士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話   作:kish

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仕事が始まると思うように時間が取れなくなる問題。


攻略開始

 

 

 

『恋してマイ・リトル・シドー』

 

 それは〈ラタトスク〉が制作した、恋愛シミュレーションゲームである。

 秘密組織が一体何をしているのかとツッコミたかったが、これこそが訓練の教材なのだという。

 正直拍子抜けしたし、こんなものが訓練になるのかと疑いもした。

 しかし、腐っても秘密組織の総監修であり、現実に起こりうるシチュエーションをリアルに再現してある、という謳い文句だ。

 その言葉が令音のものだったからかどうかはともかく、士道は挑戦してみることにした。

 一度訓練に乗り気な姿勢を見せた手前、それを引っ込めるのも格好がつかないというのもある。

 いかにリアルを追求しようと、たかがゲームという侮りもあっただろう。

 家族と意中の相手の前でギャルゲーをやる、という状況には若干の気後れがあったものの、士道は存外気楽な心持ちでゲームをスタートした。

 結果、襲ってきたのは数々の理不尽である。

 

「だからっ、どーしてっ、そうなるんだよ……ッ!!」

 

 士道はコントローラーを机の上に投げ捨てた。

 暗転して真っ暗になった画面に、悲しい音楽とともにスタッフロールが流れる。

 誤った選択肢を選んだことによるバッドエンドである。

 訓練を始めて数日、もう何度目になるかわからない。

 なにせこのゲーム、現実に起こりうるシチュエーションと言っておきながら、ツッコミどころのある展開ばかりなのである。

 士道の知っている現実では、妹がパンツ丸見え状態で兄を踏みつけながら起こしてきたり、曲がり角でぶつかった同級生がM字開脚でパンツ丸見えになったりはしないのだ。

 そのくせ主人公の行動に対する反応は妙にリアルなのが、より一層理不尽さを際立たせていた。

 まあ、それは正気を疑うような選択肢がしばしば現れるせいでもあるのだが。

 もし市販されていれば、間違いなくクソゲーの類であることは疑いようもない。

 今のように問答無用でバッドエンドに叩き込まれることも珍しくもなく、その度に士道には非常に重いペナルティが課された。

 即ち、黒歴史の暴露……あまりの仕打ちに、悲鳴を上げざるを得なかった。

 

「ちょっと何度目よ。もう士道の黒歴史も高校生編に突入よ?」

 

 士道の左隣に座った琴里が、マイクを弄びながら楽しそうに口を開いた。

 その笑顔は彼女の母である遥子を思わせるものであり、血のつながりを強く感じさせた。

 もっとも受け継いだのは容姿だけでなく、士道の黒歴史もバッチリ伝わっているようだ。

 こんなロクでもない一子相伝は勘弁して欲しい。

 ともかく、あのマイクを通じて琴里から指令が下れば、それが開帳されてしまう。

 自作のポエムや漫画のキャラクター、必殺技の練習風景など……ここにたどり着くまでに、一体幾つの犠牲を払ったことか。

 高校時代のものはまた趣が違うものであるが、他人に知られたくないのは同じである。

 葬り去っておきたいからこその黒歴史なのだ。

 それがリビングデッドのごとく蘇って襲ってくる現状は、悪夢以外の何者でもなかった。

 

「……仕方がない、ここは私も一肌脱ごう」

 

 士道の右隣に座った令音が、おもむろに自分の服に手をかけた。

 ここで言う『一肌脱ぐ』とは慣用句的な意味ではなく、そのまんまの意味である。

 彼女の名誉のために補足しておくと、脱ぎたがりの露出狂というわけではない。

 士道が負ったペナルティを見かねて、自らにもペナルティを課したのだ。

 その気遣いは大変嬉しいのだが、方向性がややずれているような気がしてならない。

 どうせなら減刑する方向に働きかけて欲しかったのだが、それは贅沢な望みだろうか。

 ともあれ、横で脱がれては集中力に多大な悪影響が出る。

 拝み倒す勢いで、士道は令音の脱衣を阻止した。

 プライベートで二人きりの状況ならこの限りではないのだが、今は訓練中で姪っ子もいるのだ。

 

「くそっ……これで、どうだぁー!!」

 

 気合を込めて、ボタンを押し込んだ。

 選択肢を選ぶだけでそのような気迫は無用なのだが、疲労の蓄積で少々ハイになっているのだ。

 なにせ仕事を終えた後、プライベートや睡眠時間を削っての訓練である。

 ここ最近は、栄養ドリンクが士道の相棒だった。

 満面の笑みを浮かべたヒロインのCGが表示され、エンディングムービーが流れ始める。

 士道は立ち上がってガッツポーズをとるとその直後、へなへなと椅子に座り込んだ。

 ドーピング切れである。

 

「これで達成率五〇%ね。あと半分頑張ってね、しーくん♪」

「……ハハハハ」

 

 まだまだ半分と見るべきか、ようやく半分と見るべきか。

 士道の口から、乾いた笑い声が漏れた。

 完全攻略を達成するのはこれより更に数日後、訓練開始十日目のことである。

 

 

 

 

 

「……なあ、本当にやるのか?」

『当たり前でしょ。何度言わせれば理解するのかしら、この鳥頭』

 

 イヤホン型のインカム越しに伝わってくる罵倒に、士道は何度目かわからないため息をついた。

 現在は既に放課後、そろそろ部活が始まるような時刻である。

 授業の合間を縫って、物理準備室でようやく訓練の第一段階を終えた士道は、とある目標へと向けて廊下を歩いていた。

 その目標とは岡峰珠恵……みんなに慕われる、タマちゃん先生だ。

 気が重くて仕方がなかった。

 これがなんの事情も挟まない、業務の上での用事なら思い悩む必要もないのだが、そこには当然躊躇うだけの理由がある。

 訓練の第一段階、ギャルゲーをクリアした士道は、すぐさま第二段階へと移行した。

 画面内の女子の相手の次は、生身の女性……つまりは実践訓練である。

 早い話が、先輩教員である珠恵を口説いて来いという指示を受けたのだ。

 もちろん断固として拒否したのだが、目標を生徒に変えると言われたらどうしようもない。

 校内で生徒を口説きにかかるのは、控えめに見ても問題しかないからだ。

 同じ教員なら問題ないのかという論点はあるのだが、少なくとも年齢的に法律に触れるような問題は起こらないだろう。

 もちろんそのようなつもりはさらさらないが、酔っていたとしても人生初のナンパでワンナイトラブをカマしてしまったという前科がある。

 万が一……いや、億が一という可能性も警戒すべきなのだ。

 何度か階段を昇降して廊下を行くと、目的の背中が見えてきた。

 周囲に人の姿もなく、残念なことに好都合だった。

 士道にとっては、逃げる理由の一つがなくなったということになる。

 

『では、シン。準備はいいかね?』

「……ええ、まあ」

 

 今の士道にはこのマイク機能も付いたインカムの他に、超小型カメラも随行している。

 そのカメラを通して、物理準備室でこの光景をモニターしているのである。

 つまり、これから他の女性を口説く姿を令音に見られてしまうということだ。

 大変複雑な気分だったが、これは訓練なのだと割り切ることにした。

 

「岡峰先生、お疲れ様です」

「穂村先生こそお疲れ様です。もうお仕事は終わりですかぁ?」

「いえ、ちょっと課題を消化している最中で」

「困ったことがあったら、なぁんでも言ってくださいね」

 

 それじゃあ、とお互いに頭を下げて別れる。

 そのまま廊下の角を曲がろうとしたところで、インカムから雷が落ちた。

 

『このハゲ、生ハゲ! 普通に別れちゃってどうするのよ。ちゃんと口説きなさい!』

「イエス、マム!」

 

 また黒歴史が衆目にさらされては堪ったものではない。

 急いで引き返すと、士道は再び珠恵を呼び止めた。

 

「お、岡峰先生!」

「? もしや早速お困りごとですかぁ?」

「まぁ、困っているといえば、その通りなんですけど」

 

 歯切れが悪い士道に、珠恵は首を傾げた。

 ロクな経験もないのにいきなり口説けとは、大層な無茶ぶりである。

 あのゲームは理不尽なりに、選択肢が用意されていたからこそどうにかできたのだ。

 自ら攻め入るための会話の引き出しがないのは、もうどうしようもない。

 悩みに悩んだ末、士道はとりあえず本心をぶつけてみることにした。

 

「……俺、実は岡峰先生にずっと感謝してたんです」

「そぉなんですか? これといって特別なことをした覚えはありませんけど……」

「なんていうか、いつも傍にいてくれて安心してると言いますか」

「はぁ、同じクラスの担当ですからねぇ」

 

 あまり響いた様子はなかった。

 いわば行き当たりばったりで喋っているだけなので、当然といえば当然か。

 

『少しは整理してから話しなさいよこのウスバカゲロウ』

 

 インカムからもお叱りの罵倒が飛んできていた。

 果たして虫の名前が罵倒になりうるのかはともかく、受け取る側はそう感じてしまうのである。

 もうどうにでもなれと、士道は結論だけをぶちまけることにした。

 

「まだまだ至らない俺ですけど、どうかこれからも傍で支えてください……っ」

「え……? これからも、傍で……末永く……?」

 

 士道の言葉がどう伝わったのか、珠恵は小さく震えて出席簿を取り落とした。

 なにやら言った覚えのない言葉が混じっているのは、気のせいだろうか。

 

『効果あり、ね。このまま畳みかけちゃいなさいよ』

「いや、もう言う事なんて思い浮かばないぞ」

『……ふむ、ではこういうのはどうだろうか。私に続けてみてくれ』

 

 言葉に窮した士道に、助け舟は非常にありがたい。

 思考を手放して、インカム越しの心地よい声に身を任せてみた。

 

「俺……本気で岡峰先生と結婚したいと思ってるんです!」

 

 結婚……その言葉に一度だけ身じろぎしたかと思うと、珠恵は固まってしまった。

 言わされた士道の方も、同様に動きを止めた。

 今、何かとんでもない事を口にしたような気がする。

 しばしの沈黙の後、小さく、それでも確かな声が響いた。

 

「……本気、なんですか?」

「そ、れは…………まぁ」

 

 雰囲気の変化に気おされ、士道は肯定ととれる返答をしてしまった。

 次の瞬間、珠恵は士道の腕をむんずと掴んで歩き出した。

 一体どこへ向かっているのか……その答えはすぐに明らかになった。

 

「今っ! すぐっ! 婚姻届けを貰いに行きましょう! そのまま私の実家で今後のことを話し合いましょうっ!!」

「ちょちょちょっ、岡峰先生ー!?」

 

 妙なクスリでもキマッたかのように目が爛々として、鼻息も荒くなっている。

 いつものぽやぽやっとしたタマちゃん先生は、どこかへ行ってしまっていた。

 今の珠恵はさしずめ、ダークサイド・タマちゃんである。

 

『……すまない、シン。少し効きすぎたようだ』

「き、効きすぎたってこれ、どうするんですかっ!?」

『必要以上に絡まれても面倒だし、適当に謝って逃げちゃいなさいよ』

「て、適当ってお前な……!」

 

 こうしている間にも、タマちゃん先生は猛進する。

 ちょっとやそっとの制止では止まりそうもない。

 その様子はさながら、暴走機関車である。

 そしてそのレールの行き着く先は……それを考えると、何故だか冷や汗がドッと溢れてくる。

 

「ごごごご、ごめんなさいっ! やっぱりまだそこまでの覚悟はありませんでしたぁー!」

「あっ、穂村先生ッ!?」

 

 少々強引に腕を引き抜くと、士道は一目散に逃走した。

 

 

 

 

 

『いやー、なかなか個性的な先生ねえ』

「おまっ、さっきのはシャレにならないだろうが……!」

『……やはりあの呪文は、三十路手前の独身女性には強すぎたようだね』

「本当に勘弁してくださいよ……」

『この調子で次も行くわよ』

「まだやらせる気かよ!」

 

 早歩きのまま、士道はインカムに向かって抗議した。

 先ほどの珠恵に対する行動を要約するとこうなる。

 婚期に焦る女性に結婚をチラつかせ、逃げ出した。

 ……控えめに見てもクズの所業である。

 申し訳なさが限界突破しそうだった。

 これでは刺されても文句は言えない。

 もちろん尊敬すべき先輩教員である珠恵ならば、そんなことはしないだろう。

 しかしながら、何が起こるかわからないのも世の常。

 次に顔を合わせるのが恐ろしいというのが、正直な感想だった。

 果たして士道は、平穏な教師生活を送ることができるのだろうか。

 少なくとも〈ラタトスク〉の作戦行動が続く限り、それは難しいのかもしれない。

 そもそも、そういう事情を抜きにしても新学期早々の『鳶一インシデント』である。

 最近、淫行教師の不名誉は鳴りを潜めたが、これから先何が起こるかわかったものじゃない。

 額に手を当てながら、上腹部をさする……頭痛と胃痛のダブルパンチである。

 こいつらともしばらく長い付き合いになりそうだった。

 そのまま、曲がり角に差し当たった瞬間――――

 

「…………!」

「――っと……すまん、大丈夫か?」

 

 前がちゃんと見えていなかったため、歩いてきた生徒と正面衝突。

 士道はどうにか踏みとどまったが、相手は衝撃で体勢を崩してしまった。

 倒れる前に咄嗟に背中に手を回して支える。

 体を動かさなくなって随分経つが、この程度の反応はしてくれた。

 

「――先生」

「と、鳶一か……ケガとかしてないか?」

「平気」

 

 士道がぶつかった女子生徒……鳶一折紙は、眉一つ動かさず頷いた。

 相変わらず考えは読めないものの、少なくとも悪感情の類は向けられていない。

 新学期が始まって二週間弱、それぐらいは感じ取れるようになった。

 しょっちゅう視線は感じるものの、最近は初日のような暴走の気配もない。

 どう接したものかいまだに整理がつかないが、そろそろ一度腰を据えて話してみるべきか。

 

『あら、やる気じゃない。次のターゲットはその女ってわけ?』

「――っ」

 

 揶揄うような琴里の声に、士道は自分が現在どのような状況にあるのかを思い出した。

 今は訓練の第二段階の真っ最中……口説くためのターゲットを探している最中なのである。

 倒れそうな折紙を支えたこの体勢は、キスしようとしているように見えなくもない。

 もちろんそんなつもりは全くないのだが、彼女は何故か目を閉じて体を委ねたままだ。

 慌てて距離を取る。

 

『ちょうどいいわ、そのままいっちゃいなさいよ』

「いやいやいやいや、鳶一は生徒だぞっ」

『どうせだったら色んな年代のデータが欲しいのよ。ほら、先生よりも彼女の方が、この前の精霊と年齢が近いように見えるでしょ?』

 

 精霊が必ずしも見た目通りの年齢かというと、それは疑問だ。

 そもそも、年齢などという概念が存在するかどうかも怪しい。

 

『それにAST隊員だったら、一般人よりもいくらか精霊に近いと思わない?』

「いや、でもな……」

『この訓練を完了しなきゃ精霊と話すのもお預けだけど、士道はそれでいいのかしら』

「お前な……それ卑怯だぞ」

『何とでも言いなさい。司令官は私よ』

「はぁ……わかったよ」

 

 大きく息を吐きだして、士道は頷いた。

 結局のところ、こんな訓練を課されているのは自分の力量不足が原因なのだ。

 そんな奴を戦場に向かわせるのは、みすみす死にに行かせるようなものだ。

 そういう意味で、琴里の言っていることは間違っていない。

 

「しかし、正直なに話せばいいのか見当もつかん。学校の成績とか進路の事とかか?」

『もっと他にあるでしょうが。馬鹿なの? 教師なの?』

「教師だよ!」

『さっきみたいに挨拶して終わりってされても困るし――とりあえず、無難に褒めてみなさいよ』

「そのアドバイス、もっと早くに聞きたかったよ……」

 

 そうすれば、ダークサイド・タマちゃんが現れることもなかったかもしれない。

 やるせない気持ちを飲み込んで、士道は折紙に向き直った。

 

「続き、するの?」

「続き?」

 

 一体何の続きだろうか。

 彼女とはついさっきここでぶつかった以外、今日はまともな接触はなかったはずだ。

 士道が首をかしげると、折紙も同じように首をかしげた。

 不揃いな鏡合わせである。

 沈黙に焦れたのかインカムからお叱りが飛んできて、士道は姿勢を正した。

 相手を褒める……先日読まされたハウツー本の内容に、たしかそんなものがあった。

 今頃になってようやく思い出せたのは、まだまだ勉強が足りない証拠だろうか。

 ならば、この機会に実践して己の武器として身につけるべきだろう。

 その先の目的が『精霊とデートしてデレさせる』であることは、頭の中から締め出しておく。

 そうしないと、自分は何をやっているのだろうか、という虚無感が襲ってくるからだ。

 

「あー、鳶一?」

「なに?」

「その服、似合ってるな」

「制服」

 

 容姿をダイレクトに褒めるのは白々しいので、身につけたものを褒めてそのセンスを肯定する。

 そんな手法なのだが、折紙が着用しているのは学校指定の制服だ。

 空振りである。

 これでは、士道が制服フェチと取られかねない。

 実際に、インカムからはそんな罵倒が飛んできていた。

 

『……手伝おうか?』

 

 見かねた令音が、再度助け舟を出そうとしてくれていた。

 先程の件を思い出して不安がよぎるが、それについては反省しているようだった。

 教師と生徒という立場ならば話すことも見つかるとは思うが、琴里の言うとおりそっち方面から口説くのは少々ハードルが高い。

 軽く頷いて、その申し出を受け入れた。

 とはいえ珠恵の時もそうだったのだが、意中の相手の手助けで他の女性を口説きにかかるのは、やはり士道の心境として複雑極まりない。

 しかし、弱卒にあれこれと言う権利はないのである。

 これは訓練なのだ……自分にそう言い聞かせながら、士道は令音の声に身を委ねた。

 

「俺、実は鳶一のことが気になっててさ」

「そう。私も、ずっと先生のことが気になっていた」

 

 出だしに不自然な部分はなかった。

 士道が気にかけていたのはその通りだ。

 折紙にしても、無関心な相手にいきなり馬乗りにはならないだろう。

 案外、令音はこちらの心情を汲んでくれたのかもしれない。

 どう接したものかと悩んでいたが、これで取っ掛りができた。

 次からはもう少し、声をかけやすくなるだろうか。

 

「それで、授業やホームルームの最中も、ずっと君のことを見てたんだ」

「そう。私もあなたのことを見ていた」

 

 これも驚くべきことではない。

 教壇に立つ士道の視界には常に折紙がいたし、ずっと向こうからの視線も感じていた。

 気になることがあるとすればそれは、自分の発言がストーカーっぽく感じるぐらいだ。

 成人男性が未成年女子に対して、ずっと見ていました、など下手したら事案ものである。

 なんとなく雲行きの怪しさを感じつつも、インカムからの声に従う。

 

「それだけじゃなくて、放課後に鳶一の体操着の匂いを嗅いだり――」

「そう。私も、やっている」

「――!?」

 

 放課後に教え子の体操着を漁るなど、もはやただの変態の所業である。

 流石にこれはまずいと言葉を切ろうとしたが、折紙の返答は予想外にも程があった。

 自分の体操着の匂いを嗅ぐだけならまだ趣味の範疇なのだが、そうでないとするのなら……

 士道は無性に、先日自分のロッカーから消えたTシャツの行方が気になった。

 混乱をきたした頭に、さらにインカムから台詞が流れてくる。

 

「そっか、俺たち何だか気が合うみたいだな」

「合う」

「それで、もし良かったらなんだけど、俺と付き合ってくれないか――――って、いくらなんでもこれはまずいでしょうが!」

 

 どうにか正気を取り戻して、インカムの向こうに抗議を送る。

 自分の言ったことに対して突っ込むさまは、傍目から見たら不審なことこの上なかった。

 しかし、事は自分の教師生命に関わる重大事である。

 口説くだけでもギリアウトなのに、交際を迫ったとなれば情状酌量の余地はない。

 

『……ふむ、そういう流れかと思ったのだが』

「どういう流れですか!? 体操着の件の時点でおかしいですって!」

『ゴチャゴチャうるさいのよこのミイデラゴミムシ。今は目の前の相手に集中しなさい』

 

 琴里の言うことはもっともではあるが、どうにも釈然としない。

 どうも意中の相手が天然かもしれないということを、頭に留め置いておく。

 今後接していく上で、なにか役に立つかもしれない。

 そんな小賢しい思惑はともかく、今は折紙のことだ。

 思い切り不審な様を見せてしまったが、怪しまれていないだろうか。

 人間性を疑われるだけならまだいい……いや、やっぱり良くはない。

 ともかく、腐っても〈ラタトスク〉は秘密組織だ。

 その存在を怪しまれるようなことは避けなければならない。

 士道には特に〈ラタトスク〉への帰属意識も思い入れもない。

 しかし、琴里や令音に累が及ぶのを容認するわけにはいかなかった。

 

「――――」

 

 恐る恐る様子をうかがってみると、いつも通りの無表情。

 しかし士道には、少しだけ違うように思えた。

 気のせいかもしれないが、目をいつもよりほんの僅かだけ見開いているように見える。

 始業式の時程の変化ではないが、驚いているのだろうか。

 無理もない……教師から唐突に交際を申し込まれたのだ。

 普通の女子生徒だったら困惑もしようというもの。

 彼女がその普通にカテゴライズされるかは、少し怪しいところだが。

 

「あ……すまん、今のは――」

「構わない」

「…………はい?」

「むしろ望むところ」

 

 士道がその言葉の意味を噛み砕くよりも先に、折紙が動いた。

 困惑する新米教師の手をガシッと掴み、どこかへ向けて歩きだしたのだ。

 なんだか既視感を覚える展開である。

 つい先程、先輩教員の暗黒面を呼び起こしてしまったことを思い出し、士道は戦慄した。

 

「ちょちょちょっ、どこ連れてく気だ鳶一!?」

「校舎の外れの空き教室。あそこなら誰の邪魔も入らない」

「誰の邪魔も……って、何する気なんだ!?」

「大丈夫、ちょっと勉強でわからないところを教えてもらうだけ」

「そ、そうか……それならまあ――――」

「保健体育の子供の作り方で少し、不明な点がある」

「俺の担当は英語なんですけど!?」

「問題ない。優しくする、もとい優しくして」

 

 一体、校舎外れの空き教室で何が行われるというのか……

 どう考えても、真っ当な勉強がなされるとは思えなかった。

 精霊と戦うために鍛えているのだろうか、この細腕からは信じられないほど掴む力が強い。

 先程のように、簡単に腕を引き抜くことはできなさそうだった。

 

「ストップ! 鳶一、授業でわからないとこなら職員室で聞くから!」

「それは推奨しない。事はあなたの名誉に関わる」

「俺、一体何させられるの!?」

 

 勉強を教えて名誉に関わるとは、いよいよわけがわからない。

 もうさっきの発言を撤回するのが最善か。

 それで元通りになるかはわからないが、放置していたら事態は悪化する一方だ。

 というか、さっきから身の危険を感じてならない。

 士道の、非常時にはそれなりに機能する第六感が、思い切り警鐘を鳴らしていた。

 と、その時――――

 

 ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――

 

 前触れもなく、警報が響き渡った。

 それと同時に、士道を引っ張っていた力が消え去る。

 あれほど強く掴んでいた手を放して、折紙はすでに走り出していた。

 

「鳶一! ……気をつけてな」

「――じゃあ、また」

 

 士道が声をかけると一瞬だけ振り返り、再び走り去っていった。

 その背中が見えなくなるまで見送ると、士道はインカムに呼びかける。

 

「琴里……精霊だな?」

『その通りよ。一旦〈フラクシナス〉に移動するわ』

「ああ、そっちに合流する」

 

 言葉短く告げると、士道も移動を開始した。

 歩きながら、ポケットの中で短く震える携帯を取り出す。

 誰かからのメッセージ……写真が添付されていた。

 

「……きっと、復讐だけじゃないよな」

 

 添付されていた写真……制服姿の折紙を見て、士道は口元を緩めて笑った。

 ポーズも角度も完璧な自撮り写真だった。

 被写体が無表情なのは、彼女らしいと言うべきか。

 しかし、気になる点が一つ。

 

「俺、番号もアドレスも教えてないよな……?」

 

 なんだか怖くなってきたので、士道はそれ以上考えるのをやめた。

 

 

 

 

 

 艦橋中央の巨大スクリーンの中で、何らかの値が忙しなく上下する。

 門外漢である士道には、それが何を示しているのか詳しくはわからない。

 ただ、一緒に表示された地図から、精霊の出現地点だけは知ることができた。

 来禅高校……士道の職場である。

 もう避難は済んでいるだろうから、空間震の被害にあうのは校舎だけだ。

 建物の損傷具合にもよるが、恐らく明日は休校となり、そのまま土日で少なくとも三連休だ。

 顕現装置を用いた修復作業といえど、大きな建築物を一晩でどうにかするのは困難なのだ。

 

(大丈夫だ……落ち着け、俺)

 

 これから行うことを考えると、どうしても緊張してしまう。

 右手に持った大きな紙袋を、強く握りしめる。

 令音と話す琴里を横目に、士道は作業に従事するクルーの元へ向かった。

 

「お忙しいところ、申し訳ありません」

「えっと、なんでしょうか」

「先日からお世話になっている穂村士道です。これ、どうぞ。ほんの気持ちですが」

「ああ、ご丁寧にどうも」

「いえいえ、いつもうちの琴里がお世話になっているお礼です」

 

 紙袋の中身……菓子折りを軽い自己紹介と共にクルーに渡して回る。

 挨拶が遅れてしまったが、士道はこの場でも新米に当たる。

 加えて、大事な姪が世話になっているのなら、礼を欠かすことはできない。

 最後に、琴里の足元に這い蹲る変態には火バサミで渡しておく。

 今更自己紹介も必要ないだろう。

 自分の黒歴史と同様に、士道とて触れたくないものの一つや二つはあるのだ。

 空になった紙袋を折りたたんで、艦長席の後ろに控える。

 不慣れな真似をして固くなった体を緩めるように深呼吸すると、刺すような視線が飛んできた。

 

「……士道、ちょっと」

「なんだ琴里、どうかしたのか――――」

「いいから、こっち来なさい」

 

 平坦な声音だった。

 必要以上に感情が漏れるのを抑え込んでいるようにも見える。

 琴里は士道のネクタイを掴むと、そのまま艦橋から連れ出した。

 

「おいおい、なんだよいきなり」

「さっきのアレ、どういうつもり?」

「どういうもなにも、お前が世話になってるんだから当然だろ」

「私は司令官よ。むしろお世話してる立場なんだから」

「とは言っても、あの人たちがいなかったら困るだろ?」

「それは違……くないけど!」

 

 姪っ子の様子から何かを察した士道は、ニヤッと笑って頭に手を置くと容赦なく撫で回した。

 琴里はその手を取ると、すかさず容赦なく噛み付いた。

 

「痛い痛い痛い!! 何も噛み付くことないだろ!?」

「ふん、気安く人の頭を触るからよ」

「照れ隠しにしてはちょっと凶暴すぎや――――」

「何か言った?」

「……はいはい、わかったよ」

 

 ガルルルと威嚇してくる琴里に対して、士道は両手を上げて降参の意を示した。

 これ以上刺激しては、何をされるかわかったものじゃない。

 先程の挨拶回りは、琴里の保護者としての義務感から始めたものだが、確かに逆の立場だったら悶死していたかもしれない。

 高校の時分、姉が学校まで自分を引き取りに来たことを思い出す。

 紛うことなく黒歴史の一つである。

 あの時は地獄だったと、士道は乾いた笑いを浮かべた。

 

「悪かったよ。授業参観の時とか、親がはしゃいでたら恥ずかしいもんな、アレ」

「なんか例えが釈然としないわね……」

 

 表情の険が取れ切らない琴里だが、それ以上の追求はなかった。

 腑に落ちなくとも、目前に迫った作戦に対して意識を切り替えたようだ。

 

「早速だけど、これから出動してもらうわ」

「ASTは? ドンパチやってるところに放り込まれたら堪らないぞ」

 

 そもそも、戦闘に巻き込まれたら対話どころではない。

 かといって、戦闘が収まるのを待つのも良くない。

 精霊とASTとでは、絶対的な戦力差がある。

 戦闘終了が示すのは、精霊が姿を消すかASTが全滅するかなのだ。

 前者だったら目的を果たせないし、後者も士道にとって容認し難い。

 そんな意図を汲んだのか、琴里は唇の端を釣り上げて得意げに笑った。

 

「都合がいいことに、精霊は校舎内よ。ASTもすぐには手出ししてこないでしょうね」

「そりゃラッキーだ。じゃあ、邪魔が入らないうちに行ったほうがいいな」

「乗り気ね。もっと不安がると思ってたわ」

「……別に、放っておけないってだけだよ」

 

『――おまえも……そのような目で、私を見るのか……』

 

 もちろん不安がないわけではない。

 それでもあんな顔をされては、見て見ぬ振りはできない。

 理由としてはそんなものだが、それだけで十分だった。

 正直、恋をさせるとか、そういうのはどうだっていい。

 あの少女ともう一度話すために、士道は危地へと赴くのだ。

 

「大丈夫よ。士道だったら、一回ぐらい死んでもすぐコンティニューできるから」

「俺の命は残機制かよ」

「緑のキノコを用意しとくわ。戻ってきたら存分にワンナップなさい」

「それ、有毒じゃないだろうな?」

「……グッドラック!」

 

 その立てた親指は何に対してのものだろうか。

 不安を掻き立てられる士道であった。

 

 

 

 

 

「っと、ここから入れそうだな」

 

 瓦礫を乗り越えて、校舎内に入る。

 空間震による被害で崩落した部分もあるが、発生地点がグラウンドだったためか、予想していたよりも損傷規模が小さい。

 これだったら明日中には修復も終わりそうだ。

 週明けには学校も再開するだろう。

 

『随分手馴れてるじゃない。そうやって建物に侵入するのはお手の物ってわけ?』

「人聞き悪いぞ。精霊の居場所がわかるならナビしてくれ」

『そうね。とりあえず近くの階段を上がって、三階まで行ってちょうだい』

 

 まるで泥棒か何かのような言い草である。

 誓って、そのような後ろ暗い行為に手を染めたことはない。

 身の潔白を声高に主張したかったが、今は時間が惜しい。

 精霊が外に出てしまえば接触が難しくなるし、ASTの動きも気になる。

 もし建物の破壊許可が下りれば、強引に攻めてくる可能性もあるのだ。

 淀みない足取りで、士道は三階まで駆け上がった。

 

『手前から四番目の教室よ。そこに目標がいるわ』

「了解」

『士道、事前にも説明したけど、もしピンチになったら外に出ること……いいわね?』

 

 琴里が言及しているのは、緊急離脱手段についてだ。

 士道が窮地に陥った場合、上空に控えた〈フラクシナス〉の転送装置で回収する手筈だ。

 なんともSFじみた設備だが、間に遮蔽物があると使用できないという弱点がある。

 なので、天井のない屋外に出る必要があるのだ。

 考えうる危険は数えきれないほどある。

 それでも、ここで引き下がるわけにはいかない。

 士道は呼吸を落ち着けて、目的の教室の前に立った。

 

「って、二年四組かよ」

『たしか士道のクラスだったかしら? まぁ、全くのアウェーよりはマシってところね』

 

 とは言っても、教室間で造りに差があるわけではないし、心情的に楽かというとそうでもない。

 だが、好都合と言われればその通り。

 ここに通う生徒たちの顔を思い浮かべて、士道の腹が据わった。

 気を引き締めて教室のドアに手をかけ、開く。

 

「あ――――」

 

 教室内の光景に、言葉を失う。

 机の配置もいつも通りだし、特段荒らされた形跡もない。

 ただ、そこには一人の少女がいた。

 光のドレス、夜色の髪、そして紫水晶の瞳。

 士道が四月十日に出会った、名もなき精霊の少女。

 物憂げな表情で机に腰掛け、ぼうっと黒板の方へ目を向けている。

 彼女がこの場で夕日に照らされているだけで、見知った空間が非現実へと変じていた。

 

「――ぬ?」

 

 少女が、闖入者の存在に気付いた。

 用意していた言葉が完全に吹っ飛んだ士道は、どうにか声をかけようと手を上げて――

 

「……っ!」

 

 ――すぐに引っ込めた。

 士道の顔の横を、黒い光線がかすめていく。

 あのまま手を上げていたら、今頃手首から先がなくなっていただろう。

 後ろからは崩落音と、ガラスが割れる音がした。

 

『士道!』

 

 インカムの向こうで、琴里が声を上げた。

 精霊の少女の手には、黒い光の塊があった。

 自分に向けられたそれが、攻撃の類であることは理解している。

 それでも士道は少女の目を見つめたまま、そこから動かない。

 絶望に塗れ、諦念に曇った瞳。

 そんなものを向けられて、逃げるという選択肢がすっかり消えてしまった。

 

「……ふぅ」

 

 短く息を吐きだして、士道は教壇に上った。

 そして教卓につくと、精霊の少女を真っ直ぐ見据える。

 

「……なんのつもりだ。何故、戦うことも、逃げ出すこともしない」

「君の方こそ、なんですぐに攻撃しないんだ?」

「聞いているのは私だ……!」

 

 少女の手の中の光が、輝きを増す。

 下手な返答をしようものなら次の瞬間、士道は跡形もなく吹き飛ばされるだろう。

 

『士道、勝手な行動は――』

「琴里……少しだけでいいから時間をくれ。一回ぐらいだったら残機もあるんだろ?」

『……これっきりよ。無事に戻ってこなかったら、〈不沈艦〉の呼び名を広めてやるんだから』

「やめろ、それだけはマジでやめろ」

『じゃあ気合い入れなさい。無事に帰ってこなかったら承知しないんだから』

 

 自分の黒歴史を質に入れて、士道はどうにか勝手な行動の許可を得た。

 色んな意味で失敗できない背水の陣である。

 警戒を露わにする少女に、悲壮な決意をもって向かいあった。

 

 

 

 

 

「――対象の感情値は?」

「……良好とは言えないね。彼に対する疑念のパラメータが高い」

「そ、まあ当然ね」

 

 空中艦〈フラクシナス〉の艦橋スクリーンに、精霊の少女がバストアップで映し出されている。

 士道に随行させている小型カメラの映像だ。

 少女の周りには、その精神状態を示す各種パラメータが数値として表示されていた。

 その変動を読み取って、〈フラクシナス〉に搭載されたAIが、選択肢という形で精霊への対応パターンを割り出すのだ。

 ちなみに画面下部には、カメラの向こうの会話内容がテキストとして起こされている。

 率直に言うと、ギャルゲーの画面にそっくりだった。

 

「しかし、彼に任せて大丈夫なのですか?」

「精霊を前にして、少々……いえ、かなり無謀にすぎると思うのですが」

「これでは我々の存在意義がありませんよ」

 

 艦橋に座る男性三人が声を上げた。

 五度もの結婚を経験した恋愛マスター・〈早すぎた倦怠期(バッドマリッジ)〉川越。

 夜のお店のフィリピーナに絶大な人気を誇る、〈社長(シャチョサン)〉幹本。

 一〇〇人の嫁を持つ男・〈次元を越えるもの(ディメンション・ブレイカー)〉中津川。

 いずれも、女性の扱いに精通したスペシャリストである。

 

「〈フラクシナス〉のAIも選択肢を表示してますし……」

「まだこのような賭けに出る段階ではないと思います」

 

 それに応じるように、同じく艦橋に座る女性二人もまた声を上げた。

 恋のライバルに次々と不幸が訪れる、午前二時の女・〈藁人形(ネイルノッカー)〉椎崎。

 その愛の深さ故に、法律で愛しの彼の半径五〇〇メートル以内に近づけなくなった女・〈保護観察処分(ディープラヴ)〉箕輪。

 彼女たちも、恋愛の駆け引きにおいて類まれなるスキルを持つ凄腕だ。

 そんな精鋭たちに与えられた主な役目は、〈フラクシナス〉の運行ともう一つ……AIが示した対応パターンの分析である。

 早い話が、彼らの投票をもとにどのパターン……選択肢を選ぶのかを吟味するのである。

 

「……皆の言う事ももっともだと思うのだが、本当にいいのかい?」

「しかし、ああなってはテコでも動かないでしょう――――ぎぃ……っ!?」

 

 琴里に対して尋ねた令音に、司令の足置きに甘んじている神無月が答えた。

 そして出しゃばりの折檻で踵落としを背中に受け悦び……もとい苦悶の声を上げた。

 

「まあ、見てなさい。うちの叔父はあれで中々の人誑しよ」

 

 

 

 

 

「俺は穂村士道。まず、君と争う気はない」

「ならば何故ここにいる、何故私の前にやってきた」

「単刀直入に言うと、君のことを知りたい」

「何を言っている……ふざけているのか?」

「生憎、おふざけで命を懸けられるほど酔狂じゃないんでね」

 

 頬を汗が伝う。

 依然として、精霊の少女は手の中の光を向けたままだ。

 銃口を突き付けられたかのような……いや、それよりもなお恐ろしい。

 琴里の言う事を疑いたいわけではないが、一度死んでもやり直せるなど都合が良すぎる。

 むしろあれは、緊張をほぐすための方便だったのだろう。

 ともかく、自分の命をベットした上で、士道はこの場に立っているのだ。

 

「なんだっていい。好きなものとか嫌いなものとか……あの時、泣きそうな顔をしていた理由も」

「――あの時、だと」

 

 少女の目が細められた。

 そして数歩近づいて士道の顔をまじまじと見ると、何かに気付いたかのように目を見開いた。

 

「おまえ、あの時の奇妙な人間だな……?」

「ああ、そうだ。今月の十日、街中で俺たちは顔を合わせている」

「そうか……ならば早々に立ち去れ。じきに奴らがやって来る」

 

 士道に背を向けると、精霊の少女は窓の外へ目を向けた。

 その酷く物憂げな表情はきっと、夕日に照らされたからそう見えるわけじゃない。

 そんな少女へ、士道は穏やかに笑いかけた。

 

「――――ありがとう」

「本当におかしな人間だ。何故おまえが私に礼を言う」

「だって君はこの前も今も、俺を戦闘から遠ざけようとしてくれたんだろ?」

「おまえは私を助けようとした。だから私もそうした。ただそれだけのことだ」

 

 少女はプイっと顔をそむけた。

 精霊に年齢という概念があるかどうかはわからないが、その仕草は年頃の少女そのものだ。

 それこそ、ここで授業を受ける女子生徒と、どれほどの違いがあるというのか。

 苦笑すると、士道はチョークを手に取った。

 ここは教室で、自分は教師だ。

 だったら、やることは一つ。

 

「よし、じゃあそこに座ってくれ」

「む……なんだ、どういうつもりだ」

「いいからいいから」

 

 教卓の前の机の椅子を引いて、そこに座るように促す。

 精霊の少女は戸惑いながらも席に着くと、油断のない瞳で士道を見つめた。

 

「さぁ、授業を始めようか」

 

 

 

 

 

「……なんか授業を始めちゃいましたよ?」

「これ、一体どういう状況なんですかね?」

 

 小型カメラから送られてくる映像を見て、椎崎と箕輪が困惑の声を上げた。

 さもありなん……想定していたシチュエーションから、あまりに外れすぎているのだ。

 原因は概ね、士道に行動の自由を許したことにある。

 その許可を出した当の本人は、チュッパチャプスを咥えて静かにスクリーンに目を向けていた。

 

「精霊を前に大した肝の据わりようです。流石は司令の叔父」

「自分の属性やその場のギミックを利用したやり口……やり手ですね、彼」

 

 幹本と中津川が感心の声を上げた。

 特殊災害指定生命体……通称・精霊は比喩抜きに世界を滅ぼしかねない存在である。

 その脅威を知ってもなお平然と向き合えるのは、余程の傑物かただの愚か者か。

 もちろん士道には対話のために、そこはクリアして貰わないとならないのだが……

 

(それにしたって、ちょっと手慣れすぎね……)

 

 それが琴里が抱いた率直な感想である。

 確かに前々からああいうところはあるが、相手は精霊だ。

 事前の訓練があったにしても、順応が早すぎる。

 まるで、こうやって精霊に対するのが初めてではないような……

 

「まさか……ね」

 

 ある可能性に思い至るも、それを否定。

 士道は忘れているはずなのだ。

 琴里の傍らでは、神無月が呑気に授業風景を眺めていた。

 

「しかし、これではいささか作戦の主旨から外れているのでは?」

「川越、言いたいことはわかるけれど、感情値の推移は悪くないわ」

「……シンに対する疑念が興味に変わりつつある。いい傾向だ」

 

 作戦の最終的な目標は、精霊に恋をさせてその脅威を取り払うことだ。

 五度もの結婚を経験した川越からしたら、士道のやり方は迂遠に見えるのかもしれない。

 ASTの介入が遅れている今の状況は、こちら側に都合がいいことこの上ない。

 一気に勝負をかけるべきという意見はもっともだ。

 しかしながら、これは〈ラタトスク〉にとって初となる精霊攻略作戦だ。

 前例のない手探り状態なのである。

 データを取るという意味合いも含めて、慎重に事を進めるのも間違いではない。

 士道が上手く精霊の興味を引けたのなら、その流れに乗るべきだろう。

 琴里としても、強引に事を進めた結果、自分の家族が無残に散るのを見たいわけではない。

 

「それに、自分から口説いて迫るなんて、まだまだ士道じゃレベル不足よ」

「……そうでもないと思うがね」

「令音、何か言った?」

「いや、気にしないでくれ」

 

 なにか思うところがありそうな素振りを見せた令音だが、すぐに解析作業へ戻っていった。

 気にはなったが、この場においては重要でないのだろう。

 

「とりあえずこのまま様子見ね。ああ、ASTの動きには十分注意して」

 

 今は手をこまねいているが、横槍が入る可能性は十分ある。

 警戒を怠らないよう指示を出すと、琴里は手元のコンソールを指で軽く叩いた。

 

「そう拗ねないの、マリア。あなたの出番はまだまだこれからよ」

 

 するとそれに応じるように、艦橋スクリーンが一度だけ明滅した。

 

 

 

 

 

「とまぁ、世界は広くてね。色んな言語があって、語圏によって文化も様々なんだけど――」

 

 夕日に彩られた部屋の中、緑色の大きな板の上を白い線が躍る。

 精霊の少女の目の前で、『シドー』と名乗った男が何やら喋り続けていた。

 その内容が少女にはほとんど理解できない。

 彼女にとって世界とは、自分を否定するものだ。

 なので、国がいくつあろうが言語がどれだけあろうが、どうでもいいことだった。

 それでも、武器で以て攻撃してくるのではなく、言葉を以て語り掛けてくる。

 そんな人間は初めてだった。

 人間は少女を、存在するだけで世界を壊す災厄と呼んだ。

 人間は少女に、存在してはならないと矛を向けた。

 どうしてと憤ったし、何故と悲しみもした。

 そして、それらは次第に諦めに置き換わっていった。

 全ての期待を捨て去ったはず、なのに……

 

『俺は穂村士道。君は?』

 

(どうして、私を攻撃しない)

 

『そんなわけ――――伏せろっ!』

 

(何故、私を助けようとする)

 

 それはあたかも、『ここに居てもいい』と言ってくれているようで。

 そんなはずはないと否定するも、少女の心は揺れ続けていた。

 こんな人間がいるのならばと、捨て去ったはずの期待を抱いてしまいそうになる。

 

「どうした?」

「――っ、なんでもない!」

 

 無意識に伸ばしていた手を引っ込める。

 自分でも、なんでそうしていたのかがわからなかった。

 

「わからないところがあったら、何でも言ってくれていいぞ」

「おまえの言う事は、正直さっぱりわからん」

「そ、そうか……さっぱりかぁ……」

 

 男は何やら肩を落としていた。

 わからないものはわからないのだから仕方がない。

 それでも、わからないなりに気になることはあった。

 

「……世界は広いと言ったな。どのくらいだ?」

「んー、そうだな」

 

 男は少し考え込むと、緑の板に大きさも形も様々な図形……のようなものを描き始めた。

 少女にとっては見覚えがないものだが、もしかしてと過ぎるものはあった。

 

「それはまさか、地図というやつか?」

「ご名答、世界地図だ。よくわかったな」

「ふふん――――こ、これぐらいどうということはない」

 

 つい得意気になってしまったが、すぐに顔を引き締める。

 まだ目の前の男が何者か、何が目的か判然としない。

 そんな状況で、気の抜けた姿を晒すわけにはいかないのだ。

 

「君にとって、広いってどのくらいかな?」

「よくわからん。この部屋は狭くもないが広くもないな」

「だったら、この街は?」

「街……よくわからんが、広いのではないか?」

 

 街というのは人間が住む場所。

 以前、上空からこの街を見下ろした時のことを思い出す。

 そこらの建物に人間が潜んでいるなら、一体どれだけの数がいるのかと戦慄した覚えがあった。

 

「それがこの世界の地図ならば、この街はどこにある。そこか?」

「そこは南アメリカ大陸。ここのちょうど反対の位置だ」

「ぬ、ではその大きなやつか?」

「そこはユーラシア大陸。俺たちのいる日本はその脇だ」

「わかったぞ、ニホンはそれだな!」

「残念、アフリカ大陸だ。日本はこれ」

 

 丸く囲われたのは、切れ端としか思えないほど小さな島だった。

 男の言葉を信じるのなら、それがこの場所なのだという。

 

「むう……小さいな」

「でも、この街はさらにその一部なんだぞ?」

「なんと!」

「この地図でいったら……これだ、これ」

 

 ただでさえ小さな切れ端に、極々小さな点が打たれた。

 緑の板全体に広がった地図と比べると、まさに砂粒である。

 自分が広いと感じたこの街がその砂粒ならば、世界とは一体どれほどの広さを持つのか。

 その途方もなさに、少女は愕然とした。

 

「それで、この国で主に食べられてるのが――――」

 

 その後も男は語り続け、時折少女の言葉を求めた。

 内容はやっぱり理解できないし、自分に関わりのあることだとも思えない。

 しかし……

 

(……悪くない、気分だ)

 

 戦う以外の事をこんなにも考えるのは初めてだった。

 そこに生じた感情を何と呼ぶのか、少女はまだ知らない。

 それでも、それを壊さぬよう手放さぬよう、そっと胸に手を当てた。

 

 

 




ルビに初挑戦してみた。
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