士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
その分文量が嵩んだと思ってください。
「――【
振りぬいた軍刀の延長線上に、目に見えぬ斬撃が発生する。
それは木々を切り倒しながら黒い精霊に迫り、その反対側から現れた斬撃と共に挟み込む。
「――【
しかしその直前、姿が掻き消える。
対象を見失った斬撃もその効力を果たして消え去った。
知っている――あれは撃った対象を加速させる〈
彼女はそれを自分自身に向けたのだ。
左右から挟み込む斬撃に対する逃げ道は二つ。
後ろに下がって攻撃範囲から逃れるか、或いは――――
「そう来るよね……!」
頭上に銃口を向けるのと、頭上から銃口を向けられるのは同時だった。
視線が交錯し、三つの銃声が重なる。
こちらが放った弾丸は一つ、対して相手が放った弾丸は二つ。
一つは相殺し、一つは斬って捨てた。
そこには武器の差が表れている。
こちらは短銃と軍刀、むこうは短銃と歩兵銃。
距離を取って戦う上では、手数において相手の有利は揺るがない。
勿論、それを覆す手段も持ち合わせているが、今の自分には気軽に使う余裕がない。
まず
精霊がその身に宿す
しかし自分に残されたのは、あるかどうかも見紛う程の欠片のみ。
こんな小さな
加えて、
それは炎だったり風だったり、各々が行使する権能に色濃く影響するものだ。
自分の宿す
生成された霊力を最適な形で扱うためには、雀の涙の量を、更に劣悪なレートで変換しなければならない。
そして、自分には『時間』も足りない。
この
左の瞳の天文時計が示すのは、この身に残された『時間』そのもの。
前回彼女と戦った時から間を置いていない今回は、十分な『食事』を摂れていない。
これは早く彼女に逢いたいと思うあまり、気を逸らせた自分の責任だ。
「――ふふっ」
劣勢もいいところだろう。
まともに戦えばこうなるのは目に見えていたが、それでも顔に浮かぶのは笑みだった。
相手が憎い、許せない。
だというのに、今この時間が堪らなく楽しい。
かつての関係とはすっかり変わってしまったが、彼女と過ごす時間はかけがえのないものだ
矛盾しているとは自分でも思うが、これらはどこまでも自分の本心だ。
存在が変わり果て、精神が歪に捻じ曲がろうとも、時崎狂三は■■■■の親友なのだ。
たとえそれが、自分
「【
軍刀を構え、自らを弾丸の如く射出する。
超高速の刺突攻撃――速度の上では、【
それで以て、宙に身を躍らせる彼女へと肉迫する。
しかしこれは単純な直線移動に過ぎない。
黒い精霊は表情を変えぬまま、手にした短銃を構えた。
「【
生半可な攻撃なら、この刺突に弾かれてそれまでだ。
しかし彼女の……いや、自分達の弾丸に乗せた権能は、当たりさえすれば効力を発揮する。
放たれたのは【
視界の端で流れる景色が、途端に緩やかになる。
速度を奪われれば後は迎撃されるのみ。
手足を撃ち抜かれ、踵で強かに肩口を打ち付けられる。
地面に叩きつけられ、顔が歪む。
こんな存在になり果てても、まだ痛みは感じることが出来る。
痛い、痛い――――でもそれ以上に悦びが勝った。
(狂三さんは、やっぱりかっこいいなぁ……)
世界を相手に戦い続けてきた彼女の戦闘経験は圧倒的だ。
強力だが癖の強い〈
比べると、身を隠して温存を余儀なくされてきた自分はそれに欠ける。
この〈
そんな様では天使の力を惜しげもなく振るう精霊に及ぶべくもない。
実際に
一度目……影で都市をまるごと飲み込んだ時は、彼女に動揺があったからだ。
その精神の隙をついて、自分が〈時喰みの城〉を乗っ取って街を、人を喰らった。
二度目は、一度目で蓄えた霊力と『時間』を注ぎ込んで正面からぶつかり合った。
戦いが都市を飲み込むまで拡大したのは、こちらのリソースに余裕があったというのもあるが、それ以上に彼女が躊躇していたのが大きい。
その結果、二人分の霊力で引き起こされた空間震が街を滅ぼした。
それ以降、彼女に躊躇はなくなり、また同時にこちらとの接触を避けるようになった。
そう、確かに躊躇はなくなった。
こちらに銃口を向けるたびに覗かせた悲痛な表情も、今ではもう見られない。
しかしまだ、そこには容赦がある。
精霊とその
相手に躊躇いがなければこのように、いとも簡単に地面を舐める羽目になる。
だが彼女が本気で手を下していれば、今頃自分はここに存在すらしていない。
時崎狂三は、明らかに手心を加えている。
その事実が、身を震わせるほどの屈辱と歓喜をもたらす。
数多の人間を手にかけ、戦いの日々でその精神を歪ませながらも、彼女がその根底に抱く優しさは変わらない。
それが愛おしく、そして
「……優しいんだね、狂三さんは」
彼女は答えない。
ただ無言で銃口を向けるだけ。
そもそもの話、彼女が自分の戦いに付き合っている事自体が既に奇妙なのだ。
その本領を発揮していれば、もっと簡単に自分を無力化できていたはずだ。
恐らくだが、被害を拡大させないために攻撃手段を選んでいるのだろう。
影の結界によって昏倒した人間を気にしているのだったら、酷い矛盾だ。
でもそれは無益な犠牲を良しとしない、彼女なりの線引きなのだろう。
気高いとさえ表現できる精神性――――憧憬を抱くと同時に、どうしようもなく腹立たしい。
「ねぇ、また私のことを殺すのかな?」
「そうなりますわね」
「あのお兄さん……穂村士道さんだっけ? その人も殺しちゃうの?」
「結果的に、そうなりますわね」
彼女がこの街へ、ある人物に会いにやって来たことは知っている。
だけど、それが何故なのかは知らなかった――昨夜に彼と出会って、その身に蓄えた莫大な霊力の存在に気付くまでは。
穂村士道……彼を喰らえば、彼女は自分の目的に大幅に近づく。
そんなことはあってはならない、決して許されない。
相反するものがない、純粋な怒りだけが心を満たした。
「そうなんだ――――じゃあその前に、私が貰っちゃおうかな」
「――っ」
彼女の判断は早かった。
短銃から放たれた弾丸が容赦なく体に突き刺さる。
しかし、既に〈
虚実が入れ替わる――虚像にいくら弾を撃ち込んだところで、何の意味もありはしない。
この【
事前の準備は必要だが、虚像の扉を通じて離れた場所への移動も可能。
そして、既に『扉』は仕込んである。
地面の中へ――いや、地面と重なるように現れた虚像の扉の中へ落ちていく。
そして扉が閉まり、視界が切り替わる。
本当に、あの夜に出会えたのは幸運だった。
『先生、こちらは完了した』
『シドー、次はどこへ向かう?』
『ああ、そうだな――――』
届く声はどこか遠い。
まだ虚実の境が曖昧なのだ
今し方、自分が扉として利用した背中を見下ろす。
せっかくあの場から逃してもらったというのに、戻ってくるのは愚かとしか言い様がない。
でもそれはこちらにとって好都合だ。
彼を奪うところを見せつけたら、彼女はどんな顔をするだろうか。
(させない、させない。狂三さんに目的を果たさせることだけは決して、絶対に…………!!)
それが彼女の優しさに根差したものであろうと、
彼女を
それが自分と、
「私の物になってくれませんか? もちろん、これはお願いじゃなくて強制です」
背中の上に乗っかってきた赤の他人は、そんなことを言い放った。
あまりにも唐突すぎて、士道の思考に空白が生まれる。
現状は切羽詰まっているはずなのだが、それも物の見事に吹っ飛んでいた。
数舜間をおいて、何やら告白と取れなくもない発言があったことに理解が及ぶ。
いや、今のは本当に告白だったのだろうか。
悲しいことにそういった経験がないため、本当にそうなのか判断が難しいのだ。
仮にそうだとしても状況が特殊すぎて、あまり感慨が湧いてこない。
というか、告白かどうかはともかく、言い方はもう少しどうにかならなかったのだろうか。
自分の物になれ、とは大いに誤解を招く表現に思える。
そしてそれ以上に、この体勢をどうにかして欲しい。
これでは、そういうプレイに興じているように見られかねない。
もしかすると彼女は女王様志望なのだろうか。
背中に感じる重さと柔らかさはそういう業界におけるご褒美なのかもしれないが、それを楽しむ性癖もないし、そんな状況でもない。
十香と折紙から痛い視線が向けられているような気がして、士道は額に汗を滲ませた。
『いきなり反応が移動した……? まさか空間を飛び越えたとでもいうわけ……!? 士道、気を付けて! 〈デイドリーム〉の反応がそっちに――――って、こんな白昼堂々何やってるのよ!』
『ほう、この一瞬で自ら椅子になるとは……穂村君もやるようになりましたね』
そんなことを言われても、士道とて好きでこの体勢になったわけではない。
とりあえず、インカムの向こうで感心している変態をどうにかしてほしい。
アレと同類だと思われては、明日からの身の振り方を考えなければならない。
しかし、自分の上に乗った彼女をどうにかするのは急務とはいえ、これは単純にさっさと上から振り落とせばいいという話ではない。
背中とは打って変わって、後頭部に押し当てられている硬い感触は、恐らく銃器の類だ。
悲しいことに、今日一日で幾度となく味わったものである。
迂闊に動くことはできない……動かせる部位があるとしたら、それは口ぐらいだろう
士道は精霊との交渉役として見出された、〈ラタトスク〉のエージェントである。
自衛手段で顕現装置を持ち歩いているとはいえ、元より対話が基本戦術なのだ。
精霊の一人や二人、口先一つで自分の上から退かせられないようでは、司令官様のお叱りを受けてしまう。
「や、やあ……どうせだったら、昨日みたいにベンチに座って話さないか?」
「うーん、そうだなぁ。お兄さんが『はい』って頷いてくれるなら考えてあげます」
口ぶりこそ穏やかなものだが、後頭部にはゴリゴリと硬い感触が押し付けられる。
柔らかい態度の裏に、自分の要求以外を認めないという固い意思が窺えた。
そもそも最初に強制と言っていたので、その通りではある。
それにしても、にこやかに銃を突きつけてくるところは、どこぞの最悪の精霊と良く似ている。
そっくりなのは顔だけにして欲しい。
自分の口先の無力さに士道は閉口したが、この場にいる他の二人が黙っていなかった。
「何だ、貴様は。シドーから離れろ」
「――まさか精霊? その顔は……あなたは一体何者?」
二人はそれぞれ、手にした剣を構えた。
折紙が握るレイザーブレイドは、ワイヤリングスーツに付属した基本武装である。
AST隊員は、この武装をまともに扱えて一人前と認められる。
十香が握る幻想的な煌めきを放つ大剣は〈
天使と呼ばれる、精霊が振るう絶対の矛である。
それが顕現したということは、相当に霊力の逆流が進んでいるということか。
勿論、放置しておくことは出来ない問題だ。
このままでは再び十香がASTに狙われかねない。
しかし今、背中の上には特大の爆弾が座っている。
まず彼女をどうにかしないことには、他に手を付ける余裕がない。
「魔術師に、それにこの霊力は……もしかして精霊さんかな? 初めましてですね、お二人とも」
士道の背中に腰かけていた白い精霊は、立ち上がると人懐っこい笑みを浮かべた。
穏やかな声音も相まって、それは昨夜の、全く別の姿をした彼女を思い起こさせる。
だがしかし、その両手には短銃と軍刀が握られたままだし、手傷を負ったのか返り血を浴びたのか、手足は赤く染まっていた。
その様は、友好的と表現するには些か険呑に過ぎる。
ようやく自由になった士道が動き出すのと、白い精霊が軍刀を構えるのはほぼ同時だった。
「【
「――――させるか……っ!!」
白い精霊と二人の間に展開された随意領域が、軍刀の切っ先を阻んだ。
刺突を受け止めて削られた不可視の壁が、火花のように魔力光を散らす。
脳をかき回すような痛みに、士道は顔を歪めた。
自分の周りに防性の随意領域を展開するのと、遠隔で発生させるのとでは負担が桁違いだ。
まるで、
ましてや、ワイヤリングスーツの補助もなしにそれを行えば、活動限界は急速に近づく。
それでも、自分の生徒たちに対して振るわれる刃を見過ごす道理はない。
「二人とも……救助の続きを頼む。喧嘩するんじゃないぞ、いいな?」
「……おまえはまたそうやって、自らの身を危険の中に置こうと言うのだな」
「心配かけて悪いけど……頼むよ」
「ふんっ、ばーかばーか、おまえの言うことなど知ったことか」
十香は駄々をこねるようにそっぽを向いた。
そしてそのまま、士道に背を向けてポツリと呟いた。
「――――だからシドー、私が戻るまで無事でいろ。おまえが傷ついたら、私は自分がどうなってしまうのか、わからない」
「心配すんな。俺の随意領域はお前の剣だって防いだんだ。そう簡単に破られやしない」
「…………それもそうだな」
「そうだ、これ持ってけ」
士道は耳に嵌めたインカムを外すと、十香に投げ渡した。
姪っ子の抗議が聞こえたような気がしたが、最早どこ吹く風である。
受け取った十香は顔に疑問符を浮かべていたが、士道が耳を指差すと何となく理解したようだ。
インカムを耳に装着して「おおっ」と驚きの声を上げていた。
「何かわからないことがあったら、そいつに聞いてみてくれ」
「うむ。ではシドー、すぐに戻る。待っていろ」
去っていく背中を見送り、この場に残ったもう一方の生徒に目を向ける。
精霊を前にした彼女は、表情を変えぬまま瞳に険しい光を宿し、構えたレイザーブレイドもまた下ろそうとしない。
「折紙……気に入らないかもしれないけど、十香を手伝ってやってくれないか?」
「先生をここに置いてはいけない」
「大丈夫だ。俺は君から預かったものを返してやるまで、絶対にいなくなったりしないから」
「…………あなたがどうしてもと言うのなら、約束が欲しい」
「ああ、俺にできることなら何でも聞いてやるよ」
「欲しいものがある。相場は給料三か月分と言われているけれど、どんなに安価でも構わない」
「そ、そうか? まあ、貯金が許す範囲でなら……」
どこかで聞いたような言い回しだが、それが何なのかは思い出せなかった。
給料の三ヵ月分が相場とは、随分と高価な買い物のようだ。
士道の収入で言えば、バイクが新車で買える程度だろうか。
安くても構わないと言っているので、そこまで恐ろしい金額にならないことを祈ろう。
「無理はしないで。私たちの将来のためにも」
十香の後を追って折紙も走り去っていった。
将来のためにとは、もしかして進路相談の話だろうか。
やはり言い回しは少々気になるが、教師として頼られていると考えれば悪い気分ではない。
しかし、いい加減現実と向き合わなければならない。
律儀に待ってくれていた白い精霊は、クスクスと口元に手を当てて笑う。
「もしかしてお兄さん、結構女の子泣かせな人ですか? 今、とんでもない約束をしましたよ?」
「どっちかって言うと、泣かされてることの方が多いかな」
「ハンカチいります?」
「それより、今日の所はお互い大人しく帰るってのはどうだろう」
「うーん、それは無理ですね」
士道の提案に、彼女は申し訳なさそうに首を横に振った。
困ったように笑う様には、こんな状況だというのに親しみを覚えてしまう。
もっと会話を重ねれば、説得することができるかもしれない。
そんな
しかし彼我の断絶ははっきりと、彼女自身の口から示された。
「徹頭徹尾、この街の一切合切を私が喰らいます。例外はありません。彼女たちを見逃したのも、早いか遅いかの違いでしかありません」
親しみを覚える笑顔のまま、どこまでも穏やかな口調で、しかしそこに逡巡や躊躇は欠片も見当たらず、まるでそうするのが当然かのように、彼女はこの天宮市を滅ぼすと言ったのだ。
白い精霊は絶句した士道に軍刀を向けると、何かを呟いてそれを横薙ぎに振り払う。
すると一瞬だけ、ノイズがかかるように辺りの景色がブレた。
何が起こったのか……しかしそれに気を取られている余裕はない。
精霊と対峙しているこの状況で気をそらせば、次の瞬間には命を奪われかねない。
「だからお兄さんの命を、あなたがその身に蓄えた霊力を全て私にください。もちろんですけど、返答は『はい』か『イエス』でお願いしますね?」
「……まいったな、君もその手合いか。モテ期って言うには物騒すぎるぞ」
「どうしてもって言うなら、お願いの一つくらいは聞いてあげなくもないですよ? 私、お兄さんのこと結構好きですし」
「好きなのに殺すのか?」
「
同じ言葉を使っているはずなのに、どこまでも噛み合わない。
根底に抱く価値観そのものが決定的に食い違っているのだ。
どうしようもない異質さを覚えて、士道は一歩後ずさった。
彼女は今まで出会ったどの精霊とも
それが何なのかを説明することはできないが、初めてこの姿を見た時に覚えた不吉さを、いまだに拭うことができないでいる。
逃げ出したいのは山々だが、彼女を放置したら他の人間を襲いかねない。
そしてそもそも、ここから逃げることを許してはくれないだろう。
士道が標的であると、彼女は今はっきりと告げたのだ。
狂三と狙いが同じなのは偶然か、それとも共通した理由があるのか。
何にしても、似ているのは顔だけにしてもらいたいところだ。
「俺やこの街を見逃してくれって言ったら、聞いてくれるのか?」
「却下です。それはどちらも決定事項ですから」
「じゃあこっちも却下だ。俺の命はくれてやらないし、この街も滅ぼさせない」
「へぇ…………
赤と青の双眸が細められる。
それは不遜にも精霊に対し、お前を止めると言ってのけた人間への苛立ちか。
もしくは、出来もしない妄言を語る者への哀れみか。
結論から言うと、士道に精霊を打倒することは不可能だ。
こんな出力の弱い顕現装置だけでは、精霊の纏う鎧である霊装は、とても貫けやしない。
最低でもワイヤリングスーツを装備しないことには、攻撃に使う魔力の生成もおぼつかない。
勿論、能力的な問題もある。
世の中には単独で精霊と戦ってのける猛者もいるが、そんな連中を基準に考えてはいけない。
仮に十分な装備を与えられたとしても、それを扱うのが凡百の魔術師、しかも単独ならば結果もまた明白だ。
そして何よりも決定的なことに、士道には全くその気がない。
性格的にというのもあるが、精霊相手に剣を向ける気概は、五年程前にとある飲んだくれを助けた際にすっかり失ってしまったのだ。
たとえ十分な装備があったとして、立ち向かうに足るだけの能力を持っていたとしても、戦うに際して一番重要なものが欠けていたら、そもそもが成り立たない。
だから士道が取るのは、どこまでも人任せで姑息な手段である。
「どうやってだって? まぁ、そりゃあ見てのお楽しみだ…………っ!」
目に見える変化はなく、しかし確かに変化は訪れた。
白い精霊が無造作に刃を振るうと、何もないはずの宙空で留まる。
防性の随意領域がその周囲を覆っているのだ。
ただその向きは通常とは逆――これは外からの攻撃を防ぐものではなく、内からの攻撃を封じ込めるためのものだ。
相手の攻撃能力によっては、そのまま封じ込める檻となる。
閉じ込められた白い精霊は、自分を囲む不可視の壁に触れて感心するように息を漏らした。
「ふぅん、これがお兄さんの切り札ですか。さっきは【
「……どうだ? せっかくだし……このままお喋りしないか?」
「それも悪くはないですけど――――ところで、随分と辛そうですね?」
堪えるだけで精一杯な程の激しい頭痛が、士道を苛む。
ワイヤリングスーツもなしにこんな随意領域の操作をしているのだから、当然の帰結だろう。
それでも、少なくとも公園内の救助が終わるまでは耐えなければならない。
そしてその後は、琴里の仄めかした切り札に任せるしかない。
大人としては情けない限りだが、他には何も思い浮かばないのが現状だ。
(――いや、一つだけ、あると言えばあるか……?)
一つだけ、それも特大のリスクを秘めた手段が頭を過ぎる。
こんな激痛に苛まれた状態で思いついただけあって、とてもまともな策ではない。
早々に打ち捨てて、士道はさらに意識を集中させた。
「それと、さっき私がどこから現れたか、忘れていませんか? ――【
白い精霊が軍刀を縦に振り下ろすと、そこに半透明の扉が現れた。
見えていても存在はしていない、虚像の扉。
彼女は微笑むと、同じくその身を虚ろに透かせて扉の中へ消えていった。
驚愕が集中をかき乱し、不可視の壁が消え去る。
糸が切れたようにその場に膝をつくと、思い出したかのように体中からドッと汗が噴き出した。
心身を蝕む倦怠感と虚脱感の中、士道は彼女が消える前に残した言葉を思い出す。
『さっき私がどこから現れたか――――』
「――、まさ、か……!?」
その答えに至るのと、背中に重みがかかるのは同時だった。
力の入らない体では自分以外の重量を支えることが出来ず、士道は地面に倒れこんだ。
そしてそのまま、自分の背中に足を置く白い精霊を見上げる。
「こんなこともあろうかと、昨夜『扉』を仕込ませて貰いました」
「……そのために、話しかけてきた、のか」
「それはただ心配だっただけですね。『扉』を仕込むだけなら、お話する必要はありませんし」
「……やっぱり、わからないな」
彼女の精神が、士道には理解できない。
こちらを好ましいと言ったのも、心配していたのも本当なのだろう。
ただ、その上で士道の命を奪うと宣言して、彼女の中では好意と殺意が相反していないのだ。
元からそうだったのか、或いは何かを切っ掛けに精神が歪んでしまったのか。
推し測るにしても、彼女に関してはわからないことが多すぎる。
何故、時崎狂三を付け狙っているのか。
何故、時崎狂三と同じ顔に変貌するのか。
そして一体、琴里の言っていた反転体とは何なのか。
疑問は尽きないが、分かっていることは一つだけある。
それは、このまま彼女に殺されるわけにはいかない、ということだ。
背中を踏みつける足を押しのけるように、自分を中心に再び随意領域を展開する。
阻む不可視の壁を疎むわけでもなく、彼女はそっと優しく手で触れた。
「確か、随意領域ですよね? 自分の思いのままになる『空間』……でしたっけ?」
随意領域……顕現装置で生成した魔力を用いて展開する、文字通り自分の意のままになる空間。
現代の魔術師はこれを操ることで、超人としての力を振るう。
その自分の意のままになる
腹部と胸部を圧迫しないように仰向けになっても、それは変わらない。
姿勢の問題ではないのなら、緊張による過呼吸……しかし脈や呼吸に大きな乱れはない。
だとしたら、他に考えられるのはもっと外的な要因だ。
(なんだ、これ……もしかして酸素の量が減ってるのか……?)
それどころか、いやに寒気がして……まるで登山時のような環境の変化だ。
南関東大空災の跡地に築かれた天宮市は、外縁部以外は並べて標高が低い。
このような変化も通常ならばありえない。
そう、
今、士道の周囲を覆う随意領域ならば、そういった環境の変化さえ可能とする。
それが自分の意思とは関係なく働いているのだとしたら――――
「――――ぐ、ぁあああああっ!?」
次の瞬間、士道の左腕があらぬ方向に捻じ曲げられた。
人体の可動域を無視したその動きが、容赦のない痛みをもたらす。
骨が皮膚を突き破ってはいないのが、視覚においてはせめてもの幸いか。
痛みに叫びつつも、士道は今起こったことに対しても恐るべき可能性を見出していた。
今のは明らかに随意領域の作用……しかし、自分の意思に沿ったものではない。
だとしたらそこには、自分以外の誰かの意思が介入したことになる。
向けられた視線に対して、白い精霊は目を細めて笑った。
「予想通り、これは私と相性が良いみたいですね。誰かの意のままになる『空間』だなんて、私の支配下にあるのと同じです」
その言葉で士道はようやく理解した。
精霊〈デイドリーム〉……時崎狂三を付け狙い、共に二つの都市を滅ぼした、時崎狂三と全く同じ顔をした白い精霊。
全容はまだ明らかになっていないが、彼女は『空間』という概念を操る精霊なのだ。
その意思に浸食された随意領域は、あっさりと主人を守る役目を放棄した。
白い精霊は士道の腹の上に跨ると、そのまま左の肩口に軍刀を突き立て、地面に縫い付けた。
「――っ」
「何か、言い残すことはありますか?」
「……一つ、こっちのお願いを聞いてくれるって、言ったよな?」
「助けて欲しい、見逃して欲しい、というのは却下ですよ?」
「……じゃあ――――君とキスがしたい」
士道の言葉に彼女は目を丸くして、それから唇を人差し指でなぞり、恥じらうように少しだけ頬を色づかせた。
状況が許せば見蕩れていたであろう、可憐な表情だった。
しかし、こんな顔を見せておきながら、彼女はきっと自分を殺すのだ。
慈しむような手つきで、両頬に手が添えられる。
そしてゆっくりと顔が近づき、唇が重なった。
「んっ――」
艶かしく漏れる声、頬をくすぐる息遣い……そして柔らかい唇の感触。
時間にしたら数秒の、触れるだけのキス。
その最中に士道は、
燃え盛る体、救いを求めて伸ばした手、向けられる銃口、そしてそれを手にした――――
「――っ!?」
間近に迫った目が唐突に見開かれる。
そして彼女は弾かれるように士道から体を離して、自分の身に起こった変化に驚愕した。
「一体何が……まさか、その霊力は精霊の力を奪って……!?」
「――――驚いた。好きって言ってたのは本当だったんだな」
「やられました……やっぱり、とんだ女泣かせだったんですね」
こちらを鋭い目つきで見下ろす彼女の霊装――所々が解けて、その下の白い肌を晒している。
霊力の封印……それは士道がアクションを起こさずとも、条件さえ満たせば発動するものだ。
しかし七罪のように、霊装が完全に消え去ったわけではない。
士道の中に流れ込んでくる霊力も、極々僅かなものだ。
つまり封印は不完全。
やはり好感度が足りなかったのだろう。
「――さて、乙女の純情を弄ぶような人には、お仕置きが必要ですよね?」
「……お手柔らかに頼むよ」
「却下です」
銃声が三度、士道の腹部にも同じ数の穴が穿たれた。
突き抜ける衝撃の後に火傷しそうな熱さが広がり、程なくそれは尋常じゃない痛みに変わった。
口内にせり上がってきた血の味が広がる。
内蔵の損傷――放っておけば、確実に命に関わるだろう。
だというのに、士道の口から漏れたのは苦笑だった。
もうこれで何度目だろうか、精霊と関わると毎度のように命の危機に晒されている。
最悪の精霊に銃口を向けられながら追い回されたり、双子の精霊に挟まれてミンチにされかかったり、飲んだくれの精霊を助けて最強の魔術師にボコボコにされたり。
最近で言うのなら、右腕を切り飛ばされて出血多量で倒れたり、瓦礫に押しつぶされて死にそうになったりと、まぁ実にバリエーションに富んでいる。
しなくていい経験だし、進んでしたかったわけでもないが、それで得られたものも確かにある。
しかしそれもここまでだ。
随意領域を乗っ取るという反則技を披露されては、魔術師としての力を封じられたも同然だ。
騙し討ちで図った霊力の封印も完全とはいかず、相手はまだ戦力を保持している。
手詰まり――士道にはこれ以上、自分の手で状況を打開する方法がない。
後はもう、みっともなく喚くぐらいしかないだろう。
声を出そうとしたが、口から溢れ出したのは血液だった。
発したはずの声は、ゴポゴポと泡が弾ける音に取って代わった。
「終わりです――穂村士道さん、あなたの全てを私に捧げてもらいます」
やはり死ぬのは痛いのだろうか。
士道はどこか他人事のようにそんなことを考えた。
何度も死にかけているが、当然実際に死んだことはない。
そもそもそれは、自分に許されるのだろうか。
十香と折紙に救助を任せ、琴里に事態の解決を託す。
今ここで十分な時間を稼げたのなら、もう役目を果たしたと言えるのかもしれない。
しかし、この場以外でも職務上と家庭上と、今の士道には様々な責任がある。
それらは簡単に投げ出していいものではないだろう。
(死ねない、よな……)
死ぬのが怖い、死にたくない、死ぬわけにはいかない。
何より、士道にはまだまだ生きてやりたいことがあるのだ。
作ってみたい料理がある、欲しい調理器具がある、連載を追っている漫画もあるし、その内バイクも新しく買いたい。
十香や七罪もまだまだ放っておけないし、折紙の進路も気がかりだし、姉夫婦……姉はともかく義兄への恩はまだまだ返し切れていないし、琴里が成人するまでは是が非でも見届けなければ死んでも死にきれない。
最近出会った自称妹の存在もあるし、最悪の精霊に対して啖呵を切った手前もある。
そして物凄く俗っぽいのだが、士道は生まれてこの方、女性と付き合ったことすらないのだ。
何故だか、眠たげな
振り返れば未練ばかりだ。
でもそれは生きるための動機、原動力とも言い換えられる。
『――――しーくんっ!!』
インカムもないというのに、自分を呼ぶ姪っ子の声が聞こえた……ような気がした。
死という結末を目前に冷えかけた心に、火が灯る。
捻じれて拉げたはずの左手で拳を作る。
するとその中に熱が生まれ、握り締めた拳の隙間から炎が噴出した。
炎は全身に広がり、やがて士道を包み込んだ。
(こと、り…………)
その中に、誰よりも大事な家族の気配を感じ取る。
「この炎――なんて忌々しい…………っ!!」
白い精霊が語気を強めて吐き捨てた。
炎自体が苦手なのか、もしくは
今の彼女には、これまで感じていた異質さが消え、ただただ純粋な怒りや憎しみが見て取れた。
(なんだ、これ……物凄く、熱い。だけど……)
炎に巻かれる士道が感じるのは、途方もない熱だった。
しかし、それが体を傷つけることはなかった。
むしろその逆――捻じれ拉げた腕が元に戻り、腹部に穿たれた穴が塞がっていく。
自分の体を縫い付ける刃を掴み、引き抜く。
すると肩口の傷を炎が舐め、次の瞬間にはやはり塞がっていた。
消えかけた炎を纏わりつかせながら、士道はゆっくりと立ち上がった。
「――とまぁ、悪いけど、簡単に死ぬことはできなさそうだ」
「……そうみたいですね。まさか、炎の精霊の力も宿していただなんて」
「それで、まだ続けるのか? 俺としてはもう勘弁してもらいたいんだけど」
「あなたの全てを捧げてもらうと、そう言いました」
「まいったな……お互い服もボロボロだし、せめて着替えてからにしないか?」
「ところで、私をこんな格好にしたのは誰でしたっけ?」
「その節はまぁ、うん……ごめんなさい」
一方的なものだったとはいえ、騙し討ちに彼女の温情を利用したのは確かだ。
そしてその手段としてキスを要求したのだから、申し訳なさも出てくる。
自分の命を狙ってくる相手に対して抱くようなものではないのかもしれないが、もう数々の修羅場を潜り抜けて感覚がマヒしているのかもしれない。
にこやかながらも非難の色を滲ませる彼女に、士道は素直に頭を下げた。
「責任、取ってくれますよね?」
薄く頬を染めながらこんなことを言われたら、何やら色気づいた場面のような気がしてくるのだが、今の言葉を意訳したら「人を辱めたのだから命を以て贖え」となる。
結局のところ、要求されているものは同じである。
ダメで元々だったが、仕切り直して時間を稼ぐという策はあっさりと棄却された。
(にしても、炎の精霊の力……そう言ってたか?)
何故そんなものが自分の中にあるのかはわからない。
琴里が以前に言っていた、五年前の事と関わりがあるのだろうか。
炎に包まれた街並み、
記憶にある光景と、ないはずの光景がないまぜとなって思い浮かぶ。
知らないはずの精霊の力が何故か自分の中にある事実と、炎の中に感じた気配。
琴里が言った『最悪』とは、一体どのような手段なのか。
わからないが、それをさせてはいけないと、頭の中で強く警鐘が鳴る。
士道の頭の中から琴里に頼るという選択肢は消え去った。
しかし、自分の力で目の前の精霊をどうにかできるかというと、それは不可能だ。
また乗っ取られる危険性を考えると、安易に随意領域に頼ることはできない。
体から生じる炎はあくまで傷を癒すためのもので、恐らく攻撃手段ではない。
仮にそうだったとしても、やはり精霊に対して向けるのには抵抗がある。
そしてそれは精霊をデレさせる立場からしても、決して望まれた行いではないだろう。
結局できるのは姑息な時間稼ぎで、そうしている内に琴里が『最悪』の手段を発動してしまう。
どうしたものか……士道は深くため息を吐くと、その場にしゃがみこんだ。
「まいったなぁ…………明日は休みだし、君とデートしたいって言うのもダメかな?」
「構わないですよ? お兄さんから頂けるものを全部頂いた後でなら、ですけど」
「いや、それもう俺死んでませんかねぇ……」
加えて言うなら、その時には天宮市も無事ではない可能性が高い。
わかっていたことだが、彼女はどうしても自分の命、というか霊力が欲しいらしい。
これはもう、覚悟を決めるしかないだろう。
士道は項垂れて、自分の影と向き合う。
「どうにかならないかな……なぁ、
そして、ここにいないはずの最悪の精霊の名を呼んだ。
『――――きひっ、きひひ、きひひひひひひひひひひひひッ』
笑い声が響く。
士道の影が、光の向きを無視してひとりでに伸びていく。
そしてそこから、浮かび上がるように最悪の精霊が姿を現した。
「あらあら、わたくしに助けを求めるだなんて、士道さんはとんだ命知らずですのね」
「まさかとは思ったけど、本当にいたのかよ」
「自分から危険に飛び込んでいく大馬鹿者を、みすみす放っておくと思いまして?」
「ありがとう、心強いよ」
「――、まったくあなたという人は……呆れて物が言えないとはこのことですのね」
これ以上ないくらい嘆息すると、分身体の時崎狂三は「さて」と短銃を構えた。
その銃口が向く先にいるのは、忠告も警告も無視する大馬鹿者である。
狼狽える士道にニッコリと笑いかけて、狂三はとりあえず一発ぶっ放した。
「あぶなっ!? …………あの、狂三さん?」
「なにか?」
「一応さ、助けに出てきてくれたんじゃないの?」
「のこのこと顔を出そうものなら容赦はしないと、そう申し上げた通りですわ」
「そ、そりゃそうだけどさ」
「なら、何も問題はありませんわね?」
有無を言わさぬ様子の狂三に、士道は冷や汗を伝わせた。
実の所、こうして彼女を呼び出すのは一か八かの賭けだったというのは否めない。
まずそもそも、影の中に潜んでいるというのにも確証はなかったのだ。
そして、自分を狙う精霊に同じく自分を狙う精霊をぶつけるなど、下手をしたら敵が倍になりかねない最悪手である。
現に今、士道は助けを求めた相手に銃を向けられている。
特大のリスクを孕んでいると承知の上で踏み切ったのだが、やはりとてもまともな策ではない。
この二人を同時に相手にするという状況は、絶望以外の何者でもないだろう。
賭けの失敗を悟った士道は、体の芯からくる震えを必死に押し殺した。
しかしながら、この同じ顔をしながら正反対の色合いの二人は、間違っても協力関係ではない。
「横入りなんて行儀が悪い真似はしないで欲しいな」
「……そもそも横槍を入れてきたのは、そちらではなくて?」
白い精霊の言葉に、狂三は顔を向けずに答えた。
まるでそこに表れた感情を相手に見せまいとしているような……士道の目には、最悪の精霊の痛ましげな表情が映る。
別の
「だとして、あなたはどうするのかな?」
「……
狂三は何かを振り切るように目を閉じ、開いた。
そして士道に向けていた短銃を白い精霊へ向ける。
「『わたくし』の邪魔になるなら排除する――ただそれだけですわ」
「〈
「あられもない姿をした
「言ってくれるね……!」
開戦の号砲は互いの短銃から発せられた。
同時に弾かれるように距離をとった狂三は、更に歩兵銃を構える。
対して白い精霊は、己の軍刀を手元に召喚して短銃と共に構えた。
交わす言葉はなく、ただ放たれる弾丸が交錯する。
しかし片や
彼我の距離があるこの状況では、飛び道具をより多く構えた側の有利は揺るがない。
勿論、精霊や随意領域を纏う魔術師からしたら一呼吸で詰められる距離だが、迎え撃つのもまた精霊である。
白い精霊が踏み込もうとすると、狂三は尋常ならざる反応速度でそれを牽制した。
まともに立合いを続けるのなら、近づくのは容易ではないだろう。
しかし彼女には、
そもそも、そこはまだ彼女の剣の間合いだ。
「――【
縦と横、白い精霊が軍刀を二度振るう。
現れたのはその倍、上下左右四つの目に見えぬ斬撃だ。
傍から見ているだけの士道には何が起きているのか理解できなかったが、狂三はそれを察知して後ろ――斬撃の範囲外へと飛び退いた。
しかしそれは用意された逃げ道である。
「【
まるでレールの上を滑走するように、超高速の刺突が放たれる。
狂三は避けられない。
銃撃で迎え撃つも、生半可な攻撃ではその猛牛の如き突進は止められない。
分身体である彼女は、精霊が保有する絶大な権能を行使することができない。
自らを加速させることも、相手を減速、或いは停止させることもできない。
定められた流れを辿るように、軍刀の切先が彼女へ迫る。
狂三本体の過去の再現である分身体にも、自我や意識がある。
しかしそれは、果たすべき目的の前には重視されるものではない。
そのためなら命さえ投げ出すのは、彼女たちにとって当然の在り方だ。
だからこうして自分の終わりが近づこうとも、さしたる感慨はない。
去来するのはただ、ほんの僅かな惜しみと――――
(――ああ、この方はきっと、わたくしの死さえも抱え込んでしまいますのね)
分身体にすぎない時崎狂三の死を悔やんだ、傲慢で図々しい大馬鹿者に対しての、ほんの僅かな……それこそ欠片程度の哀れみだった。
その諦念を孕んだ視線を振り切るように、士道は動き出した。
大馬鹿者が、ただ黙って戦いを眺めているという道理はない。
ここに彼女を呼び出したのは盾にするためでも、代わりに戦ってもらうためでもない。
共に事態を打開するために、士道は時崎狂三を頼ったのだ。
先程と同じように、白い精霊の突進を阻むように随意領域の壁を作り出す。
「――邪魔ですよ」
だがそれは彼女が壁に触れた瞬間に無効化された。
結果はほんの一瞬の遅延のみ。
頭をかき混ぜるような激痛の報酬としては、あまりにもささやかなものだった。
相手は『空間』を操ると思しき精霊……この結果も予想されたことではあった。
しかしその間に、より正確に言うと、壁を作り出すのと同時に士道は駆けだしていた。
遠隔での防性随意領域の展開に加え身体強化、空気抵抗の緩和、その上に重力の中和も重ねる。
視界を赤く染めながら、己に許された最大の速度で以て、突き出された軍刀の前に躍り出る。
腹部を穿たれ――比喩でもなんでもなく、一部分が抉り抜かれて風穴が空いた――次いで全身がバラバラになりそうな衝撃。
恐らく、内臓とともに骨のいくつかは砕け散っているだろう。
それでも踏みとどまる。
士道が退いたら、背後の彼女へ剣が届いてしまう。
自分を貫く軍刀の刀身を、決して放すまいと握り締める。
既に体は死に瀕している。
活動限界の兆候、体を穿つ致命傷――しかしそれらを噴き出す炎が帳消しにする。
白い精霊は不快気に顔を歪めると、士道の体を蹴って突き放した。
それで指が切り飛ばされ、また内臓が損傷したが、すぐさま炎が癒しにかかった。
「ぐ――ぁあっ」
しかし痛みと熱は残留する。
体の内外を、脳内すらも焼かれるような苦痛に、士道は堪らず悶えた。
その様を、白い精霊は冷ややかに見下ろした。
突進は阻まれたものの、今や士道と狂三の両方がすぐ手に掛けられる距離にいる。
「無駄ですよ。あなたが割って入ったところで結末は変わりません」
「本当に愚か、としか言い様がありませんわね」
「気が合うね。流石は狂三さん」
「――ただ、無駄というのは少々違うかと」
狂三は歩兵銃をあらぬ方へ向けると、その引鉄を引いた。
放たれた銃弾は何を射抜くでもなく、虚空へと消えていった。
「今のが最後の悪あがきでいいのかな?」
「ええ、これで『詰み』ですわ」
これ以上は打つ手なし、とでも言うように狂三は肩をすくめた。
ただそこにあるのは先程のような諦念ではなく、充足感のようなものが見て取れる。
白い精霊は怪訝そうに眉をひそめた。
「これから殺されるというのに、随分穏やかだね。さっきの
「わたくしは自分に出来ることをやりきりましたもの。それに、追い詰められているのはお互い様――――『わたくし』の目を誤魔化すのに、随分と無理をされているようですわね?」
「へぇ、気づいていたんだ」
「単純な目隠しではなく、干渉すらできなくなる……例えばそう、異空間の形成といったような」
「そんなに大したものじゃないんだけどね。ただ虚実を曖昧にして、この辺りの位相をずらしているだけだから」
事も無げに語ってみせた彼女だが、その霊装は端から徐々に解けて消えつつある。
士道の中に霊力が流れ込んでくる感覚はない……つまり、これは不完全な封印の影響ではない。
狂三の指摘通り、彼女は霊装の維持も困難なほどの無理をしているのだろう。
そこまでのリスクを冒しても、目的を果たせば単純計算で精霊三人分の霊力が手に入る。
損失を補って余りあるリターンと言える。
しかし翻せば、それは失敗したら後がないということでもあり、どうあってもここで引き下がる気はないという意志の証明でもある。
会話を交わしつつも軍刀は狂三の胸元に突きつけられ、短銃は士道を捉えている。
今この瞬間、彼女の気が変わればあっさりと状況は決する。
体の痛みは収まってきたが、士道は動くことができない。
ここで不用意に動けば彼女は士道ではなく、真っ先に狂三にトドメを刺すだろう。
目の前で胸を刺し貫かれた姿が頭を過ぎった。
そして力なく地面に倒れたその、光を失った瞳。
(冗談じゃない、あんなの二度とごめんだぞ……!)
拳を握り締めるが、今の士道にできることはない。
この至近距離で随意領域を展開しようものなら、乗っ取られて逆に動きを封じられかねない。
地面に手をついたまま白い精霊を見上げ――――
(何だあれ……空に、亀裂?)
その向こうにある、僅かな綻びに気付く。
そして直前に狂三が取った行動の意味にも、朧気ながら理解が至った。
彼女の言った通り、状況は既に決していたのだ。
気の抜けたように大きく息を吐き出すと、士道は地面に身を投げ出した。
「いやもう、本当に勘弁してくれよ……またぶっ放されるのはもうこりごりだぞ」
「あらあら、正義のヒーローにしては随分と情けない事をおっしゃいますのね」
「あー、今日はもう散々だから次回に期待してくれ」
「次回? 現実逃避は自由ですけれど、まだ次があるなんて思ってるんですか?」
窮地にあってもどこか緊張感の欠ける二人に、白い精霊はかすかな困惑を見せた。
霊力の枯渇というタイムリミットは迫りつつあるものの、まだ僅かながらの余裕はある。
そしてその余裕さえあれば目的を果たすのには十分。
厄介な能力を持っているとはいえ彼を無力化するのは容易いし、今更分身体の彼女に出来ることはない。
攻撃の意思を見せれば即座に始末するだけだし、その足元の『影』の掌握はもう済んでいる。
状況はどうしようもなく決しているというのに、二人にはどこか余裕がある。
気が触れたと判断するのは簡単だが、彼女の直感はこれを安易に捨て置くべきではないと、強く警鐘を鳴らした。
何より、分身体とはいえあの『時崎狂三』が、そう簡単に白旗を上げるはずがない。
そこには形を歪ませつつも、いまだに彼女へ向ける信頼があった。
「――――ところで、
不意を突かれたように、白い精霊の表情が固まった。
それはもう呼ぶ者がいなくなって久しい、
その名を知っているはずの
たった今、この時までは。
(酷いなぁ、もう……そんな顔して呼ぶんだから)
歓喜と悲哀と、親愛と憎悪と、様々な感情がない交ぜとなって郷愁を呼び起こす。
だからといって彼女の剣が鈍ることはないし、短銃が狙いを誤るわけでもない。
ただそれは決定的な事実を突き付け、刻み付けるための呼びかけだったのだ。
泣きそうな顔をした分身体の
「ご自慢の
そこに生じたほんの小さな亀裂を中心に、急速にひび割れが広がり辺りを覆いつくしていく。
やがてガラスが割れるような音が響くと、虚空に最悪の精霊が姿を現した。
静かに見下ろす紛れもない
彼女の言った『詰み』とは、こちらの事だったのだと。
そこからの戦いは一方的なものになった。
元より、十全の精霊とリソースの枯渇しかけた
降り注ぐ弾丸の雨、雨、雨。
散発的に繰り出される短銃による反撃も、圧倒的な手数の差の前には焼け石に水だ。
接近してくる分身体を足を止めず軍刀で切り捨てる。
一瞬でも立ち止まればそこで終わりだ。
この弾丸の雨に晒されるのは勿論のこと、少しでも動きを鈍らせようものなら彼女の魔弾が飛んでくるだろう。
もたらされるのは
見上げれば空には視界を埋め尽くす
最悪の精霊が誇る〈
かの天使が司る概念は『時間』。
外的時間の加速に減速、内的時間の加速に巻き戻し、他にも停止や記憶の読み取り等、その権能は多岐に渡る。
いずれも強力無比ではあるが、攻撃能力に関しては短銃と歩兵銃に依存するところが大きい。
無論、精霊の振るう武器が尋常であるはずはないが、こと破壊力に関して言うと、あの二丁銃は霊装を貫ける程度の威力しかない。
それでも人間の兵器と比べたら申し分ない破壊力なのだが、天災と称される存在にしては慎ましやかなものでしかない。
しかし時崎狂三の戦力における真価は、質ではなく量にこそある。
それを象徴するのが【
そうして生み出された分身体が、一斉に銃口を向けてきたのなら……それが今のこの状況だ。
現状では百には届いていないだろうが、その数に恐らく上限はなく、『時間』の許す限り分身体は何千何万と複製可能。
そんな精霊の軍勢が相手では、まともに相手をするのも馬鹿らしくなってくる。
(うーん、素直に逃げた方がいいかな……?)
退路としての『扉』も設置しているため、この場からの離脱自体は可能だ。
ただ、そうしたとしてもそこから先はない。
満身創痍で、消えかけた
仮にこの場から逃げおおせたとしても、
勿論、それは求める結末には程遠い。
だとしたら、残り僅かなリソースをフルベットして勝負を仕掛けるほかないだろう。
狙いは変わらず、彼以外ありえない。
穂村士道――今は離れた所から、この戦闘とも呼べない蹂躙を見ているのだろう。
(ああ、でも失敗だったなぁ)
薄く頬を色づかせ、恋する乙女のような表情で、【
それで襲い来る分身体を斬りつけ、その体を『扉』として潜り抜ける。
結局の所、今回の失敗の原因は人恋しさにある。
人間は『時間』を補充するための食料に過ぎない。
喰らうという選択肢以外を選ぶ余裕もなく、またそこに言葉が介在する余地もない。
彼に対しても、迷わずにそうするべきだったのだ。
昨夜、時崎狂三が狙っているという彼と出会ったのは全くの偶然だった。
即座に手を下さなかったのは偏に警戒からだ。
そんな莫大な霊力を秘めた人間が、尋常の存在であるはずがない。
その考えがとりあえずの様子見の姿勢に留めた。
そしてそうするなら、そのまま徹するべきだったのだ。
だけど、猫を話し相手とする背中があまりにも物寂しそうだったから。
『なぁ、ヨモ吉、どうだったんだろうな』
それでつい、声をかけてしまったのだ。
失敗も失敗、失態も失態だ。
自分にもまだ、そんな人がましい感情が残っていただなんて。
この胸の内にあるのは彼女への妄執めいた想いだけと思っていただけに、それは驚きだった。
そして同時に、ただ何でもない会話を交わすという日常も思い出してしまったのだ。
夕暮れの教室、彼女と二人で過ごしたあの日々を。
(誰かと話すって、あんなに楽しかったんだ)
だからと言って、それで何が変わるわけでもない。
自分に未来などなく、悪夢のような過去も、白昼夢のような今も変わることはない。
目的や求める結末にも変更はなく……ただ、そこに行き着くまでの余白が目に付いた。
本来ならば、相手の動揺を誘う以外に会話を交わす必要などない。
自分にとって言葉とは、相手の精神を追い詰めるための武器であればそれで十分だったのだ。
だというのに、そこに別の何かを求めてしまった。
真っ白でいいはずの道程に、未練がましくも人がましく色彩を求めてしまった。
彼や
その結果、時崎狂三の本体を招くという逆転を許し、この状況がある。
(あーあ、軽々しくキスなんてするんじゃなかった。一応、初めてだったんだけどなぁ)
そしてその直接的な要因となったのは、彼に唇を許したことだろう。
余計な邪魔を防ぐために展開した幻影のカーテンが綻んだのも、ほんの僅かとはいえ霊力を奪われてしまったからだ。
それを目ざとくも分身体の時崎狂三が見つけ出し、悪あがきに見せかけた一射を以てその綻びの存在を外の本体に知らせた。
一連の流れをまとめると、こうなるだろう。
彼の割り込みも、彼女の言うとおり無駄ではなかったということになる。
何故ならそれさえなければ、この刃が彼女の胸を貫き、外の本体へ報せが届くこともなかったのだから。
その身に宿した炎の霊力も相まってつくづく忌々しい……どころか、あの騙し討ちを思い出すとひたすら憎々しい。
けれども同時に胸が浮き立つような感情――もしかすると、これが恋というものなのか。
だとしたら、
恋も憎しみも、相手への執着という意味では何ら変わらない。
二つの感情が境も分からなくなるぐらい溶けあえば、それは狂気とでも呼べばいいのだろうか。
その衝動の果てに、きっと自分は彼を愛する/害するのだ。
憎いからこそ欲して、恋しいからこそその命を奪う。
差しあたっては彼に、この
出口はその背中――そこに足をつけるのは、これで何度目になるだろうか。
どんな顔を見せてくれるだろうか。
恐れるだろうか? 驚くだろうか? それとも「またか」と呆れるだろうか?
もしかすると、「しょうがないな」とでも言うように、困ったように笑うのかもしれない。
想像すると、差し迫った状況だというのに思わず頬が緩んでしまう。
彼女のこと以外でこんなに心を揺さぶられるだなんて、この街に来るまでは考えもしなかった。
「――――『詰み』だと言ったでしょう?」
しかし、『扉』を潜り抜けた先で出迎えたのは、物憂げな顔で短銃を向ける
ずっと彼の影に潜んでいたこの分身体ならば、この展開に思い至っておかしいことはない。
迂闊にもまた自分は、気を逸らせるあまり失敗を重ねてしまったのだ。
そして短銃から放たれた弾丸は過たず、ちっぽけなこの
体が傾いで、重力に引かれ落ちていく。
紛い物の体が解け、既に死したはずの自分が浮かび上がる。
その最中に彼の顔が目に入る。
悲しげに顔を歪めて、こちらを見ていた。
こんな赤の他人、しかも自分を殺そうとしている相手が傷つく様にも心を痛めているのだとしたら、全く本当に愚かとしか言いようがない。
そんな彼だからこそ、この
これが正真正銘の
「――受け取って、くださいね…………?」
「士道さんっ!」
銃口を向けられていると認識した瞬間に、衝撃と共に視界がブレる。
地面に転がってからようやく、士道は自分が突き飛ばされたのだと気づいた。
最悪の精霊、その分身体に庇われたのだ。
その場に膝をつく彼女に、すぐさま駆け寄る。
「狂三!」
「……ご心配なさらずとも無事ですわ。ええ、この通り」
立ち上がった彼女の体に外傷はない。
あの至近距離だったというのに、運良く弾が外れたのか。
士道の心中を、とりあえずの安堵が満たした。
時崎狂三は自分の命を狙っている相手である。
何かあればすぐ銃口を向けてくるし、相変わらず恐怖もある。
しかし、それでも彼女には今日何度も窮地を救ってもらっている。
それは自分の中にある霊力が目的なのかもしれないが、助けられたという事実は変わらない。
吊り橋効果、或いは不良が野良猫に餌をやっている場面を見てしまった際の心境か。
例えはともかくとして、士道は彼女に対して確かな情を抱きつつあった。
もし〈フラクシナス〉で精神状態をモニターされていたら、好感度の値が上がっているだろう。
姪っ子からは「逆に攻略されてどうする」と苦言が飛んでくるかもしれない。
確かに時崎狂三は、人を殺す危険な精霊だ。
だが、今日彼女と接する中で士道が感じ取ったのは、その思いやりだった。
少年たちをその手に掛けようとしたのはあってはならないことだが、その理由はきっとあの子猫を助けるためだったのだ。
この公園内の戦いに関してもそうだ。
空を埋め尽くす時崎狂三の分身体が放つ攻撃は、正に文字通り弾丸の雨だ。
敵対者を容赦なく打ち砕く、圧倒的な物量による蹂躙――それこそが彼女の本気なのだろう。
しかし士道が公園に戻ってきた当初は、もっと大人しい戦い方をしていたはずだ。
そこにはどのような状況の違いがあったのか……士道には一つ心当たりがあった。
それは他ならぬ自分自身でもたらした変化だ。
そう、今この付近には、
(まったく……あれだけ物騒なこと言っておいて、随分優しいじゃないか)
彼女に対する得体の知れない、相容れないといった印象はすっかり鳴りを潜めている。
デレさせるという行為にはいまだに抵抗があるが、これからは
それだけに、この場で地面に倒れて血を流すもう一人の存在に後悔が募る。
今の彼女は最悪の精霊の似姿ではなく、黒いセーラー服に栗色の髪……昨夜出会った赤の他人の姿に戻っていた。
琴里が言うには反転体――それがどういった存在なのかはわからないが、あんなに切羽詰まった声で離脱するよう呼びかけてきたのだから、危険だということはわかる。
そしてこちらに殺意を向けてきて、あまつさえ天宮市を滅ぼすとまで言ってのけた。
当然放置はできないし、彼女を止めるにはこうするしかなかったのかもしれない。
そうだとしても、それでもと思わずにはいられなかった。
胸の中心を撃ち抜かれた彼女は、もう手の施しようがない。
(いや、でもこの炎の力なら――――)
頭に過ぎった考えを押しとどめるように、飛来した弾丸が足下に穴を穿った。
見上げると、巨大な時計の文字盤を背負う最悪の精霊の姿。
彼女こそが
既に戦いは終わったとみてか、空を埋め尽くしていた分身体の姿は消えていた。
残っているのは、ついさっき士道を庇った
「御機嫌よう、士道さん。わたくしが手ずからお相手して差し上げたいのは山々なのですけれど、彼女と少々お話がありますの」
狂三は士道の前に降り立って一礼すると、すぐに背を向けた。
「ですので、
やはりこちらの考えを見透かしていたのだろう。
足元の影から、士道の体を拘束しようと白い手が伸びる。
そのまま拘束されるいわれもないので随意領域で阻むと、悔しそうにバンバンと魔力壁を叩いてきた。
それでどうにかなるはずもなく、ついには業を煮やして分身体たちが影から姿を現した。
どうやら影から伸びる白い手の正体は、彼女たちのものだったらしい。
こうも同じ顔が並んでいると、やはりなんとも言い難い異様さがある。
揃って短銃を向けられて、士道は動くに動けなくなった。
「――終わり、ですわね」
「……みたいだね。頑張ってみたけど、やっぱり狂三さんには届かなかったね」
無表情のまま見下ろす狂三に、少女は力なく笑った。
その姿に、士道は自分の無力さを噛みしめる。
赤の他人として彼女と接した時間は、決して悪いものではなかったはずだ。
だというのに、どうして自分は見ていることしかできないのか。
わかっている……あの炎の力が自分以外に使えるとは限らない。
そもそも士道自身に制御していた自覚はなく、あれは傷を負うたびに勝手に噴き出してきたものでしかない。
わかっている……彼女を助けることで、それ以上の被害が出る可能性は極めて高い。
仮に、もっと向き合う時間を取った上で唇を重ねていたのなら、結果はまた違ったのだろうか。
いくら『もしも』を重ねたとしても、そこにある現実は揺るがない。
どうしようもない事態に対して後悔を募らせるのは、それこそ傲慢だろうか。
それでも抱えていくしかないのだろう。
士道はそういう生き方を選んでしまった。
「悔しいなぁ……このままじゃお兄さん、狂三さんに取られちゃう」
「……紗和さん」
「あはは……本当に、久しぶりに呼んでくれたね」
紗和……それが彼女の名前なのだろう。
分身体の狂三も、確かにそう呼んでいた。
二人の関係も、過去に何があったのかも士道にはわからない。
きっと気軽に触れられるものではない。
分身体はいわば時崎狂三の過去だ。
それがああも悲痛な表情を浮かべるのだから、只事ではないのは窺い知れる。
本体である彼女がああして表情を消しているのも、感情に流されないように強く己を律しているからなのかもしれない。
「きっと全てが元通りになりますわ。だから――――」
「――――ふざけないで」
今際の際において――いや、だからこそか――その否定の声は強く、怨念を感じさせた。
「させない……
その怨嗟の声にしかし狂三は動じず、士道を囲む分身体たちは表情を強張らせた。
そこには現在の彼女にあって、過去である彼女たちにないものが現れている。
それは積み重ねた時間、経験、或いは強い覚悟や信念といったものなのだろう。
静かに見下ろす狂三に、それを強く睨みつける少女――紗和。
二人の視線は交わっているようで、恐らくは行き違っている。
士道にはどうしてだか、それが悲しい事のように思えた。
「……でもこれじゃあ、私にはもう何もできないかな」
不意に表情を緩めると、紗和は苦笑した。
死の間際にあって霊力も枯渇しているとなれば、その通りだろう。
だが、その表情に諦念の色はない。
士道と同じものを感じ取ったのか、見下ろす狂三は怪訝に僅かに眉をひそめた。
「……だから、
一体それは
少なくとも対する
動きはどこかぎこちない。
それはまるで、自分の意思とそれ以外の意思がせめぎ合っているような……
呼吸に窮するように口をパクパクとさせ、左手の動きを留めるように右手が掴みかかる。
その左の瞳は、
「狂三、後ろだっ!!」
「――――ぁぐっ」
警告は少しばかり遅かった。
狂三は分身体に背後から胸を貫かれ、苦悶の声を上げた。
取り囲んでいた分身体たちが、皆一様に顔を驚愕に染める。
しかし、この場で最も呆然としていたのは、本体を害した分身体自身だった。
彼女は呆然としたまま、血に染まったその手を引き抜いた。
握られているのは、不思議な光を放つ宝石のような何かだ。
その光は血の赤と影の黒――狂三自身を強く思わせた。
士道は駆けだして、崩れ落ちる狂三の体を受け止めた。
「おい、大丈夫か狂三!?」
「し、どうさん――――かはっ」
血を吐くその様子は、見るからに無事ではない。
胸を貫かれたのだからそれも当然なのだが、今の彼女からは普段感じる圧力が薄まっているように思えた。
それは何か、
「ズルいなぁ……ボロボロなのは、私も同じなのに」
「何を、したんだよ」
「……『毒』、ですよ。本当は、お兄さんにあげるつもりだったんですけど」
言われて、先程
運よく弾は外れたのだと思っていた。
しかし、そうじゃなかったのなら……
「わわわた、わたわたくし……は――――」
壊れた機械のように言葉を発する彼女の霊装が、髪が、白く染まっていく。
しかし、元の黒もその範囲を保持しようと、侵食する白に対抗する。
入れ替わり、反転し、相食み、時には混ざり合う。
白に染まりきった分身体は、糸が切れた人形のようにその場に立ち尽くす。
「……その
正気を取り戻した分身体たちが一斉に放った銃弾が、倒れたままの紗和へと殺到する。
切り取られた過去とはいえ、彼女たちも時崎狂三であることに変わりはない。
その判断は早く、また躊躇もなかった。
しかし、引きつった表情から見て取れるものは、怯えである。
結論から言うと、彼女たちは恐怖から判断を誤った。
この事態をどうにかするならば、まず真っ先に『毒』に犯された
「ご苦労様です、狂三さん……ではもうないのかな?」
「……」
言葉に応じることはなく、彼女はただ盾としてその場に立ち塞がるのみ。
体を穿たれ、全身から血を噴出させてもなお動じず、倒れず、命令通りその手に握ったものを己の主人へと差し出す。
赤と黒の光を放つ、宝石のような何か。
地面に倒れたままの紗和が触れた途端、それは形を歪ませ、真っ白に染まった。
そして穿たれた胸の傷跡を埋めるように、彼女の胸元へと沈み込んでいく。
役目を果たした
「あ、あああ、ああああああああああああああああ、あ――――」
声が、大気を震わせた。
単純な空気の振動ではなく、濃密な霊力を含んだ波動が、辺りに響き渡る。
次の瞬間、周囲の空間が凍りついた。
士道も、傷を負った狂三も、分身体たちも、誰一人として動くことはおろか、声を発することすらできなくなった。
それはまるで、何かに支配されているかのような強制力で……その中でただ一人、彼女が立ち上がる。
三つ編みに結わえた栗色の髪をほつれさせ、黒いセーラー服を血に染め、しかし浮かべているのはどこまでも穏やかな笑みだった。
「――〈
周囲の霊力が渦巻き収束し、その輪郭が歪み、白く染まっていく。
握られた軍刀がその歪みを断ち切り、彼女は再び霊装を纏った姿を現した。
白く、白く、どこまでも白い。
髪も、肌も、その身に纏う軍服のような
その中で異彩を放つのは、赤と青の
そしてその
見た目の上では先程と何一つ変わることはなく、しかしその存在感は段違いに増していた。
彼女が得たもの……あれはきっと精霊にとっての
死にかけの
「えーっと……こうかな?」
場違いなほど呑気な声で、彼女は指をパチンと鳴らした。
すると空間が歪み、爆ぜる。
その爆発に巻き込まれて、分身体たちは姿を消した。
何もない空間に突如として巻き起こるその現象を、士道は知っている。
「今のはまさか、空間震なのか……!?」
「驚きました? まぁ、手品みたいなものですね」
次いでパチンパチンと指を打ち鳴らすと、連鎖するように
その爆発は、周囲にあったものを無残になぎ払っていった。
空間を統べる精霊は、空間震すらも自在に操るというのか。
士道の心中が戦慄で満たされる。
嫌な予感に、冷や汗が背中を伝った。
「試し打ちはこれぐらいでいいかな? じゃあ、次が本番――――」
彼女が手をかざすと、そこを中心に空気が震えだす。
ここまでお膳立てされたら、それが何の兆候であるかは嫌でもわかる。
空間震――それも先程の
「ああ、安心してください。お兄さんと狂三さんは巻き込みません。シェルターにいる人たちも、多分大丈夫です。ただ――――」
彼女は柔和な笑顔のまま、士道にとって受け入れがたいことを口にした。
「周囲で救助をしている人や、空に浮かんでいる
十香、折紙、琴里、七罪、令音、〈フラクシナス〉のクルー。
士道にとって大事な人や仲間たちの命を奪うと、そう言ったのだ。
無論、到底認められるはずがない。
士道は即座に、随意領域で彼女を封じ込めにかかった
しかし、何のアクションを起こすこともなく容易く無効化される。
それどころか逆に、身動きを封じられてしまった。
白い精霊は士道の悪あがきを愉しむように嗤う。
「もう終わりですか?」
「やめろ……お願いだから、やめてくれ……」
「却下です」
士道の懇願は聞き入れられない。
そして
「やめろーーーーーっ!!」
叫びは虚しく、破壊の振動に飲み込まれて消えていった。
しかし――――
「なーに、うちの家族をいじめてくれちゃってるのよ」
突如として振動がかき消され、空が赤く染まる。
そしてその中に浮かぶ、炎を纏った人影。
それは和装を着崩して纏う少女だった。
布の端々が炎のように揺らめき、腕や腰に炎の帯を絡みつかせる様は、羽衣を纏った天女を思わせた。
頭部から生える一対の角が与える印象は――――鬼。
しかし、士道が呆然としている理由はまた別にある。
「無事避難完了よ。これで心置きなく力を振るえるってものだわ」
大事な家族の姿を、見間違えるはずがない。
士道の姪にして〈ラタトスク〉の司令官。
五河琴里は、
彼女の言っていた『最悪』とはこのことなのだと、ようやく理解が及ぶ。
何故という疑問の傍らに、奇妙な納得が混在する。
見覚えがないはずなのに、士道はこの姿にどこか懐かしさを覚えていた。
「さあ――私たちの
そして琴里はどこか好戦的な笑みを浮かべながら、そう言った。
というわけで終了。
本体よりも分身体の方がヒロインをしている件。
次回からは姪っ子の話や士道くんの初恋の話になると思われます。