士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
本当は昨夜に更新するつもりだったけど、見事にぐっすりでしたね。
風が夜の森を駆ける。
草木が悲鳴のようなざわめきを上げ、風が通り抜けたあとに散った木の葉が、絨毯のように敷き詰められていく。
「――――耶倶矢っ、待ってください耶倶矢……っ!」
風の中心に……いや、風と一体となって木々の間を駆け抜ける一人の少女の姿があった。
橙色の長い髪を一つの三つ編みに結わえた、浴衣姿の少女――――万象の一切をなぎ払う嵐を顕す風の精霊・八舞が片割れ、夕弦である。
その水色の瞳の先には、懐かしい後ろ姿があった。
常に共に在り、真の八舞の座を賭けて競い合ってきた双子の姉妹、耶倶矢。
自分も一時身に付けた来禅高校の制服を纏っていたが、見間違えるはずがない。
姿を見せなくなってから久しい彼女の姿を目にした途端、夕弦は衝動的に駆け出した。
顔を合わせて、何を言うべきかはわからない。
いつものように、耶倶矢を焚きつけるための挑発的な態度を取れずに、みっともなく泣き崩れてしまうかもしれない。
それでも、今はただその顔が見たかった。
そこで夕弦は自分の思考に違和感を覚えた。
それを無視できずに、その場に立ち止まる。
(疑問。何故、夕弦はこれが最期などと……?)
耶倶矢と合流したのならば、またかつてのように競い合いが始まるはずなのだ。
そして自分は次の勝負こそ、彼女に勝ちを譲り――――
(曖昧。そういえば、一五〇回目の勝負の結末はどうなったのでしたか……)
記憶にある耶倶矢との最後の勝負を思い出そうとし、夕弦は頭を振って思考を打ち切った。
まだ決着していない以上、また引き分けになったに決まっている。
それよりも、今は耶倶矢を追うことの方が重要だ。
随分と小さくなった背中を目掛けて、再び駆け出す。
この森というフィールドは、障害物が多く動きが制限される。
いつまでも中々追いつくことができないのは、そのせいだろう。
それは耶倶矢も同じはずだが、木々の間を縫うスピードに淀みはない。
かつて障害物競走をした時はこちらが勝ってしまったのだが、いつの間にこのような動きを身につけたのだろうか。
(驚嘆。いえ、流石というべきでしょうか)
姉妹の成長に頬を綻ばせた夕弦だが、いつまでも手をこまねいているわけにはいかない。
上空なら動きの制限はないが、やはり木々に阻まれて耶倶矢の位置が視認できない。
捕まえるためには、やはり地上から追いすがるしかないが……いや、その前提こそが生温い。
夕弦は立ち止まると、手を高く掲げた。
「召喚。一切合切吹き飛ばしなさい――〈
精霊の持つ権能を顕す絶対の矛――天使。
無機質な片翼が夕弦の左肩に顕現し、局所的な暴風を巻き起こして周囲の木々をなぎ払った。
森の中に円状の広間が出来上がる。
その中央に立ったまま、突然の風に動きを止めた耶倶矢を見据える。
随分と驚いた顔をしているが、この程度でそんな反応を見せるとは、しばらく見ないうちにどうやら平和ボケしてしまったようだ。
真の八舞に相応しくなってもらうために、勝負の中で勘を取り戻してもらう必要があるだろう。
かつての騒がしい日々を思い出し、口元を緩める。
まず、なんと声をかけるべきだろうか。
久しぶりという挨拶か、そんなものかという挑発か、それとも不甲斐ないという叱責か。
なんにしても、まずは熱くなった目元をどうにかしなければならない。
悟られないようにできるだけ目を細めながら耶倶矢へと歩み寄って、その数歩前で足を止める。
足を止めた理由は躊躇いからでも感極まったからでもなく、純粋な疑念からだった。
耶倶矢の周囲を覆うように、
それを接近することによって感じ取った夕弦は、その力場に触れる前に立ち止まった。
これと同じようなものには覚えがあった。
九十九回目の勝負の際に、勝利条件となった士道が纏っていた力場に似ているのだ。
それに思い至った途端、疑念は警戒へと変じた。
即座に距離を取り、
「警告。あなたは何者ですか。それ以上耶倶矢の姿を真似るならば、一切の容赦はしません」
「――残念、気づかれてしまいましたか。まあ、これだけ旅館から距離を取れば十分でしょう」
力場を纏った耶倶矢の姿が、別の誰かのものへと変じていく。
機械の鎧を纏った、長い髪の女だった。
その顔に見覚えがあるような気はするが、名前は浮かんでこない。
それよりも、自分の中で沸き立つ怒りの方が問題だ。
それは単純に騙されたことに加えて、耶倶矢の姿を利用してこちらを欺いた目の前の女への怒りであると同時に、何より気が逸っていたとはいえ、簡単に騙された自分へ向けたものでもある。
しかし、どれだけ怒りを抱えても夕弦はそれを表に出すことはなく、あくまでも気怠げな表情を崩さない。
ただ、その身から発せられる霊力は何よりも雄弁だった。
周囲の空気が爆ぜて、パチパチと破裂音が連なる。
口には出さずとも怒気は霊力の乱れとして表れ、周囲の大気をかき混ぜて乱風を巻き起こした。
常人では立っているのも困難な風だが、女は佇んだまま表情を崩すことはない。
それどころかむしろ、口元に笑みを浮かべて恭しい動作でお辞儀さえしてみせた。
「こうして自己紹介するのは初めてになりますね。エレン・メイザースと申します。率直に言わせてもらうのならば、あなたがた精霊を狩る者です」
しかし慇懃な態度とは裏腹に、エレンと名乗った女は端的に「自分は敵だ」と言ってのけた。
それに対する夕弦の反応も、また端的だった。
「……〈
風が夕弦を包み込み、身につけていた浴衣が光となって解けて、代わりに精霊の鎧である霊装が現れる。
変化はそれだけに留まらず、夕弦は左手を掲げて己の天使の更なる機能を開放した。
「〈
掲げた左手の中に出現した先端に刃の付いた鎖のペンデュラムこそが、夕弦の振るう矛としての〈
完全なる戦闘態勢……霊装を纏って、翼を広げ矛を構えた姿は、目の前の相手に対する最大限の敵意を示している。
そもそもが耶倶矢の姿を利用して自分を欺いた相手だ。
夕弦の頭の中から、躊躇や容赦といった単語は消え失せていた。
間を置かず、ペンデュラムの刃先がエレンへと襲い掛かる。
それ自体が意思を持っているかのように不規則に動き回る様子は、宙を翔ける蛇を思わせた。
ただ、そんな感想を抱けるのは、単純に速い上に捉えどころのないその動きを察知できる者……それこそ超人じみた動体視力の持ち主ぐらいだろう。
しかし――――
「成程、たしかに速く鋭い。風の精霊に相応しい攻撃です。しかし、少々分かりやすすぎますね」
「……っ」
エレンは視認すらせずに防いでのけた。
何らかの力場に阻まれたのか、ペンデュラムの刃先は目標に届く寸前で動きを止めていた。
夕弦は驚きに息を呑むが、それで動きを止めるようなことはない。
士道と似たような力を使うのならば、こうして攻撃が通らない可能性も十分にありえるのだ。
自分の周囲に螺旋状に鎖を纏わせ、更なる風を巻き起こす。
島の上空を雲が覆い、月が隠れて暗夜が訪れる。
その中で顕現するのは暴虐の嵐である。
辺り一帯の木々を根こそぎ掘り起こし、それどころか土壌すら捲り上げ、巻き上げられた土砂で土色に染まった風はさながら砂嵐のような様相をていしていた。
常人がこの中に立ち行ったならば、弾丸の如く飛び回る木々に粉砕されるか、殺到する土砂に巻かれてすり下ろされるか、荒れ狂う風に振り回されて物言わぬ血袋になるかだ。
だが、夕弦は士道という前例を知っている。
この程度では終わらないということもまた、予想の範疇だった。
土色の風を切り裂いて、光の刃が閃く。
それは夕弦の死角から振るわれたものだが、この一帯の大気は彼女の支配下にある。
そういう意味で、視覚的な死角は死角となりえない。
視認すらされないまま、光の刃は鎖に絡め取られた。
「単調。この風の中で動けることは称賛に値しますが、狙いはへっぽこです」
「……意趣返しというわけですか」
「否定。いいえ、これでチェックメイトです」
「舐められたものです。この程度で――――かはっ」
エレンの口から苦悶に喘ぐ声が漏れる。
その目は驚きに見開かれていた。
この一帯の大気は、風の精霊の支配下にある。
その中には当然、人間が生きる上で欠かせない要素も含まれている。
「当然。呼吸が出来なければ、あなた方人間が活動することは不可能です」
そう、夕弦はエレンの周囲から酸素を取り上げたのだ。
(全く、よくもやってくれる……!)
現代の魔術師は、自身の脳で奇跡の技術と称される顕現装置を制御する。
それは最強の魔術師であるエレンも例外ではない。
そういった意味でも、脳を働かせるのに必要な酸素を奪われるのは致命的だ。
ワイヤリングスーツには簡易的に生命維持の機能が用意されているが、そこから供給される酸素すらも片っ端から取り上げられていく。
随意領域で流出を防いでいるはずだが、こと大気の成分に関しては相手の支配力の方が上回っているのだ。
この状況はエレンにとって、窮地と言ってもいい。
しかし、その口元に浮かぶのは好戦的な笑みだった。
反転した〈ハーミット〉といい、目の前の彼女といい、己の力を振るうべき相手の出現に喜びを隠しきれないのだ。
これは先程の〈プリンセス〉に歯応えがなさ過ぎた反動でもある。
AAAランクの精霊というからこの〈ペンドラゴン〉を持ち出したというのに、あれは拍子抜けにも程があった。
だがそれもこうして強敵との邂逅が叶ったのだから、良しとするべきだろう。
差し当たっては、この状況から抜けださなければならない。
このエレン・メイザースを相手にチェックメイトとはあまりにも不遜だが、このままではその通りになりかねない。
見渡すと、随意領域の外は〈ベルセルク〉の鎖によって覆われつつある。
こちらの離脱を阻む意図が見えるが、それは翻せば、距離を取りさえすればどうにかなるということを示している。
しかしこの鎖は、こと守りに関しては強固だ。
破るには相応の火力がいるだろう。
ならばと、エレンは
こちらの自由を奪おうとするのなら、あちらもまた自由に動くことはできない。
かくして必中の間合いで、必殺の一撃は放たれた。
「――貫け、〈ロンゴミアント〉……!」
「……っ、これは――――」
砲門から伸びる長大な魔力光が、地面に突き刺さり巨大な穴を穿つ。
風の精霊は反応速度においても尋常ではなく、攻撃を放つ直前に距離を取って退避していた。
そしてそれは、エレンの周囲の大気の支配を手放したことに他ならない。
大きく息を吸うと、脳に酸素が行き渡って賦活していく。
「これを避けましたか。流石は風の精霊。逃げ足も相応の速さのようですね」
「……不快。我ら八舞への侮辱は、万死に値します」
「ああ、そういえば――あなた方は双子の精霊でしたか」
精霊の中でも例外的に、〈ベルセルク〉は二人で一組の精霊である。
それは恐らく、元は一つの
なので、その無軌道な被害から優先対象として設定されているものの、彼女たちは特段エレンの興味を引く存在ではなかった。
二つに分かれて出力の落ちた
悲願のために狩ることに否はないが、そこにあるのはそのための目的意識のみで、高揚の類はありえない……そのはずだった。
しかし、今彼女はこうして完全な
最強の魔術師の相手としては、この上なく申し分ない。
「〈ベルセルク〉……いえ、夕弦さんでしたか? 一先ず、あなたには感謝を。この島では散々な目にあいましたが、おかげで実りのある報告を持ち帰ることができそうです」
「不要。あなたのような人間からの感謝などいりません」
「お礼というわけではないですが――あなたの探している耶倶矢さんが今どこにいるのか……それを知りたくはないですか?」
「――っ、まさか、あなたが耶倶矢を……!?」
「残念ながら、それは違います」
エレンは首を横に振ると、夕弦を――正確にはその胸元を指差した。
「耶倶矢さんはあなたの中にいます。それがどういう意味かは、あなた自身がご存知でしょう?」
ぐらり、と視界が揺らいで周囲の音が遠ざかり、鼓動の音だけがいやに存在を主張する。
そんなはずはない。
だって自分にはその瞬間の記憶がない。
だからこれは相手の戯言に過ぎない。
こちらを惑わすための嘘に決まっている。
だというのに、夕弦の頭の中には今の言葉を否定する考えと共に、何故だか納得も存在した。
それはいくら否定しようとも消えずに、むしろ強く存在を主張してくる。
何故、現界した際に近くに存在を感じるにも関わらず、どこにも姿が見えないのか。
それが今の戯言に過ぎないはずの指摘で、説明がついてしまうからだ。
勿論、エレンの言葉に具体的な根拠はない。
可能性の上でならば、もっとマシな理由もあるだろう。
しかし、否定する根拠を探そうとするあまり、夕弦は気づいてしまったのだ。
「否定――――」
耶倶矢の持っているはずの
「――――否定、否定否定否定否定否定っ、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘っ!!」
荒げられた声と共に、制御を失った風が無軌道に周囲を蹂躙していく。
その場に膝をついて頭を抱え、髪を振り乱しながら夕弦は必死にその事実を否定しようとした。
こんな最悪の結末はあってはならない。
生き残るのは自分ではなく、耶倶矢でなければならない。
これは何かの間違いで、今も彼女は迂闊にも、どこかで迷子になっているだけなのだ。
だって、もし、仮に、万が一……いや億が一の可能性の上でも、これが事実なのだとしたら……自分は何よりも大切な存在を、この手で――――
「あ、あ――――」
目の端から涙を流しながら、夕弦は虚空に視線をさまよわせた。
しかしその瞳には何も映らない。
ただ深い虚のような絶望が、待ち構えるようにその口を開けている。
「――――あ」
そこに精神が転がり落ちていく寸前、夕弦の意識は電源を落とすように暗転した。
その最中に、何よりも大切な半身の気配を強く感じ取るのだった。
「――〈バンダースナッチ〉隊の反応、消失しました!」
空中艦〈アルバテル〉の艦橋内に、オペレーターの声が響き渡る。
同時に、メインモニターに表示された光点のいくつかが明滅して消え去った。
場所は或美島の海岸……〈プリンセス〉捕獲のために遣わした一部隊である。
その報告に、艦長席に腰を下ろしたまま、パディントンは怪訝に眉を顰めた。
少し前に、〈プリンセス〉は第二執行部長殿によって無力化されたはずだ。
(あの小娘め、よもや失敗したか……?)
現在は〈ベルセルク〉に対応しているエレン・メイザースへ向けて、小さく舌打ちをする。
DD-007〈バンダースナッチ〉。
DEMが開発したこの兵器の最大の特徴は、機械でありながら顕現装置を使用できる点にある。
無論、魔術師が扱うように柔軟な制御は望めないが、自立稼働してCR-ユニットを扱えるという一点で、戦力としての価値は十二分にある。
少なくとも、何の力も持たない一般人にどうこうできる代物ではないのだ。
それがこうもあっさりと壊滅したということは、何らかの取りこぼしで〈プリンセス〉が復活したと見るのが自然だろう。
不確定要素として懸念されているAST隊員の少女には別の〈バンダースナッチ〉を付けているし、かの最悪の精霊は旅館から離れていない。
「〈バンダースナッチ〉の記録映像を出せ」
「了解!」
メインモニターの映像が切り替わり、力なく左右の腕を掴まれた〈プリンセス〉の姿が表示される。
この艦には、〈バンダースナッチ〉に搭載されたカメラによる記録映像が、リアルタイムで送られてきている。
壊滅したのなら、その直前の記録映像の中に原因が映されているはずなのだが……
「何だ、これは。一体何が起こっている……?」
間もなくメインモニターは光を遮られたかのように暗転し、妖しい笑い声とともに金属がねじ切られるような音が響いたかと思うと、そこで記録映像は途切れた。
そしてそれは、〈プリンセス〉捕獲のために動いていた全ての個体の記録映像に共通していた。
これでは何が起こっているのかが全く分からない。
パディントンは、自分がまるでホラー映画に放り込まれたかのような気分に陥った。
そんな感想を抱く程度には、今の映像は理不尽で得体が知れなかった。
アームレストに拳を叩きつけて、体の芯からくる震えを払拭する。
「――艦長!」
「今度は何だ!?」
「旅館付近に配置していた〈バンダースナッチ〉の反応も、ついさっき消失しました!」
「何だと? まさかあのAST隊員が――――」
「あ、それ私です」
艦橋内の緊迫した雰囲気にそぐわない、平和な声が響いた。
艦長席の横に、いつの間にか栗色の髪の少女の姿があった。
完全に不意を突かれ、パディントンの思考が僅かな時間、空白で埋め尽くされる。
「それにしても、この随意領域……でしたっけ? これ、便利ですね。私、英会話はそれほど得意じゃないんですけど、おかげでこうして皆さんとお話できるみたいです」
「な、何だ、貴様は……」
「さあ? 当ててみてください」
パディントンがどうにか発した疑問に対し、少女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
明らかにふざけた態度だが、この場でそうしていること自体が彼女の異常性を際立たせる。
実際に誰にも悟られずにこの空中艦に侵入したのだから、只者ではないことはまず間違いない。
こんな真似ができる人間は魔術師ぐらいのものだが、少女が身に着けているのはワイヤリングスーツやCR-ユニットではなく、ただの簡素な和服だ。
それともアデプタス・ナンバーの上位のように、装備の補助もなしに随意領域を操るだけの腕前があるのか。
しかし、そもそも彼女は口ぶりからして、魔術師ではない可能性もある。
警戒を露わにして自分を睨みつけてくるパディントンに、少女は小さく肩を竦めた。
「じゃあ、ヒントをあげますね――〈
少女の周囲が、空間が歪むかの如くぼやけていく。
同時に艦橋内にアラームが鳴り響き、警戒を促す赤色灯が明滅する。
これは艦内に霊波反応を検知した際の反応である。
それでようやく、パディントンは彼女の正体に思い至った。
「貴様、まさか精霊か!?」
「正解です♪」
髪、肌、霊装……白く染め抜かれた虚の中に、赤と青の色彩が浮かび上がる。
歪んだ空間を切り裂いて現れたのは、最悪の精霊と同じ
「れ、霊波反応のパターンに完全に該当するものがありましたっ……これは〈デイドリーム〉――いえ、〈クイーン〉です!」
「あ、ちゃんと広めてくれたんだ。帰る前に社長さんにお土産買っていかないとですね」
オペレーターの悲鳴じみた報告に対して、白い精霊はどこまでも緊張感がなかった。
|白昼夢〈デイドリーム〉に|女王〈クイーン〉という識別名に、ようやくパディントンの頭がまともな動きを取り戻した。
(何故だっ、何故そんな
それは識別名以外の情報がほとんどなく、冗談交じりに幽霊扱いをされていた精霊のはずだ。
そんな存在に対して突然の
驚愕を顔に張り付けたまま、目の前に現れた精霊への対応を思索するパディントンだが、状況に変化が訪れる。
艦橋と艦内通路をつなぐドアがスライドし、艦内に常駐する魔術師部隊が雪崩れ込んでくる。
精霊が乗り込んでくるのは想定外とはいえ、外敵が侵入した場合の対応策は用意してある。
アラームを察知してこの場にやってきた魔術師部隊は、その一つだ。
この迅速な動きはよく訓練されたものであり、その点に関しては申し分がない。
ただ、懸念を上げるとしたら、それは彼らがこの精霊を退ける未来が全く想像できないことだ。
相手は能力も実力も分からない精霊だが、そもそも精霊とは人の形をした災害に他ならない。
そして実際――――
「はい、それじゃあおとなしくしててくださいね?」
白い精霊がパンと手を打ち鳴らしただけで、魔術師部隊は無力化されてしまった。
身動きを封じられた魔術師たちが、重い音を立てて倒れていく。
何が起こっているのかが全く分からなかった。
ただ一つ、分かっていることがあるとしたら、それは自分の身にかつてない危機が訪れているということだ。
今のところ、この白い精霊は積極的な攻撃の意思を見せていないが、その気になった瞬間にこの〈アルバテル〉が墜ちるのは疑いようもない。
額から流れた汗が頬を伝い、口の周りに蓄えた髭を濡らしていく。
片手を頬に当て、〈クイーン〉はいかにも困ったように、ふうと息を漏らした。
「実は私、どうしようかなと思っていまして。先程はあの機械人形に襲われて、それでしかたなく撃退したんですけど……立場的にちょっとマズイかなぁって」
この精霊が何を言っているかは判然としないが、機械人形とは〈バンダースナッチ〉のことだろう。
旅館付近に配置していた個体は件のAST隊員への対応だが、確かに偶然通りがかった者を無力化しようと襲い掛かった可能性は考えられる。
しかし、それが偶然にもこちらが存在を把握していない精霊だったというのは、いくら何でも悪い冗談だとしか思えない。
まるで悪夢の中にいるような心地だが、現実に起こってしまったのだから対処が必要だ。
魔術師部隊は封殺されてしまったが、〈バンダースナッチ〉を呼び寄せればとりあえずの戦力は確保できる。
しかし、〈バンダースナッチ〉の柔軟さに欠ける顕現装置の制御は、この艦橋での戦闘行為には不向きだ。
その結果墜落したとなっては、元も子もない。
こちらの手持ちの武力が使えない以上、それ以外の手段での対処となるが、下手な事をした瞬間にこの艦橋を吹き飛ばされてもおかしくはない。
こんな相手に対話を持ちかけようとする者がいたとして、まず正気ではないだろう。
緊張に汗を伝わせながらパディントンは拳を握り締めると、多大なエネルギーを消費してその口を開いた。
「……な、何が目的だ。報復か?」
「いえいえ、私にあなた方と敵対する意思はありません。ただ――――」
パチンと、白の女王が指を鳴らす。
「――――それはそれとして、あのような
激しい振動と共に爆発音が響く。
「何事だ!?」
「く、空間震です! 極小サイズの空間震により、右舷に被害が出ています!」
そんなことが出来る存在など、この場において一人しかいない。
白い精霊に目をやると、ふざけたことに笑顔で手を振ってくる始末。
この時ばかりは、目の前の得体の知れない精霊への恐怖や警戒より、苛立ちが勝った。
ギリと奥歯を噛みしめる。
次いで、別のクルーが叫ぶように更なる被害の報告を上げた。
「――艦長! 〈バンダースナッチ〉隊のコントロールが……今の空間震で、制御室が破損しています!」
「何だと!? くっ……復旧を急げ! 最悪、別の制御室の機能を〈バンダースナッチ〉の制御に回してもかまわん!」
「それでは〈アルバテル〉の航行機能に支障が――」
「いいからやれ!」
今の状況で〈バンダースナッチ〉隊を失うということは、戦力の大幅なダウンを意味する。
それでこの任務が失敗したとなれば、当然追及の矛先はこちらに向くだろう。
一刻も早いリカバリーが必要なのだ。
「それじゃあ、健闘を祈ります。頑張って下さいね?」
そしてこの状況を作り出した張本人は、こちらに声援を送って艦橋から忽然と姿を消した。
精霊の所業だ、まるで幻の如く掻き消えたのは今更驚くに値しない。
しかしその態度に、何より突如として降って湧いた理不尽と不運に、パディントンは激昂せずにはいられなかった。
再度、アームレストに拳を叩きつける。
「ふ、ふざけるなぁーーーー!!」
「これは……」
動きを止めた夕弦に対して、エレンは目をすがめた。
同時に、辺りを蹂躙していた風はすっかり鳴りを潜めていた。
このまま仕留めるのは容易いが、それよりも直前の様子が気になる。
思い出されるのは、今もあの氷嵐の結界の中にいるであろう〈ハーミット〉だ。
彼女が反転する際にも、似たような気配を漂わせていたのだ。
「――アイクに思わぬ手土産が出来そうです」
とはいえこれは直感に過ぎないので、彼女の状態をより具体的に知る必要がある。
上空に待機している〈アルバテル〉に搭載されている観測機ならば、詳細がわかるだろう。
緩んだ口元を引き締めて、エレンはインカムに呼びかけた。
『――――』
しかし応答はないどころか、通信に障害が発生しているかの如くノイズが走る。
怪訝に眉を顰めて空を見上げる。
インカムの故障か、何らかのトラブルか。
いずれにしても、このまま〈ベルセルク〉を放置していくわけにはいかない。
このような形での決着は消化不良が否めないが、ここで私情を挟んで万が一にでも取り逃せば、またかつてのように拭い難い汚点となりかねない。
反転状態ではないにしても、連れ帰れば良い実験材料となるだろう。
「彼女を確保してください――〈バンダースナッチ〉隊、どうしたのですか?」
周囲に控えている〈バンダースナッチ〉に指示を下すが、そちらもまた応えがなかった。
まさか、先程の戦闘の余波で全機破壊されてしまったとでも言うのだろうか。
見渡すと機械の残骸が転がっているが、量的に全機分には届かない。
遠目に、嵐に蹂躙された部分と森との境目に、沈黙している個体の姿が確認できた。
これは〈アルバテル〉に起きたトラブルによって、制御に問題が発生している可能性がある。
だとしたら、動かなくなったガラクタに用はない。
ここは自分で運ぶしかないだろう。
そうして夕弦に向き直ると――――
「なに、ここ……? あれ、私なにしてたんだっけ」
そこには水着姿の少女が、困惑した様子で立っていた。
彼女は〈ベルセルク〉の片割れ、耶倶矢である。
双子だけあって顔はそっくりだが、体形や身に纏う雰囲気には明らかに差異がある。
同じ体を共有している二人の入れ替わりについては報告を受けている。
何故か水着姿なのも、前に入れ替わった際の状態が再現されているのだろう。
なので驚くには値しないが、見たところ反転する手前の気配は消え去っている。
「こんばんは、耶倶矢さん。良い夜ですね」
「良い夜って、思いっきり曇ってるんだけど……って、あんた確かエレン……だっけ?」
「覚えていただき、光栄です」
「そりゃ忘れないわよ。あんな見事に盾にされてさ――ぷっ、くくく……お、思い出したら笑っちゃいそう」
「…………その話はともかく」
耶倶矢の態度にエレンは頬をひくつかせた。
昨夜、枕投げなる過酷な演習に巻き込まれたのは記憶に新しい。
そこで不覚を取って、気絶してそのままターゲットと同じ部屋で眠るという失態を侵してしまったのだ。
おかげで昨夜計画していた作戦行動は白紙になってしまった。
枕投げには夜刀神十香と同部屋だった彼女も参加していた。
思えばあの時から尋常ではない動きをしていたが、精霊だったのなら納得である。
エレンが苦虫を噛み潰したかのような顔をしていると、耶倶矢はハッとした表情を作ってから、思い出したかのように大仰な身振りで手をかざした。
「強者と強者は引かれ合う、か……くくっ、斯様な宵闇の中で我と邂逅するとは、貴様も実は只者ではないと見える」
「ええ、私が強者であるという点は肯定しましょう」
「え、うそっ、あんな『ぷぎゃっ』とか言ってのびてたのに!?」
「ですから、その話はもう結構です!」
耶倶矢の指摘にエレンは地団太を踏んだ。
そして深呼吸を繰り返して余裕を取り戻す。
今は相手のペースに乗せられている場合ではないのだ。
最強の魔術師は己の目的に立ち返った
「先程まで、あなたの姉妹――夕弦さんと話していました」
「――! 夕弦が近くにいるの!?」
「ええ、彼女はあなたのすぐ近くにいますよ」
「どこっ? 夕弦、どこにいるの!?」
この島での様子や〈アルバテル〉からの報告で、二人が互いを探していることは知っていた。
耶倶矢の姿を利用して夕弦をおびき寄せたのも、そのためだ。
しかしその理由について、エレンは誤解していた。
何故か争っている、程度の情報にその理由が付記されたのは、数年前に日本の対精霊部隊の魔術師が彼女たちと接触してからだ。
元は一つの存在だった風の精霊は、再び一つに戻るためにその座を賭けて勝負をしている、と。
なのでエレンは、彼女たちが一つに戻った自覚がないまま、勝負の決着を求めているのだと解釈していた。
夕弦に対して自覚を促したのも、自身の力を振るう機会をくれたことへの、本当にただの礼のつもりだったのだ。
だが結果として彼女は反転の兆候を見せた。
つまり、求めているのは勝負の決着などではなかった。
そしてそれは耶倶矢も同じなのだとしたら――――
「あなたの中に息づく彼女の鼓動を感じませんか? 勝手ながら、真なる風の精霊の誕生を祝福させていただきましょう」
「なに、それ……全っ然意味わかんないわよ――〈
風を纏い、耶倶矢が霊装姿に変じる。
その乱れた感情を示すように、辺りに再び風が吹き荒れ始める。
その様子を見て、エレンは確信した。
存在を賭けて争っているはずの双子はその実、相手を失うことを極度に恐れているのだと。
それさえわかれば、かつての〈ハーミット〉のように反転まで追い込むのも難しくはない。
「……あんた一体何なのよ。ふざけたこと言ってるとぶっ飛ばすわよ!」
「ふざけたこと? 私はあくまで事実を口にしているにすぎません」
「だっておかしいでしょっ! 〈
顕れたのは片翼と
そして凝縮した嵐を纏い、耶倶矢は突撃を開始した。
「夕弦はっ、夕弦は凄いんだから!」
尋常ではない速度を以て、破壊の渦が周囲を食い散らかしていく。
一度、二度、三度……突撃の度に速度は増していき、大地には無残な爪痕が刻まれていく。
口角を吊り上げながら、エレンはその突撃を掻い潜る。
片割れの技巧的な戦い方とは対照的に、こちらは勢いに振り切っている。
その分動きは分かりやすいが、対応しきれるかというと話は別だ。
まず、この速度に追いすがるのはエレンの実力を以てしても困難だ。
その点は流石は風の精霊、と言っておくしかないだろう。
加えてその威力も尋常ではない。
もしまともに受け止めたら、随意領域ごと粉砕されかねない。
これは攻撃に関しても同じであり、半端な威力ならば弾かれてそれまでだ。
この〈ペンドラゴン〉の主武装であるレイザーブレイド〈カレドヴルフ〉を以てしても、それは覆しがたい。
ならばそれ以上の威力を持つ〈ロンゴミアント〉で対抗するしかないが、その場合は正面からの撃ち合いになる。
相手の加速を考えれば、タイミングは極めてシビアなものとなるだろう。
無論、そうだとしても仕損じるつもりはないが、彼女を討滅するのは今ではない。
まずはより深い絶望へ突き落とした上で、その瞬間を見届けなければならない。
「あいつは誰より速くてっ、羨ましいぐらいスタイルが良くてっ、堪んないぐらい可愛くてっ、無愛想だけどなんだかんだ思いやりがあって! そんな夕弦が生き残れないなんて、ウソに決まってるでしょっ!!」
相手が何を主張しようと、エレンのやることに変わりはない。
しかしどうにも、これは耳に障った。
互いを思いやる姉妹……実に結構なことだ。
エレンの口元に、皮肉気な笑みが浮かぶ。
神を信じたことなどないが、この時ばかりは天の配剤というやつに感謝せずにはいられない。
この精霊に絶望を突き付けるのが、自分で良かった。
「――――けれど、あなたはそれ程大切な姉妹を、その手で殺めたのではないのですか?」
嵐が止み、破壊の渦が掻き消える。
エレンの言葉に、耶倶矢は顔面を蒼白にして
ドスっと鈍い音を立てて鋭利な先端が大地を穿ち、そのまま突き立った。
「え……あ、い――――」
そんな事実などあるはずがない。
だけど否定の言葉を発しようとしても、喘ぐような声が漏れるだけだった。
上手く呼吸が出来ず、自分が今どうしているのかさえもわからなくなる。
力なく落とした手が土に触れて、耶倶矢はようやく自分が空から大地に落ちていることに気が付いた。
地面に座り込んで、墓標のように突き立った自身の天使を呆然と見つめる。
それが赤い血に塗れているように見えて、耶倶矢は堪らず地面に頭を打ち付けた。
(――――わけない、そんなわけない……!)
何かを刺し貫いた感触と、力なく倒れる誰かの姿。
否定しようとすればするほど、ありえない記憶が色づいていく。
頭を掻きむしって追い出そうとしても、かえって鮮明になるばかり。
耶倶矢は自分の手に噛みついて、それが事実だと認めようとする意識に痛みで以て対抗した。
口の中に錆臭い味が広がり、ポタポタと流れる血がしたたり落ちる。
否定して否定して、否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して――――ふと自分の手を見つめる。
噛み跡から流れ出した血によって、真っ赤に染まっていた。
それがありえないはずの記憶と重なって――――
「あ、あ、ああああ、あああああああああああああああああああああああああああああ――――」
耶倶矢の脳裏に、慟哭の記憶が蘇る。
横殴りの風が地表を捲り上げ、木々をなぎ払っていく。
突如として太平洋上の無人島に飛来した台風は、大地に無残な爪痕を残していた。
その中心の空白地帯に、二つの片翼の影がある。
一方は立ち尽くし、一方は倒れ伏していた。
鎖の散乱した地面の中心がじわりと、赤黒く染まっていく。
力なく提げられた
「――――どうして、避けなかったのよ」
「……称賛。あまりにも速くて、避けられませんでした」
「――っ! ……当然よ。我が
「……流石。それでこそ真の八舞です」
「ふっ、ようやく認めおったか……くっ、くくくっ――――かーっかっかっか!」
嵐の中に哄笑が響く。
しかしそれはすぐに鳴りを潜め、嗚咽混じりの声に変わった。
取り落として地面に転がった
同時に、辺りに散乱した鎖も光となって消えていく。
その儚い様子は、どうしようもなく終わりを感じさせてならない。
それを認めたくなくて、堪らずに叫ぶ。
「そんなわけないじゃんっ。私より速いあんたに避けられないわけないでしょっ!」
「……疑問。何故、泣くのですか……?」
「決まってるでしょ! 私はあんたに生きてて欲しかったの……ッ!」
その哀切に満ちた声に、倒れた少女は僅かに目を見開いた。
さも意外なものを見たかという様子だったが、すぐに目を細め、力なく笑う。
「……納得。結局、お互いに同じことを、考えていたのですね」
「なんで? どうしてこうなるの!? 今度こそあんたを勝たせるつもりだったのにっ!」
「ふふ……勝たせ合いはこちらの勝利です」
「やだ、やだよ……勝ったなら生きていてよ……どこにもいかないでよ……」
地面に両膝をついて、力なく倒れた体に縋りついてその手を握る。
涙を流しながら、誰よりも大切な半身の名を呼ぶ。
それに応えるように、握った手が弱々しく握り返された。
「……質問。もしもの話を、考えたことはありますか?」
「そんなの、何度だってあるわよ……」
もしも、二人で生きていくことができたのなら。
そんな夢想の話を、語り合う。
それは優しく希望に満ちていて、そしてこの場においては何よりも残酷だった。
それからどれだけ経ったか、次第に言葉が途切れ、嵐の中心にはすすり泣く声だけが残る。
二人は溢れ出る涙で、話すことすらできなくなっていた。
そして血を吐きながら、倒れた少女が本心を言葉にする。
それはありふれていて、しかし決して叶うことのない願いだった。
「…………死にたく、ありません。ずっと二人で、一緒に……生き、て――――」
それっきり片方の嗚咽は途絶え、もう片方の嗚咽は慟哭へと変わった。
嵐が収束して二人を包み込む。
その様はまるで孵化を待つ卵のようで、事実二人は一人に生まれ変わろうとしていた。
それこそが逃れようのない運命であり、望んでいた、あるいは恐れていた結末だった。
嵐の殻が割れ、中から一対の翼を有した少女が姿を現す。
精霊・八舞の新生の瞬間だった。
「…………またここか」
果ても境界も曖昧な空間の中で、士道は目を覚ました。
ため息混じりに吐き出した言葉と共に、この場所がなんであるかを
この空間は所謂夢や記憶の中に類するものらしく、相も変わらず現実感が乏しい。
しかし、以前に訪れた時とは少しばかり様子が違った。
見上げる空(に該当する部分)は灰色がかっており、雲がかかっているように薄暗い。
以前と同じように、ここで目覚める前後の記憶は曖昧だが、自分の心に落ちた影だけははっきりと認識できた。
もしかするとこの薄暗い光景は、自分の心情を映し取っているのかもしれない。
ここが自分の中の世界ならば、それも十分にありえる。
横たわっている状態から身を起こし、その場に座り込む。
思い出されるのはあの姉妹の現状と、託されたあまりにも残酷な選択だった。
それに付随するように、士道の記憶が映像となって浮かび上がる。
八舞姉妹との出会い、そして修学旅行で訪れた或美島での再会と、短い期間で重ねた交流。
どちらが優れているとかそういうのは関係なく、士道は二人にいつまでも仲良く生きていて欲しいと思っていた……いや、今でも思っている。
そのための力が自分にはあるのだと、浮ついた希望を抱いてもいた。
ただ、何もかもが遅かったのだ。
あの姉妹のために士道ができることは、どちらかを選び、どちらかを消すことだけ。
こちらの根拠のない言い分にほんの僅かな期待を寄せてくれた耶倶矢と、二人で生きていけるという仮定の未来に微笑んだ夕弦。
その時の二人の様子が同時に浮かび上がり、士道は堪らず地面に拳を打ち付けた。
「――出来るわけないだろ! あいつらは本当は一緒にいたいだけなのに、選べるわけがない!」
ずっと抱え込んでいた感情が、ついに溢れ出す。
ここで喚いたところでどうしようもないのはわかっている。
なんと言おうと、やらねばならないのだ。
士道には二人にありもしない希望を示した責任がある。
だけど、選択の瞬間を考えるだけで心が押しつぶされそうで、声を抑えることができない。
それは慟哭のように、この薄暗い世界に響き渡った。
「おや、今日は随分と荒れているようだ」
自分の中の世界に、別の誰かの声。
それは記憶から浮かび上がったものではなかった。
その少女はこのあやふやな世界において、確かな異物としてそこにいた。
さながら道化といった風体の少女である。
それだけでも日常において奇妙と呼ぶには十分すぎるのだが、この少女はさらに全身を包帯や鎖であしらっていた。
包帯に覆われているはずの目元から視線を感じ、士道は目を逸らす。
この奇妙な少女には覚えがあったが、ここに現れる理由も、何者なのかもわからない。
知っているのは名前と、何故か姉ポジションに収まろうとしていることぐらいだ。
「蓮、だったか……悪いけど、今は余裕がないんだ」
「そのようだね」
「だからほっといて――――って、なんでそこに座るんだよ……」
「あなたがそんな顔をしているんだ。姉として放っておくわけにはいかないだろう?」
「ちっ……」
前に随分と恥ずかしい過去を見られたことを思い出して、士道は顔をしかめて舌打ちした。
普段特定の人物以外には見せることのない悪い態度だが、蓮は可笑しそうに肩を揺らした。
その余裕がまた
相も変わらず幽霊のように透けていて、それなのにどこまでもふてぶてしい。
かつては『彼女は自分の妄想の産物なのではないか?』と考えたこともあったが、こんなに我が強いキャラクターを生み出せるほどの想像力は持ち合わせていない。
士道が深い溜息をつくと、今度は声に出してクスクスと笑ってきた。
「まぁ、事情は大体知っているけれどね。あなたの考えていることはほら、この通り」
「……本当にこの世界、プライバシーねぇな」
浮かび上がった映像に、眉間のシワが深くなる。
記憶の中の世界でもあるこの場所は、士道の思考に応じて関連した記憶を勝手に上映し出す。
対応が早いのは結構だが、こうもプライバシーがないのは大問題だ。
もっとも、本来なら自分の中の世界に他人などいるはずがないので、プライバシーに対する配慮も不要のはずなのだが。
もうなんだかどうでも良くなってきた士道は、その場に仰向けになって語り始めた。
語り口はやや投げやりだったが、蓮にそれを気にした様子はない。
適度に相槌を打ち、まるで接待でもしてくるように耳を傾けてくる。
けれどこれは彼女に聞かせているわけではなく、あくまで自分に言い聞かせるものだ。
その度に心に締め付けられるような痛みが走るが、顔には出さない。
自傷行為さながらに吐露することで、深く刻みつけなければならないのだ。
それはあの二人のためだなんて口が裂けても言えないし、はっきりと言うのなら自己満足だ。
忘れてしまえば楽になることだってあるだろうし、これもその類のものかもしれない。
だけどそうしてしまったら、自分はきっと二度と誰かに手を差し伸べられなくなる。
傷ついて血を流しながらでも、前を向かなければならないのだ。
(手を差し伸べる……か)
今まで何か力を手に入れて、その度に思い上がってきた。
でも結局は自分の手が届かないものもある。
薄暗い空へ手を伸ばし、士道は呟いた。
「…………どうして俺はこんなに無力で、何もできないんだろうな」
口に出してから、この言葉がとんでもなく傲慢であると自覚する。
消え去りたい気分に駆られたが、それよりも周囲の雰囲気の変化の方が顕著だった。
この肌がチリチリと灼かれるような感覚は、荒ぶる精霊の霊力を受けたときのものと似ている。
繰り返すが、ここは士道の中の世界であり、ここにあるものは全てが士道に由来する。
だとすると、この感覚の出元も自分に端を発するものだと考えるべきなのだが、これは隣に座る少女から放たれているものだった。
蓮……自分の記憶で構成されるこの世界において、唯一の異物。
その彼女が、以前に何らかの強い感情を向けてきたことを思い出す。
今もその時と同じように、感情を荒げているのだとしたら。
道化の少女が、ゆっくりと立ち上がる。
無言のまま、しかし口元に皮肉気な笑みを湛えて。
「無力? 何もできない? まさかあなたは、自分が何も持っていないとでも言いたいのかい?」
幽霊のような存在のはずの少女が、にわかに存在感を帯びる。
その右手の薬指に嵌った指輪が、輝き出す。
その輝きに、士道はどうしようもなく心をざわつかせた。
「
悲憤、嫉妬、憎悪……その言葉に込められていた激情は計り知れない。
蓮が声を荒げたのはそれっきりで、指輪もすぐに輝きを治めた。
しかしチリチリとした感覚はそのままで、透けているはずのその右手は、まるで実体を持ったかのように色づいた。
「全く、この愚弟は……本当は慰めるだけのつもりだったけれど、やめにしよう」
そしてその手を、士道に向けて差し伸べてくる。
手枷と鎖、包帯に覆われた痛々しい手だった。
「
士道は息を飲んで、その手を――正確には薬指に嵌る指輪を見つめた。
その契約の具体的な内容は分からないが、とてもじゃないが進んで結びたくなるような類のものではない。
だというのに、思わずその手を取りたくなる抗いがたい魅力があった。
そんな士道の様子に、蓮は口元を歪めて嗤う。
「――――いわゆる、悪魔の契約というやつさ」
というわけで終了。
書いてて心が痛くなりました。
ここから入れる保険はないんですかね?