士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
話が進むにつれて一章が長くなるのを予感する今日この頃。
姪っ子の話はどれぐらいになることやら……
燃える、燃える、世界が燃える。
どうしようもなく熱くて、どうしようもなく苦しくて、見上げる空へと手を伸ばす。
伸ばした手は蠟燭の芯のように、先端から炎が伸びる。
つまり燃えているのは世界ではなく、この体なのだ。
遅ればせながらその事に気が付いて、嘆息する。
どうりで熱くて苦しいわけだ。
こんな風に全身を炎に包まれるなんて久しぶりすぎて、気づくのに時間がかかってしまった。
先程はそうなりそうになっただけで、あんなにも取り乱したというのに。
もしかすると最早針が振り切れて、精神がおかしくなってしまったのかもしれない。
(なんて、そんなの今更だよね……)
そう、おかしくなるというのなら、自分はとうの昔にそうなっているのだ。
他でもない、親友である彼女に殺された、あの時から。
当時も自分の体は燃えていて、今と同じように彼女に手を伸ばして――――沈み込むように過去へ向かう思考を、今この時に引き留める。
意識の断絶……炎の精霊に一撃加えられた直後に、咄嗟に〈
戦斧で切り裂かれた部分は裂傷どころではなく、黒く炭化していた。
おかげで血さえ出ていない。
そして恐らく、この炭化した腹部を中心に燃え広がった炎が全身を包んでいるのだろう。
このまま放置していれば、この体が燃え尽きるのは時間の問題。
その前にどうにかしなければ……しかし、肝心の『時間』が尽きようとしている。
(やっぱり感情に任せて動くと制御が効かないなぁ…………うん、反省しよう)
こうして地に倒れて空を見上げるのは、今日だけで何度目だろうか。
今回は少々派手にやりすぎた。
しかし反省したところで、それを次に繋げられるかどうかは少し怪しい。
空間に作用する〈
そして『時間』とは寿命そのもの。
この場から脱出できたとして、それが尽きては意味がない。
こうならないように補充は欠かせないのだが、今回は連戦でその暇がなかった。
そもそも一番の問題として、相手がそれを許すかどうか。
撃った対象との位置を逆転させる〈
今こうしている間に戦斧が振り下ろされたとしても不思議ではない。
あの紅い瞳に宿った禍々しい光を思い出して、身を震わせる。
口から漏れたのは自嘲的な笑いだった。
何かに恐怖するなんて、何とも人がましい。
「――――」
地を踏みしめる音――誰かが近くに来たようだ。
言葉を発そうとしたが、喉が焼かれているためか上手く声が出てこない。
足音は段々と近づいて、やがてその姿が視界に入る。
穂村士道……莫大な霊力をその身に宿す人間で、彼女の標的であり、また自分の標的でもある。
そして自分をこんな風にしてくれた、忌々しい炎の精霊の家族でもある。
また文句を言おうと思ったが、やはり声が上手く出せない。
彼は荒い息で目や鼻から血を流したまま、痛みかまたは別の理由か、顔を歪めていた。
こちらとは比べ物にならないが、向こうも中々にボロボロだった。
先程は少々強引に協力してもらったので、その影響もあるのは間違いない。
そんな姿のままでここに現れた理由は何なのだろうか。
こんな無様を眺めに来たのだとは思えないが、まさか助けに来たわけでもないだろう。
自分の命を狙う相手にそうする愚か者が、一体どこにいるというのか。
互いに言葉はなく、しかし彼が懐から取り出したそれは、確かな納得をもたらした。
古式の、精緻な装飾が施された短銃。
彼女の振るう天使である、〈
何故彼がそれを手にしているのかはともかく、銃口を向けることが意味するのは単純明快だ。
(あーあ、ここまでかぁ……)
たとえ人間が扱ったとしても、それは精霊が振るう武器だ。
その弾丸はこちらの霊装を貫き、確実に終わりをもたらすだろう。
そのような結末を認められるかと言えば、当然否だ。
元よりこの姿は、怨念や妄執の類で結び付いたもの。
それを果たさぬまま終わりを迎えるなど、到底認められない。
だけど――――
(そんなに私の事、殺したいんだ……)
あの優しい彼が、殺意なんて強い感情を自分に向けている。
そう考えると、そんな場合ではないというのに鼓動が高鳴ってしまう。
ああ、今この手に短銃を握っていたら、そして互いに銃口を向け合っていたら、それはどれだけ素晴らしい事だろうか。
互いに想い合い、殺意を向け合う……そんなのは最早、愛を交わしているのと変わらない。
彼女――時崎狂三と対峙する上で不満な点を挙げるとしたら、それは感情を、殺意すら見せてくれないことだ。
だから、彼が確かな殺意を以て終わらせてくれるなら……
(――ナシ寄りだけど、ギリギリでアリ……かな?)
そして放たれた弾丸は過たず、炎に包まれた体を貫いた。
「はぁ……う、ぐっ――――」
「琴里っ!」
辺り一面に焦土が広がり、大気には身を炙るような熱が蟠る。
ここは公園だったはずだが、その面影はどこにも見当たらない。
その中で地面に手をついて苦し気に呻く少女に、穂村士道はすぐさま駆け寄った。
和服のような霊装を纏った炎の精霊……彼女こそが士道の姪である、五河琴里なのだ。
「私は、いいから……」
「いいからってお前、放っておけるわけないだろうが」
この状況に対する疑問は山積しているが、それらはとりあえず横に置いておく。
士道にとって今重要なのは、守るべき家族である姪っ子が苦しんでいることだ。
随意領域で熱を遮断しながら、あれこれと異常はないか確認する。
専門ではないが、応急手当の心得ぐらいならある。
その際に体のあちこちに触れることとなったが、家族ならば今更気にするようなことではない。
琴里の口元がわなわなと震えていることには気づかなかった。
しかしボロボロさ加減で言えば、圧倒的に士道に軍配が上がるだろう。
転げまわったせいか身に纏うスーツは見る影もなく、顔中の穴から血を流している様は、間違っても無事な姿とは言えない。
加えて顔には出していないが、脇腹のあたりには壮絶な痛みが走っている。
これは先程緊急回避とはいえ、蹴飛ばされた際に肋骨が数本ポッキリと逝ってしまったからだ。
要するに人の心配をしている場合ではないのである。
幸か不幸か、それを指摘する者はこの場にはいなかった。
「ええい、うっとい!」
「――あべしっ!!」
それまでなすがままにされていた琴里だが、両脇に手を差し込まれて高い高いされたところで、流石に抵抗をした。
駄々っ子がむずがるようにジタバタしただけだが、今の彼女は精霊である。
振り回した足に蹴飛ばされた士道は、まるで核戦争後の荒廃した世紀末の世界に登場するならず者の断末魔のような声を上げて、盛大に吹っ飛んでいった。
宙を舞う体は数メートルの飛距離を叩き出し、その勢いのまま土ぼこりを巻き上げて、焦土の上をさらに数メートル転がっていく。
「あ…………し、しーくん?」
「……や、やるな琴里。その右脚なら世界を狙えるぞ」
マズいと思ったのか琴里は恐る恐る呼びかけるが、士道が倒れていたのはほんの一瞬だった。
すぐさま何事もなかったかのように立ち上がると、口元を拭って親指を立てる。
不本意ながらも高校時代からAST時代まで続く〈不沈艦〉の異名は伊達ではなく、昔から常人よりも頑丈なのが取り柄なのだ。
しかし、実は両脚が生まれたての小鹿のように震えだしそうなことは内緒だ。
いくら頑丈とは言っても、それはあくまで人間の範疇である。
精霊の力で蹴飛ばされては、ほんの軽くと言えどもダメージはそれなりにある。
それでなくとも、体の内外問わずにボロボロなのだ。
だからと言ってここで倒れていては、琴里が自分を責め始めてしまうかもしれない。
そして何よりこれは、姪っ子に情けない姿は見せられないという士道なりの意地なのだ。
精霊攻略という面では割と情けない姿を見られている気がするが、そこを気にしてはいけない。
士道の無事な(ように見える)姿に琴里は一瞬だけ顔を明るくすると、すぐにそっぽを向いた。
「姿が見えないから離脱したかと思えば、まだこんな所で呆けていたのね。やっぱり自殺志願なのかしら?」
「馬鹿言うな。お前を置いて戻れるか。それに、聞きたいことだって山ほどあるんだからな」
一先ず保留にしてあるが、ここまで色々と目の当たりにしては看過することは出来ない。
詳しい事情を尋ねる必要があるだろう。
そんな士道の気配を察したのか琴里は唇を尖らせて、気まずそうに顔を伏せた。
まるで隠し事がバレて怒られる子供のような反応だった。
「……話は後よ。今はここから離脱して。あの精霊が戻ってこないとも限らないんだから」
そう言うと、琴里は白い精霊が吹き飛んでいった方を睨みつけた。
少し子供らしい顔を見せたかと思えば、今はすっかり司令官モードである。
とはいえ、言いたいことは十分にわかる。
仮に戦闘が続いたとして、そこに士道がいては邪魔なのだ。
今は多少落ち着いているが、炎の精霊の力を振るい始めれば周囲はまた灼熱地獄と化すだろう。
士道は見た目通りというか、中々にギリギリな状態なので、そんな環境に身を置いて無事でいる自信はなかった。
しかし、理解に納得はまだ追いつかない。
守るべき家族を置いて、自分だけ離脱しなければならない。
そんな現実に、強く拳を握り締める。
「…………わかった。十香と合流して〈フラクシナス〉で待ってる」
「安心して、しーくん。私はもう、守られるだけの弱い自分じゃないんだから」
琴里の頭部に生えた、一対の角に巻かれた黒いリボンが揺れる。
霊装を纏った影響か少しばかりデザインが変わっているが、あれは普段髪を括っているものと同じものだろう。
思えばあのリボンを、琴里はいつから身に着けるようになったのだろうか。
司令官としての姿を見せるまでは、少なくとも士道の前では身に着けていなかったはずだ。
何かとても大事なことを忘れているような気がして、その空白から生じる寒々しさに士道は身を震わせた。
それ以上声をかけることもできず、よろよろとその場から離れる。
戦斧による一撃をまともに受けて吹き飛ばされた白い精霊――紗和はどうなっているだろうか。
状況だけ見るのなら、どこかで燃え尽きていてもおかしくはない。
しかし、その命の灯がまだ消えていないのを、士道は感じ取っていた。
それは不完全ながらも霊力の封印が発動した影響だろうか、目に見えない繋がりが出来ているのかもしれない。
自分の命を狙ってくる手合いだが、その生存に心が少し軽くなる。
甘いと言われるかもしれないが、彼女とはささやかな交流があった。
たとえそれが自分を狙い、多くの被害を生み出してきた存在とはいえ、やはりその死を喜ぶ気にはなれないのだ。
そして何よりこの安堵は、琴里が手を汚していなかったという部分が大きい。
人間の常識が当てはまる状況ではないし、不殺を説くわけでもないが、そんな業を自分の家族に背負わせたくないというのは、おかしな考えではないはずだ。
自分を「兄様」と慕う少女の、擦り切れたかのような笑顔が頭を過ぎる。
真那が見せたような虚無を湛えた表情を、決して琴里にさせたくはない。
しかしここで士道は、とある事実には気が付かなかった――いや、目を逸らしていた。
それ以上は考えないように思考を打ち切る。
そして覚束ない足取りで歩を進めていると、やがて視界に立ち上る炎が映った。
焦土に横たわるように広がったそれは、まるで人が四肢を投げ出しているように見えて――――それがあの白い精霊だと気づく。
吹き飛ばされていった方向とは全く違うのだが、何故こんなところに倒れているのだろうか。
「――っ」
痛む体に鞭を打って駆け寄る、と表現するには些か速度は物足りない。
今の士道は自力で走るのも難しい状態だった。
現代において魔術師と呼ばれる者たちは、顕現装置という奇跡の技術を用いて、随意領域という自分の意のままになる空間を操る。
士道もその端くれであり、手持ちの基礎顕現装置を使用することで常人を逸脱した芸当も、勿論ボロボロの体を走り回らせることも可能だ。
しかしながら、超人じみた力を無制限に振るえるという都合のいい話は存在しない。
随意領域の展開及び操作は、脳に著しい負担をかけるのだ。
酷使された脳はやがて活動限界を迎え、最悪の場合は死に至る。
今日一日だけで散々無理を通してきた士道はその一歩手前であり、というか既に何回か活動限界を迎えており、その度に炎に焼かれたり銃弾を撃ち込まれたりで回復してきたのだ。
回復と言えば聞こえはいいが、それは筆舌に尽くしがたい激痛を繰り返してきたということだ。
そんなことを続けていれば、肉体に傷はなくとも精神が先に擦り減っていってしまう。
もう勘弁してほしいというのが士道の意見なのだが、進んで危険に飛び込んで行っているので、言ってしまえば自業自得である。
……ともかく、現状だと随意領域を展開するのにも苦心する有り様なのだ。
走ることが出来るようにパラメーターを書き換えたとして、次の瞬間には倒れかねない。
「――――」
炎に包まれたまま横たわる白い精霊の少女は、士道の姿を認めて口を動かした。
しかし声にはならず、むしろ呼吸に喘いでいるように見えた。
戦斧の直撃を受けた腹部は真っ黒に炭化して、全身を包み込む炎がその白い肌や霊装を、端から徐々に黒く焦がしていく。
最早動くことすらできないのか、紗和は諦念混じりの笑みを浮かべるのみ。
それが、どうしようもなく士道の心をざわつかせた。
狂三から託された短銃を取り出す。
これは天使と呼ばれる、精霊の誇る絶対の矛……その一部だ。
士道は彼女に、一度だけその力を振るうことを許可されている。
それが一体如何なるものなのか詳しい説明は受けていない。
しかしあの時、狂三は『レクチャー』と言っていたのだ。
それならば――――その重みに負けないよう、短銃を両手で構える。
そしてそれを炎に包まれたまま横たわる紗和へと向ける。
すると彼女は少し残念そうな笑みを浮かべ、まるで諦めるように、死を受け入れるように、静かにその目を閉じた。
しかし、それは士道が最も忌避する物である
(…………ざっけんなよ)
わかっている――彼女は士道の命を狙う精霊であり、実際に今日は何度も殺されかけた。
わかっている――彼女はこの天宮市を滅ぼすと口にし、実際に士道の大切な人たちを傷つけようとした。
ここで止めを刺すことは、決して間違いではない。
それでも、とグリップが軋むほどの力で握り締める。
士道は精霊の平和的な無力化を目指す〈ラタトスク機関〉の一員である。
そして士道が一度魔術師の力を捨てたのは、精霊に矛を向けることに疑問を覚えたからであり、それは今も変わらない。
だけど、それ以前のもっと根本的な理由として、それが赤の他人であろうと士道はどうしようもなく、絶望や諦念といったものを見過ごせないのだ。
何故と問われても確たる理由はなく、昔からそんな生き方をしてきたから、と答える他ない。
故にそんな表情を見せられたら、傲慢だとか図々しいだとか言われようとも、助けるしか選択肢がなくなってしまう。
銃口を向けながら助けるとはとんだ矛盾だが、この短銃に込められている力は、その矛盾を覆すものである。
きっとそこまでを含めたのが、狂三の言う『レクチャー』だったのだ。
出力されるまでに紆余曲折を挟むものの、やはり彼女の優しさは疑いようがない。
最悪の精霊のツンデレっぷりに思いを馳せながら、士道は躊躇うことなく引き金を引いた。
銃声と共に影の弾丸が放たれ、炎に包まれた白い精霊を貫く。
しかしそれは命を奪うものではなく、その逆。
影の弾丸に貫かれた体から炎が消え、炭化した腹部が復元していく。
それは、まるで時計の針を戻しているかのような光景であり、事実今の弾丸の力とはそういったものなのだろう。
その体や霊装から焦げの黒が払拭されると、紗和は身を起こして呆然と、傷一つない自分の体を見下ろした。
それを横目に、士道は踵を返す。
役目を果たしたからか、短銃は空気に解けるように消えていった
とりあえず、今は十香と合流しなければならない。
こんなボロボロの姿を見せたら、また心配されてしまうだろうか。
こちらの言う通りにしていたら折紙も一緒だろうから、そちらからの追及もあるだろう。
どう誤魔化したものかと考えようとして、思考は全然まとまらない。
あまりに酷使しすぎたせいか、最早脳がストライキを起こしているのだ。
考えるべきことは山積しているが、もう休みたいというのが士道の切実な望みだった。
今日は一日だけで色々とありすぎた。
「――待ってください」
しかしながら、それを過去形にするには些か早いと言わざるを得ない。
首筋に触れる刃の冷たくも鋭い感触に、士道は足を止めた。
口ぶりに反して、止まらねば斬るという意思がありありと見える。
実際は強制のようなものだろう。
「……琴里に見つからないうちに行ってくれ。また盾にされるのはごめんだからな」
「どうして私を助けたんですか?」
「どうしてって、俺は一般市民だぞ? 死ぬとか死なせるとか、殺すとか殺されるとか、そういうのは勘弁してくれ」
「私を助けて、自分が殺されないとでも?」
「殺すのか?」
「返答次第では」
ここで躊躇なく攻撃してこないのは、彼女の中に戸惑いがあるからだろうか。
体の内も外もすごく痛いので、さっさと用事を済ませて休みたいところだが、こうなっては見逃してはくれないだろう。
ため息をついて、首に当てられた刃を掴んで振り返る。
手のひらが切れて血が流れたが、この体のボロボロっぷりからしたら誤差のようなものだろう。
最悪の精霊そっくりの顔には、訝るような色が浮かんでいた。
細められた赤と青の双眸には、射抜くような眼光が宿る。
言動の恐ろしさとは打って変わって、どちらかといえば柔和な表情を浮かべている印象が強い彼女だが、今回は気分を害してしまったようだ。
「君の言う通り、俺は傲慢で図々しいんだ。だからそっちの事情はお構いなしで助けたし、その事に対する文句も受け付けない」
「そうすることで自分の命が、もっと多くの人の命が危険に晒されても構わないと?」
どうにも聞き覚えのあるような脅し文句に、士道は思わず笑ってしまった。
士道の命の危険や、より大勢の人間の危険を仄めかす内容は、それこそ狂三が影の中で言ってきたことと同じだ。
彼女たちの間に流れる空気は非常に殺伐としているが、互いに気が合うことは最早疑いようもない。
案外二人の前に猫でも連れてきたら、争いをやめるかもしれない。
「そいつは困るな。どうにかやめられないか?」
「さっきも言った通り決定事項です。お兄さんもこの街も、全て私の糧とさせてもらいます」
「どうしてもか?」
「どうしてもです」
「参ったな……じゃあ、助けたよしみで一つだけ約束してくれないか?」
士道の提案に紗和は無言で続きを促した。
どうやら一先ず、こちらの言葉を聞いてくれるらしい。
「――――殺すなら、一番最初は俺にしてくれ」
翻すと、自分を殺すまで他の誰も殺すな、という意味になる。
勿論、士道は自分の命を渡すつもりはないので、これは誰も殺させないという意思の表明だ。
それに対して紗和は少し考えるような素振りを見せてから、いつもの柔和な笑顔を浮かべた。
「ならここでお兄さんを殺してしまえば、それでいいんですよね?」
しかし、その口から飛び出したのは何とも物騒な言葉である。
相変わらずこの辺りのギャップが激しい。
そう来たか、と顔を顰めながら、士道は浮遊感を覚えた。
そして次の瞬間、背中から地面に叩きつけられ、肺の中の空気を盛大に吐き出す羽目になった。
遅れてやって来た足の痛みで、どうやら足払いをかけられたらしいと気づく。
紗和はまた士道の腹の上に跨ると、何とも興奮した様子で頬を上気させた。
この精霊はあれだろうか、どこかの変態とは逆に人を痛めつけて悦ぶ性癖があるのだろうか。
年頃の娘がはしたないと注意してやりたかったが、精霊が見た目通りの年齢かは甚だ怪しい。
「……普通はもっとこう、猶予をくれると思うんだけど」
「うーん、私にメリットがあるならそうしますけど、何かあります?」
「そうだな……じゃあ今度また、一緒にヨモ吉に会いに行かないか?」
メリットと言われたところですぐに思い浮かぶものはない。
今は脳がストライキを起こしているため、考え事がものすごく億劫なのだ。
そもそもの話、何を言ってもバッサリと切り捨てられる予感しかしなかった。
士道が彼女について知っていることはあまりにも少ない。
だから、今口に出した提案も苦し紛れにすぎない。
しかしそれに対して紗和は目を丸くすると、何ともおかしそうに破顔した。
口を開けて笑う様は、紛れもなくあの夜に見せたのと同じものだった。
「もしかしてそれ、デートに誘ってます?」
「まあ、そうなる……のか?」
今にも命を奪われそうな状況だし、士道の姿もボロボロすぎて無残なものだが、これは確かにデートの誘いに該当する。
語尾に疑問符が付いているのは、指摘されてからそれにようやく気付いたからだ。
意図せずともデートの誘いが口に出たのは、〈ラタトスク〉による地獄のような訓練の成果か。
それにしても、ちょっと前により直接的に誘った際は「こちらが保有する霊力を奪ってから」と暗に断られたような気がするのだが、今回の反応は色好く思える。
これは一体どういった心境の変化か……もしや猫を引き合いに出したのが正解だったのか。
猫の餌と猫じゃらしを持ち歩いているあたり、彼女も猫好きであることはまず確かだ。
思えば野良猫には、路地裏で狂三に絡まれた際にも二度程も助けてもらっている。
そろそろ家に、何か御神体でも飾っておいた方が良いかもしれない。
士道がキジトラの猫に感謝の念を送っていると、不意に腹の上から重みがなくなる。
一頻り笑ってから立ち上がった紗和は自分の周囲の空間を歪ませ、その輪郭をぼやけさせた。
霊装を纏う時とは逆のプロセス……程なく中から、黒いセーラー服の少女が姿を現した。
栗色の髪を三つ編みに結わえた素朴な印象の少女――初めて会った時の、赤の他人としての姿。
彼女は微笑んだまま、士道に手を差し伸べた。
「お兄さんは傲慢で図々しくて、おまけに大が付くほど愚かですね」
「……そりゃどーも」
恐る恐るその手を握ると、助け起こされる。
地面に転がしてきたのも彼女なので、これは自分でつけた火を消したようなものだろうか。
士道が若干頬を引き攣らせているのにはそんな経緯も関係しているが、一番の理由は柔和な笑顔のままに毒を吐かれたからである。
いつもなら大人の対応で流すのだが、今は心身ともに少々余裕がないのだ。
「でも、今の誘い文句は素敵です。少しだけキュンと来ました。あ、これってもう死語かな?」
どうやら精霊でも死語かどうかを気にするらしい。
少なくとも〈フラクシナス〉内では聞くことがある表現ではある。
しかしあそこは色々と特殊な環境なので、基準にしていいかどうかは正直怪しい。
「とりあえず、今日の所はもう終わりにしておきますね。あまりお兄さんを虐めて、またあの炎の精霊に絡まれるのも嫌ですし」
ため息をつく様は正にうんざりといった様子だが、琴里に対して嬉々として煽りに行っていたように見えたのは気のせいだろうか。
まぁ、あれだけ痛い目を見たならこの反応も当然なのかもしれない。
しかし以前から炎の精霊を知っているかのような素振りだが、琴里との面識はなかったようだ。
士道が炎の精霊について知っていることは多くない。
というかそんな精霊がいたことさえ、知ったのはつい最近の事である。
それが自分の姪っ子だったなどと思いもするわけもなく、今は保留しているだけであり、また後で山積した疑問に悩まされるのは間違いない。
頭痛も相変わらずなので、考えるのは後回しにした方が良いだろう。
「さっきの約束、受け入れる代わりに私とも約束してください」
「ここでお命頂戴っていうの以外なら」
「じゃあ大丈夫そうですね。ちょっと屈んでもらえます?」
耳打ちでもしたいのだろうか、言われた通り屈むと、紗和は士道の耳に口を寄せてきた。
自分たち以外の者がいないこの場所でそんなことをする意味は分からないが、経験上そういった指摘はデリカシー法に抵触する恐れがある。
耳にかかる吐息は何ともむず痒いが、ここは黙って言葉を待つべきだろう。
しかしもたらされたのは、あまりにも予想外の感触だった。
「――っ!?」
「ひっとひへいへくらはい」
生暖かく柔らかい感触と、鋭い痛み。
驚愕と動揺の最中、遅ればせながら首筋に噛みつかれていることに気が付く。
さながら吸血鬼のように血でも吸い上げているのだろうか。
じっとしていろと言ったのかもしれないが、そもそも力が抜けて動けそうにない。
この虚脱感と倦怠感は、〈時喰みの城〉で『時間』を吸い上げられている時の感覚と似ている。
数えてないので正確なところは不明だが、恐らく数十秒は経っただろう。
紗和は最後に、自分で付けた噛み痕を舐め上げてからようやく顔を離した。
その感触に士道は腰を抜かしてその場に座り込むと、恐る恐る尋ねる。
「い、今のは?」
「ちょっとだけ『時間』を頂きました。〈
「……お粗末様でした」
やはり『時間』を吸い上げていたらしい。
この口ぶりからすると、彼女も狂三同様に自分の寿命を削って能力を行使するようだ。
二人の共通点は非常に気になるが、もしかしてこの精霊は『時間』を補充するために毎回こんなことをしているのだろうか。
「本当は手で触れるだけで十分なんですけど」
「え……じゃあ俺、何で噛まれたの?」
「気分ですね」
「そっか、気分かぁ」
女性が気分とか言い出したら、最早追及は無意味である。
これまでの経験から、士道はそんな悟りの境地に達していた。
勿論、十把一絡げにするものではないが、余計な追及が命の危機に及ぶこともあるのだ。
最悪の精霊の顔を思い浮かべながら、乾いた笑いを浮かべる。
「それじゃあ約束してください。私があなたの命を貰うまで、どうか他の誰かに殺されたりしないでくださいね?」
また狂三と似たようなことを言うものだから、士道は思わず苦笑した。
もし二人の霊力の封印に成功したら、仲良く学校に通う様を見られるのかもしれない。
自分の命が狙われているのだと理解しつつも、そんな未来を思い浮かべる。
「特に、狂三さんにだけは、絶対に」
しかし紗和は柔和な笑顔のまま、底冷えのする声音で念を押してきた。
そこには共に在ることは決してありえないのだと、否定するような響きがあった。
「そんなことになったら私、悲しくて悔しくて妬ましくて腹立たしくて憎たらしくて……正直自分でもどうなっちゃうのかわかりません」
「あ、ああ……」
苦笑のまま表情を強張らせ、士道は呆然と頷いた。
気圧されたのもそうだが、二人の間にある確執が相当に根深いものだと、今更実感したのだ。
それが具体的にどういったものなのかは想像もつかないが、精霊同士がいがみ合う事情ならば、まず尋常のものではないだろう。
競い合いながらもどこか互いを思いやっていたあの双子とは、根本的に異なる関係性だ。
こちらの了解を得たと見て、紗和は目を細めて薄く笑みを浮かべる。
その左の瞳は薄い青に染まっていた。
霊装を纏った時と同じく、その内では時計の針が無機質に時を刻み、星を示す。
そして彼女はいつの間にか握っていた短銃を、士道の足元に向けた。
「――〈
放たれた銃弾は地面に撃ち込まれ、そこを中心に透明な水の膜が広がる。
座り込んだままその内部に取り込まれた士道は、自分の体の変化に驚きを露わにした。
体中の傷が、まるで早送りするかのように塞がっていく。
内外の痛みも消えていき、十数秒の内に士道の体は完全回復を果たしていた。
「じゃあ、また近い内に」
そう言い残すと、紗和は虚像の扉を通って消えていった。
それを見送ってから自分の首筋に手を当てて、噛まれた部分をなぞる。
体の傷は癒えたというのに、そこには歯形がしっかり残っていた。
何というか、これは彼女の「絶対に逃がさない」という意思表示に思えてならない。
軽くなった体とは裏腹に気分は重い。
女子二人から言い寄られていると言えば聞こえはいいが、その目的も正体も物騒にすぎる。
自分の命が狙われていると突きつけられた上で、心穏やかでいられる者はそういないだろう。
士道は空を見上げると、盛大にため息を吐いた。
そこには先行きへの不安と、何とか命を拾った安堵が入り混じっていたのは言うまでもない。
「……とりあえず、琴里を迎えに行くか」
狂三に紗和と、当面の危機は去ったので、まずはそれを伝えに行くべきだろう。
狂三とのデートから始まって、今日は実に密度が濃い一日だった。
せめて夕食ぐらいは平和に囲みたいものだ。
「……そこを退いて」
「貴様の言う事を聞き入れる道理はない」
ワイヤリングスーツを纏った鳶一折紙は、目の前に立ちはだかる少女へと鋭い視線を向けた。
いつもは人形のようと評される無表情なのだが、今この時は感情が浮かんでいる。
それを最も端的に言い表すのならば、怒りだろう。
今、折紙は身を焦がすほどの憤怒と憎悪に駆られていた。
しかしその対象は目の前にいる少女ではない。
夜刀神十香――夜色の髪に紫水晶の瞳に、人間離れした美しさ。
身に纏うのは来禅高校の制服だが、その端々を不思議な光の膜が覆っている。
彼女は比喩でもなんでもなく人間ではない。
精霊と呼ばれる特殊災害指定生命体……それこそが彼女の正体なのだ。
そして恋人同士の逢瀬を妨害するお邪魔虫でもある。
普段から何かと折り合いが悪く、これまで共に行動していたのは、恋人である穂村士道の頼みを聞き入れたからにすぎない。
救助活動を終えた今ではわざわざ一緒にいる必要はない。
これまでは霊波反応が確認出来なかったため見逃していたが、こうして限定的とはいえ霊装を顕現させたのなら、むしろ刃を向ける対象ですらある。
陸自の対精霊部隊、通称・ASTに所属する魔術師である折紙は、精霊の討滅を目的とする。
しかし今は彼女のことよりも、何よりも優先すべき対象がいる。
この辺りはまだマシだが、公園の内部は灼熱が荒れ狂う地獄と化している。
五年前の、あの大火災と同じように。
この身を炙るような熱気に折紙は、両親の命を奪った炎の精霊の現界を確信した。
ならば復讐を果たす以外の選択肢はない。
そのために今日まで、ずっと牙を研いできたのだから。
折紙は更に視線を鋭くして、レイザーブレイドの刃を現出させた。
「もう一度言う……そこを退いて」
「あそこに向かうと言うのならば、死ぬぞ」
空へと炎の柱が立ち上り、熱波が地表を炙っていく。
それを見上げながら、十香は端的に事実を突き付けた。
あの地獄に身を置いて命を拾えるのは、それこそ精霊ぐらいのものだろう。
他に可能性があるとしたら、それは余程の規格外の魔術師か。
例えば十香の【
あの場に一人で残して来たことは気がかりだが、託されたいんかむとやらからその生存と、救援が向かったことは知らされている。
十香自身が駆けつけたいところではあったが、今この場には放置できない者がいる。
鳶一折紙――士道を度々連れ去ろうとする、実にいけ好かない女だ。
しかしここで危惧しているのは、折紙が士道の元へ向かうことではない。
そうすることでその命が失われる事態を、十香は懸念しているのだ。
別段折紙自身がどうなろうと知ったことではないが、彼女が死ねばきっと士道は悲嘆する。
そんな絶望に大切な人が身を浸すのを、十香は良しとしない。
(大切な人……そう、シドーは私にとってかけがえのない者だ)
何もかもが壊れた世界で、訳も分からないままに剣を振るっていた自分に、色彩を与えた人間。
他の誰かがその身を守りに行ったというのなら、自分はその心をこそ守ろう。
決意と共に、十香は踵を地面に打ち付けた。
「――〈
地面を裂いて出現したのは、身の丈を優に越す巨大な玉座である。
その背もたれから幅広の剣を引き抜くと、それを杖のように地面について不動の構えを取る。
「もう一度言うぞ。あそこに向かえば貴様は死ぬ。それでも行くというのか」
「あなたには関係ない」
「しかし、全く以て気に食わないが、貴様が死ねばシドーが悲しむ。それでもか?」
「…………」
問いに対して、折紙は無言で刃を構えた。
復讐こそが今日まで生きてきた理由なのだ。
それを阻もうとするのならば、是非もない。
応じるように、十香も〈
言って聞かないというのならば、最早力で分からせる他ない。
「そうか――――ならば手足の一本は覚悟しておけ……!」
「まったく……一体全体どうなっていやがるんですかね?」
崇宮真那はポニーテイルを靡かせて、天宮市の上空を翔けながらボヤくように漏らした。
その身に纏う白銀の鎧は、CR‐ユニットと呼ばれる、精霊と戦うための武装である。
さっきまで激戦を繰り広げていたはずだが、その顔に疲労の色はない。
世界で五本の指に入る魔術師と称されるその実力は、伊達ではないのだ。
しかし、その代わりというべきか、どうにも今日は困惑が隠せそうにない。
最悪、もしくは〈ナイトメア〉と呼ばれる精霊を追って、幾度もその命を絶ってきた真那だが、今日は少々予想外にすぎた。
まさか百に及ぶ数の同じ顔をした精霊に襲われるなど、考えもしなかったのだ。
その様はそれこそ
とはいえそれらを叩き伏せている内に、おおよそのカラクリは読めてくる。
あれこそが〈ナイトメア〉の不死身の秘密だったのだろう。
つまり、これまで真那が相手取ってきたのはデコイに過ぎず、どこかに潜んだ本物に対して刃は掠りもしていなかったのだ。
思うところは多々あるが、それに拘ってばかりもいられない。
そうこうしている内に別の霊波反応が観測され、更に空間震が発生してまた別の霊波反応が観測されたのだ。
先程の〈ナイトメア〉集団もそうだが、今日は精霊のバーゲンセールだとでもいうのか。
こうも人類にとって嬉しくないセールは勘弁願いたいところだ。
ともかくそちらに本物の足取りがあると踏んだ真那は、何故か動きの鈍った最悪の精霊の集団を叩き伏せ、その事後処理をASTの隊長に押し付けた上で急行しているのである。
何やら怒号が聞こえた気がしたが、多分気のせいだろう。
目指すのは市内の公園――先程立ち上った炎の柱が、その目印となる。
近づくにつれて上昇する気温は、明らかにその影響だろう。
「なるほど、〈イフリート〉というやつですか」
それは五年前に一度だけ、この天宮市で現界が観測された炎の精霊である。
ここ二、三年の記憶しかない真那にとっては、知る由もない相手だ。
ただ、その際に起こった大火災については、記録の上だが把握している。
こちらの目の黒いうちは、同じことを繰り返させるわけには行かない。
この街で平和に暮らす兄の顔を思い浮かべる。
穂村士道……元AST隊員である彼は、記憶処理を施された今では一般市民である。
その暮らしを脅かさせるわけにはいかない――CR‐ユニットに指令を送り、より一層スピードを上げる。
しかし――――
「――真那!?」
「兄、様……どうしてこんな所に!?」
目的地、炎熱の渦中にいたのは、他ならぬ生き別れの兄である士道だった。
そして対峙する、赤い髪に和服のような霊装を纏う少女にも見覚えがある。
見間違えでなければ彼女は五河琴里……士道の今の家族である、姪っ子だ。
その彼女が、一体何故精霊としてこの場にいるのか。
琴里は、禍々しい紅い光をその両目に宿して、炎と共に吠え立てる。
「そのキスマーク……一体どこで付けてきたぁぁああああっ!!」
「…………はい?」
この状況自体も予想外だが、発言の内容もまた予想外だったため、真那は目を点にした。
そして士道を見る。
「……兄様?」
「…………」
その視線に士道は思いっきり顔をそらし、何故か首筋を手で隠すように押さえる。
これでは何かやましい事があるのだと白状しているようなものだ。
思えば、昨夜訪ねた時も二人の女性を侍らせていたりと、この兄は女性関係に関しては素行があまり信用できない。
真那の半眼視に、士道は誤魔化すように大声を上げた。
「と、とりあえず、琴里を宥めるの手伝ってくれないか!?」
「……事情は後で聞かせてもらいやがりますからね?」
「…………はい」
兄の家庭問題というのならば、妹として黙っているわけには行かない。
追及は後回しと告げる真那に対して、士道は観念するように頷くのだった。
今回のタイトルは「約束の印」と書いて「キスマーク」と読みます。
散々姪っ子を煽っていた紗和さんですが、最後に特大の爆弾を残していきました。
それじゃあ、また今度。