士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話   作:kish

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およそ三週間ぶりにこんばんは。

結論から言うと、分量が思ったよりかさんで今回では終わりません。
前言を翻すような結果ですがあしからず。


グレイスケール・ラプソディ

 

 

 

「おい、起きろ」

「――っ、ここは……」

 

 何とも不快な声を目覚ましに、鳶一折紙は覚醒した。

 倦怠感と虚脱感をまとわりつかせなから、体を起こす。

 体に伝わる感触は硬く、どうやらアスファルト舗装の上に倒れていたらしい。

 すぐそこにはシェルターの入口があった。

 目覚める前の記憶と一致しない……気を失っている間に何者かに運ばれてきたのだろうか。

 とりあえずその第一容疑者は、すぐ傍にいる彼女だろう。

 無表情のまま、折紙は視線に警戒と敵意を滲ませた。

 

「一体何が目的?」

「巫山戯たことを抜かすな。私が貴様なんかに求めるものなどない」

 

 夜色の髪に、紫水晶の瞳――夜刀神十香は腕を組みながら傲然と言い放った。

 精霊と呼ばれる存在であり、折紙の恋人である穂村士道に付き纏う彼女は、様々な意味で仇敵と言える。

 こちらの視線に警戒の色を見て取ると、十香は鼻を鳴らして不機嫌そうにそっぽを向いた。

 

「この耳障りな音は、空間震とやらの予兆なのだろう? 私としては貴様がどうなろうと知ったことではないが……シドーが悲しむのは良くない」

「…………」

 

 この精霊は何か変なものでも食べたのだろうか。

 それが普段から彼女と拳を交えている折紙の、率直な感想だった。

 曲がりなりにも自分の心配をしてくるなど、異常事態としか言い様がない。

 これならば、意地汚くもどこかそこらに生えているキノコでも口にして、錯乱状態にあると言われた方が余程納得できる。

 きっとテングダケかワライダケだろう。

 そんなことよりも空間震警報だ。

 これがもし〈ナイトメア〉によるものだとしたら、彼女の傍にいる士道の身が危ない。

 何故こんなところで倒れていたのかはともかく、今は急いで公園に戻らなければならない。

 折紙は胸ポケットから手のひらサイズのデバイスを取り出すと、手早く機動承認を済ませる。

 緊急着装デバイス……緊急時にワイヤリングスーツを瞬時に纏うための装置である。

 これがあれば、とりあえず魔術師として最低限の力を発揮することができる。

 しかしそれは緊急着装を実行するために、一瞬のみとはいえ一切の補助なしで随意領域を展開する行為だ。

 デバイスを前頭部に当てると、折紙の脳に壮絶な痛みが走る。

 すると淡い魔力光が全身を包み、次の瞬間には纏っていた来禅高校の制服がワイヤリングスーツへと変貌した。

 

「――っ、くっ……」

 

 その場に膝をつく。

 ワイヤリングスーツの補助で頭痛は消え去ったが、この感覚にはどうにも慣れない。

 あくまでもこれは緊急時の措置なので、当然といえば当然なのだが。

 ちなみにASTに補充要員としてやって来た崇宮真那は、一連のプロセスをこともなげにやってのける。

 それもまた、彼女が規格外と呼ばれる所以か。

 折紙は呼吸を整えるとゆっくりと立ち上がり、すぐそこで何やら身構えている十香を一瞥した。

 こちらが戦闘態勢を取ったと見て警戒しているのだろう。

 

「……あなたと事を構えるつもりはない。私は先生を助けに行かなければならない」

「何? シドーの居場所を知っているというのか!?」

 

 十香の反応に、折紙は自分が余計なことを口走ったと悟った。

 この女が性懲りもなく士道に付き纏おうとしていることは、少し考えればわかりそうなものを、随分と迂闊な発言をしてしまったものだ。

 

「ち――――」

「ま、待てっ……!」

 

 小さく舌打ちすると、折紙は駆け出した。

 これ以上関わっている時間はない。

 脳に指令を発して、随意領域内のパラメータを改変する。

 即ち――身体強化、重力中和、空気抵抗緩和。

 それらが組み合わさって、折紙は人間の域を遥かに超える速さで駆け抜ける。

 そのスピードで、追いすがろうとする十香を引き離そうとしたのだが……

 

「待てと言っているだろう……っ!!」

 

 尋常ではない速度で走っているのにも関わらず、なんか普通に並走されていた。

 ……いや、最近はその本性をひた隠しにしているが、夜刀神十香は精霊だ。

 これぐらいの芸当はやってのけても何らおかしくはない。

 それならばと、折紙はビルの壁面を蹴って空に躍り出た。

 三次元的な機動で撹乱する目的だったのだが……

 

「こらっ、急に飛び上がるな。びっくりするではないか」

 

 普通にふよふよと追従してくるのだった。

 というか明らかに浮いているし、よく見れば彼女の身に纏う制服の端々から、霊力と思しき光が漏れ出している。

 ……まぁ、霊装を纏って暴れまわっていた時のことを考えれば、何らおかしくはない。

 どうにも日常に紛れ込んでいるせいで、彼女に対する認識が少々甘くなっていたようだ。

 引き離そうと動き回ってみたが、獣もかくやという反応速度で追いすがってくる。

 こうなったらもう後ろのお邪魔虫は無視して、目的地へ急行するのみだ。

 ぎゃあぎゃあと喚き立てる声を随意領域でシャットアウトして、折紙は更にスピードを上げた。

 

 

 

 

 

「おのれ鳶一折紙……!」

 

 十香は忌々し気に、その背中の後を追う。

 鳶一折紙という女は、非常に鼻持ちならない相手である。

 今まで散々剣を向けられたというのもあるし、士道に付き纏っているのも実に気に食わない。

 気に食わないが、彼女の士道に対する執着は疑いようもない。

 助けに行かなければと言うのだから、何らかの危機に見舞われていることは確かなのだろう。

 体調不良で帰ったと聞いて家を訪ねてもその姿はなく、探しに外に出てみれば街に耳障りな音が響いて、士道は危ない目にあっているという。

 一体どれほど人に心配をかければ気が済むというのか。

 しかしながらと、小さくなっていく背中を追いながら、十香は歯噛みした。

 果たして自分の足は、これほどまでに鈍重だっただろうか。

 十香は精霊である。

 しかし霊力を封印された今となっては、身体能力はそこらの人間とそう変わらない。

 最初こそ不安はあったが、今となってはその事に後悔があるわけではない。

 今の生活は楽しいし、かけがえのないものだ。

 あの時手を差し伸べてくれた士道に対しては、今も感謝の念が尽きない。

 それだけに、また危機に陥っているとなればとても捨て置くことはできない。

 目に見えない繋がりを通じて、体の中に何かが流れ込んでくる感覚。

 踏み込んだ地面がひび割れ、視界の端の景色が早送りのように流れていく。

 

「待てと言っているだろう……っ!!」

 

 憎たらしい背中に追いついて声をかけるも、相手は煩わしそうにこちらを一瞥するだけ。

 気持ちのいい態度ではないが、元より馴れ合うような関係でもない。

 士道のもとへの案内さえ果たしてくれるなら、それで構わない。

 

「む?」

 

 しかし折紙は、そんなことは知ったことではないと言わんばかりに、宙へ身を躍らせた。

 そこらの建物の壁面を蹴り、手の届かない高さまで飛び上がっていく。

 その際に見せた顔が(相変わらず無表情ではあるのだが)あたかも付いてきてみろと言っているようで、十香は大いに対抗心を燃やした。

 危地にある士道のもとへ鳶一折紙が先に駆けつけようものなら、それはそれでまた別の危険を生み出しかねない。

 あの女は士道を取って食いかねない雰囲気を常々放っているのだ。

 具体的に何をするのかはさっぱりだが、それが非常に面白くない事態であるというのは疑いようもない。

 しかし今の自分には、追いすがるだけの力がない。

 また見ているだけで、士道の助けになることはできないのだろうか。

 果たしてそんな自分が、傍にいることは許されるのだろうか。

 嫌な想像が膨れ上がり、心の中を満たした。

 するとどこからか流れ込んでくるものがその量を増し、それは目に見える形で現れた。

 霊力の光が十香の体を覆い、身につけた制服の端々に光の膜を創り出す。

 

「おお! これはまさか、霊装か!?」

 

 万全の〈神威霊装・十番(アドナイ・メレク)〉には到底及ばないが、これは霊装――精霊の纏う鎧が、限定的ながら顕現したのだ。

 この状態ならばと地を蹴り、空中へ飛び上がる。

 重力の軛から解き放たれた十香は空を裂いて飛び、先を行く背中を捉えた。

 

「こらっ、急に飛び上がるな。びっくりするではないか」

 

 やはりというべきか、このいけ好かない女はさしたる反応を見せることもなく、まるで十香をいないもののように扱った。

 その態度に十香はムッとするが、何も言葉を交わすのが目的ではない。

 時折緩急を織り交ぜ、上下左右と動き回ってこちらを攪乱しようとする折紙に、文句を言いながらも同道するのだった。

 

 

 

 

 

「――マズいことになったわね」

 

 空中艦〈フラクシナス〉の艦橋に、最厳重警戒のアラームが鳴り響く。

 中央に設置された巨大スクリーンの中では、二人の精霊が戦闘を繰り広げていた。

 しかし、目にも留まらぬ速さで動いているのかまた別の理由か、両者の姿を艦載のカメラでは正確に捉えることが出来ていない。

 映るのは破壊の痕跡――木々が弾け飛び、或いは切り倒され、地面に小規模のクレーターが穿たれていく。

 二つの都市を滅ぼしたという触れ込みに対して、規模としては極々慎ましやかなものだろう。

 しかし、だからといって安心できるかと言えば、答えはノーだ。

 天災と恐れられる、それも最悪とまで称される精霊たちの力が、この程度のはずがない。

 スクリーンを睨みつけながら、赤いジャケットを肩掛けにした少女、五河琴里は咥えたチュッパチャプスをガリッと噛み砕いた。

 聞き間違いでなければ〈デイドリーム〉……今の姿と似ても似つかぬ姿で、白い精霊は自らそう名乗った。

 それならばこちらのデータベースに全く情報がなかったのも頷ける。

 何せその識別名以外、外見はおろか霊波反応のパターンさえもまともな記録がないのだ。

 存在するとされているだけで、それ以外は全く不明の精霊。

 その現界を予期していなかったわけではない。

 彼女は〈ナイトメア〉と共に、二つの都市を滅ぼしたとされる災厄だ。

 後追いでやって来ることは、想定されていた事態ではあった。

 しかしつい昨日、時崎狂三の死を受けてその対策を解除したばかりだったのだ。

 何ともクリティカルなタイミングだとしか言いようがない。

 はっきりと死亡が確認された相手が生きていることを想定しろ、というのは少々無茶な相談かもしれないが、そもそも精霊に常識を当てはめようとしたのが間違いだったのかもしれない。

 少々気が沈み込んでいたというのもあるが、それは指揮権を与えられた者の言い訳としては罷り通らないだろう。

 それにしても、と琴里はスクリーンへと目を向けた。

 相変わらず姿を捉えることは出来ないが、二人の精霊の争いは続いている。

 両者の関係性こそ不明だが、少なくとも外見に共通点は見られる。

 色合いは真逆なものの、そのアシンメトリーなツインテールはどちらにも共通するものだ。

 そして顔は似通っているどころではなく、まさに瓜二つだった。

 それが何を意味するのかもまた不明だが、今問題とされているのはもっと別の部分だ。

 現実逃避気味な思考を引き戻し、今度は手元のモニターに目を向ける。

 そこには信じがたい情報が表示されていた。

 

「や、やっぱり見間違いとか……じゃないですよね」

 

 震える椎崎の声に同意してやりかったが、〈フラクシナス〉の観測機や計器は故障しているわけではない。

 表示された情報はあくまでも現実のものである。

 白い精霊の霊力値はカテゴリー・E……つまりはマイナスの値を示している。

 通常ならばありえない数値だが、それに該当する存在が〈ラタトスク〉のデータベースには一件だけ記録されている。

 反転体……精霊が自身の核たる霊結晶(セフィラ)の性質を何らかの要因で反転させて、その結果至る存在。

 実際に何が起こったかなどの詳細は不明だが、一年ほど前に反転した〈ハーミット〉は、富士の樹海を今なお拡大を続ける凍土に変えている。

 精霊の中では明確に穏健派な彼女でさえああなったのだから、他の個体が反転したらどうなるかは推して知るべし、だろう。

 そして今、その反転体に該当する存在が現れてしまった。

 かの〈デイドリーム〉がそうだったのなら、都市を滅ぼしたという話にも信憑性が出てくる。

 だからと言って、はいそうですかと天宮市が壊滅するのを黙って見ているわけにはいかない。

 

「公園内の一般市民の避難状況は?」

「概ね完了していますが、やはり戦闘区域付近となると……」

 

 時崎狂三の影の結界によって昏倒した市民は、〈ラタトスク〉の構成員によって救助が行われている。

 しかし精霊同士が鍔迫り合っている付近に近づくのは、よく訓練された魔術師でもなければ少々どころではなく荷が重い、というか自殺行為だ。

 

「〈フラクシナス〉の転送装置を使っても構わないわ。片っ端から収容して安全な場所まで――」

「……それはあまり推奨はできないね」

 

 琴里の指示に、解析作業を続ける村雨令音が口を挟んだ。

 普段どこか眠そうで、捉えどころのない眼差しの彼女だが、緊急事態を受けてかいつもより僅かながら視線が鋭い。

 付き合いの長さから、その変化に乏しい表情から何となく感情を読み取れる琴里だが、こうも目に見えて顔に表れるのは実に珍しい。

 

「……どちらかの能力によるものだろう、どうやら一帯に空間の乱れや歪みといったものが生じているようだ。転送装置が正常に作動するかどうかは保証しかねるよ」

 

 精霊は空間震の他に、それぞれが災害じみた独自の能力を保有している。

 詳細を推し量るには情報がまだ足りないが、争い合う黒と白の精霊のどちらかが、周囲の空間に影響を及ぼす能力を持っているようだ。

 或いは空間震そのものを、現象を歪めて自在に操っているのかもしれない。

 空間震は精霊が現界する際に引き起こされる現象だが、霊力を操ることが出来るなら、理論上は意図的に発生させることも不可能ではない。

 その答えはともかくとして、これで琴里の腹案が一つ潰されたことになる。

 両者の激突によって空間震警報が発令されているため、じきにASTがやって来るだろう。

 勿論、陸自の一部隊である彼女らが人命を蔑ろにすることはないだろうが、到着するまでの被害には対応しようがない。

 今、自分たちが手をこまねいていることで、失われる命があるかもしれない。

 琴里がこの年で秘密組織の司令官などという席に着いているのは、特殊な事情が絡んでいるのは事実だが、少なくとも伊達や酔狂ではなくその能力を認められた上での話だ。

 精霊という天災の具現を相手取るにあたり、極力避けるべきだとはいえ無関係の人間が巻き込まれるという事態も想定はしていたし、覚悟もしていた。

 だが、実際にそれが自分の掌に乗るとなると、とてつもなく重く感じられた。

 唇を噛んで、通信用のマイクを握り締める。

 

(しーくん……どこ行っちゃったのよ)

 

 二人の精霊と同じ場にいた琴里の叔父――穂村士道の反応は消失している。

 最悪同士のぶつかり合いに巻き込まれたとなれば、文字通り跡形もなく吹き飛んでいたとしてもおかしくはない。

 だけど士道はきっと無事だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()が、その何よりの証拠なのだから。

 左右で髪を括る黒いリボンをきつく結びなおして、琴里は新しく取り出したチュッパチャプスを咥えた。

 転送装置が使えないのなら、やはり直接運び出すしかない。

 

「――神無月、出られる?」

「司令のご用命とあらば、いつでも」

「困ったことにどこかの誰かさんが、もう誰も殺させないなんて啖呵を切っちゃったのよね」

「全く、相も変わらず青臭いことを言ってくれたものです」

 

 琴里の後ろに控えた長身長髪の男、神無月恭平は苦笑した。

 身に纏う白い軍服は、この艦の長である琴里の副官たる証である。

 その目には出来の悪い生徒を、もしくはかつての戦友を思い出すような光があった。

 

「本当に我が叔父ながら大馬鹿だと思うわ。今もどこで油を売っているのやらよ」

「心配せずとも、しぶといのが彼の取柄です。そのうちひょっこりと――――」

 

『――とり、琴里……! 聞こえてるか、琴里!』

 

「――――とまぁ、このように」

 

 割り込んできた通信に神無月は肩を竦めた。

 噂をすれば、とは言うがいくらなんでもタイミングが出来すぎている。

 スピーカー越しの士道の声に琴里は一瞬だけ顔を明るくすると、すぐに表情を引き締めてマイクを手に取った。

 

 

 

 

 

「――、ここは……」

 

 気が付くと、士道は生い茂った草木に囲まれていた。

 先程までいた林の中とは様子が違う。

 公園内の樹林は整然としているのに対して、ここは雑然としていると言えばいいだろうか。

 人の手入れが行き届いてない、自然そのままという印象を覚えた。

 激突寸前だった二人の精霊の姿は、どこにも見当たらない。

 一体何故こんな場所に一人で立ち尽くしているのだろうか。

 特に気を失った覚えはないので、士道からしたら一瞬の間に瞬間移動をしたような感覚だった。

 彼女たちが天使を顕現させたところまでは、しっかりと記憶がある。

 その後、とてつもなく暗い空間に引きずり込まれたのも辛うじて思い出せた。

 

「琴里……おい、琴里っ」

 

 耳に嵌ったままの小型インカムに呼びかけてみるが、〈フラクシナス〉からの応答はない。

 故障でなければ通信が妨害されているか、もしくは通信が届かない程距離があるかだ。

 それならば、とポケットから取り出した携帯は、バッテリー切れですっかり沈黙していた。

 昨日は色々あったため、寝る前に充電するのを失念していたのを思い出す。

 今朝、琴里に連絡を取った時点では電源が入っていたのだが、狂三とデートしているうちにお亡くなりになったようだ。

 ともかく、連絡が取れないのならここでジッとしている意味はない。

 絶対ではないが、雲の流れや木の根元のコケを見れば大体の方角は分かる。

 しかしどの方向へ進んだものか。

 辺りは傾斜になっているので、とりあえずそれに逆らわずに下っていく。

 転ばないように注意しながら進んでいくと、やがて木々の隙間から外の光景――天宮市の街並みが確認できた。

 草木が生い茂り、地面が傾斜になっていて、かつ街を一望できる場所……どうやらここは外縁部に位置する山林のようだ。

 一体どうして街中の公園からこんな場所まで移動したのかはわからないが、急いで元の場所まで戻らなければならない。

 遠雷のように聞こえてくるサイレンの音は空間震警報だろう。

 つまりそれは、あの二人の精霊が霊力を惜しげもなく開放したことを意味している。

 その激突を放置していては、それこそ天宮市が滅ぼされかねない。

 携行型の顕現装置を手に走り出した士道だったが、程なくその足を止めることになった。

 

「あらあら、そんなに急いでどこに行かれますの?」

 

 その理由は、二人の精霊の内の一方が目の前に現れたからだ。

 左右で不均等に括られた黒い髪、赤と金の双眸、そしてその身に纏う赤と黒の霊装。

 時崎狂三――精霊の中でも最悪と称される個体であり、共に学校をサボって士道がデートしていた相手であり……ついさっき、士道の目の前で白い精霊に殺された少女である。

 そして死んだかと思えばまた別の狂三が現れ、自分を殺した自分そっくりの顔をした精霊と対峙するという……考えれば考えるほど、頭の中が混乱で満たされていく。

 目の前の少女への疑問は尽きないが、士道は額に手を当てながら、その中の一つだけ口にした。

 

「お前は、本物の時崎狂三なのか?」

「士道さんのおっしゃる『本物』が何を指すのかにもよりますけれど、わたくしは時崎狂三で相違ありませんわ」

「なら――――」

「そして屋上で真那さんに殺された『わたくし』も、士道さんの目の前で殺された『わたくし』もまた、同じく時崎狂三であることは確かなのですわ」

「なんだよそれ……まるで自分が何人もいるみたいじゃないか」

「その認識で概ね間違いありませんわ。わたくしたちは本体の過去から切り取られた分身体。目的を達するために命を捧げる、いわば駒のようなもの」

 

 淡々と語る様には、およそ感慨のようなものは見受けられなかった。

 それが事実で当然のことなのだと、語る当人も受け入れているのだろう。

 その言葉を信じるのなら、彼女は時崎狂三の分身体、ということになるらしい。

 何度も殺されたのにも関わらず復活を果たしているのも、本体が無事だからなのだろう。

 そんな存在を生み出すことができるのは、やはり彼女が持つ天使の能力故か。

 だとしても士道は、はいそうですかと受け入れることはできなかった。

 筋違いと理解していながらも、今自分の目の前にいる狂三に対して深々と頭を下げる。

 

「すまん……あんなこと言ったのに、助けることができなかった」

「わたくしたちは駒にすぎないと、今し方説明してさしあげたはずなのですけれど」

 

 確かに士道とデートをしていた狂三は分身体だったのかもしれない。

 だとしても……たとえ本体の過去の再現に過ぎないとしても、見せた表情や感情はその時の彼女が抱いたもののはずだ。

 そうでないならば、士道の言葉にあそこまで憤ることもなかっただろう。

 彼女を助けられなかったことに、身勝手ながらも後悔が募る。

 勿論、他の分身体からしたらこのような謝罪を受ける謂れはないのかもしれない。

 それでも士道にはそうする他なかった。

 本当に頭を下げるべき相手は、もういないのだから。

 

「……傲慢で図々しいというのは、確かに自己申告の通りみたいですわね」

 

 頭を下げてどれだけ経ったか、狂三はため息と共にそんな言葉を漏らした。

 明らかに呆れている様子だったが、それも束の間。

 士道の頭に、冷たく硬い何かが押し付けられる。

 今日何度も味わったその感触は、彼女の短銃のものだ。

 

「あなたが何をしたところで、わたくしたちの生き死にには関わりのないこと。どうか勘違いなさらないでくださいまし」

「そうか……ありがとな」

「あの、どうしてそこでお礼の言葉が出てきますの?」

「だってそれって、気にするなって言ってくれてるんだろ?」

「はぁ……理解に苦しみますわ」

 

 今度は盛大なため息と共に硬い感触が離れていく。

 ようやく顔を上げた士道に、狂三はどうしようもない大馬鹿者を見るように半眼を向けた。

 

「謝罪も礼も不要ですわ。わたくしが今、士道さんに求めることはたった一つ……お逃げなさい。この街から離れて、出来るだけ遠く」

「もしかして心配してくれてるのか? やっぱりお前、案外――――」

「だ・か・ら! 勘違いなさらないようにと言ったばかりではありませんの!」

「わ、わかったわかった……痛いからそれ、ゴリゴリ押し付けないで」

 

 もし先程の言葉を最後まで言い切っていたとしたら、一発くらいは撃ち込まれていただろうか。

 自分のことを駒と言い切る割に、感情豊かなことこの上ない。

 もうこのやり取りも今日何回目かわからないが、士道は狂三に懇願するのだった。

 

「とにかく、今あなたに死なれるわけにはまいりませんの」

「それってやっぱり――――」

「なにか?」

「……なんでもございません」

 

 笑顔のまま銃口を押し付けられては、もう何も言えない。

 口をつぐむと、狂三はよろしいとでも言うように頷いた。

 そして士道の胸元にトンと人差し指を立てると、妖しく笑う。

 

「少なくとも、あなたがその身に封じた霊力をわたくしが頂くまでは、せいぜい生き延びていてくださいな」

「……ちょっと待て、もしかしてお前がこの街に来た目的って」

「もちろん士道さんに会うためですわ。どうです、ときめきまして?」

「そうだな、確かに今、すっごいドキドキしてるわ……」

 

 無論、それは恋愛的な意味ではない。

 ヤベーやつに目を付けられていたという事実と、ヤベーやつらをこの街に呼び込んでしまったという結果が、士道の心拍数を高めているのだ。

 つまり今この天宮市を襲う脅威も、元を正せば自分に原因があるということになる。

 それは最早どうしようもないのだが、この状況をどうにかしなければという思いは強まった。

 

「さて、それでは士道さんのお守りもここまでといたしましょう」

「戻るのか?」

「ええ、わたくしたちは『わたくし』に付き従う影ですもの」

「一緒に行く――って言ったら、またそれを突き付けられそうだな」

「わかっていらっしゃるのなら、口には出さないことですわ。あなたをここまで運んできたわたくしの労力を、どうか無駄にしないでくださいまし」

「なら先に謝っておく。ごめん」

 

 再度頭を下げた瞬間、銃弾が士道の足元の地面に穴を穿った。

 警告のつもりなのだろう。

 しかし怯えることも逃げ出すこともせず、士道はただ頭を下げ続けた。

 狂三は再三のため息を吐き出すと、その場で踵を打ち付けて自分の影へと身を沈ませていく。

 

「『わたくし』の命令通り士道さんをここまでお連れして、忠告も警告もした……これでどうにもならないのなら、もう打つ手はありませんわね。ええ、全く、不本意ながら」

 

 その言葉は目の前の相手に向けてというより、自分に言い聞かせるものだったように思える。

 影に半身を沈みこませたまま、狂三は下から士道の顔を覗き込んだ。

 

「もしのこのこと顔を出そうものなら、容赦なくぶっ放しますので、そのおつもりで」

 

 そしてニッコリと笑うと、物騒な言葉を残して影の中に消えていった。

 それを見送った士道は額に滲んだ汗を拭うと、すぐさま駆け出した。

 のんびりしている時間はない。

 携行型の顕現装置を手に意識を集中させると、周囲を随意領域が覆った。

 現代の魔術師は、この自分の意のままになる空間を操ることで超人的な力を手にする。

 士道はそのリソースの大部分を身体強化に振り分け、あとは軽い空気抵抗の緩和に留めた。

 頭を苛む絶え間無い痛みは、十分な装備もなくその力を使っている代償のようなものだ。

 しかし、そんなものを気にしている余裕も時間もない。

 文字通り風のような速さで山林を抜け、もぬけの殻となった街中を駆け抜ける。

 精霊と並び、顕現装置や魔術師の存在も一般には秘匿事項となる。

 空間震警報で住民が避難しているのは幸いだった。

 それはそれで、また別の気まずい相手と鉢合わせする可能性が出てくるのだが……

 年上の後輩の鬼のような形相を思い出し、頬に汗を滲ませる。

 また『保護』とかいう名目で襲いかかられては堪ったものではない。

 

『――、――――』

 

 公園が近づくにつれ、インカムからノイズ混じりの音が聞こえてくる。

 これは〈フラクシナス〉との物理的な距離が近づいているからだろう。

 遮るもののない空に上がればもっとクリアになるはずだが、CR‐ユニットもなしに飛行するのは負担が馬鹿にならない。

 飛び上がったところで、そこで行動不能になってしまえば何の意味もないのだ。

 とはいえ、情報の共有は早めに済ませておきたい。

 目的地に向かう足をさらに加速させつつ、士道はインカムへ呼びかけた。

 一度、二度、三度……応えはない。

 そして背の高いビルが切れたところで、ようやくノイズがクリアになる。

 すると、いの一番に飛んできたのは姪っ子の罵倒だった。

 

『どこで汁啜ってたのよ、このアブラムシっ』

 

 もしかすると、油を売っていたと咎められているのだろうか。

 琴里の妙に弾んだ声に、士道は苦笑した。

 

「悪い、ちょっとアブダクションされててな」

『またそれ? 精霊をデレさせる立場なのに、お姫様属性つけてどうするのよ』

 

 また、とは七罪の攻略中の出来事を指しての言葉だろう。

 攻略の最中に子供姿に変えられた士道は、彼女に少しばかり強引に連れ去られていたことがあるのだ。

 実の所、その直前に自分の担当クラスの生徒である折紙に誘拐されかけたことの方が、七罪の件よりも衝撃の度合いとしては大きかったのだが。

 ふと、彼女が近所の子供に迷惑をかけていないだろうか、という不安が芽生える。

 心優しい生徒なのだが、少々という言葉では収まらない程度に行動力に溢れているのだ。

 他の人に聞かせるような話題でもないため、今度時間をとって個人面談を……と、そこで士道は妙な寒気に体を震わせた。

 何故だろうか、彼女と二人きりになることに危機感を覚えてしまったのだ。

 そういえば、今日はずっと自分たちを尾行していたはずだが、今はどうしているのだろうか。

 狂三の影の結界に巻き込まれたのなら、彼女も昏倒している可能性が高い。

 ふと、瓦礫と炎の中で座り込む、幼い少女の姿が頭を過ぎった。

 急き立てるように拍動する心臓を押さえつけるように、胸に手を置く。

 熱を逃がすように息を吐き出すと、頭は幾分か冷静になってくれた。

 

「それより公園内の避難状況は?」

『完了――と言いたいところだけど、戦闘区域付近はまだね』

「わかった。なら俺が向かうから、倒れてる人の位置が分かるなら教えてくれ」

『ダメよ。あなたの役目はそれじゃない。わかってるでしょ?』

「じゃあ他に、精霊同士がドンパチやってるとこに突っ込めるやつがいるのか?」

 

 せめてASTがやって来るまでは、救助を受け持つ必要がある。

 勿論、戦闘態勢の精霊に挟まれたら士道とてひとたまりもないが、自衛手段という点で他に適した人材はそうはいないだろう。

 それが分かっているのか、琴里は言葉を詰まらせた。

 

『…………度し難い変態を、野に放つことになるわね』

「よし、俺がやる。任せてくれ」

『お願い、しーくん』

 

 苦々しく答える声に混じって「アヒィンッ!」という声が聞こえたが、きっと気のせいだろう。

 琴里の頼みに、士道は真顔で頷いた。

 さて、可愛い姪っ子のお願いとあらば、俄然やる気が出てくるというものだ。

 公園にたどり着くと、奥の方から断続的に銃声と破壊音が聞こえてくる。

 方角的に、二人はあの林からそう移動はしていなさそうだ。

 こちらの入口付近には何の破壊の痕跡もない。

 精霊同士の戦いとしては、非常におとなしいと言わざるを得ない。

 比較対象である双子の台風が縦横無尽に駆け回りすぎているだけかもしれないが、そもそも精霊は災害と呼ばれるだけあり、それぞれが人知を越えた力を誇る。

 十香にしても七罪にしても、精霊が本気を出せばそれは天変地異と同義なのだ。

 それが公園内の一区画だけの被害に留まっているとなると、何か特別な事情を疑ってしまう。

 そもそも互いに手を抜いているか、もしくは全力を出せない理由があるか。

 両者の間に窺えるただならぬ事情も含めて不透明な部分は多いが、それで被害が抑えられていると考えれば、悪いことばかりではない。

 何よりもまずは、昏倒した人達の救助だ。

 

「――――先生っ」

 

 と、士道の目の前に一人の少女が飛来した。

 心配は杞憂に終わったようで、そっと胸を撫で下ろす。

 鳶一折紙――緊急着装デバイスを使ったのだろう、ワイヤリングスーツを纏っていた。

 無表情の中に安堵を滲ませて、折紙は士道の手を取った。

 

「ここは危険。早く避難して」

「いや、それはそうなんだけどな……」

 

 言っていることは正しいし、AST隊員として職務に忠実だと言えるだろう。

 一市民としては、救助も折紙に任せて避難するのが正しいのは間違いない。

 しかし、最低限の装備しかない彼女を精霊がぶつかり合う戦場に残していくのは、幾分か以上に不安が残る。

 危険なのは当然として、折紙の戦う動機として精霊への復讐は決して小さくない。

 人命を蔑ろにすることはないにしても、救助という目的を達したら、あの二人にそのまま攻撃を仕掛けかねない。

 付け加えるなら、姪っ子にお願いされてしまったという士道の個人的な事情もある。

 どうしたものかと頬を掻く。

 そんな士道に対して、折紙は焦れたように握った手をグイグイと引っ張った。

 しきりに上の方をチラチラと気にしているが、何かあるのだろうか。

 釣られて士道も上に目を向けると、何か小さな人影が空にあった。

 二人の精霊の内のどちらかと思ったが、それだったら〈フラクシナス〉から警告があるはずだ。

 インカムからは何とも言えない、嘆息するような声が漏れ聞こえてくる。

 状況を把握しているのかどうなのか、こうなったら視力を強化したほうが手っ取り早い。

 士道は意識を集中させようとして――――急速にその人影が大きくなっていく。

 隣で小さい舌打ちが聞こえたような気がした。

 

「シドー!!」

「と、十香!?」

 

 そして、凄まじい勢いで土煙を巻き上げながら着地した十香に、面食らうのだった。

 見間違いでなければ、今彼女は空を飛んでいたということになる。

 今朝見たとおり十香は制服姿だったのだが、スカートや袖口などに美しい光の膜を帯びている。

 これはそう、彼女が纏っていた霊装のような……霊力の逆流という可能性が頭を過ぎった。

 困惑して固まる士道に対して十香はパァっと顔を明るくしたかと思うと、すぐさま不機嫌そうに腕を組んで半眼で睨みつけてきた。

 この状況には覚えがある。

 あれは確か、大人の姿に変身していた七罪と一緒にいた時だったろうか。

 知らずの内に頬を汗が伝う。

 恐る恐る、士道は十香がここにいる理由を尋ねてみることにした。

 今の雰囲気ではライオンの口に手を突っ込むような心地だが、放置するわけにはいかない。

 

「十香……ど、どうしてここに?」

「サボり。彼女は非常に悪い生徒」

 

 すると、何故か折紙がそれに答えた。

 最早当然というべきか、十香があわあわと食ってかかる。

 

「な、何を言うのだ! それを言うなら貴様も同じではないかっ!」

「私は職務の一環としてここにいる。つまり正当性がある。あなたは?」

「む、ぐぬぬ…………!」

 

 学校をサボったという自覚はあるのだろう。

 折紙の言葉に反論できないのか、十香は非常に悔しそうな顔をした。

 これはこれでいつもの光景なのだが、この状況で更に不機嫌になられては困る。

 いつも通り士道は、にらみ合う二人の間に割り込んだ。

 

「はいはいストップ。今はそんなこと言い合ってる場合じゃないからなー?」

 

 そう、今は緊急事態であり、こうやって喧嘩の仲裁をしている場合ではないのだ。

 すると悔しげに唸っていた十香が、今度は士道に食ってかかった。

 

「そもそもっ、体調不良だと聞いていたのに一体おまえはこんな所で何をしているのだ……っ!」

「あー、それはまあ……な?」

 

 それで士道は、どうして十香がここにやって来たのかを大体察した。

 早退の理由として体調不良を使ったのが、余計に心配をかけたのだろう。

 この様子では、一度家の方まで訪ねたと見るべきだ。

 具合が悪くて臥せっているはずの者が不在となれば、探しに出るのも想像に難くない。

 学校を勝手に抜け出すのは褒められたことではないが、自分の心配をしていたのだと考えると、あまり強く言う気にはなれなかった。

 そもそもサボっているという点では士道も同じなのだ。

 精霊攻略中だと伝えられればいいのだが、ASTである折紙の前で迂闊なことを喋るのはあまりよろしくないだろう。

 一応〈ラタトスク〉は秘密組織なので、その存在を勘付かれるわけにはいかない。

 うっかり口に出そうものなら、間違いなくインカムに雷が落ちる。

 加えて、やはり精霊攻略とはいえ別の女性とデート中でした、とは流石に言い難いものがある。

 言いよどんでいると、険しい顔をしていた十香は「ん?」と首を傾げ、次には何かに気づいたのかハッとした表情を作った。

 こちらの事情を察してくれたのだろうか、伺うような視線を向けてくる。

 士道はコクコクと全力で首を縦に振った。

 しかし十香は、再び不機嫌顔で唸り出すのだった。

 理解はしていても納得し難いものはある……そんなところだろうか。

 

「……ところでシドー、世の中には先払いという制度があると、亜衣麻衣美衣から聞いたのだが」

 

 そして不機嫌な表情のままに、何かを期待するような上目遣いを見せるのだった。

 ほんのりと色づいた頬から、士道は十香が何を求めているのかを察して言葉を詰まらせた。

 精霊を攻略する最終目的として、対象とキスをする、というものがある。

 いまだにどういう理屈に基づくものなのかはわからないのだが、そうすることで士道は、精霊の持つ霊力を封印することができるのだ。

 そうして精霊を無力化した上で普通の生活を送ってもらうというのが、〈ラタトスク〉が掲げる平和的な空間震の解決方法となる。

 十香は少し前に士道がその力を封印した精霊なのだが、当然ながらキスという行為のハードルは低くはない。

 そもそも封印の前提条件として好感度を上げるという工程が挟まるため、そのための手段としてデートを行う必要があるのだ。

 勿論十香とも色々とした上で、唇を重ねるに至った。

 しかしながら、必要とはいえそういう感情を抱かせた故の問題も発生する。

 紆余曲折を省いた上で結論を言うと、士道は他の精霊とキスをする度に十香とも同じことをしなければならない。

 それが彼女との約束なのだ。

 ここで言う先払いというのは、他の精霊とキスをしに行くのなら先に自分にもしろ、という意味なのだろう。

 だがそれを言うのなら、士道はつい数日前に誤解によって五回も十香に唇を奪われている。

 七罪の分は差し引いたとしても、先払いという意味では既に四回程、余分に支払っているということになる。

 その辺りはどうなるのかとは思ったが、口に出せるような雰囲気でもない。

 大体、折紙がいる場でキスがどうのこうのと言い出すのは、とてもマズい気がしてならない。

 向けられる視線に熱でもこもっているのか、頬に一筋汗が流れた。

 士道としても十香とのキスが嫌なわけではないのだが、教師と生徒という関係がある以上、守るべき節度というものがあると思うのだ。

 それに自分には、他にそういう感情を向ける相手がいたような気がして……頭の中の空白に一瞬だけ思考を奪われる。

 その空白の隙に、グイッと手を引っ張られて体を引き寄せられる。

 犯人はさっきからずっと士道の手を握っていた折紙だった。

 

「未知の波長の光が視神経にダメージを与える恐れがある。あまり夜刀神十香を見てはダメ」

「なんだとっ!?」

 

 そして士道と入れ替わるように位置取りを変えた折紙は、再び十香と対峙した。

 再度のにらみ合いである。

 何度も言うが、今はこんなことをしている場合ではない。

 士道はどうにかしようとあれこれと考えた末に、一つの提案をした。

 

「よし、二人とも協力してくれ!」

 

 

 

 

 

『それで、何か申し開きはあるかしら?』

「いや、申し訳ないとは思ってるけど、あの状況で二人から離れるのは無理だろ……」

 

 インカムからの非難がましい声に、士道は大いに脱力した。

 いがみ合っていた十香と折紙は、現在はこちらの指示のもと仲良く……とは口が裂けても言えないが、少なくとも衝突はせずに救助活動に従事している。

 これは互いに根っこが心優しい性格なのが大きいだろう。

 目の前の気に入らない相手をどうにかするより、倒れた人を放っておくことができないのだ。

 そういう意味でも、咄嗟に二人に対して協力を頼んだことは悪くはないと思うのだが、琴里の非難も理解できないものではない。

 ASTと行動を共にすることは作戦行動に支障をきたすし、精霊である十香は〈ラタトスク〉の保護対象だ。

 それを危険な目に合わせては、元も子もないだろう。

 士道としても二人を巻き込むのには物凄い抵抗があったのだが、無理に距離を取って勝手に行動されるよりは、目の届く範囲に置いておいた方が安全だろう。

 いざとなれば自分が盾となることもできる。

 

『そうね、つまり士道の日頃の行いが悪いと』

「半分ぐらいは〈ラタトスク〉の作戦行動のせいじゃないかなぁ!?」

 

 姪っ子のあんまりな指摘に、士道は悲鳴じみた声を上げた。

 それに対して鬱陶しいとでも言わんばかりに、ため息が返される。

 琴里にこのような態度を取られる度に、熱いものがこみ上げてくるのは何故だろうか。

 

『まあ、人手が多いのは悪いことじゃないわ。今の十香なら、最低限の自衛はできるだろうし』

 

 霊力の逆流は本来なら避けるべきだが、この状況ではプラスに働いている。

 流石に無防備なままでは、この場に連れてくることは出来なかっただろう。

 そこらに刻まれた破壊の痕を見渡して、士道は唾を飲み込んだ。

 今の所あの二人の精霊と出くわしていないが、銃声と破壊音は近い。

 こうしている間にも、目の前に現れてもおかしくはないのだ。

 

「……琴里、狂三と〈デイドリーム〉の位置は?」

『そこから三時の方向に数百メートル。とりあえずそっちに向かう気配はないわ』

「そうか、そりゃラッキーだな」

『というよりこの動きは……いえ、何でもないわ』

 

 何にしても、幸運にかまけてのんびりしている訳にはいかない。

 士道は倒れた人を担ぐと、同じく要救助者を抱えた二人と共に戦闘区域外まで運び出す。

 ここまで運べば、後は〈ラタトスク〉の構成員がどうにかしてくれることになっている。

 そして救助が終わった後は――――

 

『とにかく急いで。辺りに人がいなければ最悪、()()()()()()()()()

 

 それは〈フラクシナス〉でこの状況をどうにかする、ということだろうか。

 やはりと言うべきか、精霊を相手取るにあたり何か切り札があるらしい。

 ただ、最悪と表現しているだけあって、使うのは望ましくないのかもしれない。

 何も知らされていない士道も何故だか、その切り札に対する嫌な予感を覚えるのだった。

 

「先生、こちらは完了した」

「シドー、次はどこへ向かう?」

「ああ、そうだな――――」

 

『次なんてありませんよ』

 

 虚空に声が響く。

 発生源はわからない……しかし、背後にとても嫌な気配を感じて、士道は咄嗟に飛び退いた。

 しかし背後の空間には何もなく、嫌な気配は依然として消え去らない。

 これではまるで、何かが背中に張り付いているような――――

 

「――っ、なん、だ……!?」

 

 唐突にかかった重みにつんのめる。

 まるで一人分の体重を加えられたような……いや、これは確実に誰かが背中に乗っかっている。

 前方に傾いだ不安定な体勢では、立ったままでいることができなかった。

 地面に倒れこむ、その寸前に両手をついて持ちこたえる。

 

「あれ、意外と悪くない座り心地ですね。またお兄さんへの好感度が上がっちゃいました」

 

 その声は、今度は実体を伴って発せられた。

 白く、白く、どこまでも白い、最悪の精霊と全く同じ顔をした、()()()()()()()

 精霊〈デイドリーム〉は、何故か四つん這いになった士道の背中に腰を下ろしていた。

 そして、時崎狂三と全く同じ顔で、あの夜見せた笑顔と同じように笑う。

 

「私の物になってくれませんか? もちろん、これはお願いじゃなくて強制です」

 

 

 




というわけで、次回に続きます。
多分そう間は空かないと思います。
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