せなかった。
夢は脳が記憶を整理するために見るもの、などという説はあるが、自分の人生を丸ごと遡るのは少々やりすぎ感が否めない。
それとも、それ程までに前後不覚な状況に陥っているのだろうか。
四月のワンナイトラブを思い出して、士道は顔を引きつらせた。
あれ以来アルコールの類は控えているので、泥酔してぶっ倒れたということはない……はずだ。
若干弱気が差し込んで、そうであってくれと切実に願うのだった。
この春の経験から、酔いが回った自分のことは何一つ信用できなかった。
前後不覚に陥っていれば、それこそ万が一生徒に手を出す可能性も決して否定はできない。
「何だこれ……扉?」
淫行教師の業を、まざまざと思い知らされたような気分になって一頻り懊悩した後、士道は目の前に現れた扉の存在に気が付いた。
一面の白い世界にあって真っ黒なその扉は、浮かび上がるような異物感を醸し出している。
さらに開けるなと言わんばかりに鎖が巻かれていて、それがより一層異様さを強調していた。
もしや自分の黒歴史の象徴か、などと考えたが、ここは士道の記憶の果てである。
時系列的に言えば生後間もない位置にあるので、そこに黒歴史が挟まるのはおかしい。
夢に合理性を求めるのは間違っているかもしれないが、自分の頭の中にある世界ならば、あくまでも自分の認識に沿っているはずだ。
だとしたらここは始点で、終点で、これ以上その先はないはずなのだ。
「いやはや、これは何とも厳重な。どうやらよっぽど知られたくないようだね」
「――っ」
不意に聞こえた自分以外の声に、士道は息を吞んだ。
いつの間にか隣に、奇妙な少女が立っていた。
葡萄色の髪に白い肌――ミニハットを頭に乗せたその出で立ちは、さながら
少なくとも普段着とするような服装ではないのは確かなのだが、その少女の見かけの異常性は、また別の部分にあった。
手足を鎖で繋ぐ拘束具に、体中を――自分の目元さえも覆っている包帯。
これが現実ならば、また時期外れのハロウィンかと思いもするのだが、ここは夢の中のはずだ。
明らかに見覚えのない少女の存在に、士道は動揺を隠せない。
自分だけと思っていた空間に唐突に別の誰かが現れたのだから、それも尚更だ。
向けられる視線に気づいたのか、少女が首を傾げる。
そもそも包帯に覆われた目で、どうやって視界を得ているのだろうか。
そんな疑問が、頭に浮かんだ。
「もしかして、自分の顔に何かついているのかな?」
「悪い、不躾だったな……君は? どこかで会ったことあるかな?」
これは自問自答のようなものかもしれないが、わからないものはわからないのだ。
馬鹿正直に尋ねた士道に対して、少女は口元を歪めて笑う。
「ああ、確か――あの時は互いに酒に溺れて、褥を共にしたのだったかな?」
その言葉に、士道はブワッと顔中から汗を吹き出させた。
心臓がバクバクと騒ぎ出し、手足の震えが止まらない。
何度も言うが、この少女に見覚えはない。
ないのだが……眠りにつく前の状況は極めて曖昧なのだ。
そしてそれは、つい二か月ほど前にやらかした時の状況と一致する。
仮に彼女が言うようなことがあったとして、ありえないと断じることができない。
見たところ十代……つまりは未成年。
だとしたら飲酒は褒められた行為ではないが、それとは別の部分でも問題が浮上する。
顔面を蒼白にさせる士道の頭に、青少年保護育成条例という言葉が過ぎった。
「――勿論、冗談だけどね」
「おっ、おおおおおおまっ、世の中には言って良い冗談と悪い冗談があるんだからなっ!?」
「……あなた、いくらなんでも動揺しすぎじゃないかい? もしや、他に心当たりが?」
「ほっとけ!」
訝る少女を突っぱねると、その場にへたり込んで、長く深いため息を吐き出す。
どうしてこんな夢の中でまで、精神的ダメージを負わなければならないのか。
そういうのは、つい先日に見た
「……で、君は本当に何なんだよ」
「自分はしがない道化、名乗るほどの者でもないよ。まあ、幽霊みたいなものだと思って欲しい」
そう言って少女は士道の頬に手を伸ばしたが、触れることはなくそのまますり抜ける。
注意して見てみると、その姿は薄っすらと透けていた。
立体映像やホログラムのようなものか、とにかくその存在は希薄だった。
幽霊だなどと言ったのも、こういった事情からだろう。
「この場ではこうして言葉を投げかけるくらいで、他には何にも干渉することが出来ないようだ」
「そりゃまた、不思議なこともあるもんだな」
「全くだよ。どうして自分はこんな所にいるのだろうね」
少女は心底不思議そうな様子で、一面の白い世界を見渡した。
不思議なのは士道も同じなのだが、ここが自分の夢の中だと思うと少々気恥ずかしい。
そもそも彼女に関しても、自分の妄想の産物と言う可能性だってある。
というか、そう考えた方がずっと納得がいく。
もしかしたら最近読んだ漫画に、こんなキャラクターがいたのかもしれない。
そうすると今の状況は正に一人相撲なわけだが、自分の記憶と向き合っていると考えれば、人が見る夢は大方そうなるだろう。
「それにしても、久しぶりに見た外の風景がこれだなんて……少々殺風景に過ぎるね」
「あー、なんかごめんな」
「あなたが謝ることではないよ。自分は箱入り生活が長くてね……ざっと三〇年くらいかな?」
「いや、俺より年上だったのかよ」
「お姉ちゃんと呼んでくれても構わないよ?」
「いくらなんでもそれは唐突すぎませんかねぇ……」
目元は包帯に覆われて見えないが、口元は愉し気に歪んでいる。
どうやら中々に愉快な性格をしているようだ。
しかし姉は現実の方で十分間に合っているので、士道はため息をつきながら首を横に振った。
どうせ兄弟が増えるなら、弟か妹が欲しいところだ。
ふと、ポニーテールに泣き黒子が特徴的な、小さな少女の姿が思い浮かぶ。
(――――真、那……?)
それと同時に浮かんだ名前に脳を揺さぶられ、士道は自分の頭に手を当てた。
まるでありえないはずの記憶が、どこかから漏れ出しているような……そんな感覚だった。
「扉、開いているね」
少女の指摘に目を向ける。
厳重に封印された上で閉ざされていたはずの真っ黒な扉に、変化が訪れていた。
巻き付いていた鎖はいつの間にやら下に落ちており、僅かに開いて隙間が出来ている。
士道は立ち上がり、恐る恐る扉に手をかけて隙間を広げた。
その向こうには闇が蟠り、中を見通すことは出来そうにない。
得体が知れない扉の向こうもまた同様に、やはり得体が知れないものらしい。
「入らないのかい?」
「流石にこれはちょっとな……」
「それは残念。自分は気になっていたのだけれどね」
気になっているところ申し訳ないが、士道にこの中へと積極的に飛び込む勇気はなかった。
それ以前に、明確に頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
あの闇の向こうには、ここに辿り着くまでに確かめてきたアイデンティティを揺るがすような、そんな何かが眠っている。
自分の中に何故、そんなものがあるのかはさっぱりわからないが、その確信だけはあった。
それに触れて、果たして自分は
そんな危惧が、胸の中に渦巻いているのだった。
「少しいいかな?」
「ああ、どうした――――」
背後からの声に振り返った士道は、そのまま息を止めた。
少女の顔が、間近に迫っていたのだ。
目元は包帯に覆われているというのに、強い視線を感じる。
そこに込められた感情は如何なるものか、肌をチリチリと灼かれるような錯覚に陥ってしまう。
いや、この感覚には覚えが――――そう、精霊からの敵意を受けた時と、似ているのだ。
思わず後ずさった士道の手が、扉の中の闇に触れた、その瞬間だった。
『ああ……『好き』。私、シンのことが大好き』
■月■■日、空間震の跡地で出会った少女。
名前のなかったその少女に、自分は安直にも出会った日に因んで■と名付けて、それでも彼女は涙を流しながら喜んでくれて。
夕暮れの商店街でプレゼントした■■のぬいぐるみにも、とても喜んでくれて。
その笑顔が、
――ああ、あの人は今でも、あの時自分が贈ったぬいぐるみを大切にしてくれているのか。
「――――」
前後左右、上下の感覚すらも曖昧になって、士道は扉の中へ倒れこんでいく。
今日に至るまでに積み上げてきた、穂村士道という自己の認識が解けていく。
そして闇の中から、新たな認識が浮かび上がる。
(――――俺は崇宮■士。来宮高校の生徒で、真那の兄で、■河竜■の友人で、■の……恋人)
しかし、これまでの人生とそぐわない認識は、士道の精神を苛んだ。
藻掻くように必死に手を伸ばすが、縋れるものはどこにも存在しない。
そんな様を、少女は心底愉快そうに見つめていた。
「どう、して――――」
それが何に対して発した疑問なのかは、士道自身も把握していなかった。
少女の敵意に満ちた視線に対してか、己の中に生じたありえない認識に対してか……それとも、
少なくとも目の前の少女は、自分へのものだと受け取ったようだ。
「そんなの、あの人への嫌がらせに決まっているだろう?」
憎悪を滾らせて少女は嗤う。
その悪意に満ちた言葉を最後に、士道の視界は闇に覆われた。
しかし自己の認識が曖昧になる一方、意識が途切れることはない。
そうして己が何者かもわからないまま、闇の中を漂い続ける。
もしこのまま夢が覚めなければ、一体自分はどうなってしまうのだろう。
そんな思考が浮かんだが、そもそもその『自分』に対する認識が定まらない。
目が覚めたとして、そこにいるのは果たして誰なのか。
穂村士道か、それとも――――
「――み、お……」
解けていく自我を包み込むように、やがて差し込んだ光が、
「――シン、シン…………ッ」
自分を呼ぶ声に、男は目を覚ました。
最早見慣れた天井が真っ先に視界に入る。
どうやら自分は、〈フラクシナス〉の医務室にいるらしい。
この寝台の感触にも覚えがある。
自分がどうなったのか、どれだけ寝ていたのかは定かではないが、長い時間体を動かしていないせいか筋肉が凝り固まっている。
少しでも解すために体を伸ばそうとしたが、右手は動かせなかった。
見ると、かつてないほど緊迫した表情で、村雨令音が自分の右手を握っていた。
不健康そうな肌色に、分厚いクマに覆われた目元。
それでも、その瞳はかつての彼女のままだった。
白衣のポケットから顔を出すくたびれたぬいぐるみを見て、男は頬を綻ばせた。
「……そのぬいぐるみ、そんなツギハギになるまで大事にしてくれてたんだな」
その言葉に一瞬目を見開くと、令音は泣きそうな、それでいて嬉しそうな笑顔を見せた。
そんな表情は、
男の心のどこかで、チリッとした感情がささくれ立った。
「……当然じゃないか。君がくれたものに、大切じゃないものなんて何一つないよ」
きつく、きつく抱きしめられる。
それはまるで今まで触れ合えなかった年月を示すような、情念のこもった抱擁だった。
顔を埋められた胸元が、何か温かい液体で濡れていく。
「君がくれた名前も、言葉も、触れ合ったぬくもりも……痛みでさえも、私のかけがえのない宝物なんだから」
包み込むように、両頬を挟まれる。
涙に濡れた彼女の顔が近づく。
吐息が混ざり合い、唇が触れそうなほど近い距離。
男の頭の中に、彼女と赴いた海辺の記憶が蘇る。
初めてのデート、そして初めてのキス。
その後、自分たちは――――
「……だけど、
唇は重なることはなく、ぬくもりは離れていく。
追い縋るように手を伸ばそうとしたが、体に力が入らない。
右手は何も掴めずに寝台の上に落ちた。
「……本当は、あんな事をするべきではないとわかっていたんだ。……それでも、たとえ私の事を覚えていなくても、君に声をかけられて、君に求められて……我慢することが出来なかったんだ」
「――――澪……」
溢れる涙を拭ってやろうとしても、微睡が体を掴んで離さない。
霊力の漏出を抑えるために、極めて出力を絞っているとはいえ、ただの人間が■■の力に抗う術なんてない……当然の帰結だろう。
そう、
「――もう絶対離さない。もう絶対間違わない。だからその時まで、おやすみ……シン」
だから、
「――――泣かないでくれよ、令音さん」
目元のクマをなぞるように、流れる涙を掬い取る。
本当に驚いたように目を見開く彼女に対して、愛おしさが込み上げて堪らない。
「……君は本当に優しい子に育ったようだね。ありがとう、ごめんね――――
優しく頭を撫でる手は、慈愛に満ちていた。
その感触に、生まれたばかりの頃に失ったものを思い出す。
しかし安堵に満たされた精神では、睡魔に抗うことが出来なかった。
落ちるように、再び眠りに引き込まれていく。
次に目覚めた時にはきっと、自分は何か大切なことを忘れているのだろう。
そんな漠然とした予感が、頭の片隅に残った。
いつもより短めだけど、今回はこれぐらいで。
ちなみに今回出てきたとあるキャラは、ゲーム板に出てくる誰かです。
彼女の本格的な出番はまだまだ後なので、気になったら是非プレイしてみてください。