士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話   作:kish

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予告通り更新します。
前話と合わせて四万字超……下手したら三分割するような分量です。


更なる来訪者

 

 

 

「え……な、なに――これ……」

 

 炎が周囲の見慣れた景色を蹂躙していく様を、琴里は呆然と見届けた。

 八月三日の今日は九歳になる誕生日で、おとーさんとおかーさんは仕事でいないけれど、大好きなしーくんが会いに来てくれる日なのだ。

 いっぱい遊んでおいしいものを食べて、プレゼントをもらって幸せに過ごす一日のはずなのに、どうして自分は炎を撒き散らして家を、公園を、街を燃やしているのだろう。

 

「や、めて……やめて……っ!」

 

 懇願に反して、炎の勢いは増していく。

 琴里はただ、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら泣き続けるしかない。

 

「ぅえ…………しー、くん……しーくんしーくんしーくん……ッ!」

 

 何度呼んでも、都合良く来てくれはしなかった。

 やがて泣き疲れた琴里は、その場にしゃがみこんで震えたまま目を閉じた。

 ジワジワと、()()()()()()()()()()()()()かのような感覚。

 怖くて堪らなかったが、それすらも別のナニかに置き換わっていく。

 

【――これは少し、困ったことになったね】

 

 しゃがみこむ琴里の耳に、誰かの声が届く。

 その声は高いのか低いのか、澄んでいるのか濁っているのか判別がつかない

 何を話しているのかはわかるのに、どんな声をしているのかがわからないのだ。

 顔を上げると、そこには『何か』としか形容できない誰かがいた。

 何故ならそこにいるのにもかかわらず、どんな姿形をしているのかがわからなかったのだ。

 しかし、この見た目を把握できない『何か』に、琴里は()()()があった。

 彼か彼女かもわからない『何か』は、大好きなしーくんがちゃんと来てくれるか不安で泣きそうになっていた琴里に、小さな赤い宝石のようなものを差し出してきたのだ。

 そしてそれに触れた途端、琴里は――――

 

【君の大好きな()が来るまで、少し微睡んでいるといい。大丈夫、彼のことだから、きっと途中で誰かを助けて遅れているだけだよ】

 

 そうだ、きっとしーくんが来てくれる。

 意識がぼんやりとする中、琴里はそれだけを信じて待ち続けた。

 そして……

 

「琴里!」

 

 見慣れた声、見慣れた姿……大好きなしーくん。

 今すぐにでも抱きしめてもらいたくて、手を伸ばそうとして――――しかし微睡みから解放された琴里の炎は、思っているのとは真逆の動きをした。

 近づくものを拒絶するように、炎が逆巻く。

 これでは誰にも……士道にも触れてもらうことができない。

 それが悲しくて、でも自分ではどうにもできないから泣くしかなくて。

 それでも、何度炎に弾き飛ばされても追いすがってくる士道の姿はまるでヒーローのようで、琴里の心に深く焼き付いた。

 そうして自分の体を焦がしながら、士道は力いっぱい抱きしめてくれたのだ。

 しかしその体は火傷だらけで、右腕は真っ黒になって崩れ去っていた。

 

「し、しーくん……しーくん……! しーくん……ッ!」

 

 倒れて動かなくなった士道に何度も呼びかけるが、その瞼が開くことはない。

 今この瞬間にも、琴里から発せられる炎は、倒れた体をさらに焦がし続けている。

 

【――ねえ、彼を助けたい?】

「……っ!」

 

 弾かれるように顔を上げると、そこには『何か』が立っていた。

 この得体の知れない誰かに対する警戒心は、当然ある。

 琴里がこんなことになったのも、この『何か』のせいなのだ。

 それでも琴里は縋るしかなかった。

 泣きながら、必死にしーくんを助けてと懇願し続ける。

 

【それじゃあ――――】

 

 示された『方法』は信じられないぐらい簡単で、また信じられないぐらい馬鹿げたものだった。

 だけれど、琴里には選択の余地がない。

 この『何か』が怪しいことなんて明らかだが、このままでは確実に士道は死んでしまう。

 意を決して、士道の唇に、自分の唇を押し当てる。

 

「――――!」

 

 すると、琴里が纏っていた見覚えのない服は空気に溶けるように消え去り、士道の体に炎が這い回る。

 それは体を傷つけるものではなく、炎が這った後、凄惨な火傷は跡形もなく消えていた。

 すっかり元の形を取り戻した右手を握って、琴里はわんわんとさらに泣いた。

 頭に、温かい手の感触。

 

「……まーた泣いてんのか、琴里……」

「だって……だって……」

 

 目元をこすりながら鼻を啜る琴里に、士道は苦笑してゆっくりと身を起こした。

 

「――そんな泣き虫さんに、プレゼントだ」

「ぷれ、ぜんと……?」

 

 士道が鞄から取り出したのは、少し焦げているが綺麗にラッピングされた紙袋だ。

 それを手渡された琴里はキョトンと、紙袋と士道の顔を交互に見比べた。

 誕生日プレゼント……貰えて嬉しいはずなのに、まだこの日常離れした状況に心が引きずられて実感が追いつかないのだ。

 促されるまま中身を取り出す――琴里の趣味より少しだけ大人びた、黒いリボンだ。

 

「……世の中には怖いことや泣きたいことは沢山ある。でも、どうしても負けたくないって時は、これを着けるんだ」

「……そうしたら、どうなるの?」

「琴里は強い子になれる。そうしたら涙だって吹っ飛んでいくさ」

「強い……子?」

「ああ……お誕生日、おめでとう」

 

 その笑顔に、胸が高鳴った。

 士道がくれたものさえあれば、どこまでも強くなれる気がした。

 琴里が抱く『大好き』の意味が、明確に変わった瞬間だった。

 

【――少し焦ったけれど、最高の結果だ。君たちには感謝したいぐらいだよ】

「お前は……」

 

 得体の知れない『何か』に対して、士道は目を鋭くして警戒を露わにした。

 琴里の知らない、別の顔だ。

 かばわれるように士道の背に回され、琴里はその肩をギュッと掴んだ。

 鋭い視線を向けられた『何か』は、少しだけ悲しむような素振りを見せた。

 見た目も声も曖昧なはずなのに、何故だか琴里にはそれがわかった。

 

【……ゆっくりと話をしたいところだけれど、今回はここまでにしよう】

 

 そう言うと、『何か』は士道と琴里に向けて手をかざした。

 本能的な恐怖に、逃げ出そうと士道の体を引っ張るも、体がうまく動かない。

 それは士道も同じようで、まるで射竦められたかのように、その場に留まるしかなかった。

 

【――じゃあ、おやすみ。次に会う時まで、私の事は忘れていてもらうよ】

 

 そして『何か』の手が額に触れた瞬間、琴里の視界は暗転した。

 

 

 

 

 

「先、生……何を、言って……?」

「お前の両親を殺したのは琴里じゃない。琴里はあの火事が起きた時、ずっと公園から動いていなかった」

 

 これはたった今、琴里から流れ込んできた『記憶』によって知った事実だ。

 精霊の力を暴走させた琴里はその場にうずくまるだけで、誰も手にかけていなかった。

 そしてそれは、遅ればせながら琴里の元へ駆けつけた士道の記憶とも一致する。

 

「違う……っ、五年前、〈イフリート〉は――私の両親を…………!」

「あの時、あそこには琴里を精霊にした『何か』がいたんだよ! 火事が起きたのだって、そいつが渡した炎の精霊の力が原因だ。琴里の意思じゃない」

「じゃあ……私の両親を殺したのは、その『何か』だと言うの……?」

「それはわからない……けど、そいつは人間を精霊に変えるようなとんでもない力を持っているような奴だ。もしかしたらそいつ自身も精霊なのかもしれない」

 

 結局のところ、何が折紙の両親を殺したのかはわからない。

 士道が語る内容にも、憶測が入り混じっている。

 ただわかっているのは、琴里は誰にも手を下していないことと、人ならざる存在がもう一人確実にあの場にいたということだ。

 それにしたって、この場で示せるような証拠はない。

 説得に対して、折紙は唇を噛み締めた。

 

「あなたの言うことを信じたい……けれど、信じられない。〈イフリート〉を……五河琴里を守るための嘘だとしか、思えない……!」

「それでも、信じて欲しい!」

 

 血涙を流しながらなおも退かない折紙に対して、士道はひたすらに頭を下げ続ける。

 そして、卑怯だと自覚しつつも言葉を連ねる。

 

「何度だって言う……俺は琴里もお前も失いたくない」

「――っ」

「頼む……俺から琴里を、お前自身を奪わないでくれ……っ!」

「――――」

 

 声にならない声を漏らして、折紙は今度こそその場に崩れ落ちた。

 活動限界を迎え、本来の重みを思い出した巨体が軋む。

 折紙が押しつぶされぬよう随意領域で支えて、その体を受け止める。

 ひどく消耗しているが、直ちに治療したら命に別状はないだろう。

 戦う力を失っても潰えぬ意思を表すように、折紙は士道の背後――琴里へと手を伸ばす。

 士道はその手を優しく握り、あの日自分に生きる道を示してくれた少女に感謝を告げた。

 

「――生きていてくれて、ありがとう」

「…………」

 

 折紙の体から力が抜けていく。

 最後に、士道を見つめるその目がわずかに緩んだ……ような気がした。

 

「日下部、後は頼めるか?」

「……それ以上に説明を要求したいんですけど」

 

 気を失った折紙を引き渡す。

 部下の身柄を受け取った燎子は、頭痛をこらえるように額に手を当てていた。

 この短い間に、彼女の常識は数回ほど打ち崩されているはずなので、無理からぬ話だ。

 年上の後輩の頭痛を解消してやりたい気持ちは山々だが、やはり話せない事情が多すぎる。

 秘密組織というのは本当に難儀なものだ。

 士道は手を合わせて、深々と頭を下げた。

 

「ほんっとーにすまんけど、話せない! ……何とか誤魔化しといてくれない?」

「……それがまかり通るとでも?」

「そこをなんとか!」

 

 士道の懇願に返されたのは舌打ちだが、そのしばらく後にたっぷりのため息が続く。

 それから燎子は、頭を下げる士道に対して渾身のボディブローをお見舞いした。

 鎧のプレートの隙間を縫った、見事な一撃である。

 予想外の衝撃に、肺から空気が強制的に排出される。

 

「た、隊長殿? いくらなんでも市民に暴行を加えるのはマズいんじゃ……」

「大丈夫よ。今のはサンドバッグを殴っただけだから」

「えぇ……」

「あーもう、やってられないわね。やってられなさすぎて報告書にも書き損じが出そうだわー!」

 

 つまり、見逃してくれたということだろうか。

 うずくまって腹部を押さえる。

 他人よりいくらか体は頑丈でも、痛いものは痛いのだ。

 

「えー……周囲に霊波反応はなし。現界した精霊の消失を確認。このバカとそこのガラクタを回収して、さっさと帰投するわよ!」

『イエス、マム!』

 

 涙目気味で撤収作業を進める部隊を見送っていると、燎子と目が合う。

 思いっきり良い笑顔で、親指を下に向けられた。

 あれは一体どういう意味のジェスチャーなのか。

 段々と怖くなってきたので、それ以上は考えるのをやめておく。

 

『……お疲れ様。今そちらへ回収部隊が向かっている。合流したら一息つくといい』

「七罪の回収の方もお願いします」

『……ああ、勿論だ』

 

 ASTに預けた七罪は、身元の上では〈ラタトスク〉がしっかりとした戸籍を用意しているが、見知らぬ連中に囲まれていたら確実に精神状態の悪化を招くはずだ。

 また霊力の逆流が起こらないとも限らないので、早々に連れ戻すべきだろう。

 七罪が施した〈贋造魔女(ハニエル)〉の変化が解けて、鎧がスーツへと戻っていく。

 今回、彼女には随分と助けられてしまった。

 また今度、別の機会にたっぷりとお返しをするとしよう。

 感謝を向けたらまた居心地悪そうにするだろうが、今後のためにも慣れてもらわねばならない。

 少し離れた位置に倒れている十香にも、必要だったとはいえあんなことをしてしまったのだ。

 こちらにもフォローが必要だろう。

 こうしてあれこれと気を回していると、まるで複数の女性と同時進行で付き合っているかのように思えてならない。

 あながち間違いとも言えないのが、これまた頭痛のタネである。

 とにかく、今は休みたい気分だった。

 こんな大一番も、しばらくはないだろう……というか、二度とあって欲しくはない。

 その場に座り込んで、長いため息をつく。

 

「――なぁに勝手に機密情報漏らしまくってんのよ、このスカタンッ!」

「あべしっ!!」

 

 背後から思い切り蹴飛ばされて、士道は地面に顔面をしたたかに打ち付けた。

 何だか懐かしくも思えてくるこの折檻は、姪っ子の反抗期……もとい司令官モードである。

 またこの元気な声が聞けたことに涙ぐみつつ、振り返ろうとして、首をグキッと曲げられる。

 

「ちょっ、琴里さん!? なんか今グキッて首が曲がっちゃいけない方向に曲がってない!?」

「いいからこっち見るなっ!!」

「ああ、そうか。今お前、裸だから――――あべしっ!!」

 

 背後からの助走をつけたドロップキックに、士道は再び顔面から地面に沈んだ。

 今のは流石にデリカシーがなかったと反省する。

 しかしこのままでは、抱きしめて撫でさせてもらえそうにない。

 若干気落ちしつつも、ジャケットを脱いで渡す。

 気温が上がってきたとは言え、裸のままでは体を冷やしかねない。

 

「……なにはともあれ、無事で良かった」

「そっちは相当無茶したみたいね。全く……私の力がなくちゃあっさり死んじゃうんだから、自重しなさいよね」

「はは、そうだな。今度から気をつける」

「……本当にわかっているのかしらね」

 

 琴里は怪訝な口ぶりだが、士道としても無茶をしたくてしているわけではない。

 無茶を要求してくる状況ばかりがやってくることこそが、問題と言えるだろう。

 とはいえ、その状況の原因は士道の欲張りな目標設定にもあるので、ある程度は自業自得か。

 今回のように、戦場において誰も死なせないなんて目標は、正気の沙汰ではないのだ。

 これ以降もチクチクと士道の無茶を責める小言が続くが、不意に言葉が切れる。

 ついに備蓄が尽きたかと一息つく士道の背に、柔らかい重みがかかった。

 同時に感じる暖かさに、琴里が背中にもたれかかってきたのだと気づく。

 琴里は士道の耳に嵌ったインカムを取り外すと、その電源を落とした。

 

「……その、なんというか……助けに来てくれて、ありがとう」

「だから、そんなの当たり前だろ。お前は俺の大事な家族なんだから」

「そうね……しーくんは私の大事な家族で、ヒーローだもん」

「――――そうか、ヒーローか」

「うん……ちょっと頼りないけど、いつだって助けに来てくれる、大好きなヒーロー」

 

 その言葉を噛み締めて、士道は空を仰ぐ。

 赤く染まっていた空は、元の青さを取り戻していた。

 

「――だ、だけど神無月たちが流してたのは誤解というか、深く考えないで欲しいというか……」

「誤解?」

 

 一瞬、何のことかわからずに首を傾げるが、それが琴里の正気を取り戻すために使用した諸々についてだと気づく。

 士道に聞こえた範囲では、琴里の好みのタイプは結構年上で、教職に就いた家庭的で優しい男性のようだ。

 職業や性格はともかくとして、あまりに年齢差があるようなら、保護者としては眉をひそめざるを得ない。

 そもそも、姪っ子に恋人や結婚などというワードがチラつくだけで、心穏やかではなかった。

 ここはいっそ自分が面倒を見るべきか……と、我ながら馬鹿馬鹿しい思いつきだと嘆息する。

 士道にできるのは精々、連れてきた相手を厳正な審査の上で見定め、少しでも不備があるようなら密かに排除することぐらいだろう。

 琴里が明け透けにそういったことを相談するのなら、残念ながら母親が妥当だ。

 士道からしたらロクでもないクソ姉貴だが、少なくとも相手を選ぶ目に関してなら信頼できる

 男親の無力さについては、後で義兄と分かち合うとしよう。

 それにしてもと、琴里の好みについて考える。

 愚にも付かない発想だが、その好みが自分に当てはまりそうだ、などと過ぎってしまったのだ。

 自惚れというか、明らかに願望が混じっている。

 士道は未だに、反抗期ではなかった頃の面影を引きずっているのだ。

 今の琴里も勿論可愛いが、小さい頃の無邪気な可愛さはまた別物だ。

 とまぁ、姪っ子の好みについては思うところがないわけではないが、本人が誤解だと言っているので、あまり重大に受け止めるべきではないのかもしれない

 ここは一つ、軽くからかってやるぐらいが丁度いいだろう。

 

「それにしても、琴里のタイプが俺だったなんてなぁ」

「ち、ちがっ……!」

「もしかして、小さい頃に結婚の約束をしたのも覚えてるのか? はは、あの時の琴里は無邪気で可愛かった――――」

 

 背中に伝わる震えに言葉を切る。

 からかいが過ぎて怒らせてしまったのかと、冷や汗が頬を伝う。

 司令官様の機嫌を損ねたら、それが訓練メニューに反映されかねないのだ。

 どう言い繕ったものかと思考を空転させている内に、琴里がポツリと漏らす。

 

「…………好きじゃ、悪いの?」

 

 肩に置かれた手が、シャツの布地をギュッと握ってシワを作る。

 その震えがどういうものであるかに思い至り、士道はいよいよ黙り込んだ。

 これは知られてしまう、或いは知られてしまったことに対する怯えや恐れだ。

 

「わかってるわよ……世間一般じゃこんなの普通じゃないし、気持ち悪いと思われたって仕方ない…………けど好きなんだもん。小さい頃から大好きで、ちょっと大きくなったらもっともっと大好きになって……結婚の約束だって、叶わないんだってわかってるのにずっとずっと忘れられなかった……っ」

 

 幼い頃、自分が姉に抱いていた感情を、琴里はずっと抱き続けてきたのだ。

 少なくとも士道には、その想いを笑ったり否定することはできない。

 代わりに、震える小さな手に自分の手を重ねる。

 

「凄いな、琴里は。俺なんて早々に諦めちまったよ。まぁ、義兄さんがいたしな」

「え……おとーさん?」

「俺の初恋、姉さんなんだよ」

 

 こうして誰かに話すのなんて初めてのことだから、どうにも頬が熱かった。

 ましてやそれが、あの姉の娘(めいっこ)ともなれば尚更だ。

 夢の中では誰かに話した……というより見られた気がするが、そんなものまでカウントしてもしょうがないだろう。

 

「結局言えずじまいだったけどな。そのせいで……ってわけでもないけど、こうしてこの年までロクな恋愛経験もなしだ」

「…………」

「ま、琴里は可愛いから大丈夫だろうけどな。ああ、でも相手ができたら絶対紹介してくれよ? そいつとは一度、じっくりたっぷりお話させてもらうからな」

「……そんなの、いらない」

 

 この拒絶の言葉も予想の範疇だ。

 恋人を紹介するのに尻込みをする気持ちは、わからないでもない。

 士道も姉に同じことを言われたら、間違いなく嫌な顔をするだろう。

 背中の柔らかい重みが離れていく。

 機嫌を損ねてしまったか、と士道は再び空を仰いで嘆息した。

 すると、今度は膝の上に重みがかかる。

 視線を下ろすと、素肌の上に士道が渡したジャケットを羽織った琴里が物凄く近い距離にいた。

 こうして抱っこしたことは何度もあるが、今の格好は全裸の一歩手前である。

 琴里の真っ赤な顔も無理はない……しかしその表情は、その赤さの理由が羞恥だけではないことを明確に示している。

 視線は鋭く、眉は釣り上がり、息は荒く何かを堪えるように歯を食いしばって。

 それが怒りのサインであると気づいた時にはもう、火薬に火がついていた。

 

「私のっ! 初恋をっ! 勝手に終わらせんなぁああああああっ!!」

 

 至近距離で大音声を浴びせかけられ、耳が瞬間的に自分の役割を見失う。

 聴覚が正常な働きを取り戻す前に、士道は襟首を掴まれて前後に激しく揺さぶられた。

 

「わかってるわよ! しーくんが私を全っ然そんな目で見てないってことぐらいっ! でも、いつかは絶対絶対振り向かせてやるんだから……っ!」

 

 そしてその勢いのまま、地面に背中を叩きつけられて――――唇を重ねられる。

 

「――初恋(おかーさん)のことなんて、忘れさせてやるんだから」

「……調子乗んな、この小娘が」

 

 初恋を忘れさせてやると挑戦的に笑った少女の中に、士道は初恋の面影を見るのだった。

 

 

 

 

 

「――さて、まだやりやがりますか?」

「ハァ……ハァ―――――マナァ……ッ!!」

 

 白銀のCR‐ユニットを纏ったポニーテールの少女の前に、同じくCR‐ユニットを纏った赤毛の女性が跪く。

 元DEMの魔術師である崇宮真那と、現DEMの魔術師であるジェシカ・ベイリー。

 両者の戦いの結果は、誰の目から見ても明らかだった。

 今、ジェシカが行動不能に陥っていないのは、真那がギリギリのところで手心を加えているからに過ぎない。

 つまりそこには明確な実力差があるのだが、それはジェシカが弱いことを示すものではない。

 彼女はDEMの精鋭、栄えあるアデプタス・ナンバーの三番手である。

 任務を離れられない最強の代理とはいえ、ウェストコットの護衛を務めているのは、その実力を認められているからなのだ。

 だというのに、こうして見下ろされている理由は単純明快だ。

 ただ単純に、それ程までに、真那が強いだけなのだ。

 その事実が、ジェシカの胸に昏い炎を滾らせる。

 

「――――ここまでにしよう、ジェシカ」

 

 最早戦意しか残っていないジェシカを止めたのは、漆黒のスーツに身を包んだアッシュブロンドの男だ。

 アイザック・レイ・ペラム・ウェストコット……ジェシカの主であるその男は、切れ長の双眸を細めて元の色を取り戻した空を見上げた。

 DEMの事実上のトップである彼が、この天宮市にやって来た理由はいくつかあるが、その中でも最も重要な一つの刻限が迫っている。

 大事な商談に遅れてしまったとなれば、相手の機嫌を損ねてしまうだろう。

 顕現装置という奇跡の技術の製造を手がけるDEM社は、各国に非常に大きな影響力を持つ。

 そのため、ウェストコットが多少遅刻した程度でとやかく言える者は限られる。

 それこそ大国のトップか、もしくは人間社会の常識に縛られない者だ。

 今日の商談相手は、その後者である。

 

「まダ、私はまだ戦えまス……!」

「君の意気は買ってあげたいが、もうタイムリミットだ。これ以上は遅刻してしまう」

「――――あめーんですよ」

「ウェストコット様ッ!」

 

 真那の蹴りが、ウェストコットに迫る。

 彼女の元々の目的は、自分を利用してきた彼にケジメをつけさせることであり、ジェシカはその邪魔をしてきたため相手にしていたに過ぎない。

 ウェストコットでは、随意領域を自在に操る現代の魔術師の攻撃に対応できない。

 ジェシカは真那の動きに反応できるが、消耗した体がその速さに追いつかない。

 常人の目には止まらぬ速さで繰り出された蹴りが、ウェストコットの頭を刈り取る、その直前――――

 

『――【天秤の弾(モズニーム)】』

 

 景色がブレた次の瞬間、真那の前からウェストコットたちの姿は消えていた。

 蹴りの勢いそのままに数回転し、着地する。

 周囲の景色の違いから、()()()()()()()()だと気づくまで時間はかからなかった。

 横槍が入ったことに舌打ちをしつつも、空に上がって自分の現在地を把握する。

 先程の場所からそう離れてはいないが、ウェストコットたちの姿は既になかった。

 強化した視力で周囲に目を走らせてもそれらしい姿はない。

 付近のビルの内部をスキャンしても、生体反応はない。

 ウェストコットは生身の人間であり、ジェシカは満身創痍だ。

 この短時間で大きな距離を移動できるとは思えない。

 誰かの助けがなければ、だが。

 

「どこの誰かは知りませんが、随分と余計な真似をしてくれやがったみてーですね」

 

 これ以上の捜索は無駄と判断し、真那は今回の騒動の中心であるテーマパークへと目を向けた。

 この様子だと、事態は収束したのだろうか。

 遠目に自分の兄とその家族の無事な姿を捉え、ホッと胸を撫で下ろす。

 自分もその場に駆けつけたいところだが、真那には実は少々後ろめたい事情があった。

 秘密組織〈ラタトスク〉が保有する、空中艦〈フラクシナス〉。

 昨日の戦いで負傷した真那はそこで治療を受けていたのだが、その空中艦が墜落した折に自分のCR‐ユニットを回収して抜け出してきたのだ。

 兄のことや、自分に親身になってくれた令音のことは信頼しているが、戻って治療を受けさせられるとなれば自由が制限されてしまう。

 神出鬼没の最悪の精霊〈ナイトメア〉の討伐という目的のためには、非常に大きな支障である。

 なのでここは心の中で世話になった人々に謝りつつ、トンズラをかますことに決めたのだった。

 

「さて、あの精霊(おんな)はどこにいやがるのやら」

 

 

 

 

 

「いや、本当に助かったよ。是非とも礼を言わせて欲しい」

「お気になさらず。こちらの話に応じてくださったお礼のようなものですから」

 

 自分を窮地から救った立役者に、ウェストコットは大仰な身振りで頭を下げた。

 自らの主がへりくだる様にジェシカは不満げな様子を見せたが、口を挟むことはなかった。

 第一に、それはウェストコット自身の意思であるし、第二に、ここで下手なことをしたら確実に()()()()()()()()()

 消耗しきったジェシカは、目の前の()()が放つ異質な存在感に、恐怖さえ覚えていた。

 髪も、肌も、その身に纏う霊装(ドレス)も、何もかもが白い。

 その中で色づく双眸は、赤と青の虹彩異色症(ヘテロクロミア)

 青い瞳の中では、時計の針が無機質に時を刻み、星を示す。

 最悪の精霊と酷似した容貌(かお)を持つ、もう一人の最悪。

 白昼夢(デイドリーム)と呼ばれる彼女は、友好的な笑みを浮かべながらジェシカに手を差し伸べた。

 

「そんなに怖がられると、傷ついちゃうなぁ。どうか仲良くしませんか、DEMの魔術師さん?」

「ヒッ――――」

「あら、嫌われちゃったかな?」

「彼女は少々疲れていてね。出来ればそっとしておいてやってくれ」

「成程、そういうことなら――――【水瓶の弾(ドゥリ)】」

 

 白い精霊の手の中に、歯車じかけの白い短銃が現れる。

 その銃口から放たれた弾が地面に撃ち込まれると、透明な水の膜が広がってジェシカの体を包み込んだ。

 負傷も疲れも瞬く間に消えていく。

 医療用顕現装置で自己治癒力を高めれば同じような効果が得られるが、こちらの方が速度の上で圧倒的と言わざるを得ない。

 その能力に感心したウェストコットは、手を叩きながら賞賛した。

 

「――素晴らしい! 先程の瞬間移動に今の治癒のフィールド……それらが君の()()の力の一端というわけか!」

「その他はまだ企業秘密ということで」

「ああ、興味が尽きないよ……! いや、しかしそれはあとの楽しみに取っておこう。さあ、早速だが取引と行こうじゃないか」

 

 目の前で展開される『商談』に、ジェシカは引き続き緊張を緩めない。

 ウェストコットが取引相手と定めたのならジェシカに否はないが、どれだけ警戒しても不足ということはない。

 その緊張はジェシカの纏う随意領域に伝播し、即座に対応できるように形を変えていく。

 おかしな動きを見せたなら直ちにその動きを封じ、必要とあらば止めをさせる絶好のポジショニングだ。

 取引の最中に白い精霊はチラリと何もないはずの虚空を一瞥すると、無造作に手をかざした。

 意図の見えない、不審な動きである。

 自身の領域に触れたその手にジェシカが()()しようとした、次の瞬間――――

 

「――――えッ?」

 

 ジェシカは他ならぬ自分の随意領域の作用によって、地面に這い蹲らされていた。

 意のままになるはずの空間が、逆に主人の自由を封じているのだ。

 事態への理解が追いつかず、間抜けな声が漏れる。

 そんなジェシカを見下ろし、白い精霊はクスクスと笑った。

 

「今のも君の魔王の権能かな?」

「うーん、どっちかというと私の特技ですね」

「成程、君はまさに現代の魔術師の天敵というわけだ」

「他にはこんな手品もできるんですよ?」

 

 パチン、と軽快な音が鳴ると、ジェシカの顔のすぐ横が爆ぜて地面を抉る。

 何もない空間に突如として起こるその現象は、いまや誰もが知っているものだ。

 空間震……()()()()()()()()

 

「空間震をこのサイズで……いや、実に興味深い」

「チップは弾んでくださいね?」

「活動資金、という解釈でいいのかな?」

「なくてもどうにかなりますけど、あるにこしたことはありませんから」

「わかった、用意しよう。それと、うちの社員をからかうのは程々にしてくれるかな」

「あら、ごめんなさい」

 

 ウェストコットの一声によって自由になったジェシカは、その身からドッと汗を噴出させた。

 その心中には恐怖と圧倒的な敗北感と、主人の前で無様を晒した屈辱が渦巻く。

 その全てを噛み締めながら、ウェストコットの背後に控え、精霊との『商談』をただ見守る。

 

「――――さて、こちらの要求はおおよそ伝えたが、活動資金以外に望むものがあれば教えて欲しい。出来る限り用意しよう」

「それじゃあ、狂三さん……〈ナイトメア〉に関しては、全てこちらに任せていただけますか?」

「元よりそのつもりだ。君に対して一番期待しているのは、影すらも掴ませない彼女への対応だからね。請け負ってくれるのなら、こちらとしては願ったり叶ったりというものだ」

「後はそうだなぁ――――あ、私の〈デイドリーム〉っていう識別名、どうにかなりませんか?」

「もしかしてお気に召さなかったかな? 君と〈ナイトメア〉の関係を踏まえて命名したつもりだったのだが」

「そういうの、最近だとノンデリっていうみたいですよ?」

「了解した、改めよう。ちなみに、そちらで何か希望はあるのかな?」

「でしたら…………〈クイーン〉、というのはいかがでしょう?」

「ふむ……さしずめ、モチーフは白の女王といったところか」

「素敵でしょう?」

 

 精霊側からの訴えで識別名のリネームなど、前代未聞の事態である。

 それを言ったら、人型の天災である精霊と人間が手を組むこと自体がまた前代未聞なのだが。

 随分と前に離反していった友人が掲げた()()が、確かそんな内容だったか。

 今、自分がそれを表面上だけとは言えども叶えていることに皮肉を感じ、ウェストコットは僅かに目を細めた。

 

「ところで……君が〈クイーン〉ならば、君が戴く〈キング〉はまた別にいるのかな?」

 

 ウェストコットの問いに対して白い精霊は頬を染め、人差し指を唇に当てて微笑んだ。

 そしてその体を覆うように、周囲の空間が歪んでいく。

 その中から現れたのは、栗色の髪を一本の三つ編みに結わえた少女だった。

 黒いセーラー服に、細めのリボンタイ……日本において、教育を受けているという身分を示す服装だろう。

 この平凡と言っても差し支えない風体の少女が、あの白い精霊の正体なのか……それとも、これは人の世界に溶け込むための擬態なのか。

 ともかく、まるで人間のようなこの姿からは、あの白い姿から感じる圧が感じられない。

 屈辱を抱えていたジェシカは、実際に行動には移さずとも()()()()という考えを抱いた。

 

「――――っ」

 

 その不埒な考えを見透かすように、少女の左の瞳が青く染まり、ジェシカを射抜く。

 それ以上は、そんな考えを抱くことさえもできなくなった。

 

「あと一つだけ……あ、二つかな? 私のわがままを聞いていただけますか?」

「勿論、聞き入れよう」

 

 少女は八重歯を覗かせながら笑うと、ごくごく平凡な『お願い』をした。

 

 

 

 

 

「全く……本当に愚かしいとはこのことですのね」

 

 夕闇に沈むビルの間の路地で、少女は呆れを隠さずに息を吐きだした。

 黒い髪、白い肌、影と血で彩られたかのような霊装(ドレス)

 しかし彼女の最も特徴的な部分を挙げるとしたら、その双眸だろう。

 赤と金の虹彩異色症(ヘテロクロミア)

 金の瞳の中では、時計の針が無機質に時を刻む。

 時崎狂三……空間震の真実を知る者たちからは『最悪』、もしくは〈ナイトメア〉と恐れられる精霊である。

 その周囲、路地一杯に広がる影の中には、複数人の男たちが倒れていた。

 彼女の持つ陰性の美貌に惹かれて寄ってきた、哀れな『餌』だ。

 こういった連中から『時間』を吸い上げるのは最早日課ではあるが、もう少し警戒だとかそういうのはないのだろうか。

 全く寄って来なくなるのもそれはそれで面倒なのだが、流石に頭の中がお猿さんすぎる。

 狂三の知る()()は唇を奪ってやると言いながらも、いざ目の前に差し出されると躊躇してしまうような、大変理性的な人物である。

 少々行儀の悪い言い方になるが、ヘタレという言葉が当てはまるだろうか。

 

「今日も入れ食いですのね。それほど『わたくし』が魅力的だということですかしら?」

「この魅力ならば、きっと士道さんもイチコロですわね!」

 

 何やら影の中から聞こえる姦しい会話を、踵を打ち付けて封殺する。

 かつての自分はこんなにも落ち着きがなかっただろうか……さらにため息が深くなる。

 

「さて、後はこの方たちの『片付け』ですけれど」

 

 一番手っ取り早いのは〈時喰みの城〉の中に放り込むことだ。

 そうしたら、この男たちの体は何の痕跡も残らずに()()されるだろう。

 しかし……

 

『うんまぁ、なら信じるよ』

 

 何故だか、今まで生きてきた中でも特級の大馬鹿者の言葉が、頭を過ぎるのだった。

 断じてそんな言葉には絆されていないし、殺すなと言われて従う義務も義理もない。

 ただ、そう、気分が乗らなくなっただけなのだ。

 分身体に昏倒した男たちを運ばせ、適当な場所に放置する。

 少なくともこの場所よりは人気がある通りなので、余程運が悪くない限りは助かるだろう。

 

【――おや、随分と優しくなったものだね】

 

 突如として現れた気配に、狂三はノールックで短銃を向けて引鉄を引いた。

 しかし放たれた弾丸は、ビルの壁に穴を穿つのみ。

 声の主である『何か』は、今度は狂三の正面の闇からにじみ出るように現れた。

 相変わらず判然としないその輪郭に、目を細める。

 解像度が荒いとでも言えばいいのだろうか。

 とにかくその存在は、そこにいるはずなのに姿形を認識することができないのだ。

 

【すまない、気に障ったのなら謝るよ】

「結構ですわ。それより、何の用ですの?」

【彼について、感想を聞いてみようと思ってね】

 

 その声は姿と同様、どうにも捉えどころがない。

 言葉は認識できるのに、声の特徴は一切分からないのだ。

 この『何か』については、これ以上考えるだけ不毛だろう。

 得体の知れない存在であろうと、有益な情報をもたらすのならば今はそれで構わない。

 彼――穂村士道についての情報も、この『何か』から得たものだ。

 精霊の力を自分の中に蓄えた人間が存在する。

 その情報を知らされた時は半信半疑だったが、しばらく観察してそれが真実だと確信した。

 それがかつて遭遇したことのある魔術師だったことには驚いたが、狂三の目的の達成のためには士道が蓄えた霊力が必要不可欠だ。

 だからこそ生徒という立場を手に入れて、接触を図ったのだが――――

 

「愚かも愚か、戯けも戯けですわ。これからのわたくしの人生に、士道さん以上の大馬鹿者は現れないと断言できますわ」

【……うん、まぁ、彼の人となりについての感想を訊ねたわけじゃないんだけどね】

「…………少々勘違いをしていたようですわね」

【――ともかく、気に入ってくれたようで何よりだよ】

「勿論、霊力に関しては、ですけれど」

 

 勘違いしないように強調したが、姿形が認識できない『何か』の表情など確認のしようがない。

 こちらの言い分を誤解せず理解してくれたかは極めて曖昧である。

 

「まあ、あのように強調してはかえって怪しいものですのに」

「あら、知りませんの? あれはツンデレという高等技術ですのよ?」

「流石は『わたくし』。そのような高度なテクニックも使いこなしてしまいますのね!」

「これで士道さんもイチコロですわね!」

 

 影の中から聞こえてくる声は、踵をガンガンと打ち付けて黙らせた。

 というか、あの大馬鹿者との仲を応援する分身体がいるのは一体どういうことなのか。

 士道に対して哀れみの類はあっても、こちらから恋愛感情など抱くはずがないのだ。

 そもそも、これから喰らおうとしている相手へ向ける感情ではない。

 不鮮明な輪郭が、揺れる。

 狂三には、どうにもそれが笑っているように見えた。

 非常に物申したい気持ちに駆られるが、今ここでそうしたら、あらぬ疑いを抱かせる結果になりかねない。

 

【それ程までに霊力を求めるということは、君の天使の最後の二つの力が関係しているのかな?】

 

 狂三の操る〈刻々帝(ザフキエル)〉は、時を司る天使である。

 その権能は、巨大な時計の文字盤に刻まれた数字に対応しており、全部で一二ある。

 いずれも常識では計れない力を発揮するものだが、最終盤に位置する二つは少々性質が異なる。

 まず、喰らう『時間』の量が桁違いに多い。

 対象に及ばせようとする効果の程度にもよるが、狂三の目的を果たそうとするなら()()()()()()()すら食い潰すだろう。

 そしてその二つの弾は、世界の根幹を揺るがしかねない力を秘めたものである。

 撃った対象を異なる時間軸へと送る、〈刻々帝(ザフキエル)〉の極致――――【一一の弾(ユッド・アレフ)】と【一二の弾(ユッド・ベート)】。

 しかしこの情報は、狂三の悲願と共に胸の内に秘めたものだ。

 とある例外を除いて誰にも話したことがないそれを、この正体不明の『何か』が何故知っているのか。

 

【――そんなに怖い顔をしないで欲しいな】

「あなたは、何を知っておりますの?」

【さて……どうなんだろうね】

 

 そのおどけるような物言いは気に食わないが、その程度のことにいちいち腹を立てていては、一体何度短銃を抜かなければいけないことやら。

 逆説的に、それをさせたどこぞの淫行教師は、それだけ度を越した愚か者ということになる。

 もう話すことはないと、狂三は『何か』に背を向けた。

 

「――――お帰りを。生憎とわたくしには『時間』がありませんの」

【優しい君のことだから、本命は時間遡行の――――】

 

 炸裂音と共に短銃から弾丸が放たれる。

 それが届く前に、不鮮明な輪郭は闇に溶けるように消えていた。

 気配が完全に消え去ったことを確認すると、狂三は二度、踵で地面を打ち鳴らした。

 影の中から現れるのは巨大な時計の文字盤――時を司る天使、〈刻々帝(ザフキエル)〉。

 その上下に目を這わせ、深くため息をつく。

 文字盤に刻まれた数字の内、下端に位置する『Ⅵ』と上端に位置する『XII』は白く染まっていた。

 それはその数字に対応する権能が、使用不能であることを示す。

 これは狂三の目的を根幹から揺るがす、非常事態である。

 

「……本当に、困ったことになりましたわね」

 

 一体何故こんなことになったのか……思い当たる理由は二つある。

 まず、霊結晶(セフィラ)の一部を奪われたこと。

 精霊にとっての心臓部を、一部とはいえ奪われたということは、存在の一部をごっそりと抜き取られたに等しい。

 その影響が出ていることは十分に考えられる。

 そしてもう一つは……本当にこれは可能性の上で、万が一どころか、億が一レベルの話なのだが――――

 

「――――確かめる必要がありそう、ですわね」

 

 

 

 

 

「無理はしないでゆっくり休むこと……っと」

 

 空間震絡みの連休から明けた朝、来禅高校に出勤した士道は他の先生方に挨拶しつつ、職員室の自分のデスクに着くなり携帯を取り出してメッセージを送信した。

 今回は十香や七罪のように新しく精霊を保護したわけではないが、力の再封印に加えて精霊化の経緯について判明した事実もある。

 琴里は検査に報告書の作成と忙しくしており、例によって家に帰っていない。

 検査に加えて、数々の無茶や独断行動を咎められた士道も帰ることができたのは昨夜なのだが、平の機関員と司令官では責任の大きさに隔たりがある。

 処理すべき事項も相応に多いはずので、やはりもう数日はまともに帰れない日が続くだろうか。

 あんなに小さな肩に負うには重すぎるものだが、幸いにして〈フラクシナス〉のクルーは皆琴里に好意的だ。

 一部は少々……ではなく大分熱狂的すぎる気もするが、あれだけ力になってくれる存在がいるのだから、きっと大丈夫だろう。

 メッセージに既読が着くと同時に、返信が届く。

 

『ハンバーグ』

 

 シンプル極まりない要求に、士道は頬を緩めた。

 今日はまた良い肉を買って帰るとしよう。

 

「おはよぉございます」

 

 他の先生方と話しながら今日の授業の準備を進めていると、間伸びした穏やかな挨拶の声。

 小柄な体、幼い顔立ちにややサイズのあっていない眼鏡をかける様は高校生……いや、中学生程の年齢に見えるのだが、こう見えて彼女は立派な成人女性なのだ。

 二年四組の担任、タマちゃん先生こと岡峰珠恵である。

 生徒に慕われる彼女は士道の尊敬の対象であり、とても平和的なその声は、日常に戻ってきたことを強く印象づけるのだった。

 珠恵は士道の姿を認めると、血相を変えて駆け寄ってくる。

 

「ほほほ、穂村先生っ!! もう大丈夫なんですかぁ!?」

「お、おはようございます、岡峰先生。もうこの通り、体調はバッチリです」

「ううう、良かったですねぇ……」

「あ、ははは……その節は大変ご迷惑をおかけしました」

 

 大袈裟ながらも純粋に快復を喜んでくれている珠恵に対して、士道の態度はややぎこちない。

 表の立場である教師と、裏の立場である秘密組織のエージェント。

 士道はいわば二重生活を送る身だが、あくまで本人の意識としては教師が本分である。

 なのでいくら〈ラタトスク〉の作戦行動の一環とはいえ、仮病を使って学校をサボってしまったという事実に、物凄く気が咎めているのだ。

 出勤してからというもの、他の先生方からも心配の声をちょくちょくかけられている。

 嘘も方便とは言うものの、これからずっとその嘘に話を合わせていかなければならないのだと考えると、果てしなく気が重かった。

 

「……おはようございます」

 

 少し経ってから職員室に現れたのは、白衣姿の女性……士道と同じく二年四組の副担任を務める村雨令音である。

 いつも通り頭も足元もふらついて今にも倒れそうな様子だが、彼女はこれが常態である。

 

「おはよぉございます、村雨せんせぇ――――あわわわわ!?」

 

 とはいえ、そのまま倒れてしまうことはない……とまではいかずとも珍しい。

 思い切り傾いだ体勢となった令音に、タマちゃん先生は大いに慌てた。

 士道はその脇を通り抜け、傾いだ体を横合いから支えた。

 

「……すまない、穂村先生」

「いえ、それよりもちゃんと休めてます?」

「問題ない……と言いたいところだが、今朝は少し立て込んでいてね」

 

 令音も教師と秘密組織の解析官という二重生活を送る身だが、彼女の場合は〈ラタトスク〉側が主体となる。

 騒動がどうにか収束した後にたっぷりと姪っ子から叱られ、その後は検査と簡単な報告書とドッサリの反省文ぐらいしかやることがなかった士道と違い、さぞ事後処理に追われていたことだろう。

 タスクが集中した際の多忙さには覚えがあるので、あまり無理はしないでもらいたいところだ。

 士道の場合、それはこの先に待ち構えているものだ。

 期末試験や修学旅行に向けての準備もあるし、これまでのように十香や七罪への対応もある。

 さらに司令官様から訓練の強化を言い渡されてしまったため、もしかしなくても夏休みを待たずして、ゾンビのごとく死にかけの状態になるのはまず間違いない。

 あまり明るくない未来に遠い目をしていると、すぐ横から視線を感じる。

 令音の何かを言いたげな目に、支えるためとはいえ体をくっつけていることを思い出す。

 いつまでもこの体勢でいるのは、あらぬ誤解を招きかねない。

 若干の気まずさと気恥かしさを押し込めつつ、そのままデスクへとエスコートしていく。

 しかし令音の足取りは重い、というよりもその場から動く気がないように思えた。

 

「……少し、話したいことがある」

 

 そう言うと、ふらふらと職員室から出て行ってしまった。

 恐らくは精霊、もしくは〈ラタトスク〉に関する話題だろう。

 士道もそれを追って出て行く。

 出勤してきた時は朝練に精を出す生徒ぐらいしか見かけなかったが、始業前の廊下は登校してきた生徒で賑わっていた。

 その間を縫うように歩く中、何だか視線を集めているような気がするのは、残念ながら気のせいではない。

 四月の始業式の「折紙インシデント」に始まり、十香の転入と折紙との対立、そして最近やって来た最悪の精霊は、ものの見事に嵐を巻き起こしてくれた。

 淫行教師という不名誉は、生徒の間にすっかり浸透してしまっている。

 それはもう仕方ないにしても、学校側に何かを言われたらと思うと胃が痛くて仕方がない。

 そこら辺のフォローは〈ラタトスク〉がしてくれるらしいが、それはそれで不正をしているようで、あまり良い気分はしない。

 まぁ、正直それがなかったらどうなっていたかも分からないので、今のところは甘んじて受け入れるしかないだろう。

 もっとも学校での立場が悪化しているのも、半分以上は〈ラタトスク〉の作戦行動のせいなのだが、それは言っても詮無きことだ。

 ふと視線を上げると、ふらふらと揺れる体に合わせてサイドで纏めた髪も揺れる。

 その後ろ姿は今にも倒れそうな程頼りなく、士道はつい抱きしめたい衝動に駆られるのだった。

 

(いやいや、こんな所で何考えてるんだ)

 

 頭を振って不埒な考えを追い出す。

 そうすると今度は「こんな所じゃなければいいのか」という自問に陥るのだった。

 その答えが出る前に、前を歩く足が止まる。

 物理準備室という表札が提げられたその部屋は、物理教科担当の令音が管理する一室である。

 来禅高校における〈ラタトスク〉の拠点となっており、内部はよくわからない機材とモニターで埋め尽くされている。

 この場所を訪れると顔が少し引き攣るのは、過酷な訓練の記憶が頭を過ぎるせいだ。

 ともかくここならば、学校内で秘密の話をするのにうってつけだ。

 そういえばと、士道はこの部屋を憩いの場にしていた初老の男性教諭の顔を思い出した。

 令音の前任である長宗我部先生は元気にしているだろうか。

 やんごとなき事情で転勤してしまったが、そこに〈ラタトスク〉が関わっているのは明らかだ。

 街に訳のわからない設備を仕込んでいたり、学校の人事に手を回したりと、底知れない影響力は秘密組織の面目躍如といったところか。

 何だかしんみりしながら部屋に入ると、電源が入ったままのモニターが目に入る。

 

『恋してマイ・リトル・シドー2 ~愛、恐れていますか~』

 

 士道は全力で見なかったことにした。

 いつかは己の身に降りかかってくるのだとしても、時には目を逸らしたいことだってあるのだ。

 動悸と発汗に襲われつつも、促されて座る。

 もし話題がアレについてならば、急な腹痛に襲われる自信しかなかった。

 令音もいつもの指定席であるデスクチェアに座ると、膝が触れそうな位置まで寄ってきてジッと見つめてくる。

 その目が非常に何か言いたげなものに見えるのは、果たして気のせいだろうか。

 ぼんやりしているように見えても、言うべきことはきちんと言ってくれる彼女の態度としては、少々珍しい。

 その視線にしても普段の捉えどころの無さは鳴りを潜め、熱というか重さというか、そんな風に呼べそうなものが見える……ような気がする。

 薄暗い室内において際立ったその瞳は、モニターの光のせいだろうか。

 とにかく何というか、この状況は何だか極めて気まずい。

 視線の置き所に困った末に、白衣のポケットに収まったくたびれたクマのぬいぐるみを見る。

 しかし、物言わぬぬいぐるみがどうにかしてくれるはずはなく、沈黙に耐えかねて士道は自分から口を開いた。

 

「その、令音さん? 話というのは」

「…………十香と、キスをしていたね」

「キス、ですか?」

 

 十香とのキスと言われて一瞬だけ首を傾げてしまったのは、それだけ心当たりが多いせいだ。

 余程キスという行為が気に入ったのか、最近の十香は何かにつけて求めてくるのだ。

 勿論、教師と生徒という立場もあるので軽々と応じるわけにはいかないのだが、力ずくで押し切られてしまうこともなくはない。

 そんな十香とのキスに、何か問題でもあったのだろうか。

 ……冷静に考えると問題だらけなのだが、そもそもが例外まみれなので目をつぶって欲しい。

 とはいえ士道が首を傾げたのは一瞬のことで、すぐに明確な心当たりに行き着いた。

 令音が言及しているのは恐らく、先日の少し()()なキスについてだろう。

 十香や七罪は検査続きで、あれからまだまともに話す機会を取れていない。

 なので詳しい様子は把握していないのだが、この口ぶりからすると、やはり何かしらのトラブルでも起きているのだろう。

 無理もない、と士道は唸った。

 緊急的な措置だったとはいえ、あんなことをしてしまったのだ。

 それに対して十香が思い悩むのもまた、予想されたことではある。

 しかし令音はそんな士道の懸念に、首を横に振った。

 

「……あれから少々浮ついてはいるが、十香に大きな問題はない。今朝も普通に登校しているよ」

「良かった……でもじゃあ何でその、十香とのキスの話を?」

「…………」

 

 すると、また視線だけを向けてくる。

 今朝は少々様子がおかしいように思えるが、一体どうしてしまったのだろうか。

 これでは一向に話が進まない。

 単刀直入に訊ねるのが手っ取り早いが、そうするのは躊躇われた。

 理由は不明ながらも士道はこの状況に、浮気を詰められる男のような心境を抱いていた。

 交際経験はないはずなのだが、不思議なことに修羅場の経験は何回もあるのだ。

 ……やはり、精霊攻略を続けていては、いつか刺されるのではなかろうか。

 士道は笑い事ではない危機感を覚えるのだった。

 

「――令音、さん?」

 

 デスクが軋む音に、膝のあたりに彷徨わせていた視線を上げると、令音が身を乗り出してきていた。

 思い切り迫っていた深い谷間に顔が熱を持つ前に、さらに視線を上げる。

 すると今度は、間近に迫った顔に心臓を跳ねさせるのだった。

 普段は目の下のクマや不健康そうな顔色に目が行くが、こうして見るとやはりとんでもない美人であることを再認識する。

 顔が熱くなり始めたことを自覚した士道は、椅子に座ったまま距離を取ろうとするが、デスクに阻まれて後ずさることができなかった。

 

「……随分と激しいキスをしていたようだね」

「あ、あれは無我夢中だったので……」

「……その割には楽しんでいたように見えたが」

「無我夢中だったので!」

 

 ひょっとして叱られているのだろうか。

 確かに無我夢中だったとはいえ自分の欲望がなかったとは言い切れないし、そもそも風紀や倫理的には問題がありありだ。

 それを咎めるのは十分理解できるのだが、こうして鼻先が触れそうなぐらい顔を近づける必要はないとも思うのだ。

 こうしていると、まるでこれからキスをしようとしているようで、とにかく落ち着かない。

 顔は熱いし心臓はうるさく、緊張のあまり額に汗が滲む。

 この状況から脱したい気持ちに駆られるが、いつの間にか頬に添えられた手はひんやりと気持ちいい。

 加えてここまで近づくと、何だか良い匂いまでしてくる。

 居心地の悪さと良さが入り混じって、もう脳が考えることを放棄しようとした時だった。

 

「……予鈴だ。教室に向かおう」

 

 朝のホームルーム前の予鈴に、この謎の時間も終わりを告げる。

 離れていく令音に先んじて、士道は足早に物理準備室を出て行った。

 歩きながら深呼吸を繰り返す。

 二年四組の教室に着く頃には、どうにか顔の熱さと心臓は落ち着いてくれた。

 ドアをスライドさせて中に入ると、席を離れてお喋りに興じる生徒の姿がちらほらと見える。

 その中の一人、髪を逆立てたガタイの良い男子は士道の姿を認めると、勢いよく立ち上がった。

 

師匠(せんせい)! お勤めご苦労様です!」

「いや、刑期明けみたいに聞こえるな、それ……おはよう殿町」

 

 その男子、殿町宏人は色々と誤解した結果、士道のことを恋愛強者などと信じ込んでいるのだ。

 折に触れてその誤解を解こうと試みているのだが、今の所上手くいった試しがない。

 

「とか言ってさ、ムショ行きになる心当たりがあるんでないの? ほむっち先生はさー」

「そうそう、少しは自分の行いを振り返るといいよ」

「マジ引くわー」

「と、とりあえずそろそろ席に着こうか」

 

 何だか発言にトゲが見えるのは、このクラスの三人娘、亜衣麻衣美衣だ。

 悲しい行き違いの結果、士道を淫行教師呼ばわりしてくる筆頭である。

 その行き違いをどうにかしたい気持ちはあるのだが、精霊攻略のためとはいえ今までやってきたことを客観視すると、淫行教師呼ばわりを否定する自信がなくなってくるのだ。

 程なく令音も教室にやって来る。

 先程のことを気にしている様子はなく、いつも通りふらふらして生徒に心配されていた。

 もしかして夢だったのではないかと思えてくるが、頬にはまだあの手の感触が残っているような気がする。

 あまり思い出すとまた顔が熱くなりかねないので、士道はそれ以上考えるのをやめた。

 ともかく副担任が揃い生徒も席に着いて、後は満を持して担任の到着を待つだけである。

 まだ空いている席があるが、この時間まで来てないとなると欠席か遅刻だろう。

 その内の一つ、窓際最後列の席は折紙のものだ。

 燎子から簡易的にだが、入院中との連絡は受けている。

 あれだけ脳を酷使して戦っていたのだから無理もない。

 心配ではあるが、今は燎子に任せておくべきだろう。

 いずれ無事な姿を見せてくれることを祈りつつ、士道は廊下側最後列の空席へ目を向けた。

 そこはこの前転入してきたばかりの精霊、時崎狂三の席だ。

 彼女も消耗しているはずなので、欠席は予想されていたことだ。

 ただ、真面目に登校する気があるのかは少々怪しいところである。

 というのも、狂三がこの学校にやって来た目的は、士道が自分の身に蓄えた霊力なのだ。

 わかりやすく言うと命を狙ってくる手合いであり、これまで銃口を向けられた回数も、両手の指では足りない程度には多い。

 しかしながら、そんな相手の不在に士道が抱くのは、マイナスとプラスが入り混じった実に複雑な感情である。

 差し引きした上で簡略化すると、姿を見せないことを少し残念に思っているといったところか。

 

「う~…………」

 

 と、そこで士道は自分に向けられる少々湿っぽい視線に気づいた。

 その視線は最前列の真ん中、教卓のすぐ前の席から発せられている。

 正確に言うと、実は教室に入った時から気づいてはいたのだが、なるべく意識を向けないようにしていたのだ。

 しかしいつまでもそうしているわけにもいかないし、士道としても心苦しい。

 

「お、おはよう、十香」

 

 何事もなかったかのように穏当に(当社比)、士道は十香へ挨拶した。

 すると十香は明らかに落ち着かない様子を見せた後、頬を染めながら挨拶を返してきた。

 

「う、うむ、おはようなのだ……シドー」

 

 自分のしたことを振り返ればその恥じらうような反応も理解できるのだが、問題はそれを周囲がどう取るかである。

 十香の様子に、他の生徒たちは見事に何かを察したようだ。

 また淫行教師が何かやらかしたのか、という声と共に、視線が集まってくるのを感じる。

 もう泣きたくなってきた士道だが、事態はそれだけに留まらない。

 士道たちが入ってきたのとは逆側、教室の後方にある入口のドアがスライドする。

 

「おはようございますわ、皆さん」

 

 黒い髪に白い肌、前髪から覗く右目は血のように赤い。

 本鈴の前に滑り込むように姿を現したのは最悪の精霊、時崎狂三その人だった。

 彼女が本体か分身体か判別はつかないが、こうして姿を見せたことに少しだけ安堵してしまう。

 そんな士道の視線をどう取ったのか、狂三は薄赤く染めた頬に手を当てた。

 

「いやですわ、士道さんったら。そんなに情熱的な目で見つめないでくださいまし」

 

 ウィットに富んだジョークのつもりなのかもしれないが、結果として向けられる視線が矢のように鋭くなる。

 少しでも緩和させようと、士道は誤魔化すように声を上げた。

 

「いやー、体調が良くなったようでよかった! お互い風邪には気を付けような!」

「ええ、士道さんにはわたくしのとてもとても()()()()()を奪われてしまいましたもの。是非とも責任を取っていただくまでは、ベッドに臥せってはいられませんわ」

 

 この精霊は、いちいちこちらを窮地に追い込まないと気が済まないのだろうか。

 最早向けられる視線は、矢どころかバリスタと化していた。

 身に覚えはな……くもないが、この誤解しか招かない発言をどう処理したものか。

 嫌な汗を流し始めた士道が口を開く前に、十香が立ち上がる。

 目を見開いたその様は、狂三の言葉に衝撃を受けているようだった。

 

「ま、まさかおまえも、士道にキスをされたというのか……!」

「うふふ、ご想像にお任せしますわ」

「その上で舌を絡め取られ、荒々しく求められたと言うのだな!?」

「…………はい?」

 

 十香の発言に、視線はいよいよレーザービームと化した。

 何故だか狂三が向けてくる視線もどこか鋭い。

 いっそこのまま蒸発できたら楽だったかもしれないが、あくまで比喩表現である。

 思考を放棄した士道は最早、窓の外の青空を仰ぐしかない。

 いい天気だ……こんな日はバーベキューもいいかもしれない。

 しかし逃避したところで現実は変わらない。

 高まる爆発の気配……しかし、その前に救世主が現れた。

 

『よいしょ、よいしょ……重いぃ~~』

 

 ドアの外から聞こえるのんびりした声の主は、担任であるタマちゃん先生のものだ。

 何かを運んでいることを察した令音が、ドアをスライドさせて通り道を確保した。

 

「あ、ありがとうございまぁす……よいしょっ」

 

 教室に入ってきた珠恵は、その小さな体に新しい机を抱えていた。

 来禅高校で使用しているものは、天板が学習用のモニターと一体になっていて少々重たい。

 尊敬する先輩に無理をさせるわけには行かない。

 士道は代わりに机を持つと、指示された場所に設置した。

 最後列の、廊下側から数えて二番目の位置……狂三の隣だ。

 予備とは考えづらいため、また新しい生徒が来るのだろうか。

 そうだとしたら、士道には話が入ってきていないため、また急な話となる。

 十香の時も同じような状況だったことを思い出す。

 令音に視線で確認を取るが、首を横に振っているところを見ると、どうやら〈ラタトスク〉とは無関係のようだ。

 だとしたら、尚更奇妙な話だ。

 十香に狂三と、このクラスには既に二人転入している。

 クラス間の人数比のバランスをとることを考えるなら、別のクラスに回されるはずだ。

 通常ならば、このような措置はまずない。

 それこそ〈ラタトスク〉のような、学校側に口利きができる組織、或いは人物が関与している可能性がある。

 陰謀論じみた考え方だが、実際に秘密組織があるのでどうしようもない。

 

「はぁい、皆さんおはよぉございます。急な話ですが、またこのクラスに転校生が来ることになりました! いや、本当に不思議ですねぇ」

 

 その疑問はタマちゃん先生も同様なのか、首を傾げていた。

 机も事前に運び込んでいたわけではないので、それこそ今朝急に知らされた可能性もありうる。

 その答えはともかくとして、転校生としてやって来た()()()()の姿に、士道は目を見開いた。

 一本の三つ編みに結えられた、背中に少しかかる程度の栗色の髪。

 ただ記憶と中と違い、身につけているのは来禅の制服だ。

 人懐っこい笑顔に八重歯を覗かせながら、その少女は教卓の横でお辞儀をする。

 

「山打紗和です。皆さん、仲良くしましょうね?」

 

 白昼夢(デイドリーム)、或いはもう一人の最悪と呼ばれる白い精霊のもう一つの姿。

 手段はともかく、こうしてやって来た目的は察することができる。

 彼女と同じ目的を抱いているであろう狂三は、目を見開いてフリーズしていた。

 その様子から、この展開はかの最悪の精霊をもってしても予想外だというのが窺い知れる。

 どうやらこの教室にまた、自分の命を狙う手合いが増えたようだ。

 事前に色々とあって慣らされていた士道は、ここにきて逆に冷静な心持ちになっていた。

 それは期待していた反応と違ったのだろう。

 こちらに視線を向けていた紗和は首を傾げるが、次の瞬間には何かを思いついたのか悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 そして、とんでもない爆弾を落とすのだった。

 

「時崎狂三さんとは昔からの親友で、今はお兄さん――――穂村士道さんを取り合う仲です」

 

 転校生の登場で沈静化していた教室内の空気が、その言葉で騒然なものに変わる。

 言っていることは間違っていないのだが、明らかに意図して誤解を招く表現をしている。

 彼女、いや彼女たちは、いちいちこちらを窮地に追い込まないと気が済まないのだろうか。

 昔からの親友という言葉が本当ならば、互いに気が会うのは最早疑いようがない。

 亜衣麻衣美衣の三人娘が憤然と立ち上がるのを、士道は絶望的な心地で見送った。

 更なる余罪が明らかになった新米教師に、どんな謗りが投げかけられたのかは言うまでもない。

 

 

 




というわけで姪っ子の話は終了です。
次回からは修学旅行とかそこらへんの話になると思われます。
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