士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
国家試験が一先ず終わって肩の荷が降りた気分です。
(どうにか飛び立ったか…………)
機上の人となった穂村士道は、割り当てられた座席の上に腰を下ろして深く息を吐きだした。
修学旅行の目的地である或美島へと向かう旅客機の中である。
来禅高校に勤める新米教師である士道は、生徒たちを引率、監督する立場だった。
後方の座席には来禅高校二年生一同が着席し、騒々しいの一歩手前ぐらいの賑やかさで空の旅を楽しんでいる。
この旅客機はサイズ的に言うと小型であり、搭乗可能人数も二〇〇人に満たない。
こちらの人数を考えるとほぼほぼ貸切状態なのだが、それでも乗務員の方々に迷惑がかからないとも限らない。
折角の修学旅行に水を差すのは気が引けるが、あまりに騒がしくなるようなら注意しなければならないだろう。
生徒たちからは堅苦しいと思われるかもしれないが、問題を起こして中断せざるを得なかった、というケースもないわけではない……というか過去の来禅高校の修学旅行で実際に起きた。
当時は控えめに言うと少々ガラの悪い生徒が多く、何かにつけて『!』や『?』が飛び交うような暗黒時代だったのだ。
かつての来禅高校に通っていた士道は当事者ではないが、さも武勇伝のように語る連中に絡まれたことがある。
そこまで悲惨な事態にはならないだろうが、生徒たちが無事に修学旅行を全うできるよう、是非とも尽力しなければならない。
その責任は新米教師には些か以上に重いものだが、心強いことに同僚の先輩方もいる。
その中の一人、士道とは通路を挟んで隣の座席に座る女性教師、岡峰珠恵が後方を一瞥してから苦笑を向けてくる。
小柄な背丈に童顔、更にその上にかけたややサイズの大きめな眼鏡が年齢よりも若い……というよりも幼い印象を与えるが、士道にとっては尊敬に値する立派な先輩である。
「皆さん楽しんでいるみたいですし、もぉ少し様子を見ましょうか」
「ですね」
「穂村先生ももっと気楽に構えててくださいねぇ。エアジャックや爆弾でも仕掛けられない限り、私が何とかしちゃいますから!」
「ははは……」
この通り、岡峰珠恵教諭……もといみんなのタマちゃん先生はとても親しみやすく、生徒たちからも慕われている。
今のおどける様な発言も、新米教師の緊張をほぐすためのものだとはわかってはいるが、士道の笑いはぎこちないものになった。
というのも、エアジャックや爆弾といった物騒な単語が、現状だと否定しきれないからだ。
その原因の一つ……いや二つ、離れた後方の座席へ目を向ける。
そこでは二人の女子生徒が、いかにも仲の良い様子で談笑している。
時崎狂三と山打紗和……彼女たちは共に特殊災害指定生命体、もしくは精霊と呼ばれる、人知を遥かに超えた存在である。
三〇年前を皮切りにこの世界を脅かしている空間震という災害は、彼女たちのような精霊が隣界からこちらへ現界する際に発生する現象だ。
精霊の持つ霊力の揺らぎによって生じる、半ば自然現象のようなものらしいのだが、どうも任意に発動させることも可能のようで、この逃げ場のない空の上でそれをされたら爆弾の比ではない被害が出るだろう。
そして精霊には空間震の他にもそれぞれ固有の、権能とでも呼ぶべき絶大な能力がある。
炎や氷や風といった現象としてはわかりやすいものを始め、時間や空間など半ば概念に足を突っ込んでいるようなもの、更には人の黒歴史を勝手にのぞき見たり子供の姿に変えてくるなど何とも困ったものまで、その種類は様々だ。
共通するのは、いずれも比喩抜きに世界を滅ぼしかねない規模のものだということだ。
その能力が振るわれたとして、やはりこの空の上ではどうすることもできない。
士道本人は生き残る可能性があるが、他は無事では済まないのは確実だ。
しかし、と彼女たちが実際にそんな暴挙に出るかどうかを考える。
時崎狂三……目を引くのは影のように黒い髪、真珠のように白い肌、血のように赤い右の瞳。
あまりに多くの人間を手に掛けてきたという経歴から
むしろ猫相手に「にゃあにゃあ」言ってたり、キャットフードを持ち歩いていたりするところには親しみを抱く余地すらある。
その他にも結構隙を見せることが多く、そんな場面に出くわすたびに、士道は理不尽なことに銃を突き付けられている。
インスタントに命の危機が訪れるのは勘弁してもらいたいところだが、照れ隠しと考えれば愛嬌とも取れる。
少なくとも、時崎狂三は理由もなしに非道を行うことはない。
これまで接してきた中で、士道はそう確信していた。
仮に彼女がそんな非常行動を取るだけの理由があるとしたら、それは隣で八重歯を覗かせながら笑う少女の存在か。
山打紗和……栗色の髪を一本の三つ編みに結わえた、外見の上では平凡な少女だが、彼女は或いは狂三以上に危険だ。
精霊としての本性を現した彼女は、もう一人の『最悪』とでも呼ぶべき姿に変貌する。
そして先月の一件で見せた覗かせた一面は、その異常性を訴えて余りあるものだった。
かつて士道が紗和と交わした約束がなければ、こうして修学旅行を実施するだけの平和はなかったかもしれない。
その約束に関しても強制力はないため、実のところ彼女の気分次第という側面が大きい。
それでも、現状では信じるしかない。
取れる手立てが限られているというのもあるが、猜疑心は相手の心に踏み込むのには少々重い荷物だ。
そもそもとして、相手を疑うよりも信じていたいという士道の性分もある。
そして何より――――
「見てください、この子可愛くないですか? この前猫カフェで写真を撮らせてもらったんです」
「くっ……さすがに良い目の付け所をしていますわね。この子の一番のチャームポイントを写真に収めてくるとは」
「他にも気になる子がいたんですけど、そっぽ向かれちゃって。あの茶虎の子、なんて名前だったかなぁ?」
「それならきっとトラ美さんですわ。初めは距離を取られますけれど、何回も顔を見せていれば近づいてきてくれますのよ?」
「なるほど、じゃああの店は狂三さんの行きつけだったと」
「あくまでも嗜む程度ですわ」
「ふふ、じゃあそういうことにしておこうかな?」
二人の態度が今は表面上のものに過ぎないとしても、いつまでもそうとは限らない。
あれがいつか本当になればいい……そんな期待を抱いてしまうのだ。
どれだけ危険な精霊なのだとしても、士道は二人のそうじゃない部分も知っている。
困難ではあるだろうが、彼女たちもきっと平和に過ごせる時がやって来るはずだ。
それが自分の押し付けなのだとは重々承知しつつ、そんな未来を思い描く。
そもそも、傲慢で図々しいというのは相手側からの評価なのだ。
「貴様は一体何をやっているのだ、鳶一折紙!」
「あなたには関係のない事。邪魔をしないで」
次いで聞こえてきたのは凛とした声と、今一つ抑揚に欠ける声。
それらの発生源は士道のすぐ後ろの座席からだった。
騒ぎを聞きつけた他の先生方の視線がその当事者……ではなく、士道に集まる。
どうにかしろという声なき声が聞こえてくるようだった。
その視線を受けて、士道は悟りを開いたかのように澄んだ表情を浮かべた。
別の表現をするのなら諦めの境地とも言う。
ちなみにタマちゃん先生は騒いでいるのが自分のクラスの生徒であることに気づき、乗務員へと頭を下げにかかっていた。
声の主は、先ほどの二人とは別の女生徒二人である。
夜刀神十香と鳶一折紙……彼女たちもまた、普通という範疇では括れない経歴の持ち主だ。
十香は力を封印されているとはいえ精霊だし、折紙はASTに所属している身だ。
ASTとは陸自の対精霊部隊の通称であり、その名の通り精霊への武力による対応を目的とした部隊である。
そういうわけで、少し前まで冗談や比喩を抜きに刃を交えていた関係である二人は、当然ながら折り合いが悪い。
十香が同じクラスに転入してからもこうした小競り合いが絶えず、その度に士道が仲裁に回っているため、他の先生方からすっかり担当だとみなされてしまっているのだ。
まあ、一般的に精霊に関する情報は秘匿事項となっているので、二人の事情を理解している士道が対応する方が話が早いのは確かだ。
そして実際に、十香の日常生活をサポートするという役目を負っているのも確かなのだ。
それに生徒たち(主に女子)から向けられる眼差しに比べれば、先輩方からの視線などそよ風のようなものだ。
士道は立ち上がると、背もたれに手をかけて後ろを覗き込んで、そして固まった。
そこには予想の斜め上の、混沌とした状況が広がっていた。
「……すー、はー、すー、はー」
「それを今すぐやめるのだ! シドーの迷惑になるだろう!」
「あなたの言っていることは的外れ。私はただ後ろから先生の心音と匂い……いわばエア士道を堪能しているだけ。迷惑なんて微塵もかけていない」
「何っ、エアシドーだと!?」
エアシドーとは一体何なのだろうか。
テニスプレイヤーの必殺ショットで似たような名前があったような気がするが、士道は特に球技に精を出していたわけではない。
もしかすると、某国民的RPGの二作目のラスボスの飛行形態だろうか……いや、あの邪神はそもそも飛行している。
目の前に広がる光景に混乱をきたした士道は、現実逃避気味にそんなことを考えた。
士道の真後ろの座席に着いているのは、人形のように整った顔立ちの女生徒だ。
来禅高校においては才色兼備、文武両道と名高い才女、鳶一折紙である。
恋人にしたい女子ランキング三位という話を聞いたことがあるのだが、立て続けの転入生にそのランキングは荒れに荒れているらしい。
二年四組の男子生徒、殿町宏人が熱く語っていたのを思い出す。
そんな少女が、自分の目の前のシートに聴診器を当てながら深呼吸を繰り返しているとなれば、状況の理解が追い付かなくなるのも無理がないだろう。
一体彼女は何を思ってこのような奇行に走っているのだろうか。
折紙の珍妙な発言に驚愕を露わにしているのは、夜色の髪の女生徒だ。
この春に士道が霊力を封印する事により、人間社会に身を置くことになった精霊の少女、夜刀神十香である。
その隔絶した美貌は下手をしたら周囲に距離を取られかねないが、素直で天真爛漫な性格は生徒たちからは概ね好意的に受け止められているようだ。
二年四組の三人娘である亜衣麻衣美衣は一緒に昼御飯を食べるなど、十香を特に気に入っている。
十香の常識に疎い部分も進んでフォローしてくれるのだが、彼女たちがこちらに向けてくる視線は中々に刺々しい。
というのも、背負っている淫行教師という
士道はちょっと最終的に唇を奪う目的でデートしたり、その過程でラブホテルに赴いたり生徒に対して過激な下着を贈ったり、さらにそれとは関係ない部分で目の前で小競り合いを繰り広げている二人と深いキスを交わしたりしていただけだというのに。
「…………やべーなこれ」
振り返ってみれば清廉潔白とは程遠い事実の羅列に、率直な感想が漏れた。
一体どこにそんな淫行教師がいるというのか……まさかの自分である。
…………ともかく、今は二人の仲裁だ。
騒がしくするのが迷惑になるのは勿論の事、二人の間に挟まっている女子生徒が、非常に居心地悪そうに体を縮こまらせている。
これは由々しき事態だ。
そもそも何で犬猿の仲とも言うべき二人が、こんな近い座席になってしまったのか。
それは先週、飛行機の座席決めの際のタマちゃん先生の提案に端を発する。
座席はクラスで大枠は決められているものの、細かい部分は各クラスの担任に裁量がある。
一番手っ取り早い方法は出席番号順で割り振ることだが、心優しい先輩は生徒の意見を汲もうとしてしまった。
当然、揉めに揉めた。
阿鼻叫喚、混沌の坩堝……そんな表現が思い浮かんだ。
当時の出来事は短編一つ分ぐらいの長さになるので、詳細は割愛する。
事態が紛糾した末、最終的にはくじ引きで決着したのだが、その結果としてこうなったのだ。
なんというか、作為めいたものを感じずにはいられない……というのは、魔術やら精霊やら秘密組織やらで少々思考を汚染されているせいかもしれない。
ちなみに、白と黒の精霊二人の隣席もくじ引きによるリアルラックである。
隣同士だと判明した時の彼女たちの笑顔(特に狂三)は、控えめに言って怖かった。
素直に口に出してはまた銃を突き付けられかねないので、その感想は心の中にしまっておく。
「二人とも静かに、というかあんまり騒がずにな」
「先生、騒がしいのは夜刀神十香だけ。彼女は非常に素行の悪い生徒」
「なっ!? ち、ちがうのだシドー、私はこの女が怪しい動きを見せるから――――」
「集団行動の規律を乱した罪は非常に重い。今後のためにも是非厳重な処分を」
「くっ……おのれ鳶一折紙、図ったな!」
「とりあえず落ち着け、頼むから……あと、折紙は十香を煽らないように」
士道は眉間を揉みほぐしながら言葉を重ねた。
こんな調子で十香がヒートアップしていくのは最早日常茶飯事だが、ここは空の上なのだ。
もし機嫌が悪化して霊力の逆流が起これば、旅客機が物理的に真っ二つに割れかねない。
そんなわけで士道の内心はヒヤヒヤなのだが、注意を受けた折紙はすまし顔……というよりも、いつもと変わらぬ無表情である。
年上の後輩から聞かされた愚痴からしたら、彼女も集団行動がどうのこうのと語れる素行ではないようだ。
平時であれば模範的なのだが、特定の物事が関わると途端にアグレッシブになるらしい。
病室のベッドで馬乗りされたり女子トイレの個室に連れ込まれたりと、余人が知れば教師生命を絶たれかねないイベントの数々から、それは士道も強く実感しているところだ。
もしかすると、こちらの世間体的な意味での一番の危険人物は彼女なのかもしれない。
士道がじんわりと汗を伝わせていると、折紙は何かに気付いたかのようにハッとした顔をする。
「重い罰、おしおき、誰の邪魔も入らない二人きりのシチュエーション――まさかそれを狙って? ……夜刀神十香、やはり油断ならない」
「折紙?」
何かを呟いたかと思うと、折紙はすっくと立ちあがって深々と頭を下げた。
その向く先にいるのは十香である。
態度の急変に戸惑っているのだろう、困惑した表情を浮かべていた。
「ごめんなさい、今のは私が全面的に悪かった。夜刀神十香、あなたに一切非はない」
「む、むう……いきなり何だというのだ」
「だから先生、罰を与えるなら私にしてほしい」
「いや、だから何もそんなに大げさな話じゃ――――」
とりあえず座らせようと肩に置いた手を、ガシッと掴まれる。
そして折紙はそのまま、どこかへ連れ出そうとぐいぐいと引っ張って来た。
女子とは思えない力強さに、士道は咄嗟にシートにつかまったが、抵抗するので精一杯だ。
そこで憤然と声を上げたのは十香だった。
「待て、鳶一折紙。貴様はシドーをどこへ連れて行こうというのだ!」
「私は悪い事をした。したがって罰を受けなければならない。誰の邪魔も入らない密室で、先生の太くて硬くて熱いもので、おしおきされなければならない」
「ちょっと待った! 何だか物凄く人聞きの悪いこと言ってないか!?」
折紙の言う罰が具体的にどんなものかはさっぱりだが、そのワードチョイスは極めてマズいことだけは確かだ。
このままでは士道の
周囲から集まる視線、特に十香と折紙に挟まれていた女生徒の軽蔑の眼差しが心に突き刺さる。
心の汗で視界が滲みそうになるが、目元を拭っている余裕は存在しなかった。
業を煮やした十香が、折紙とは逆の手を掴んできたのだ。
「ええい、シドーの手を離せ!」
「それはこちらのセリフ。良い子であるあなたは大人しく座って待っているべき。そうしたらきっと先生も褒めてくれるはず」
「なにっ、それは本当なのか!?」
「いだっ、いだだだだっ! とりあえずどっちも離してくれないかなぁ!?」
綱引きの如く両手を引っ張られる士道は、懇願じみた悲鳴を上げた。
今はまだ痛い程度で済んでいるが、十香の機嫌次第では文字通り腕が千切れかねない。
そうなったら修学旅行どころの騒ぎじゃなくなるので、それは何としても避けねばならない。
しかし、ヒートアップしているのか二人はこちらの呼びかけに応じる気配がない。
こんな時に場を取り仕切ってくれる粋な奉行はいないのだろうか。
士道が現実逃避気味に大岡忠相に思いを馳せていると、カシャリという音と共に眩い光が視界を埋め尽くす。
光は一瞬のもので、すぐに先程と変わらぬ機内の光景が戻ってきた。
その発生源……自分達へ向けられた大きなカメラの存在に、今のがシャッター音とフラッシュだったことに思い至る。
「失礼しました。あまりに楽しそうだったもので、つい写真に収めてしまいました」
ノルディックブロンドの髪に白い肌、そしてはっきりとした目鼻立ちは明らかに東洋人の見た目ではない。
エレン・メイザースと名乗ったその女性は、この修学旅行に随行するカメラマンだ。
旅行会社から派遣されてきたという彼女だが、その名前と顔には確かに覚えがあった。
そう、少女と呼んでも差支えがない見た目の彼女が、そんな生易しい存在ではないことを、士道は知っているのだ。
彼女もまた、この修学旅行における不安材料の一つだった。
どうしてカメラマンをやっているのかは不明だが、そこに大っぴらに出来ない事情が絡んでいるのはまず間違いない。
その狙いが十香や狂三たちならば、見過ごすわけにはいかない。
「お邪魔をしました。では」
去っていく背中を、警戒の色を滲ませつつ見送る。
そんな士道に対して、左右からジトっとした視線が注がれる。
十香と折紙だ。
先ほどのフラッシュで引っ張り合いこそ沈静化したものの、事態は何も変わっていないのだ。
「今の女がそんなに気になるのか、シドー」
「浮気は、ダメ」
色んな意味で前途多難な修学旅行になりそうだ。
周囲からの視線がさらに刺々しいものになったことを実感して、士道は嘆息した。
機内の自分の座席へと戻ったエレンは、カメラを膝の上に置いて携帯端末を開いた。
画面に表示されているのは、機内に持ち込んだ機材から送られてきた、夜刀神十香の観測結果である。
(成程、確かに現時点での数値は一般人と大差ないようですね)
特殊災害指定生命体、通称・精霊。
夜刀神十香はその中でもAAAランクの脅威度を誇る個体、識別名〈プリンセス〉であるという確信に近い嫌疑がかけられている。
この修学旅行にカメラマンとして随行するエレンの目的は、彼女の正体を見極めることである。
カメラマンという立場も、その目的を遂行するための隠れ蓑に過ぎない。
デウス・エクス・マキナ・インダストリー第二執行部長……それが正式な肩書きとなる。
そして彼女を言い表す上で不可欠となるのが、『最強』の二文字だ。
エレン・ミラ・メイザース……現代における魔術師の頂点。
個人の戦力で精霊と渡り合うことができる、規格外の一人である。
本来ならば富士の
現状ではその精霊、反転した〈ハーミット〉の消失の可能性が低いと判断されたためだ。
他にも横取りの可能性も考慮しなければならないが、この国の対精霊部隊ではあの氷嵐の結界を突破するのは不可能だろう。
それどころか、DEMの魔術師の中でも攻略できる者は限られる。
自分以外で可能性があるのは彼女くらいだろうか……エレンは先月に離反したという東洋人の少女、崇宮真那を思い浮かべた。
その顔に何故だか極めて不愉快な男の面影が重なり、自然と寄った眉根を揉みほぐす。
崇宮真那に次ぐ実力者はジェシカ・ベイリーだが、彼女には荷が重いと言わざるを得ない。
ジェシカも優秀であることは確かなのだが、あの環境で生き残れる水準には達していないというのがエレンの評価だった。
となると残るは社外の人間ということになるが、明確に可能性があるのはイギリスの対精霊部隊に所属するアルテミシア・アシュクロフトだろう。
DEMの事実上のトップである業務執行取締役が彼女を随分と評価していたのを思い出して、エレンは悩まし気に息を吐き出した。
彼は才能のあるものを見ると、つい欲しがってしまう純粋なところがあるのだ。
純粋と言えば聞こえはいいかもしれないが、実際には子供のわがままのようなものである。
ついこの前も執務室をコミックで散らかしていたことといい、一度きつく言っておいた方が良いかもしれない。
ちなみに一緒になってそのコミックを読みふけっていたことは、エレンの頭から都合よく抜け落ちていた。
ともかく、今回の任務はその業務執行取締役の下命だ。
以前の任務を中途半端にしておくのは、完璧主義者のエレンにとって不愉快極まりない事態でしかないが、事には優先順位がある。
精霊とは気まぐれで神出鬼没である。
その現界に予測を立てることは不可能で、時間が経てば自然と消失するのが当たり前だ。
反転した〈ハーミット〉のように、一年にも及ぶ長期間この世界に居座り続けているのは、例外中の例外なのだ。
ならば、いつ消えるともしれない方を優先するのは当然だ。
それに、こと精霊に関する戦略に対して、エレンには強く出られない事情がある。
いつの間にか業務執行取締役が協力を取り付けていた精霊の存在や、〈ナイトメア〉と呼ばれる精霊を放置しているのも、主にその事情からくるものである。
それは自身が掲げる『最強』に付いた瑕疵そのものであり、当時の事を思い出すと今でも腸が煮えくり返って仕方がない。
女生徒二人に挟まれる男性教師の能天気な顔を思い浮かべて、エレンは自身の下腹部に手を当てた。
この国には臥薪嘗胆という言葉があるらしい。
言葉の由来はエレンの知るところではないが、屈辱や痛みを忘れぬようあえて過酷な状況に身を置くのだとか。
他にも、日本の
ならば、あの男に友好的な態度を取ることこそが、自分にとってのそれにあたる。
先程写真を撮ったのは、夜刀神十香の様子を窺うとともにそういう意味合いもあった。
今はこの熱を高め、いずれ来る雪辱の機会を――――
(…………何を馬鹿な。そんな機会など、二度と訪れないというのに)
思考が水をかけられたかのように、冷静さを取り戻す。
どれだけ自分の中に屈辱を刻み込もうと、それを晴らす機会は永遠に訪れない。
何故ならあの男は記憶処理を施されて戦う力を失い、こちらのことは覚えてすらいないのだから。
そんな相手を痛めつけたところで、空虚でしかない。
ならばこの煮えたぎる感情は、一体どこへ向ければいいのか。
エレンは再び立ち上がり、いまだに騒がしくしている一団、その中心にいる男性教師に目を向けた。
(おのれ、ホムラシドウ……!)
無力な相手を下したところで意味はない。
万全の状態の相手を叩き潰してこそ、この屈辱は晴らされる。
何も覚えていない相手に雪辱を果たしたところで意味はない。
己の行いに対する後悔や恐怖を刻み込んでこそ、この『最強』に付いた瑕疵が拭われる。
わかっている、わかってはいるのだが……
(そちらだけが綺麗さっぱり忘れているというのは、不公平にもほどがあるでしょう……ッ!)
行き場のない感情は、その視線に並々ならぬ温度を与えた。
そこに込められたものはおよそ好意とは程遠いが、執着の類ではある。
熱の種類はともかくとして、熱視線と表現できるだろう。
そしてそれは恋バナ好きの女子高生の興味を引くのに十分すぎた。
「いやー、あの男は正直おすすめしませんぜ?」
「そーそー、なんたってわが校が誇る淫行教師なんだから!」
「マジ引くわー」
「――きゃっ」
いつの間にやら背後に立っていた女子生徒三人の存在に、エレンは不意を突かれて小さく飛び上がった。
その際に『最強』に似つかわしくない可愛い悲鳴が漏れたのだが、幸いにも指摘する者はいなかった。
三人の名前は把握していないが、空港で夜刀神十香と一緒にいたのを思い出す。
まさかこちらの狙いが察知されてしまったのか……顔に緊張を走らせるエレンに、三人は詰め寄った。
「それよりエレンさんだっけ? すっごい美人さんだねー」
「うちのクラスにもとんでもないのがいるけど、エレンさんなら全然負けてないもんね」
「マジ引くわー」
「な、何なのですか、あなたたちは……」
「ちょっと向こうで話聞かせてよ」
「あ、カメラ見せてもらってもいいかな? さすが本職って言うか、本格的だよねー」
「マジ引くわー」
「ちょ、ちょっと……!」
三人娘はエレンの腕を取ったかと思うと、そのまま引っ張って歩き出した。
彼女たちはおかしい、明らかに普通ではない。
その証拠に、一人はさっきから同じ言葉しか発していない。
これらの異常な行動は、精霊の力によって洗脳されているのだとしたら説明がつく。
(まさか、こんなところにまで手が及んでいるとは……!)
戦慄に顔を強張らせるエレンだが、この段階で迂闊な動きをとるわけにはいかない。
この三人を制圧するのは容易い事だが、それで標的に警戒を抱かせては今後に支障が出る。
エレンはなすがままに引きずられていくしかなかった。
その最中、標的である夜刀神十香に振り返る。
「…………」
「…………」
果たして目が合ったのは、何とも忌々しい男である。
精霊や顕現装置に関する記憶を失っている男が、最強と名高い悠久のメイザースを覚えているはずがない。
なのでこのような姿を見られたとして、瓦解するようなイメージも存在しないのだ。
だというのに、エレンの顔は屈辱と羞恥で真っ赤に染まるのだった。
幸か不幸か、すぐに視線を切ったため、男が憐れむような視線を向けていることには気づかなかった。
(おのれホムラシドウ……覚えていなさい!)
それはそれとして、心中でこの理不尽な状況に対する苛立ちはぶつけておくのだった。
「お、おお……!」
およそ三時間の空の旅を終えて目的地に到着した十香は、広がる景色に感嘆の声を上げた。
道路と砂浜の向こうの大海、空と海を分かつように伸びる水平線、快晴の空から降り注ぐ陽光が海面をキラキラと彩る。
目を丸く見開いて、とても視界に収まりきらない絶景に両手をバッと広げる十香に、士道は苦笑した。
ややオーバーなリアクションだが、こうも間近で海を見るのは初めてなのだろう。それも無理はない。
或美島……太平洋上に浮かぶ、総面積七〇平方キロメートル程の島である。
位置的には伊豆諸島と小笠原諸島の中間にあり、その二つと同様に所属は東京都となる。
わかりやすく特徴的なのは、円形に抉り取られて三日月のようになった島の北部の形状だろう。
それは他でもない空間震の爪痕なのだが、整然とした海岸線は重要な観光資源になっているらしい。
そこを中心として近年新たな観光地として再開発が成されたようで、そこらの来歴は天宮市と共通する部分がある。
「さて、まずは資料館に移動だな」
目の前の絶景に対して少なからず感動はあるが、引率の立場としてはいつまでも見入っているわけには行かない。
地図を覗き込んで、士道は次に向かう資料館の位置を確認した。
空港から然程距離はないので、歩いて向かう手筈になっている。
大多数の生徒は資料館という言葉の味気ない響きに不満を漏らしているが、修学旅行という名目上どうにか我慢してもらう他ない。
「ぬ……?」
はしゃいでいた十香が怪訝な声を上げる。
何かが気になるのか、周囲をキョロキョロと忙しなく見回しだした。
「十香、どうかしたのか?」
「むぅ……どうも誰かに見られているような気がしてな」
「あー……」
十香の疑問に思い当たる節がある士道は、微妙な表情を浮かべて背後を一瞥した。
そこにはこちら……というより十香へ向けてカメラを構える随行カメラマンの姿があった。
DEMの魔術師という彼女の正体を考えれば、十香へ関心を向けている背景にも察するところはあるが、それを馬鹿正直に伝えては余計な不安を煽るだけだろう。
十香が精霊であるという事情は別にして、この修学旅行を楽しんでほしいというのが士道の偽らざる本音だった。
「きっとあのカメラだな。ほら、飛行機の中でも写真撮ってくれただろ?」
「おお、あの女か。たしか飛行機の中でシドーが気にしていた……」
「それはアレだ……そう、外国人なのに日本語が上手いと思ってさ!」
「む、そうか。私も英語はいっぱい頑張っているからな。きっとあの女も頑張ったのだろう」
納得するように手を打った十香だが、先程の出来事を思い出してか声がトーンダウンしていく。
そういえばあの後、旅客機が間もなく着陸態勢に入ったため、満足に
またジトっとした目を向けてきたため、士道は頬に汗を滲ませながら適当な理由を口にした。
即座に考え出しただけあって理由としてはテンプレートもいいところだが、十香はそれ以上疑うことなく信じてくれたようだった。
もしこれが姪っ子あたりならば、こうも簡単に疑いを解いてはくれないだろう。
チラリと随行カメラマンの様子を窺うと、既にその姿はなかった。
しかしまだ何かが気になるのか、十香は首を傾げて海上の空を見上げた。
士道も十香の視線を追うが、そこにあるのは雲一つない快晴の空である。
これがいつもの天宮市ならば、
なので〈ラタトスク〉から回されてくる人員は、船舶でこちらに来る手筈になっている。
移動手段ならば空路の方が手っ取り早く安全だが、プライベートジェットを飛ばしては目立ちすぎるし、旅客機を利用するにあたっては持ち込む機材が問題視される可能性がある。
そういうわけで海路を利用する運びとなったのだが、先んじて出発したとは言え空路よりは大分時間がかかるはずだ。
まだその連絡がないところを見ると、到着までもう少しかかるだろうか。
アロハシャツに着替えた変態が、出発する前に「絶好の航海日和」とクネクネしていたのを思い出して、士道は渋面で深いため息を吐いた。
いっそ海で遭難でもしてくれないかと思うが、一緒にやって来る他の人員に罪はない、というかあの変態と船旅など同情すら湧いてくる。
まぁ、
「……なんだ? 急に雲が――――」
しかしそんな予想とは裏腹に……というよりも、そんなことを考えたせいと言うべきか。
にわかに灰色の雲が渦巻きだした空に、士道は目を細めた。
通常の天候の変化ならば早めの移動を促すだけで済むのだが、これは変化が急すぎるし、そして何より明らかに異常な点があった。
吹き始めた風には、
これまでの騒動を経て、士道にはそれを知覚することができるようになっていた。
十香は力を封印された状態で琴里は大事な会議とやらで出向中、七罪は天宮市で留守番中だ。
封印を施されていない黒と白の精霊二人は、今起こっている現象と結びつかない。
即ち、彼女たちとは全く別の精霊の現界。
そしてこのような現象を引き起こす精霊
戦慄のあまり、むしろ乾いた笑いが漏れた。
ここで極めて遭遇率が低いのに当たるなど、どれだけ日頃の行いが悪いというのか。
「岡峰先生! 雲行きが怪しい。資料館への移動を急いだほうが良さそうです」
「穂村先生? そんなに慌てて……って、真っ暗じゃないですかぁ!?」
「嵐が来そうだ……とりあえず生徒たちを避難させないと」
「で、ですねっ。み、皆さぁん、慌てず急いで移動しますよぉ!」
尊敬すべき先輩は状況の変化にアタフタするも、すぐに音頭をとり始めた。
生徒たちも流石というべきか、落ち着いて対応している。
天宮市の住人は空間震という災害に揉まれているため、こういった状況にも慣れているのだ。
むしろこの場で一番慌てているのはタマちゃん先生だ。
そこも彼女の愛嬌というべきか、苦笑を浮かべている生徒が散見する。
他の先生方もしっかり避難の方向に同調してくれているので、大きな問題はないだろう。
士道も避難誘導に参加するべきだが、相手がただの災害ではなく精霊ならば、他にできることがあるかもしれない。
同僚の女性教諭、村雨令音に目配せをする。
士道と同じく二年四組の副担任であり、同じく秘密組織である〈ラタトスク機関〉に所属する身である。
目の下の分厚いクマと不健康そうな肌色が目立つ彼女は、強さを増してきた風に晒されて倒れそうになっていた。
ふらついているのが常態のため、余計に堪えたのだろう。
士道は咄嗟に令音の体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「……ん、ああ、すまないね。しかし、この天候の変化は……」
「多分、〈ベルセルク〉――風の精霊です」
「……ところで、十香の姿が見えないようだが」
「えっ?」
見ると、確かに列を成して避難する生徒の中に十香の姿はなかった。
彼女が直前に何かを気にしていたことを思い出し、その方角に目を向けると、走り去っていく後ろ姿。
あの夜色の髪は、十香のもので間違いない。
先程の様子といい、もしかすると精霊の接近を感じ取っていたのかもしれない。
「……十香を追うといい。私のことを心配する必要はないよ」
「……わかりました」
令音から離れようとすると、何故だか寂寥感のようなものを覚えてしまうが、十香を放っておくわけにはいかない。
振り切るように、士道は風の中を駆け出した。
「十香ー、十香ー!」
走りながら呼びかけるも、声が届いた様子はない。
加えて十香の健脚っぷりでは、追いつくことも困難だ。
埒があかないと判断して、意識を集中させる。
すると、士道の体が淡い緑の光に包まれた。
顕現装置から生成された魔力の光である。
そのエネルギーを利用して展開するのは、己の意のままになる空間――即ち、随意領域。
これを単独で運用出来る者を、現代では魔術師と呼ぶ。
一般には秘匿されている情報だが、幸い周囲に人の姿は認められなかった。
随意領域によって風の影響を排除し、自身の脚力を強化すると、士道はあっさりと十香に追いつき、その手を握った。
「ぬ、シドーか。そんなに慌ててどうしたのだ?」
「どうしたはこっちのセリフだよ。ほら、風も出てきたしみんなと合流するぞ」
「おお、そういえばいつの間にか何やら奇妙な空模様になっているな」
「気づいてなかったのか……」
士道の言葉に、十香はあっけらかんと分厚い雲に覆われた空を見上げた。
だから接近してくる何かに気づくのが遅れたのは、きっとよそ見をしていたせいだろう。
いや、それが余りにも速すぎたせいかもしれない。
十香は平時においても勘が鋭い部類だが、それだけでは対応できなかった。
士道も特に警戒をしていなかったし、後ろからの接近ということで完全に不意を打たれた形となる。
「――へぶッ!?」
「――ぎゃぷッ!?」
後頭部にまるで膝蹴りでも食らったかのような衝撃を受けた士道は、十香を巻き込んで吹っ飛ばされ、一体となって数メートルの飛距離を叩き出した後、そのまま数メートルの距離を転がっていった。
魔術師はしばしば超人と称されるが、こういった不意打ちは明確な弱点となる。
自分の意のままになる空間を扱う都合上、意識していない事態への対応は難しいのだ。
この場合は、戦闘時ではないからと油断していたことに原因がある。
「いったたたた……十香、大丈夫か――――」
柔らかいクッションから顔を上げた士道は、自分が極めてマズい体勢をとっていることに気がついた。
まず、十香を押し倒したような格好になっている。
両脚の間に膝を割り込ませた体勢は、スカートが捲れ上がっていることも相まって非常によろしくない。
これでは見る人が見れば、というかこの状況だけを切り取ったら襲っているようにしか見えなかった。
そして先程まで顔を押し付けていた柔らかいクッションとは、十香の胸元に他ならない。
客観的にどう見えるかを意識して、士道の顔からサッと血の気が引いた。
淫行教師と罵倒されながらお縄につくイメージが浮かぶも、それを振り払う。
それよりも、まずは十香の無事を確かめなければならない。
「…………きゅう」
目を回して気絶しているものの、怪我の類はなさそうだった。
士道はホッと胸を撫で下ろして後ろを振り返った。
一体何がぶつかってきたのかと、ちょっと悪態でも吐いてやろうかと思ったのだ。
果たして、そこにあったのは――――
「――夕弦、どこっ……!?」
轟、と風が吹き荒れる。
咄嗟に随意領域で防いだが、無防備のままだったらあっけなく吹き飛ばされていただろう。
予想していたのとは違って、そこには一人の少女の姿があった。
結い上げられた橙色の髪に、水色の瞳。
しかし何よりも特徴的なのは、その格好だった。
暗色の外套の下のほっそりとしたボディラインを、ベルトのようなもので締め付けている。
右の手足と首には錠が施され、そこからさらに先の引きちぎられた鎖が伸びる。
見ようによっては拘束具か、マゾヒストとも取られかねない格好である。
それが霊装と呼ばれるものであることを、士道は知っていた。
そう、彼女は風の精霊・八舞の
ちょうど先程までこちらが立っていた位置に浮遊しているところを見ると、激突してきたのは彼女なのかもしれない。
彼女とは知らない中ではない。
数年前、まだASTに所属していた頃に風の精霊たちと遭遇した士道は、二人の勝負の裁定役をやらされていたことがある。
その最中に言葉を交わす機会は幾度もあり、その経験から災害として扱われる精霊に確かな人格を見出すに至った。
八舞が一人、耶倶矢……この少女は精霊に相応しい振る舞いを意識するあまり、士道の黒歴史を刺激するちょっと困った精霊だった。
しかし、今の彼女にはその気配はどこにもなく、整った顔立ちに浮かぶのは焦燥の色のみ。
その様子に、吐こうと思っていた悪態はすっかり引っ込んでしまった。
そしてそんな顔を見せられては、士道の中に放っておくという選択肢は存在しなくなる。
気絶した十香を背負うと、随意領域で風を防ぎながら精霊の少女へと歩み寄る。
「夕弦っ、夕弦っ、どこにいるのよあの阿呆…………ッ!」
焦燥と共に撒き散らされる風は、あたりのものを無秩序になぎ払っていく。
もっとも本人にその意思はないだろうが、無自覚に周りを吹き飛ばしていくからこその
この風の中で十香を背負ったままでは、士道の歩みは牛歩と言っても差支えが無い程度に遅い。
接近してこちらの存在を知らせるのが一番だが、この鈍牛の歩みで、しかも相手が移動する可能性も考慮すると接触は現実的ではない。
「――耶倶矢、おーい耶倶矢ー!」
存在をアピールするために呼びかけるが、声は届かない。
向こうがこちらを全く認識していないのは勿論、吹き荒れる風に阻害されて音自体が届いていないのだ。
ならば、と意識を再び集中させる。
音が風に阻害されるなら、阻害されない通り道を作ってやればいい。
理屈的には、随意領域で風を防いでいるのと同じ原理となる。
それを細く伸ばして、相手の耳元まで到達させればいいのだ。
イメージとしては糸電話のようなものか。
動きを止めている今がチャンスだ。
ただ、それは簡単な話ではない。
何も考えずに延長させれば、随意領域の密度が薄くなって風で破壊されかねないし、かといって細く成形するのは脳に極度の負担をかける。
少し太めのチューブを渡す……このあたりが妥当だろう。
『――――耶倶矢っ!!』
「――っ、誰!?」
果たして士道の声は、少女の耳まで届いた。
しかし存在を認識されるとは、注意が向くという意味でもある。
少女の視線が士道を捉えた途端、撒き散らされていた風が一方向へ集約した。
膨大で濃密な風の塊を随意領域で受け止めて、堪らず膝をつく。
風の抵抗を受けにくいよう、咄嗟に流線型に成形したのが功を奏した。
しかし士道の息は荒く、にじみ出た汗が頬を伝って顎先から地面へ滴り落ちた。
「はぁ、はぁ――――殺す、気かよ……」
「あんた……たしか、士道だっけ?」
どうやら、数年前にちょっと接触した程度の男を覚えていてくれたようだ。
向けられる視線に敵意はないことを感じ取って、胸を撫で下ろす。
「一体こんなとこで――ってのは聞くだけ無駄か。今日は一人なのか?」
「そう、夕弦! 夕弦がどこにもいないの! 士道、あんた何か知らない!?」
「ちょっと待て、何が何だか……」
「だから夕弦が見当たんないんだってば! 近くにいるのは感じるんだけど全っ然出てこないのっ!」
どうやらそういうことらしい。
少女――耶倶矢の言う『夕弦』とは、もう一人の八舞、彼女の双子の姉妹である。
顔は似つつも性格や体型は全く異なる二人なのだが、珍しいことに今は別行動中のようだ。
一体何があったのかという疑問は置いておいて、士道は確かに納得した。
大層な口調や大仰な身振り手振りで偉大さを示そうとする彼女が、こうして素の態度を見せているのは、それだけ余裕がない証拠だ。
そして耶倶矢が余裕を失うだけの何かがあったとして、それは姉妹である夕弦のことぐらいだろう。
副司令である
捜索に関してならば、少なからず力になれることもあるだろう。
精霊攻略という
「――っ、夕弦!? そっちにいるの……!?」
姉妹の気配を察知したのか、耶倶矢は風と共に飛び立って行ってしまった。
本当に、一体何が起こっているというのか。
取り残された士道は、十香を背負ったまま困惑した。
ともかく、風の精霊に追いつくのは困難というか、現状では不可能だ。
こうなってはどうしようもないので、修学旅行に合流するために来た道を引き返す。
その背中を追い立てるよう、強烈な風が吹き付けた。
またも不意打ちを食らって、士道は顔から地面へダイブした。
「――いってぇな! 耶倶矢、今度は何なんだよ――――」
戻ってきたであろう耶倶矢に振り返って、士道は目を見開いた。
予想通り、そこには一人の少女の姿があった。
しかし、それは耶倶矢ではなく、
三つ編みに括られた橙色の長い髪に、水色の瞳。
暗色の外套の下の肉感的なボディラインを、ベルトのようなもので締め付けている。
左の手足と首には錠が施され、そこからさらに先の引きちぎられた鎖が伸びる。
顔は瓜二つながら、髪型や体型、霊装の細部にも差異は見受けられるが、その最たる違いは纏う雰囲気だろう。
活発な印象を与える耶倶矢と違い、その少女――夕弦はどこか気怠げな雰囲気があった。
「――質問。士道……あなたは今、『耶倶矢』と口にしましたか?」
どうやら彼女も、こちらのことを覚えていてくれたらしい。
それにしても、と士道は雲に覆われた空を仰いだ。
片方が消えたと思ったら、行方不明のもう片方が現れた。
運命の悪戯としか思えない……なんというニアミスだろうか
「懇願。馬鹿の耶倶矢は一体どこにいるのでしょうか…………教えて、ください」
そして片割れを探しているのは彼女も同じようだ。
困惑を深めた士道は、しばらくポカンと口を開けるのだった。
というわけで終了。
果たして双子が顔を合わせる日は来るのか。