士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話   作:kish

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訓練開始

 

 

 

 先を歩く背中がふらふらと揺れると、それに合わせてサイドで纏めた髪も揺れる。

 村雨令音と名乗った女性の先導に従って、無機質な通路を歩いていく。

 医務室での再会も束の間、目覚める前の状況を思い出した士道は、彼女に説明を求めた。

 もっとも、それでわかった事はそう多くない。

 この場所の名前だとか、自分が気絶している間に運び込まれただとか、そのぐらいだ。

 士道としては令音の情報こそ深掘りしたかったのだが、それは控えた。

 物事には優先順位というものがあり、大人としてはそれを疎かにすることはできない。

 自分の置かれた状況だとか、なにより琴里の無事が気がかりだった。

 なるべく冷静でいるように努めて、諸々の疑問をぶつけたところ……

 

『どうも私は説明下手でね。君の疑問は、これから紹介する人に尋ねるのが一番話が早い』

 

 そうして医務室を出てこの通路を歩いているわけだ。

 状況の把握はままならずも、令音の口ぶりから琴里もここに保護されているのかもしれない。

 士道はとりあえず己をそう納得させた。

 この施設……〈フラクシナス〉というらしいが、学校の廊下と比べていやに機械的だ。

 これでは潜水艦や、それこそ映画の中で見る宇宙戦艦の内部と言った方がしっくりくる。

 顎に手を当てながら考えを巡らせるが、何にしても情報が足りなさすぎる。

 今はただ着いて行くしかなさそうだ。

 前を歩く背中……から目が下に滑り落ちていく。

 彼女の生まれたままの姿が、脳裏を過ぎった。

 これまで異性との縁に恵まれなかった士道だが、人並みに女性に興味はある。

 それでも前の職場では必要以上に気にしないようにしていたのだが、今はタイトスカートに包まれた臀部に視線が惹きつけられてどうしようもない。

 頭を振って視線を引き上げるが、今度はうなじが目に入る。

 率直に言って、後ろから抱きしめたい衝動に駆られていた。

 なんでも三〇年という長期間で寝不足らしい彼女は、非常に足取りがおぼつかない。

 そんな彼女を自分が支えてあげたい……そんな考えもチラついていた。

 伸ばしかけた手を握りしめて、自分の腹に叩き込む。

 

「……ん、どこか痛むのかい?」

「ちょ、ちょっと虫が飛んでたもので」

「虫……ここに?」

 

 自分の腹部に手を当ててうずくまる士道に、令音は首を傾げた。

 確かにいささか唐突だったのは否めない。

 しかし、まさかバカ正直に理由を伝えるわけにはいかない。

 よく知りもしない男性から、「あなたの後ろ姿に興奮してました」などと言われて、好感を抱く女性が一体どこにいると言うのか。

 世の中は広いので全くいないとも言えないが、いたとしたらそれは相当の剛の者である。

 それから先は、ひたすら琴里の無事だけを考える。

 そうしてどれぐらい歩いただろうか。

 やがて二人は、通路の終わりに突き当たった。

 医務室の出入り口もそうだったが、スライド式の扉がそこにあった。

 立ち入れる人員に制限をかけているのか、横には小さな電子パネルが付いている。

 

「……ここだ。さ、入りたまえ」

 

 令音がそれを操作すると、扉がスライドする。

 どうやら、この奥が目的地らしい。

 促されるまま後を追って扉をくぐると、開けた空間に出た。

 

「ここは……」

 

 率直な感想を述べると、そこは艦橋のような場所だった。

 薄暗い中、そこかしこに設置されたモニターの光が、浮かび上がるように存在を主張している。

 それらの前では、なにやら複雑そうなコンソールを操作する複数人の男女。

 全員が令音と同じ格好をしている……やはり制服なのだろうか。

 そして士道の正面、ちょうど部屋の中央には艦長席と思しき椅子。

 後ろからでは誰が座っているかは確認できない。

 

「おや、来ましたね」

 

 その横に立った長身の男が振り返った。

 長髪の、日本人離れした美形……創作の中にでも出てきそうな特徴の風貌だった。

 いや、むしろ創作の中でジッとしていてくれと、士道は思い切り顔をしかめた。

 その白い制服は他の者と色違いだ。

 もしかすると、上官相当の立場なのかもしれない。

 

「初めまして。私はここの副司令、神無月恭平と申します」

「……どうも、初めまして。穂村士道です」

 

 初対面ということならば無視をするわけにもいかない。

 最低限の挨拶だけすると、すぐに視線を切った。

 さて、この神無月某が副司令だとすると、司令はまた別にいるはず。

 それを裏付けるように、神無月が艦長席に向かって何かを呼びかけた。

 ゆっくりと椅子が回転する。

 そこに座っている人物を見て、士道は絶句した。

 

「――歓迎するわ。ようこそ、〈ラタトスク〉へ」

 

 黒いリボンで髪を括り、これまた色違いの紅い制服を肩がけにした小柄な少女。

 格好、口調、雰囲気、リボンの色。

 それらの差異はあれど、そこにいるのは紛れもなく、士道の姪である琴里だった。

 

 

 

 

 

「鳶一一曹、準備整いました!」

 

 陸上自衛隊・天宮駐屯地の一角。

 整備士の誘導に従い、折紙は自分専用ドッグに着地した。

 武装を収めて顕現装置を解除すると、棚上げしていた装備の重みや疲労が一気に襲いかかる。

 こうなれば、装備を全て解除してから少しの間、その場から立ち上がることすら困難になる。

 精霊と呼ばれる存在に対抗するために、超人じみた力を振るっていた代償だ。

 三〇年前のユーラシア大空災がもたらしたのは、破壊の爪痕だけではなかった。

 顕現装置(リアライザ)と呼ばれるそれは、コンピュータ上の演算結果を物理法則を歪めて現実に出力する、いわば奇跡の技術だ。

 これを用いれば、制限はあるものの自分の想像を現実にすることができる。

 科学をもって魔法を再現する装置、と言ってもいいかもしれない。

 陸自の対精霊部隊――通称・ASTは、戦闘における顕現装置の使用に特化した部隊だ。

 装着型接続装置(ワイヤリングスーツ)を身に纏い、戦術顕現装置搭載ユニット(CR‐ユニット)を装着し、特殊災害指定生命体――通称・精霊と戦う現代の魔術師(ウィザード)。

 折紙もその中の一人だ。

 しかしながら、その戦果は芳しいとは言えない。

 精霊の持つ力は端的に言って絶大。

 超人程度のレベルでは、まともに太刀打ちできていないのが現状だった。

 先程の戦闘も、途中で精霊が姿を消しただけで決着はついていない。

 しかし、もしあのまま続けていたら、間違いなくASTは敗走していただろう。

 それは戦力差から見た純然たる事実だ。

 自分たちでは、精霊を打倒することはできない。

 

「……っ!」

 

 力が入らないはずの拳を握りしめて、その場に打ち付けた。

 精霊……空間震と共に現れ、周囲を根こそぎ破壊していく災禍の化身。

 折紙もかつて、炎の精霊によって全てを失った。

 心の内には乾くことのない怒りと憎しみが渦巻く。

 その二つこそが、五年前から彼女を突き動かす感情だ。

 それ以外は――――

 

「……穂村、士道」

 

 救いを求めるように、その名をつぶやく。

 今朝、クラスの副担任として突然目の前に現れた命の恩人。

 彼が自分のことを覚えているかどうかはわからない。

 それでも、とある事情から接触を控えるよう厳命されていた折紙の心は抑えられなかった。

 なにせ今までは、時間の許すときに遠くから見守ることしかできなかったのだ。

 もし同じ学校に通う生徒だったら、逐一行動を監視……ではなく見守ったり、体操着の匂いを堪能することもできたのだが、年齢差という残酷な現実がある。

 抑圧された欲望があのような形で出力されたのは、当の折紙をしても予想外だったが、それも無理からぬ話なのだ。

 窓の外を眺めて思いを馳せていたら、その人が目の前に現れた。

 そんなことがあったら、誰だってそうするに違いないのだ。

 接触を控えろとは言われているが、生徒と教師なら仕方がない。

 授業で疑問点があれば聞きに行くのは当然のことであるし、その延長で放課後に二人きりになることも当然あるだろう。

 その際に何が起こったとして、それは完全に不可抗力。

 例えば、こちらの好意で用意した飲み物に興奮を催す薬剤が偶然混入したとして、それを飲んでしまった教師を生徒が介抱することは、極々自然なのである。

 もちろん相手への配慮を欠かすことはできない。

 そのような状況で、もし第三者の介入を許すようなことがあれば、彼の教師としての名誉は著しく傷つけられてしまう。

 そういう意味でも他人の力を借りることはナンセンス。

 より機密性を保持したシチュエーションを用意した上で、自力で問題を解決する必要がある。

 人はそれをマッチポンプと呼ぶのだが、荒ぶる乙女心を前にしては全てが些細な問題なのだ。

 作戦の大枠は固めたので、次はその詳細だ。

 まずは前提として、AST内の友人から必要なブツを手に入れる必要があるだろう。

 なんでも、たった一グラムで象も発情させてしまうという触れ込みだ。

 具体的に何に使うか詳細を明かすことはできないが、非常に有用であることに違いはない。

 少子化対策を敢行する覚悟を固め、折紙はゆっくりと立ち上がった。

 

「折紙、ご苦労様」

 

 声をかけてきたのは、折紙と同じくワイヤリングスーツを着込んだ二十代半ばの女性。

 ASTの隊長を務める、日下部燎子一尉だ。

 中々ドックから出てこない部下を心配したのか、その入口に手をかけて覗き込んでいた。

 折紙は心配は無用と首を振ると、その横をすり抜けて外へ出た。

 歩くことは可能だが、空気が粘性を帯びたかのように重たく感じてしまう。

 魔術師は、自分の周囲に随意領域(テリトリー)を展開することで超人としての力を得る。

 随意領域とは外部衝撃を緩和し、その中では重力ですらも意のままになる空間だ。

 CR‐ユニットは、その利用を前提に設計されている。

 もし随意領域のサポートなしに使用すれば、極論体が砕け散ってしまうだろう。

 今の状態は、人の身では扱えない装備を振るった反動なのだ。

 

「ちょっと、もう動いて大丈夫なの?」

「問題ない。それよりもやることが出来た」

「あ、こら、待ちなさいったら!」

 

 しかし重要な作戦を控えた折紙に、立ち止まっている暇などない。

 早速友人と交渉するために、その足を整備班の元へ向けるのだった。

 戦闘上がりだというのにやけに元気な部下の背中を見送って、遼子はやれやれと首を振った。

 色々言いたいことがあったのだが、この分ではまた今度だろう。

 

「全く……あのむこうみず、一体どこの誰に似たんだか……」

 

 そして今はいない先輩の顔を思い浮かべて、ため息をつくのだった。

 

 

 

 

 

「――で、これが精霊って呼ばれてる怪物で、こっちがAST。陸自の対精霊部隊よ」

 

 パッパと切り替わる映像に合わせて、琴里がパッパと説明していく。

 その内容よりもまず、士道には自分の姪っ子の様子の方が気になった。

 くりくりとした目も、可愛らしい声も、咥えたチュッパチャプスも、いつもの琴里だった。

 しかしその格好が、表情が、喋り方がそれを否定する。

 もしかして、自分はパラレルワールドに迷い込んでしまったのだろうか。

 つい昔読んだSF小説のことを思い出してしまう。

 

「人がせっかく説明してあげているのに、何を呆けているのかしら」

「琴里……お前、変なもの食ったわけじゃないよな?」

 

 あまりの変貌っぷりに、どこか異常はないかと体の各部を撫でまわす。

 そして咥えているチュッパチャプスを取り上げて、口に含んでみる。

 味に変なところはなく、こちらは特に問題なさそうだ。

 横で変態がグギギギと血涙を流していたが、全力で無視した。

 

「ちょっ、返してしーく……じゃなくて、返しなさいよ士道!」

「がはっ!!」

 

 あまりの衝撃に、士道はその場に倒れこんだ。

 あの可愛い琴里が、自分を呼び捨てにした……?

 まさか、これが噂に聞く反抗期というやつなのだろうか。

 きっとこれから、洗濯物を一緒にするなだとか、一緒のお風呂を使いたくないだとか、そういう事を言ってくるに違いない。

 時の無情さに、心の中で切なさを噛みしめる。

 しかし、反抗期とは誰もが通る道。

 これも琴里の成長なのだと、後で義兄と一緒に泣くことを決めた。

 そんな虚ろな目をした叔父からチュッパチャプスを取り返すと、琴里は大げさにため息を一つ。

 

「我が叔父ながら、これじゃあ先が思いやられるわね」

 

 少し顔が赤いように見えるのは気のせいだろうか。

 取り返したチュッパチャプスを咥えていることとは、きっと関係ないだろう。

 

(は、はは……そうだよな。俺も中学の頃はアレだったし、高校の時も――)

 

 倒れたまま琴里を見上げる士道の脳裏に、とある可能性がよぎった。

 思春期の子供の態度が豹変する理由の一つ……即ち、悪い友達との付き合いだ。

 思えばこの〈フラクシナス〉という施設、こんな幼い少女を司令と担ぎ上げて、得体の知れないこと極まりない。

 令音は例外として、この場にいる他の人たちの人柄についても良くわからないが、一人だけ確実に悪影響を及ぼしそうな変態がいる。

 自分の姪は善悪の判断をきちんとできる子だと信じているが、心配は心配だ。

 この状況は、あまりにも常識外れだと言わざるを得ない。

 前の職場も色んな意味で常識外れだったが、あれは例外中の例外だ。

 立ち上がると、士道は琴里を速やかに抱きかかえた。

 背中に回した手で肩をつかみ、もう一方の手は膝裏に回す、お姫様抱っこである。

 いきなりのアクションに、琴里は甚く狼狽した。

 

「えっ、ちょっ――」

「帰るぞ琴里。こんな所にいたら変態が感染っちまう……!」

「そんなことになったら舌を噛んで死んでやるわよ!」

 

 特に誰のこととも言っていないが、その場にいる全員の視線が一人の男へ注がれた。

 

「この刺すような侮蔑の眼差し……ありがとう、いい視線ですっ!!」

 

 まるでどこぞの薬のCMのような言い回しで、変態……もとい神無月が身悶えた。

 やはり子供の教育に悪いことは疑いようもない。

 渋面のままの士道が早足でこの部屋から離脱しようとすると、突然の衝撃が後頭部を襲った。

 まるでつま先で蹴られたかのような痛みに、つんのめってしまう。

 その隙に、琴里は士道の腕の中から離脱して軽やかに着地した。

 

「痛いじゃないか。なにも蹴ることはないだろ」

「あら、人の話を聞かないお猿さんにはいい薬でしょ?」

 

 やはり血は争えないのか、冷ややかに士道を見つめるその表情は、母親ソックリだった。

 もし性格の方まで寄って行ってしまえば、最早枕を涙で濡らすしかなくなる。

 そのような未来を阻止するためなら、士道はどんな努力だって厭わないのだ。

 

「いいから帰ろう。ほら、今日もお前の好きなもの作ってやるからさ」

「ここから帰る……どうやって?」

「そりゃあ、普通に入口から出てだよ」

「ちょうどいいわ。一回フィルターを切って」

 

 琴里が指を鳴らすと、薄暗かった部屋が一気に明るくなった。

 照明が点いたわけではなく、これはカーテンを開けた時のような感覚だ。

 実際に、部屋の外には青空が広がっていた。

 

「なんだこりゃ……まさか空中艦か!?」

「……そんな言葉が出てくるなんて、漫画やゲームのやりすぎね。でもその通り、この〈フラクシナス〉は空中艦よ」

 

 腕を組むと、琴里はふふんと鼻を鳴らした。

 それは、まるでお気に入りのおもちゃを見せびらかしてくる子供のようだった。

 昔、娘の成長を事ある毎に自慢してきた姉の姿が重なった。

 何にしても微笑ましくて、思わず撫でようと頭に手が伸びたが、振り払われてしまった。

 やはり反抗期……士道は軽く傷ついた。

 

「あなただってここに回収しなかったら、あのまま二、三回は死んでたかもしれないわよ?」

「……それは」

 

 流石に二、三回は誇張だろうが、ありえない、とも言い切れなかった。

 あんな常識外の戦闘に生身のまま巻き込まれたら、それこそ命がいくつあっても足りない。

 しかし、あの少女が最後に見せた、こちらを気遣う素振りが気になった。

 それと、あの寂しそうな顔がどうしても頭から離れない。

 

「警報は鳴ってたでしょうに、なんであんな所にいたのかしら。馬鹿なの? 死ぬの?」

「なんでってな、これだよこれ」

「携帯のGPS? あっ……」

 

 士道が位置情報サービスを呼び出して示すと、琴里は口をあんぐりと開けた。

 その表示は未だにファミレスの前で止まっていた。

 ついでにメッセージを送ると、短く通知音が鳴った。

 どうやら今も携帯を身につけているようだ。

 

「つまり、ここはあのファミレスの上空ってことでいいんだな?」

「……愚鈍だと思ってたけど、少しは頭が回るみたいね」

 

 バツが悪そうに、琴里は顔を背けた。

 これは、怒られるかもしれないと思っている時の反応だ。

 士道は唇を固く結んだまま、ゆっくりと歩み寄る。

 そして、頭に軽く拳を当てると、その小さな体を強く抱きしめた。

 

「無事で良かった」

「……ごめんなさい、しーくん」

 

 琴里の消え入りそうな謝罪は、士道の耳にしか届かなかった。

 

 

 

 

 

「くっそ、頭痛ぇ……」

 

 翌日の放課後、士道は職員室の自分のデスクで突っ伏していた。

 昨日から色々な事がありすぎて、正直キャパオーバーを起こしそうだった。

 今朝は出勤しようとしたらバイクがお釈迦になったことを思い出し、徒歩での通勤。

 近年は空間震の被害も保証してくれる保険のプランがあるものの、お高いのだ。

 多少の貯金はあるものの、ここ数年はバイトが収入源だった士道には払えたものじゃない。

 そして出勤してみれば、昨日の勝手な行動を咎められる始末。

 よく見れば携帯に何度も連絡が入っており、心配と迷惑をかけたのは疑いようがない。

 そうなれば誠心誠意謝り倒すしかない。

 まずは世紀の平謝りから、士道の朝は始まったのである。

 とはいえ、頭痛の原因は別にある。

 昨日、琴里の謝罪の後も説明は続いた。

 正直ASTだとか精霊だとか空間震だとか、そこらへんはまぁ比較的どうでもよかった。

 問題は、琴里の所属する〈ラタトスク機関〉である。

 なんでも、精霊との平和的な対話をもって空間震を解決しようとしている組織らしいが、正直に言って胡散臭い以外の言葉が見つからない。

 これでは、精霊を操ってその力を利用しようとしている、と言われたほうがまだ納得できる。

 組織の真意はともかく、その交渉役に選ばれたのが士道なのだという。

 

「……さっぱりわけがわからん」

 

 さらにその選ばれた、というのは因果関係が逆らしく、〈ラタトスク機関〉は士道がいたからこそ設立されたものなのだとか。

 これには流石に宇宙猫である。

 士道は自分が平凡な人間であると自覚している。

 多少打たれ強さには自信があるが、まさかそれを期待されているのだろうか。

 だとしたら見当違いも甚だしい。

 そんな人間レベルの丈夫さなど、あの精霊の前では紙に等しいのだから。

 それでも、精霊と対話するという行為について、思うところはあった。

 

『――おまえも……そのような目で、私を見るのか……』

 

 彼女の泣きそうな顔の理由を、聞いてみたいと思っていた。

 精霊……出現とともに周囲を破壊し尽くす、特殊災害指定生命体。

 世界の各地で起こる空間震とは、精霊の出現に伴うものなのだ。

 だがあんな顔をして戦う少女が、果たして好き好んで破壊を振りまくものなのだろうか。

 

(わからない……けど、あの子は絶対に違う)

 

 人を喰らう悪夢、無邪気に周囲を吹き飛ばす狂戦士たち、そして人の黒歴史を覗き見る修道女。

 士道の頭の中にいくつかの顔が浮かんで消えた。

 正直〈ラタトスク機関〉のことは信用できない。

 しかし、もう一度あの少女と話してみたいと思うのも事実。

 その機会を与えてくれるというのなら、存分に利用させてもらおう。

 そしてなにより、あそこには琴里がいる。

 連れ帰ろうとしたところで応じないのなら、自分が傍にいるしかない。

 そう決意したのはいいのだが……

 

『精霊に――恋をさせるの』

 

 昨日、琴里の説明で出てきた言葉である。

 精霊への対処法は二つ。

 武力による殲滅、そして対話による対処。

 前者は非常にわかりやすいのだが、後者はいまいち漠然としている。

 それでも、あんな大それた空中艦を用意する組織が、全くの無策なわけがない。

 そんな考えを元にその詳細を尋ねたところ、返ってきたのが『恋』という言葉である。

 あまりにも予想外なワードに、士道の頭に再び宇宙が広がった。

 一体何がどうしてそう言う結論に至るのか。

 その理由付けは以下のとおり。

 

・空間震をどうにかするためには精霊を説得するしかない――それはわかる。

・精霊に破壊活動をやめさせるには、この世界を好きになってもらう必要がある――これもいい。

・恋をすると世界が美しく見えるので、精霊をデレさせてしまおう――ここで士道は突っ込んだ。

 

 明らかな論理の飛躍が見られた。 

 その場では押し切られてしまったのだが、あれはまだ何かを隠している。

 士道の直感がそう告げていた。

 伊達に十年以上、琴里の叔父をやっていないのだ。

 ちなみに与えられた情報から自分の役目を解釈すると、こうなる。

 精霊とデートしてイチャイチャしてデレデレにさせる……早い話がハニートラップである。

 こんな話を令音の前でされるのだから、士道の内心は穏やかではなかった。

 そもそも恋愛に関しては素人の自分には、あまりにも荷が重すぎる。

 人選ミスなのは明らかなのだが、そもそもが士道でなくてはいけないのだという。

 情報の欠落の上に疑問が重なりすぎて、最高に頭が痛かった。

 さらに諸々の説明内容を書面にて再確認させられ、契約書類と思しきものにサインさせられ、解放される頃にはすっかり日は変わってしまっていた。

 適当に流していたのならもう少し早く帰れたのかもしれないが、士道は社会人である。

 よくわからない組織との契約に軽々と応じるわけにはいかない。

 そのためには書面を熟読せねばならず、余計に時間がかかってしまったのだ。

 頭を使いすぎたというのもあるが、この頭痛の原因は率直に寝不足である。

 ちなみに、書類の方に特に不備は見当たらなかった。

 意外とそういう部分はしっかりとした組織のようだ。

 こうして晴れて〈ラタトスク機関〉に所属することになった士道だが、教師としての仕事がなくなるわけではない。

 当面は二足の草鞋で生活していくことになりそうだ。

 流石にそこは組織からのサポートがあると聞いているが、それがどのような形になるのかは、残念ながら知らされていなかった。

 こうして本日、四月十一日の幕開けは憂鬱なものとなったのである。

 昨日の朝は希望に満ち溢れていたはずなのに、どうしてこうなったのだろう。

 悩みの種は増える一方で、減る気配がなかった。

 なんとか放課後まで頑張ったが、いい加減眠気と頭痛で辛い。

 今日はこれからまた新任の教師が来るらしい。

 本格的な着任は明日からなので、とりあえずは顔見せだろう。

 また随分と急な話ではあるが、士道も挨拶ぐらいはするべきだ。

 少しでも頭をしゃっきりさせるために、顔を洗って出直すべく自分のデスクから離れる。

 

「先生」

「と、びいち……さん?」

 

 士道がトイレに向かうために職員室を出たところで、女子生徒と出くわした。

 鳶一折紙……昨日の大暴走と、精霊と戦う姿は記憶に新しい。

 始業式の時点で、早くも士道にトラウマを植えつけた張本人である。

 教室は離れているため、ここにいるのなら職員室に用があるのだろう。

 なんだか昨日も同じようなことがあった気がするが、流石に二日連続で自分に用があるとは……

 

(正直言ってありそうだよな……)

 

 昨日の殿町はともかく、今日の折紙の用には思い当たる節があった。

 ASTや精霊の情報は、一般人には秘匿されている。

 琴里による〈フラクシナス〉での説明の中でも、確かにそんなことを言っていた。

 口封じ、という言葉が頭を過ぎった。

 

「来て」

「お、おいっ」

 

 問答は無用とばかりに士道の手を掴むと、折紙はグイグイと引っ張っていく。

 途中、この光景を見た生徒がキャーキャーと騒いでいたが、これは彼女が有名人だからだろう。

 全国模試でトップを取ったこともある、学年首席の才女。

 担当クラスの生徒である殿町が言うには、恋人にしたいランキング第三位とのことだ。

 

「鳶一さん? 話があるなら聞くからさ、とりあえず止まってくれると――」

 

 後ろからあれこれと呼びかけてみたが、止まる気配はない。

 乱暴に振りほどくわけにもいかないし、仮にそうしようとしても出来ないような気がした。

 彼女の身のこなしはやはり、常人のそれではない。

 こうまでして連れ出そうとしているということは、他の人に聞かれたくない話のためだろう。

 口封じという言葉が現実味を帯びてきて、士道は戦々恐々とした。

 一体、自分は何をされてしまうのだろうか。

 階段を上り、上へ上へと進んでいく。

 そうしてたどり着いたのは、屋上への扉の前。

 ここに来てようやく、折紙は士道の手を離した。

 この場所には普段から人が立ち入らないためか、物寂しい印象がある。

 校内の喧騒も、どこか遠い。

 なるほど、秘密の話をするのならうってつけの場所だ。

 

「昨日、あなたを街の中で見た。警報は鳴っていたはず……何故あんな所に?」

「一緒に暮らしてる姪が街にいたみたいで、探しに行ってたんだよ」

「見つかったの?」

「なんとかね」

「そう」

 

 話している最中も折紙は士道の目をじっと見つめたまま、ピクリとも表情を動かさない。

 幼い彼女の泣き顔が、頭に浮かんだ。

 あれ以来、本当に笑うことも泣くこともしていないのだろうか。

 

「――昨日、あなたは私を見た」

「……学校でなら、こうして顔は合わせてたよな」

「……街の中でのことは?」

「なんか強く頭を打っちゃったみたいでね、記憶もおぼろげっていうか」

「そう、ならいい」

 

 士道は知らぬ存ぜぬを貫くことにした。

 この方がお互いのためになる……そういう判断だった。

 それに納得したのかどうかわからないが、折紙は士道に背を向けて階段を下りていく。

 そしてその半ばで振り返ると――

 

「――本当に、覚えていないの?」

 

 その言葉が指すのは昨日のことか、あるいは五年前のことか。

 士道は無言のまま、首を横に振った。

 すると、無表情なはずの彼女の瞳に寂しげな色が見えた……気がした。

 思わず手を伸ばしそうになったが、折紙は既に階下の廊下へと消えていた。

 伸ばしかけた手を胸に置いて深呼吸する。

 

「……もどかしいな、色々と」

 

 鳶一折紙……五年前、精霊の仕業とされる火災で両親を失った少女。

 彼女は今きっと、その精霊への復讐のために生きている。

 そんな少女へ、自分はそれ以外の道を示すことができるのだろうか。

 己に問いかけてみたが、答えが出ることはなかった。

 答えの出ない問答を切り上げて、当初の目的を果たすべく教員用のトイレへ向かおうとして……

 

「きゃぁぁぁぁぁぁ――――ッ!!」

 

 士道が階段を下りようとした時、廊下の方から女子生徒の悲鳴が聞こえてきた。

 何事かと駆け寄ると、数人の生徒の人集り。

 その中心に、白衣を着た女性が一人倒れていた。

 

「大丈夫ですか!?」

「ん……」

「君たち、悪いけど保健室に行って先生を――」

 

 傍らで声をかけてみるが、反応は乏しい。

 士道も応急処置ぐらいなら心得があるが、やはり専門家に任せたほうがいいだろう。

 生徒に呼んでくるよう頼もうとしたのだが、いきなり腕を掴まれて言葉が途切れる。

 思わず悲鳴を上げそうになったが、そこは大人としての意地でなんとか飲み込んだ。

 

「……心配はいらない。ただ転んでしまっただけだ」

「あ、あなたは……!」

 

 白衣の女性が顔を上げる。

 長い前髪に分厚いクマ。

 今日は眼鏡をかけているものの、その顔を士道が忘れられるはずがなかった。

 村雨令音……〈ラタトスク機関〉に所属し、空中艦〈フラクシナス〉にて解析官を務める女性。

 色んな意味で士道にとって特別な女性でもある。

 その彼女が、一体何故ここにいるのだろうか。

 

「えっと……村雨、さん?」

「ん……ああ、君か」

「ここで何を? もしかして俺に――ゲフンゲフン!」

 

 とんでもない自惚れがこぼれそうになって、士道は慌ててごまかした。

 そんな挙動不審を気に留めることなく、令音はのろのろと身を起こす。

 そして自分の胸元を指し示した。

 そこには昨日と同じクマさんがポケットに収まっていた。

 言わんとするところを理解しかねて首をかしげるが、よく見るとその下にはネームプレートがぶら下がっている。

 これは士道が身につけているものと同じものである。

 寝不足で働きが鈍い頭でも、これだけの情報を与えられれば大体の察しはつく。

 

「見ての通り、教員として世話になることになった。教科は物理、二年四組の副担任も兼任する」

 

 件のサポートとは、令音のことなのだろう。

 確かに士道の事情を知る彼女が学校にいるのなら、色々と動きやすくなる。

 そして気になる女性が同じ職場にいるとなれば、俄然やる気が湧いてくる。

 動機としてはやや不純だが、結局男とはそういうものなのだ。

 オフィスラブという言葉に胸を躍らせたとしても、それは無理からぬ話なのである。

 それはそれとして、一つ懸念を挙げるとするならば……

 

(え……もしかして俺、副担任クビになったのか?)

 

 

 

 

 

「いやー、アハハハハ、そうだったんですね!」

 

 令音と共に廊下を歩きながら、士道は大げさに笑ってみせた。

 安堵のためか、声が必要以上に大きかった。

 如何なる理由付けが成されるかはともかく、二年四組の副担任は二人となったらしい。

 自らの昨日における勝手な行動を気にしていたため、少しネガティブになっていたようだ。

 

「それで、村雨先生」

「……ああ、二人きりの時は令音で構わないよ」

「え」

 

 名前で呼ぶのを許されたことに、士道の胸が跳ね上がる。

 まさかの進展の気配に、心臓が騒いで止まなかった。

 

「……私も君を名前で呼ばせてもらおう。ええと……しんたろう、だったかな?」

「士道です、穂村士道」

「そうか……では、シン」

 

 まだ覚え間違いを引きずっているようだった。

 その呼び方ではまるで、某国民的RPGの十作目に出てくる大ボスの名前である。

 文字としては頭の一つしか合っていないが、愛称だと思えば仲が深まった気もしてくる。

 ここはポジティブに捉えておくことにした。

 

「早速だが、強化訓練の準備が整った。このままついて来てくれるかい?」

 

 訓練という言葉に、士道の頬が引きつった。

 昨日の琴里の話の中でも、確かに出てきた言葉である。

 記憶違いでないなら、早速今日から実施するとも言っていた。

 精霊との対話……歯に衣を着せずに言えば、デートしてデレさせる。

 そのためのスキルが、士道には不足していることは明らかだ。

 なので訓練の必要性があることは理解できる。

 できるのだが……具体的に何をやらされるのかという不安は残る。

 戦闘訓練ならば話はわかりやすいのだが、必要とされているのは恋愛のスキルである。

 隣を歩く令音と実戦形式で行うものなら、士道としてもやぶさかではないのだが。

 

「それで、訓練とは一体何を?」

「……うむ、とある情報筋によると、君には交際経験がないそうじゃないか」

「…………っすね」

 

 純然たる事実に、士道は曖昧に頷いた。

 なんならあなたが初めての相手ですと、心の中で付け加える。

 そのとある情報筋というのは琴里……を通した姉の遥子のものだろう。

 自分の女性遍歴を、姪に対して語った覚えは決してない。

 と言うより、語れるだけの何かがない、と言った方が正しい。

 初恋というカードならあるにはあるが、それを開示することは士道の死を意味する。

 精神的に死ぬし、なんなら舌を噛みちぎる自信すらあった。

 そもそも、遥子にしても精々高校時代までしか詳しく知らないはずだ。

 一体何をもってそう断ずるのか。

 一くさり文句を言ってやりたかったが、恋人いない歴=年齢なのは間違いない。

 というかあのクソ姉貴、自分の娘になんて事を教えているんだ。

 心の中で血涙を流しつつ、士道は姉を呪った。

 

「……ああ、勘違いしないでくれ。別に責めているわけじゃあないんだ。私としても、君の身持ちが堅いのは好ましいと思っているよ」

 

 アメリカに向けて呪いの念を送っていた士道だが、その言葉であっさりと浄化された。

 好きな相手の言動に一喜一憂している様は、まるで思春期の男子である。

 

「だが、精霊を口説くとなるとそうも言ってられないんだ」

「それは……」

 

 呻くように、声を搾り出す。

 精霊に恋をさせるというミッションを達成するのなら、確かにその通り。

 しかし、士道が今気にしているのは令音の反応だ。

 自惚れでないのなら、自分に多少は好意を向けてくれている……ような気がする。

 だがその一方で、精霊をデレさせるという事に関しては、特にこれといった反応がない。

 もし逆の立場なら、士道は間違いなく穏やかでいられない自信があった。

 それとも、表に見せないだけで彼女も同じなのだろうか。

 思えば、あの夜のこともいまだに話せていない。

 昨日〈フラクシナス〉で目覚めた時は、状況の把握を優先していたため話題に出せなかった。

 それなら今はどうだろうか。

 汗ばむ手を握りしめて、士道は意を決して口を開いた。

 

「あのっ――――」

 

 その先を続けることは叶わなかった。

 臆病風に吹かれたとかそういうわけではなく、単純に喋ることができなくなったのだ。

 令音にすっかり気を取られていた士道は、迫り来る姪弾丸を察知することができなかった。

 

「しーくぅぅぅぅぅんっ!!」

「はがぁ……っ!」

「あははは、はがーだって! 市長さんだー!」

 

 撃滅のコトリ・ブリットをモロに受け、士道は肺の中の空気を吐き出した。

 寝不足の体にはかなり堪える一撃だった。

 それでも倒れずに踏みとどまり、逆に琴里を抱え上げる。

 高い高いの体勢だった。

 姪っ子は楽しそうに、あははははと笑っていた。

 

「あ、穂村先生。姪さんが来てたから、今校内放送で呼ぼうとしてたんですよぅ」

「岡峰先生が見ていてくれたんですか? ありがとうございます、助かりました」

「いえいえ、可愛い姪さんですねぇ」

 

 琴里は中学校の制服に入校証と、来客用のスリッパを身につけている。

 正式な手続きの上でこの学校に入ったようだ。

 タマちゃん先生と意気投合したようで、互いに手を振りあっていた。

 

「ところで、お二人は一緒に歩いてきたみたいですねぇ。もうお互いに挨拶も?」

「ええ、さっき廊下で偶然。村雨先生も俺と同じ副担任だったんですね」

「はい、これから三人で頑張りましょうね!」

 

 珠恵は士道と令音の手を掴むと、ブンブンと上下させた。

 そしてまだ仕事が残っているのか、職員室へと消えていった。

 ちなみに仕事が残っているのは士道も同じであり、これから訓練となると遅くなりそうだ。

 

「……早かったね、琴里」

「うん、途中で〈フラクシナス〉に拾ってもらったからねー」

 

 令音が琴里に話しかけたのは、ちゃんと珠恵がいなくなるのを確認してからである。

 秘密組織に所属しているというだけあって、そこらへんは気にしているらしい。

 この場で空中艦の名前を出すのもどうかと思うのだが、そこは誤魔化しようがあるのだろう。

 実際に、ゲームの話題とでも言っておけばなんとかなりそうではある。

 

「じゃ、行こっか」

 

 能天気そうな笑顔で、琴里は先導するように廊下を歩き出した。

 昨日の態度がまるで夢だったかのように、いつも通りである。

 士道はあの豹変っぷりを、一種の強がりだと解釈した。

 如何なる経緯かはわからないが、現に琴里は司令官という立場に収まっている。

 世の中には、能力さえ認められれば年齢は不問、という場もなくはない。

 あの〈ラタトスク機関〉でやっていくためには、泣き虫のままではいられなかったのだろう。

 その努力に対して、何も知らなかった自分が愚かしく思えた。

 見守っているつもりで、実際には何も見えていなかったのだから。

 

「さ、ここだよ。入ろー、入ろー♪」

 

 琴里は物理準備室の前で、入室を促した。

 ここで件の訓練が行われるのか。

 士道は緊張とともに、スライド式のドアを開け放った。

 

「……は?」

 

 そしてすぐに自分の目を疑った。

 士道の担当教科は英語である。

 そのため物理準備室とは特に縁はないが、学校案内の際に一度だけ立ち寄ってはいる。

 ここは確か、初老の物理教諭である長宗我部先生の憩いの場だったはずだ。

 断じてこんなコンピュータとディスプレイ、その他怪しい機材で埋め尽くされた空間ではない。

 

「……この部屋は?」

「……物理準備室だが?」

「……あの怪しげな機械の数々は?」

「……部屋の備品さ?」

 

 なんとも胡乱な返答だった。

 疑問系になってしまうあたりが最高に怪しい。

 首を傾げる令音は非常に魅力的だが、それではごまかしきれないほどの疑問が山積している。

 

「あの……それで、長宗我部先生は?」

「……ああ、彼か。うむ」

 

 なにかやむを得ない事情があったのだろうか。

 令音は思案するように顎に手を当てた。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………まあ、そこで立っていても仕方ない。入りたまえ」

 

 まさかのスルーである。

 これには、流石の士道も開いた口が塞がらなかった。

 長宗我部先生がやんごとなき事情で転勤したことを知るのは、少し後のことである。

 

「――ふぅ」

 

 士道が呆気にとられている内に、二人は既に入室を済ませていた。

 部屋の奥にある椅子に腰をかけ、琴里に至ってはいつの間にやら雰囲気も変わっていた。

 制服の首元を緩めてチュッパチャプスを咥え、足を組んでこちらには冷ややかな視線。

 昨日〈フラクシナス〉で見せたあの顔である。

 よく見ると、髪を括るリボンの色が白から黒に変わっていた。

 

「いつまで突っ立ってるのよ、士道。カカシ希望ならオススメしないわよ」

「こんなとこにカカシを立てたって仕方ないだろ」

「でもその気持ち悪さなら、人避けにはピッタリかもしれないわね」

 

 すっかり反抗期モードである。

 しかし士道が狼狽えることはない。

 琴里がどんな態度を取ろうとも、その根底は変わらないと見切ったからだ。

 結構な頻度で飛んでくる罵倒が心を抉るが、そこは武士は食わねど高楊枝である。

 部屋のドアを閉めて、話を聞く姿勢をとる。

 

「余裕そうにしているところ悪いけれど、これから何の訓練を行うのか理解しているのかしら」

「うっ……」

 

 胃が重くなったような気がした。

 士道の経験上、訓練という行為が楽だった覚えがない。

 それが恋愛という未知の分野だったら尚更だろう。

 その内容次第ではやる気も出るのだが、それを期待していいものかどうか。

 琴里の姉そっくりの笑顔を見ていると、どうにも不安になってくるのだ。

 

「さ、ともかくここに座りたまえ。訓練を始めよう」

「……わかりました」

 

 琴里と令音の間には、もう一つ椅子があった。

 指し示されるまま、そこに腰掛ける。

 座り心地自体は悪くないのだが、非常に落ち着かなかった。

 士道は今、二人に挟み撃ちにされた状況にある。

 片や意地悪そうな笑顔を浮かべ、片や艶かしく足を組み替えている。

 令音の太ももに目が吸い寄せられそうになるが、姪っ子の手前そういうわけにはいかない。

 もしかしてこれも訓練の一環なのだろうか。

 必死に明日の授業のことを考えていると、琴里が呆れるように口を開いた。

 

「そのザマじゃ、道のりは遠そうね」

「どのザマだよ」

「バレてるわよ、この脚フェチ」

「な、なんのことやら!?」

「あーやだやだ、だからその年になっても童貞なのよ」

「…………」

 

 実を言うと、その称号はつい先日捨てたばかりである。

 だが相手が琴里ならば、大っぴらに話すわけにはいかない。

 そもそも、自分の性事情を明け透けに語れるような性格でもない。

 というわけで否定も肯定もせずに、士道は沈黙を貫いた。

 ロクな反応を見せない叔父に、琴里は片眉を釣り上げて怪訝な顔をした。

 

「……ともかく、我々の作戦に乗る以上、女性への対応に慣れてもらわねばならないんだ」

「なるほど、確かに」

 

 発想としてはごく当然の帰着である。

 デートしてデレさせるなんて高等技術の前に、まずはまともに会話できるようになりなさい、ということである。

 前の職場の男女比のおかげか、士道にも全く心得がないわけではない。

 だがしかし、それはいわば相手を刺激しないための消極的な対応である。

 当たり障りのない会話はできるだろうが、恋愛に繋げるとなるとワケが違う。

 相手の好感を引き出すような話術は持ち合わせていないのだ。

 

「ああ、そこまで気負わずとも大体の指示はこちらで出せる。大事なのは変に緊張しないことだ」

「まあ……それぐらい、なら?」

「……本当かしらね」

 

 先程から押し黙って自分の叔父へ訝しげな目を向けていた琴里が、いきなり行動を起こした。

 士道の頭を、令音の胸元へと押し付けたのだ。

 突然の温かくて柔らかい感触に、記憶が刺激される。

 

(俺はこの感触を、知っている……!)

 

 蕩けそうなほどいい匂いに、士道の心が安らぎに包まれていく。

 ずっとこのまま、こうしていたい……そんな欲求さえ湧いてくる。

 いつのまにか背中に添えられた優しい手の感触が、それにさらに拍車をかけた。

 

「ちょ、ちょっと! そこは普通、慌てて顔を離すところでしょ!」

 

 士道の狼狽を期待していた琴里が、逆に狼狽していた。

 自分で作り出した状況だというのに、随分と勝手な言い草だった。

 慌てて今度は逆に士道の頭を引っぱって、令音から引き剥がした。

 

「見たか小娘、これが大人の余裕というやつだ」

「……そんな締りのない顔で言っても説得力ゼロよ、このエロ。エロ士道!」

「――ん、んんっ!」

 

 指摘されて、速やかに表情を引き締める。

 すかさず咳払いで状況のリセットを図ったが、琴里の半眼視からは免れられない。

 それでもせめて視界に入らないように、士道は令音に向かってぎこちない笑顔で促した。

 

「さ、訓練を始めましょう! 俺、頑張っちゃうぞー!」

 

 無理くり作った態度なのは明らかだったが、この状況から逃れるための苦肉である。

 士道が訓練を急かしたことを後悔するのは、この直後の話だ。

 

 

 




仕事が始まるという悲哀
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