士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
更新が遅れたのは年の瀬という時期のせいと、そんなタイミングで終章をおっぱじめるゲームのせいです。
「――鳶一折紙さんの入院されている病室は、西棟の三〇五号室になります」
「ありがとうございます」
自衛隊天宮病院のロビーで受付を済ませた士道は、少し先にあるエレベーターへと向かう。
この病院が建つ駐屯地は、いわば古巣である。
五年程度では、この建物の構造も変わっているようなことはなかった。
そして変わっていないのは、ここで働く人員に関してものようだ。
今、ロビーで士道に対応した事務員の女性は、思いっきり顔見知りだった。
しかし、チラリと顔を見られた気はするが、特に何かを言われたりはしなかった。
若干気まずい士道にとって、そのビジネスライクな対応はありがたい。
この病院に入る前に絡まれたことを思い出し、顔を引きつらせる。
あの年上の後輩の形相は、それ程までに恐ろしかったのだ。
先程はどうにか切り抜けられたが、正直後が怖い。
しかし現状ではどうすることもできないので、考えないようにしておくしかない。
半強制で握られた連絡先も、彼女ならば悪用することもないだろう。
若干背中に視線を感じつつ、現在地である中央棟と西棟との連絡通路へと向かう。
折紙の病室は三〇五号室、つまり三階である。
西棟に移動してからは、階段かエレベーターで上階へ登る必要がある。
少しばかり気後れする部分はあるものの、勝手知ったる何とやらである。
特に迷うようなこともなく、士道は西棟のエレベーターまで辿りついた。
ボタンを押し込むと、目的階の更に上階を示していたランプの点灯が切り替わる。
途中で誰かが乗り込んだのか点灯が三階でしばらく止まるが、やがてエレベーターは一階に到着した。
降りる人の邪魔にならないようにというマナーは、電車と一緒だ。
士道は扉の脇に寄って道を空けた。
「――先生?」
聞き覚えのある声に見覚えのある顔。
病衣を纏い、頭には包帯が巻かれているものの、人形のような無表情は相変わらずだった。
もっとも、それは感情が顔に表れないだけで、士道は彼女に物凄くアグレッシブな面があることを知っている。
それは精霊への敵愾心だったり、こちらへの妙な、ともすれば身の危険を感じる程の執着だったり……まぁ、詳細は割愛しておこう。
その少女――鳶一折紙は、士道の担当クラスの生徒であり、今日ここに来た目的でもある。
こんなところで鉢合わせたのは予想外だったが、大事はなさそうで胸を撫で下ろす。
「よかった、もう動けるようになったのか」
「先生も無事で――――」
折紙も士道を見て安心したかのように小さく息を吐くが、途中で言葉を切って何かを失念していたかのように、ハッとした顔を作った。
そして病衣の胸元を開いて中を確認すると、無言でボタンを押して扉を閉めてしまった。
「えぇ……何だったんだ、今の?」
そのまま上階へ行ってしまったエレベーターを見送って、士道は困惑の声を上げた。
ランプの点灯は三階で止まっている。
何か忘れ物を取りに病室へと戻ったのだろうか……考えたところで答えは見つかりそうにない。
精霊をデレさせるために日々訓練を重ねている士道だが、どうも未だに女性の心理というものは複雑怪奇だという印象が拭えないのだ。
そうこうしている内にエレベーターは更に上階へと行ってしまった。
また一階まで降りてくるのを待っていては、少し時間がかかるだろうか。
士道は頭を掻くと、近くの階段へと向かった。
二階分程度ならばむしろこちらの方が早い。
「三〇五号室は――っと、ここか」
三階へ上がり、病室に振られた番号を辿って廊下を少し歩くと、目的の病室はすぐだった。
ネームプレートには『鳶一折紙』とあり、ノックをすると「どうぞ」と静かな声。
お花摘み等で不在の可能性も考えたが、ちゃんと病室に戻っていたようだ。
「入るぞ――――」
断りを入れて病室のドアをスライドさせた士道は、即座に再びスライドさせてドアを閉じた。
そして深呼吸をして再びドアに手をかけ……ようとした瞬間、ドアがひとりでに開く。
もっともそれは士道側から見た話であり、これは自動ドアというわけではない。
なので、理屈としては単純に中にいる誰かが開けたということになる。
開いたドアから顔を覗かせたその誰かは、無表情のまま疑問を示すように首を傾げていた。
「何故閉めるの?」
「何でも何も、その格好は色々とマズいだろ……!?」
着替え中だったのか、今の折紙は少々直視し難い格好をしていた。
具体的に言うと、病衣の前がはだけてその下の白い肌や下着が見えてしまっているのだ。
勿論、生徒のそんなあられもない姿を見続けるわけにはいかない。
士道は今も絶賛視線を逸している最中なのだ。
「き、着替えを邪魔して悪かったな。しばらく待ってるから終わったら声かけて――――」
そう言ってやんわりとドアを閉めようとすると、折紙が足を挟めてそれを阻止した。
まるで家に強引に踏み入ってくる者のやり口だが、これでは内と外が逆である。
流石に無理に閉めるわけには行かず、ドアから手を離した士道の胸に折紙が飛び込んでくる。
しっかりと背中に手を回され、胸元に押し付けられた顔からはすんすんという呼吸音。
士道には何が起こっているのかさっぱりわからず、頭の中は困惑で占められつつあった。
密着した体の感触や、鼻をくすぐる女の子の匂いなどは全力で意識から除外する。
「……あの、折紙さん?」
「ごめんなさい、ふらついて立っていられなかった」
「そ、そうか、なら仕方ないな」
「そう、これは不可抗力」
そう言って折紙は士道の体を弄り始めた。
自分の体を這い回る手の感触に、堪らず体が跳ねてしまう。
更に自分のシャツのボタンに手がかけられたタイミングで、流石に士道もストップをかけた。
「ちょっと待て! 一体何をしようとしてるの!?」
「ごめんなさい、意識が朦朧としてつい」
「そ、そうか……なら仕方ないな。ゆっくり休んでた方がいいぞ、うん」
「それなら、ベッドまで運んでほしい」
「ああ、肩貸すからちょっと――――って、折紙さん?」
「なに?」
「……これは?」
「抱っこ」
折紙は士道の体に両手のみならず両足を回して、全身でしがみつく形になっていた。
これではまるで、昔流行ったという抱っこちゃん人形である。
しかしこちらはビニール製ではなく生身の人間。
重量はともかく、密着度がさらに増したことで、押し付けられた柔らかい感触もより強くなる。
折紙はどちらかと言うとスレンダーな体つきだが、こうもインファイトで攻められては、破壊力が凄まじいどころの騒ぎではない。
最早病衣の前がはだけているとか、それ以前の問題である。
顔と顔の距離はごく近く、吐息がかかる……どころか、士道が顔を下げれば互いの唇が触れてしまいそうだ。
見上げてくる顔は無表情ながら頬をほんのりと色づかせ、何かを期待しているようにも見えた。
見入ってしまう前に、その瞳から目を逸らす。
「こ、これはちょっと……マズくないか?」
「これが望ましい」
「いや、でも……」
「望ましい」
「…………」
頑として離れる気はなさそうだった。
というか結構強い力で抱きついているのだが、ふらつくとか意識が朦朧としているというのは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
色々と言及したいことはあるが、ひとまず士道は言われた通りにした。
言っても聞きそうにないというのもあるが、ここは病室の入口である。
もしこの状況を第三者に見られたら、社会的に死にかねないのだ。
病室に入ってベッドまで赴き、何故かベッドに引き込むかのような動きを見せる折紙をやんわりと引き剥がす。
不満げな視線が送られてくるが、生徒と同衾していては淫行教師の謗りは免れない。
椅子を引き寄せて座り、ベッドに座った折紙と向かい合う。
当然だが、病衣の前はきっちりと閉めてもらった。
家族ならともかく、年頃の女子の下着がチラチラ見える状態で平然としていられるほど、士道は経験豊富ではない。
「あらためて、大事はなさそうでよかったよ。昨日は無理に手伝ってもらったしな」
「先生も無事でよかった」
「これ、大したものじゃないけど。小腹が空いたら食べてくれ」
士道は持参したビニール袋を折紙に渡した。
中身は駐屯地内に入る前に購入した、カロリーメイトの詰め合わせである。
最初は無難にお菓子や果物でも持っていくつもりだったのだが、ASTのように急な出動が多い立場を考えると、こういったものも無駄にはならないだろう。
勿論、味の好みもあるだろうから、揃えられる範囲で種類は確保している。
しかし、折紙は無言で袋の中身を見つめたまま動かない。
その様子に、士道はとある点を失念していたことに思い至った。
(まさか、ゼリータイプかリキッドタイプが好みだったのか……?)
カロリーメイトと言えば、細長く四角いビスケット状のブロックタイプが代表的だが、パウチに入ったゼリータイプや飲料缶に入ったドリンクタイプも存在する。
食べているという実感は置いておくと、手軽さという点ではむしろそれらの方が上だろう。
ブロックタイプは水分なしには少々食べ辛く、そういった面から倦厭されることもあるのだ。
とはいえ、今更渡したものを引っ込めるわけには行かない。
最早裁定は受け取った彼女に委ねるしかない。
少なからずの緊張から目を彷徨わせていると、ふとベッド脇の棚の上に置かれた、カゴに入ったリンゴが目に入る。
自分が来る前に、別の誰かがお見舞いに来ていたのか――病院に入る前に遭遇した、年上の後輩の顔が思い浮かんだ。
先程は恐喝じみた態度を見せたものの、あれは多分ストレスが溜まっていただけだろう。
真面目ながらも思いやりがある彼女のことなので、隊長として部下の見舞いをしていたのであろうことは、容易に窺い知れる。
昔面倒を見ていた後輩が、誰かの面倒を見ていることには少なからず感じ入るものがあった。
リンゴを見つめながら何となく頬を緩ませていると、強烈な視線を感じる。
いつの間にか顔を上げていた折紙が、ジッとこちらを見つめていた。
相変わらず無表情で、その胸の内は判然としない。
しかし、そこに並々ならぬ感情が込められていることだけはよく分かった。
もし視線が物理的な干渉力を得たとしたら、今頃士道の顔には穴が空いているか、燃えているに違いない。
ぶり返した緊張に、乾いた笑いが漏れる。
「は、ははは……わ、悪い、気に入らなかった、かな……?」
「ずっとずっと大事にする。厳重に保管していつまでも」
「いや、食べ物だからちゃんと消費してね……」
とりあえず気に入らなかったわけではないようだ。
とはいえ永久保管はやりすぎである。
大事にすると言ってくれるのは嬉しいが、食べ物は食してこそだ。
そこを指摘すると、折紙は士道の顔と袋の中身とを見比べて……
「わかった。先生だと思って大事に食べる」
「お、おう……?」
「大事に食べる」
「……うんまぁ、喉詰まらせないようにな」
何やら引っかかる部分はあるが、腐らせずにちゃんと食べてくれるのならそれでいいはずだ。
だというのに、士道の頭の中では警鐘が鳴り響くのだった。
それが何に対してかというと、やはり折紙が向けてくる視線か……いや、と頭を振る。
何だか捕食者のような目をしているような気がするが、きっと気がするだけだろう。
舌なめずりをしているのも、多分唇が乾いたとかそんな理由に違いない。
普通と言い難い部分はあるにせよ、彼女は心根が優しい少女なのだ。
こちらが危機感を覚えるようなことをしてくるはずがない……はずだ。
冷や汗を流しながら自分に言い聞かせつつ、士道は今日ここへ来た目的のもう一つを果たすべく口を開いた。
「それで何というか、十香とその……喧嘩したんだって?」
「……っ」
その話題に触れた途端、折紙の顔色が変わったように思える。
夜刀神十香……折紙と同じく、士道が副担任を担当する来禅高校二年四組の生徒である。
二人は少々、という表現では抑えられない程に相性が悪く、その取っ組み合いを阻止するのが半ば士道の日常になっていた。
そしてその仲の悪さには勿論理由があり、それはそもそもの関係性に由来する。
ASTと精霊……十香が力を封印されるまで、二人は冗談抜きで刃を交えていた仲なのだ。
士道が口にした『喧嘩』という表現も、かなりオブラートに包んだものである。
折紙が今入院している直接的な原因は、昨日における十香との『戦闘』による負傷であり、今日の見舞いはそのお詫びやフォローも兼ねているのだ。
お詫びというのなら本来は本人がするべきなのだが、十香は検査で今日は出歩けないし、精霊であるという事情を踏まえると、あまりASTに関係する施設に近づけるべきではない。
士道はその代打、というよりも保護者のような立場でやってきた次第だ。
十香は〈ラタトスク〉によって保護されている精霊であり、末端とはいえその構成員である士道にも、その役割はあって当然だろう。
無論、そんな事情がなくとも十香はとっくに身内であり、そのために行動することに疑問を挟む余地はない。
椅子から立ち上がると、士道は折紙に対して深々と頭を下げた。
「すまなかった。本当は俺が謝るのは筋じゃないし、それで済む話でもない……でも、十香が悪意で剣を向けたわけじゃないことだけは、わかってほしい」
自分に剣を振るってきた相手に理解を示せというのが、土台無理な話である。
これが元で、二人の関係が悪化することは十分に考えられるだろう。
それでも教師として、笑顔や涙を預かった者として、この世界に留まる精霊の隣人として、そして士道には彼女たちに手を差し伸べた責任がある。
二人が手を取り合う……とまではいかずとも、憎み合うような事態は避けなければならない。
(責任……というよりも、俺のワガママだな、これ)
そしてそんな様を見たくないというのが、士道の何よりの願いだった。
そう、結局のところ、いつもと同じように自分の
黒と白の精霊二人に散々傲慢と言われていたのは、全く以てその通りとしか言い様がない。
「夜刀神十香は精霊。私の討滅すべき対象」
「それでも、同じ教室で授業を受けることはできる」
「…………」
士道の言葉に、折紙は黙り込んだ。
それは黙考や葛藤というより、何かを抑え込んでいるかのようにも見える。
ASTという立場からしたら、答えなど考えるまでもない。
ここでばっさりと切り捨てないのは、こちらに対する彼女の優しさか、或いは好意からか。
そしてたっぷりの沈黙を挟んだ上で、折紙は口を開いた。
「……………………夜刀神十香は私の敵、それは変わらない。でも、彼女はあなたの心を案じて私に剣を向けた。……もし私が同じ立場なら、同じ行動を取らないとは言い切れない」
「――そうか」
あたかも血を吐くような、苦々しげな吐露だったが、これは折紙が初めて見せた十香への歩み寄りだ。
ほんの僅かな、一歩にも満たない半歩なのかもしれないが、そこに士道は可能性を感じた。
二人が並んで立っている未来を想像して、フッと頬を緩める。
とはいえ、十香が折紙を傷つけたのは事実だ。
お詫びというか、何らかの補填はあってしかるべきだろう。
拳を握りしめて俯く折紙の肩に、優しく手を置く。
「まぁ、あれだ。埋め合わせなら何でも言ってくれ。俺に出来ることなら――――」
次の瞬間、くるんと視界が回転する。
気づくと士道は、ベッドに背中から落ちていた。
ベッドの性能のおかげか、衝撃はごく柔らかい。
こちらの手を取ったままベッドの脇に立つ折紙の姿に、やや遅れて合気道の要領で投げられたのだと気付く。
何が起こったのかはともかく、理由に関してはさっぱりとわからない。
困惑しながらも即座に身を起こそうとするが、それよりも折紙の動きが早かった。
まるで雷のような俊敏さである。
馬乗りされたこの状況に何だか既視感を覚えて、士道は背中に変な汗を滲ませた。
病室は空調管理が行き届いているので、この汗は暑さのせいではない。
自分の体に跨ったまま見下ろしてくる顔に、相変わらず表情と呼べるものは浮かんでいないが、少しだけ頬が上気しているように見える。
そのやや尋常ではない様子に、恐る恐る声をかけようとして――――
「お、折紙? これは――――むぐっ」
思考に空白が生まれる。
その中でまず感じたのは柔らかさ、次いで何やらいい匂いだった。
続けて自分の生徒の顔がいやに近い……どころか互いの距離がゼロになっていることに気づく。
やや遅れて頭がようやく働き始め、士道は今自分がどんな状態であるかに思い至った。
キス、接吻――互いの唇を合わせる行為。
自分が精霊たちとしてきたそれを、生徒である折紙と行っていたのだ。
空白に代わり、疑問やら困惑やら、それと顔を熱くさせる何らかの感情が頭を埋め尽くす。
しかしそれらを外に出すことはできなかった。
更なる衝撃が士道を襲う。
「――――!?!?」
自分の口内を蹂躙する未知の感触に、目を白黒とさせる。
固まったままの士道を思うさま貪ると、折紙はようやく口を離した。
互いの舌先を繋ぐ唾液の糸が伸びて切れる。
士道は口を開けたまま、それを呆然と見送った。
こんなキスは誰とも、
そして体の内から湧き上がる微かな興奮に身を任せ――――
「って、ちょっと待て! 何がどうなってるのこれ!?」
――――るわけにはいかないので、シャツのボタンを外そうとする折紙の手を掴んで止めた。
士道は立派な大人であり、教師である。
したがって未成年で生徒の折紙とこういった行為に及ぶのは、色々と問題があるのだ。
興奮を片隅に追いやって、「ヤベーやっちまった」という思いが頭を埋め尽くしていく。
今までもやや際どい接触はあったが、こうも直接的なものは初めてである。
生徒とキスをしたとなれば、淫行教師の蔑称も有名無実とはいかない。
同じく生徒である十香や時崎狂三の件からは、目を逸らしておく。
彼女たちの場合は色々と特殊なので、同じカテゴリーで扱うのは少々難しい。
どちらも精霊であるし、キスをするというのは、そうせざるをえない不可抗力的な側面もある。
士道にはどういうわけだか、デレさせた精霊の力をキスをすることで封印するという、なんともコメントに困る特殊能力があるのだ。
そうすることで空間震問題を解決し、精霊たちを保護して平和に暮らしてもらうというのが、士道が裏の立場で所属する〈ラタトスク〉の掲げる目標である。
もっとも、『最悪』と称される精霊である狂三とのキスは、相手の悪ふざけの末の事故であり、好感度が足りなかったためか封印は未遂に終わっている。
その直後に実に酷い目にあったことを思い出し、冷や汗が伝う。
そして今の状況も趣は違えど、ピンチであることには変わらない。
ブンブンと首を横に振りながら、切に訴えかけるような視線を送ると、分かってくれたのか折紙は手を離してくれた。
人間は通じ合える生き物なのだと、感動につい涙ぐんでしまう。
しかし、それが間違いだったと気づくまでそうはかからなかった。
士道のシャツから手を離した折紙は、自分の病衣を留める紐を解くと前を肌蹴るどころか、キャストオフしにかかったのだ。
彼女の纏う病衣は丈の長いガウンタイプのものである。
当然、そんなことをしたら全身が露わになってしまう。
先程はチラッと見えただけだったが、今回はばっちりと目に映ってしまった。
白い肌の上に、何だかスケスケで布面積がやたらと少ない下着。
明らかに高校生が身につけるには過激すぎる代物だが、つい昨日、士道はそんな下着を自分の生徒(最悪の精霊)に贈ったばかりである。
まぁ、それは例外としてさて置き、そんな危険物をこの状況で、自分の上に跨った少女が身につけているのは明確な問題だ。
印象として、鳶一折紙という少女は、機能性を重視する傾向があるように思える。
下着に関しても、動きやすさを優先しそうなものだが……それとも、少々偏った言い方にはなるが、女子ならば身につけるものにはやはり気を使うのだろうか。
その答えについてはともかく、普段口数の少ない少女がこんな下着を着用しているというのは、中々にギャップが激しくてガツンと来るものがある。
言うまでもなく目の毒であり、このままでは体の一部分が意に反して反応を示しかねない。
士道は大人で教師ではあるのだが、それなりに男でもあるのだ。
今度は病衣を脱ぎ捨てようとするその手を掴んで止める。
「待て待て待て! 一体何をしようとしてるんですかねぇ!?」
「……? 先に脱げと目で訴えていたから」
「とんだディスコミュニケーションだよっ!」
分かり合えない現実に悲嘆の声が漏れた。
そんな士道の様子に、折紙は首を傾げるのだった。
さも不思議そうにするものだから、一瞬間違っているのは自分の方なのかと錯覚しそうになるが、いやいやと首を振って気を取り直す。
「あ、あのさ……流石にこれは、シャレにならないというか」
「大丈夫。次に看護師が様子を見に来るまでは、まだ時間がある」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ!」
どうにも論点がずれていた。
この状況を第三者に見られるのは勿論マズいのだが、そもそもこの状況自体が既にヤバい。
今も抜け出そうともがいているのだが、マウントを取られては一筋縄ではいかない。
士道の抵抗は、ベッドをギシギシと軋ませる結果に終わっている。
それがまた違う
顔や特定の部位に熱が蓄積していくような感覚がして、正直気が気でなかった。
余裕とは無縁のこちらとは対照的に、折紙は涼しい顔で(いつもと同じ無表情ではあるのだが)細かく重心をずらしてマウントを保ちつつ、口を開いた。
「〈ナイトメア〉――時崎狂三は、あなたを狙っている」
「――! 知ってたのか……」
「本人から聞いた」
折紙が狂三と面識があったことは初耳だが、わずかな時間ながらもクラスメイトとして過ごしていたので、おかしい話ではない。
精霊を知る者から『最悪』や〈ナイトメア〉と恐れられる時崎狂三が、転校生として来禅高校にやってきた目的は、士道が己の体に溜め込んだ霊力である。
それを奪うために、彼女はこちらの命を狙っているのだ。
ただ、彼女が自分の目的について大っぴらに話すとは、どうにも考えづらい。
そもそもとして、士道が人間でありながら霊力を宿していることは、どう考えても公になってはいけない類の情報だろう。
一般人には霊力――延いては精霊の存在が秘匿されているのは前提として、もしASTを初めとした各国の対精霊部隊にその事実を知られるようなことがあれば、下手をしたら精霊と認定されかねない。
標的が周囲から注目されるようなことがあれば、それを狙う側の行動も制限されそうなものだ。
それに勝るメリットやさらなる思惑があるのかもしれないが、残念ながら想像はつかなかった。
とはいえ、詳細を省いた上で端的に「穂村士道の命を狙っている」と告げた可能性もある。
それならば折紙が心配してくるのも無理はない。
そこまで考えて、士道は「ん?」と今の状況の異常性を思い出した。
「……それとこの体勢と、何か関係あるのか?」
「大いにある。先生の貞操は私が守る」
「だからどーしてそういう話になるのかなぁ!?」
「時崎狂三は、あなたを性的に狙っていると言った」
「何言ってくれちゃってんのアイツ!?」
全く予想外の方向からの爆撃に、悲鳴じみた叫びを上げざるを得なかった。
あの少々ツンデレっぽい精霊が、本当にそんなことを言ったのだろうか。
次に顔を合わせた時に尋ねてみるべきだろうか……笑顔のまま銃を向けられる光景が、ありありと目に浮かぶ。
あの精霊は余裕たっぷりと見せかけて案外短気なので、余計な発言は命が危ない。
まぁ、顔を合わせた時点で命の危機だというのは、正にその通りなのだが。
こちらの動揺を誘ったり、からかうような素振りも見せていたので、きっとその類だろう。
どうも考えても分かりそうにないので、そう思っておくことにした。
問題は、その発言を真に受けてしまった折紙をどう宥めるかである。
というか貞操を守るという行動が、どうしたらこのマウントポジションに落ち着くのだろうか。
これでは守るというより、奪う側の行動である。
「いや、その……ほら、俺の貞操なんてそんな、守るようなものでもないからさ」
「まさか既に奪われて……?」
ここに来て折紙は、動揺したかのようにぴくりと眉を動かした。
ぽつりと漏らした言葉からは、何やら勘違いしてそうな様子が読み取れた。
事故で唇を重ねはしたものの、間違っても狂三との間にそのような接触はない。
せいぜい共に学校をサボってデートに繰り出した先で色気のある下着を選んでやり、それを身に着けた姿を褒めてやり、さらにそれを購入して贈ったぐらいだ。
……何だか十二分にアウトな気がしてきて、士道は手で目元を覆って懊悩した。
作戦行動の一環だというのはわかっているのだが、社会に身を置く以上、一般常識というのはどうしても思考から切り離せないのである。
動揺に懊悩と、しばし動きを止めた二人だったが、先に動きを再開したのは折紙だった。
「それならばこの措置は必要不可欠。上書きする」
「――っ!?」
ぴたりと、士道の腹部から胸部にかけて柔らかく暖かい感触が広がる。
折紙が体を倒し、余すとこなく密着させてきたのだ。
先程と違い、その体を覆っていた病衣はない。
士道が手を離してしまったため、折紙は下着一枚という全裸の手前の姿になっていた。
頭や体の所々に巻かれた包帯は不釣り合いだが、ここに来てそれを気にしている余裕はない。
こちらは辛うじて衣服をまとっているが、夏仕様のそれは生地も相応に薄い。
生肌が擦り付けられるにつれて、士道は自分の中の何かがゴリゴリと削れていくのを自覚した。
それはきっと理性だとか忍耐だとか、そういったものだろう。
手放さないよう、歯を食いしばってそれをしっかりと握り締める。
「お、おりっ、折紙さんっ!? 狂三とは別に何もなかったから! 本当だからっ!」
必死になって叫ぶ様は、まるで浮気男が潔白を訴えているようにも見える。
間違っても士道の認識では折紙とは恋人関係ではないし、狂三と淫行したという事実もない。
そもそも教師と生徒がそんな関係になっていては、結構な大問題である。
必死の訴えに、折紙は静かに頷いた。
しかし頷いただけで、動きを止めてくれるようなことはなかった。
「ちょっ、待って! ここはやめてくれる場面じゃないの!?」
「……?」
「いや、そこで不思議そうに首を傾げられても……」
「ダメ?」
「ダメでしょ……何というか、倫理的にさ」
「でも先生は先程、埋め合わせに何でもと言った」
「一応、俺に出来ることならって注釈は付けたからな?」
「何でもと言った」
「いや、だからそれは……」
「何でもと言った」
「…………」
まるで駄々っ子のような言い分だった。
微かに頬を膨らませているように見えるのは、こちらの気のせいだろうか。
(もしかして、甘えられてるのか……?)
気のせいだとしても、そう考えた瞬間、士道のガードは緩んでしまった。
元々の面倒見のいい性格が災いした、とも言えるだろう。
そして、相手はそんな隙を見逃してくれるほど甘くはなかった。
折紙はどこからか取り出したペットボトルの中身を口に含むと、再び士道の唇を塞いだ。
舌と舌が絡み合い、何か得体の知れない液体が流し込まれる。
刺激的な味と臭いが広がるが、口を塞がれていては飲み下すしかない。
喉を灼くような痛みに耐えた後も折紙は離れない。
唾液が混ざり合い、口の端から零れてベッドのシーツに小さなシミを作る。
しばしの間濡れた音が病室内に響き、解放される頃には最早、抵抗の意思は掻き消えそうになるまで弱まっていた。
酸素が足りないのか、視界が霞み、
こちらを見下ろす顔に、相変わらず表情と呼べるものは浮かんでいない。
しかしその瞳は陶然と揺れる。
互いに息が切れているのは酸欠か、それとも興奮のせいか。
全意識をつぎ込んで、自分の上に跨った体をどかせるために、ロクに力が入らない手を動かす。
そんな泣けなしの理性を打ち砕くように、折紙はさらなる行動に打って出た。
「――っ、それは本当に冗談じゃ――――ぅあっ」
「でも、先生のココはそうは言ってない」
そのほっそりとした指が触れたのは、士道の聞かん棒である。
この状況で、親の意に反して熱く硬くなってしまった愚息でもある。
服越しとはいえ与えられた刺激は、言葉を奪うのに十分すぎた。
熱に浮かされた思考は空転し、興奮に昂る体は理性という枷から逃れようとしている。
最早士道は、この期に及んで何故抵抗しているのか分からなくなりつつあった。
自分はこんなにも流されやすかったのだろうか。
生徒に劣情を抱いているという事実も相まって自己嫌悪が湧いてくるが、体の熱さが容易くそれを押し流していく。
自分が踏みとどまる理由を必死に探す。
教師だとか倫理だとか、そんな常識はとっくに流されてしまった。
それでも、何かもっと別の、大きな理由があったはずなのだ。
心の内に問いかけてみても、そこには空白が蟠るだけだった。
ついには抵抗の意思も潰え、士道は押しとどめるように折紙の肩に置いていた手を、ベッドの上に投げ出した。
その際に右手に当たった硬い感触に、焦点も定まらないまま目を向ける。
淡いオレンジ色のコードでベッド脇の壁に繋がれたそれは、握りやすいよう円筒のような形をしている。
その先にあるボタンを、残された全精力を費やして押し込んだ。
『鳶一折紙さん? どうされましたか?』
オレンジのコードの大本、ベッド脇の壁に備え付けられた端末から声が発せられる。
士道が押したボタンは、ナースコールである。
この声は恐らく、ナースセンターにいる看護師のものだ。
折紙の注意が逸れた隙にベッドから転がり出て、病室の入口へ向かう。
ここには直に看護師が駆けつけてくるだろう。
無用の騒ぎを起こしてしまったのは申し訳ないが、これ以外に脱出の手が見当たらなかった。
「そ、それじゃあ、お大事にな! 埋め合わせはまた今度、別の形ってことで!」
病室のドアに手をかけた士道は、さながら命からがらといった様子である。
命の危機ではないにせよ、違った意味で明確なピンチがあったことには違いない。
しかし体の熱さは相変わらずで、長く深い息を吐き出すが、その程度では鎮まりそうにない。
「――――待って」
背中にかけられた声に、振り返らずとも立ち止まる。
あんなことがあった手前、今この場で面と向かうのは少々気力がいる。
精神力を消耗している現状では難しい。
「それなら一つだけ聞きたいことがある。昨日、あの公園には炎の精霊が現界していたはず」
「…………」
その声は静かながら、隠しきれない熱を孕んでいた。
その熱がどこから来るのかを、士道は知っている。
黙ったまま……というより、黙るしかなかった。
その言葉の続きを待つ。
「何かを見たのならどんな些細な情報でも構わない。私に教えて欲しい……お願いします」
「悪い、気を失っててよく覚えてないんだ」
「……そう」
折紙の目的――両親の命を奪った炎の精霊への復讐。
それが何を意味するかに、今更ながらに気がつく。
いや、正確に言うと気づかないように目を背けていたというのが正しい。
五年前に大火災を起こし、折紙の両親を奪った炎の精霊。
そして今、炎の精霊とは、士道の姪である五河琴里を指している。
つまり、折紙の復讐の対象は……
「――っ」
廊下に出た士道は、利用者の少ない階段まで足を向けると、吐き出せない感情を放つように壁に拳を叩きつける。
それは体に蟠る熱を忘れる程の激情だった。
その向く先にあるのは理不尽な現実か、それとも何もできない自分自身か。
答えを見つけることができないまま、病院を後にした。
どうやら傲慢で図々しいヒーローを名乗るには、まだまだ未熟のようだ。
天宮市内のとある公園、その周囲を覆うように張られているのは、立ち入り禁止を示すロープやテープである。
公園自体の面積がそれなりに広大であると考えると、立ち入り禁止の範囲はさらに広いだろう。
ここからでは確認できないが、内部は広範囲が焦土になっているはずだ。
慌ただしく響く人の声や重機の駆動音は、修復のために奔走する陸自の復興部隊のものだ。
彼らは空間震や精霊の残した爪痕を修復するために駆り出される、顕現装置の使用を前提とした部隊である。
顕現装置は精霊と同じく一般市民からは秘匿されるものであり、それでこのように人目につかないよう封鎖がなされるのだ。
最近の天宮市は空間震が頻発していることもあり、さぞ多忙なことだろう。
昨日、ここで起きたことを思い出して、士道は小さく息を吐いた。
精霊・時崎狂三とのデート、〈デイドリーム〉と呼ばれる精霊の乱入、そして炎の精霊の現界。
イベントが多すぎて、士道は未だに全てを受け止めきれてはいない。
炎の精霊の件は特にだ。
「琴里…………」
雲と太陽以外何も見えないはずの空を見上げ、大事な家族の名を呟く。
五河琴里……炎の精霊である彼女は今、自我を蝕む精霊の力を抑えるために、天宮市の上空で待機する空中艦〈フラクシナス〉の内部で眠り続けている。
五年前の大火災について、おぼろげな記憶は
琴里が精霊だった事実について、何故という疑問を置いておけば、今更言うことはない。
どんな存在であっても、今まで過ごしてきた時間に嘘はないからだ。
しかし、折紙の両親は炎の精霊によって殺されたという。
それが事実ならば、琴里は非常に重い十字架を背負っていることになる。
今までそんな素振りは見せなかったが、本人の心の中に影を落としているとも考えられる。
そんな姪っ子に対して、自分は何をしてやれるだろうか。
当然だが、折紙の復讐を遂げさせるわけには行かない。
しかし、それは彼女のこれまでを否定しかねない行いだ。
教師として、人生の先達として、それ以外の道を示してやることはできるのだろうか。
士道には折紙のように、激しい憎悪に身を焦がした経験はない。
そんな人間の言葉が、果たしてどこまで響くのだろうか。
「――考えても答えは出ない、か……そんなことばかりだな」
漏らした言葉は独り言に過ぎず、応える者もいない。
そういえば昨日の今頃は狂三とのデートで、この辺りを一緒に歩いていたはずだ。
何かにつけて銃を突きつけられる一日だったが、あれはあれで気が紛れていたのだろうか。
今日は羽を伸ばすために外に出ていたのを思い出して、士道はその道程を遡るように天宮クインテットへと向かう。
市内最大のショッピングモールであるそこは、今日は週の只中であるのにも関わらず、それなりの盛況っぷりを見せていた。
普段ならば学校に通っているであろう年齢層の客の姿が見られるのは、やはり昨日の空間震の影響だろうか。
士道が勤める来禅高校も本日は普通に休みだが、明日はそれで休校となっている。
そう、今日は休日で、時間は多分にある。
ここなら日用品、消耗品、食材等、必要としているものは全部揃うだろう。
このまま買い物を済ませてしまおうか――――そう考えて士道はいや、と首を振った。
これでは普段やっていることと変わらない。
他に何か用事はなかったかと頭を捻って、とあることに思い至った。
「そういえば、もう発売してるんだったか」
士道の主な趣味といえば料理だが、それ以外の娯楽にも嗜む程度だが幾つか手を出している。
その内の一つが漫画であり、単行本を揃えている作品の新刊が既に発売されているはずだ。
ここ五年の刊行ペースは年二回あれば良い方だという遅筆っぷりだが、まぁ連載が続いているだけマシだろう。
中には生存報告がありながらも、何年も続きを描かない漫画家もいるのだ。
「ん……何かあったのか?」
モール内の本屋まで足を向けた士道は、店内がいやに静まり返っていることに気づいた。
感じ取ったのは緊張感というか、とにかく異様な雰囲気である。
客の姿は見当たらないし、店員の態度もどこかおかしい。
なにかビクビクしているような、そんな様子だ。
奇妙だとは思うが、店自体が閉まっているわけではない。
さっさと用事を済ませるために、漫画コーナーへと向かう。
しかしそここそが、この異様な雰囲気の根源だとは思いもしなかった。
新刊を置いてあるスペースまでやってきた士道を出迎えたのは、鋭い眼光である。
刺すように睨みつけるそれは、明らかにこちらを対象としている。
視線の主は、赤毛が目を引く外国人の女性だった。
年はこちらと同じくらいだろうか、その釣り目がちの双眸は、どことなく狐を思い起こさせる。
当然だが初対面であり、そんな相手にメンチを切られる覚えはないし、謂われもない。
なので若干の気後れはあるものの、士道は目的の新刊を手にするために構わず踏み入った。
近づきがたいオーラは重々承知しているが、全方位からメンチが飛んできた高校時代からするとまだマシだろう。
構わず近づく士道に顔を顰めると、女性は身を預けていた壁から背中を離した。
面倒事の気配を感じとった士道は回れ右をしたくなったが、ここまで来て新刊を手にせずに戻るのは、それはそれで癪である。
なので、なるべく目を合わせないように、足早に新刊コーナーへ向かう。
「ちょっと、アナタ――――」
声をかけられているような気がするが、ここは聞こえないふりで乗り切ることにする。
難聴作戦の再来である。
ちなみにこの作戦は先日、最悪の精霊によって破られているが、まさか彼女のようにいきなり銃をぶっ放してくるようなことはないだろう。
そうして横合いからかけられる声を突っ切って、士道は目的の単行本を手にした。
しかし――――
「――っ」
まるでそこに、人型の
その男を目の当たりにした士道は、そんな感想を抱いた。
漆黒のスーツに身を包んだ、三十代半ばであろう背の高い男である。
くすんだアッシュブロンドの髪に、ナイフで入れた切り込みのように鋭い双眸。
それが自分を捉えた瞬間、体に
無論、
汗を噴出させながら、かろうじての呼吸を思い出す。
「おや、君は……」
「それ以上その方に近づくのハ――――」
「ジェシカ」
男が手を上げて制止するような動きを見せると、ジェシカと呼ばれた女性は引き下がった。
直前までは食って掛かってきそうな勢いだったのだが、これだけ大人しく従ったとなると、二人の間には明確な上下関係があるのだろう。
だがそんなことよりも、士道は目の前の男から注意をそらすことができない。
それは興味からか恐怖からか驚愕からか、ともすればその全てか。
ともかく、まるでブラックホールのような引力で、その男は士道の目を引きつけた。
「失礼だが、どこかで会ったかな?」
「あ……いや、初対面、だと思う」
「キサマ、口の利き方ニ――――」
「ジェシカ」
「も、申し訳ありませン……!」
唖然とした士道は、社会人としての体裁を忘れた素の口調で答えていた。
その態度、もしくはタメ口が気に入らなかったのだろう、再び女性がいきり立つが、やはり男の一声で大人しくなる。
この場面で気にすることではないのかもしれないが、二人とも日本語が上手い。
女性の方はまだ
士道も英語は話せるが、日本語と英語でどちらが難解かといえば、母国語という事情を差し引いても日本語に軍配が上がる。
例えばだが、敬語表現に関してだと日本語は実にややこしい。
英語にも敬語の概念がないわけではないが、日本語ほど厳密ではないのだ。
そこまでを完璧に理解しているかはさておき、「口の利き方に」などという言葉が出てくるのだから、男の方の立場は相応に高いのだろう。
名家の出かどこぞの顔役か、ひょっとすると政治家の類か。
いずれにしても、その見かけの年齢に見合わない老練な雰囲気は、踏んできた場数の多さを感じさせた。
そして士道の私見から言わせてもらうのなら、漫画という娯楽にそぐわない人物に思える。
古本屋などで専門書でも漁っているのならまだ納得できるのだが、ショッピングモールの本屋で漫画を物色しているとなると、どうにも違和感が拭えない。
もしかして日本語を話せはするが、読みの方はあまり得意ではないのかもしれない。
英語で使用されるアルファベットに比べて、日本語はひらがな、カタカナ、漢字と文字の種類がとにかく多い。
このまま放置して自分の目的を果たしてもいいのだが、こうも相手から認識されて受け答えもしてしまったとなれば、それも少々難しい。
それに、この本屋を人の立ち入れない異空間にしておくのも気が引けた。
どこまで関与するのかはともかく、声がけぐらいはしておくべきだろう。
妙な緊張は相変わらずだが、舌がもつれて喋れないということはない。
さっきから睨みつけてくる女性が噛み付いてこないことを祈りつつ、士道は口を開いた。
「あー、不躾に見てたことは謝るよ。ところで、何か探してるのか?」
「いい加減にしロ! この方にキサマのような――――」
「ジェシカ、これで三度目だ。私は何度同じことを伝えなければならないのだろうね?」
「――――っ、ど、どうかお許しヲ……っ!」
「ま、まぁまぁ……とにかく、困ったことがあるなら力になるよ」
控えめに割って入ると、案の定というか女性からは険しい視線を向けられてしまう。
しかし次の容赦はないと考えているのか、食って掛かってくることはなかった。
少し気の毒に思えるが、毎度絡まれては話が進まない。
というか日常生活で「お許しを」なんて言葉を聞くのは初めて……ではないにせよ、レアケースではある。
上下関係があるのは察していたが、そこまで苛烈なものなのだろうか。
ちなみに、日常で聞かない言葉が飛び交うのは〈フラクシナス〉ではよくあることだが、あそこは環境が特殊すぎて参考にはならないのだ。
「すまない、正直助かるよ。恥ずかしい話だが、日本の『漫画』というものに興味はあるものの、どうも違いというものがわからなくてね。そろそろ誰かに訊ねようと思っていたところなんだ」
「な、なるほど……」
分からないことがあれば誰かに聞く。
その姿勢は結構ではあるが、この男は自分たちが店内に人を寄せ付けない異空間を作り出していることに気づいているのだろうか。
他の客がいない以上その対象は店員になるのだろうが、店内の雰囲気を見るにまともに対応できるかは怪しい。
男自身の放つ異様な気配も然ることながら、そこにこの赤毛の女性の威嚇が加われば、余程の胆力の持ち主ではないと受け答えは難しいだろう。
士道も平然というわけではないが、これは慣れによる部分が大きい。
高校時代、AST時代、そして現在の〈ラタトスク〉での活動と、あくまで一般市民というのには変わりないが、経験値はそれなりにあるのだ。
「良ければ、君の面白いと思う作品を何か一作、見繕ってくれるとありがたいのだが」
「ああ、そういうことなら」
自分の面白いと思う作品……手に持った単行本に目を落とすと、士道は漫画コーナーの棚の一画、『本条蒼二』という作者名に割かれたスペースから単行本をごっそりと抜き出し、その上に自分が元々手にしていた新刊を重ねた。
作品名は『SILVER BULLET』――この作者の代表作であることは間違いない。
二十冊を越える巻数は初心者には少々重いかもしれないが、冬頃には完結するとの見通しなので今から追うなら丁度いいだろう。
士道から積み重なった単行本を受け取った男は、その重量に切れ長の双眸を僅かに丸くした。
「ふむ、これは……中々に読み応えがありそうだ。すまないね、君――――ああ、まだ名前も聞いていなかったね」
別に名乗る程の親切でもないのだが、あえて隠すようなことでもない。
これが指名手配中とかならともかく、士道は表沙汰になっている上では清廉潔白なのだ。
そこに精霊攻略などの裏の事情が入ってくると、主に複数の
別にここは戦場でもネット上でもないし、難しく考える必要はないだろう。
「穂村士道――まぁ、善良な一般市民ってやつだよ。あんたは?」
「ホムラシドウ……成程。ああ、私の事はレイ、とでも呼んでくれたまえ。まぁ、どこにでもいるようなありふれた人間だよ」
名乗り合ってから気づいたことだが、『善良な一般市民』や『ありふれた人間』という自称は、殊更に強調すると怪しいことこの上ない。
目の前の男がとりあえずカタギではないことを察しながら、士道は冷や汗を流すのだった。
傍らの女性が青筋を立てて睨みつけてくるのは、怖すぎるので見なかったことにした。
「改めて礼を言わせてもらおう、ホムラシドウ」
「だからそんな大したことじゃないって」
本屋で会計を済ませ、店員から涙を流して感謝された後、店を出た先で士道は再び異様な雰囲気を放つ男、レイに声をかけられていた。
例によってジェシカと呼ばれた女性がこちらを物凄い目で見てくるが、やはりタメ口が気に入らないのだろうか。
今からでも敬語にシフトするべきか……それはそれで不自然だろう。
無礼や失礼は避けるべきだが、相手の素性や立場を知らずに接している以上、どんなに偉かろうが一対一の人間同士でしかない。
レイの口調もフランクなものなので、こちらが妙にかしこまる必要はないだろう。
「ところで、礼というわけではないが、ランチを一緒にどうかね? 良ければご馳走させてほしい」
「あー、申し出はありがたいけど、遠慮させてもらうよ。まだ用事があるんだ」
「そうか。残念だが、それはまたの機会にしておこう」
この二人と食事など、一体胃にどれだけの負担がかかることやら。
丁重に断って、士道は二人と別れた。
次に偶然出会う可能性を考えれば、彼の言うまたの機会が訪れるかは正直怪しいところだ。
頭を自分の買い物に切り替えて、あらためてショッピングモールを歩く。
ここならば、普段利用しているスーパーで手に入らないものも置いてあるだろうか。
昼食の調達も含めて、久しぶりに買い物を楽しむのもいいだろう。
諸々の懸案事項はあるものの、ようやく心が休日を実感し始めたようだ。
しかし、それも長くは続かない。
休日……いや、束の間の平穏の終わりを告げたのは、天宮市の遥か上空を埋め尽くす赤い光だった。
続けて遠雷のような爆発音が響き――――
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――
けたたましいサイレンの音は、空間震警報――即ち、精霊の現界を示すものだ。
途端に、モール内を歩いていた客が一斉に、足並みを揃えて避難していく。
パニックを起こす者が少ないのは、空間震の頻発地帯であるこの天宮市ならではだろう。
しかし士道は、人の波に従うことなくその場に立ち尽くした。
それらが示す事実に、極めて嫌な予感を覚えたのだ。
後押しするようにどこからか地鳴りが響き、ポケットの中の携帯が震えだす。
空中艦〈フラクシナス〉が墜落したという報せが届いたのは、その直後のことだった。
というわけで次回に続きます。
Q:先生のガードが固くて行為に持ち込めない。
どうしたらいい?
A:お酒で酔わせて判断能力を奪うか、興奮を催す薬剤を使用しましょう。
それでどうにもならないなら最後は実力行使で。