士道くんが淫行教師と謗られながら精霊をデレさせる話 作:kish
「それじゃあ琴里、一つ用意してもらいたいものがある」
十香との二度目の遭遇後、〈フラクシナス〉での反省会中、士道は琴里に一つの頼み事をした。
「なにかしら。這いつくばってお願いするなら考えなくもないわよ?」
「司令っ、その役目は是非この私に――――ぐほぉぁッ……!」
「な・ん・で、あんたが出しゃばってくるのよ神無月!」
「ありがとうございますっ、司令っ!!」
やはり姪っ子の教育について一度姉夫婦と話し合う必要があると感じつつも、士道は鳩尾に肘鉄を叩き込まれて這いつくばった変態を視界から除外した。
女子中学生に踏み躙られて恍惚とした表情を浮かべている様など、断じて目に入っていない。
関わっていては人として大事な何かが損なわれていく。
今のやりとりはなかったものとして話を続ける。
「携行型の顕現装置を一機回してくれ」
「顕現装置を? 言っておくけど、それは素人が簡単に扱えるオモチャじゃないの」
「けど俺にだったら使える。こんな大層な秘密組織なら、俺の経歴についても調べているはずだ」
「……陸自の記憶処理も随分と甘いのね。秘匿技術だってわかっているのかしら」
額に手を当てて頭を振ると、琴里は呆れたように息を吐き出した。
顕現装置や精霊に関する情報は、一般に秘匿されている。
関係者がおいそれと漏らせば処罰が下るし、懲戒処分ともなれば、それらに関する記憶を奪われたりもする。
けれども士道は十香と出会う前……いや、教師になるもっと前から知っていた。
となれば、それが意味するところは一つ。
「ええ、存じ上げているわ。元陸上自衛隊・対精霊部隊、通称・AST所属――穂村士道一曹殿」
単に、かつて士道が一般人ではなかったことを示していた。
「――――なんなのだ、それは」
十香が指したのは士道が展開した随意領域か、それとも領域を展開した士道自身か。
震える声に揺れる瞳。
その様は、触れたら壊れてしまいそうな脆さを感じさせた。
誰から攻撃を受けたのかなんてわかりきっている……ASTだ。
むこうが精霊の出現を察知するのは、可能性の上でありえないことじゃない。
しかし、今回は十香が現界するにあたって空間震を伴っていない。
よって警報が鳴ることもなく、住民の避難も行われていない。
ましてや、現在は一般人である士道が傍にいる。
そんな状況で攻撃許可が出たこと自体が例外中の例外だ。
余程陸自の上層部が〈プリンセス〉を必ず排除しなければならない脅威とみなしたか、もしくはここでなら必ず仕留められると判断したのか。
士道は驚きとともに、無事に防げたことに安堵した。
だがしかし、それもつかの間。
「なんなのだと、聞いているのだ」
擦り切れたかのような、か細い問いだった。
震えるその声に、士道は十香と初めて出会った時のことを思い出した。
自分を拒絶する世界に対する絶望と諦念。
今日一日でぬぐい去られようとしていたそれが、再び立ち込めてきていた。
原因は言うまでもない。
「何故、シドーがメカメカ団と同じ力を使っているのだ……?」
士道が、魔術師としての姿を見せたからだ。
十香にとってASTとは自分を否定する世界の象徴だ。
曲がりなりにも共に時間を過ごした相手が、そのASTと同じ力を見せたのだとしたら、果たして何を思うのだろうか。
その答えは何よりも、動揺に強ばった十香の表情が物語っている。
「そういうこと、なのか」
「……言い訳はしない。俺には君の言う、メカメカ団に所属していた過去がある」
「――っ」
十香は息を飲んで目を大きく見開いた。
裏切りへの絶望か、信頼からの希望か。
彼女の心はその狭間で揺れ動いていた。
初めて自分を否定しなかった人間。
初めて自分に名前をくれた人間。
信じたいと思っているのに、どうしようもない不信が心を押し潰しにかかる。
もしもう少しだけ冷静だったなら、どこかから攻撃を受けたことに、そして士道が自分をかばったのだと気づいただろう。
しかしこのような混乱状態では、それを望むべくもない。
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ……!!」
夜色の髪を振り乱す十香を前に、士道は己の迂闊さを呪った。
精霊は常に対精霊部隊に狙われる身だ。
共に行動する以上、流れ弾が飛んでくる可能性は無視できない。
だからこそ自衛のために顕現装置を借りたのだが――――いや、それは建前だ。
自分の無力が許せなくて、かつて捨てたはずの力に縋った。
そんなくだらないエゴが招いた結果が、今の状況だ。
ASTの狙撃から十香を守ることができたのはいいが、それでついさっきまで築いてきた信頼が崩れ去ろうとしている。
十香が人間を敵とみなすか否か、ここがその分水嶺。
それを感じ取って、士道は拳を握り締めた。
できることはただ一つ……向き合って言葉を尽くすことのみ。
その結果、十香が士道の手を取るか、あるいは剣を向けるか。
ここで説得に失敗したら最後、彼女は真の意味での災厄に成り果ててしまう。
己の言葉に、比喩でもなんでもなく世界の命運がかかっている。
その自覚が余計に口を重くする。
それでも、士道に目の前の少女を見捨てるという選択肢はなかった。
絶望に打ちひしがれても、諦念に膝を折っても、きっと手を差し伸べてくれる誰かがいる。
それを伝えるまでは、意地でもこの場から離れるわけにはいかない。
この世界に生きる先達として、それこそが自分の役割なのだ。
「十香、落ち着いて聞いてくれ――――」
「先生、下がって……!」
士道の前に、機械の翼を背負った影が舞い降りる。
鳶一折紙――――精霊への復讐に燃える少女が、十香へと光の刃を向けた。
「当たった……いや、これは――」
いかに高性能なスコープであろうと、土煙に覆われてしまえば視認は困難だ。
それは随意領域で強化された視力でも同じこと。
燎子は目を細めて、見えている情報から状況を推察する。
射線を考えるなら、弾の地面への到達はまだまだ先のはず。
対象に命中したとするのなら、こんな状況になっているのが不自然だった。
つまり、防がれた可能性が高い。
狙撃の優位性は、相手から認識されていないという部分が大きい。
そして相手は危険度の高い〈プリンセス〉だ。
次の瞬間にでも、こちらの目の前に現れてもおかしくはない。
精霊と対するにあたって、現状では頭数も装備も心もとない。
支援の要請はしてあるが、間に合うかどうかは怪しいところだ。
「……作戦は失敗。民間人の安全を確保した後、私たちは足止めに徹して――――」
「――先生っ」
燎子が改めて指示を下そうとしたところ、折紙は既に飛び出していた。
射撃の前、照準は確かに〈プリンセス〉の急所を捉えていた。
しかし引き金を引く瞬間、共にいた民間人……折紙のクラスの副担任である穂村士道が、精霊をかばうような動作を見せた……気がした。
土煙は晴れず、安否確認もままならない。
もし、万が一にも、自分の放った弾丸が彼を貫いていたら――――そんな絶望が頭をかすめる。
それを振り払うように、折紙は機械仕掛けの翼を駆動させた。
「先生、下がって……!」
十香の前に、機械の鎧をまとった少女が降り立った。
手には光の剣を携え、それを明確な敵意とともに向けてくる。
トビイチオリガミ……この少女が十香は苦手だった。
戦闘技術は他の者より幾分優れているらしいが、自分を脅かしうる領域には至らない。
たとえ超常の力を手にしたとして、それほどまでに精霊と人間は隔絶している。
現に今日に至るまで、目の前の少女を含むメカメカ団は、誰一人として十香に傷一つ付けることすらできていない。
それでも、その瞳の奥から覗く憎しみは、十香の心を確かに苛んだ。
自分がこの世界に存在していることを、誰よりも強く否定してくる人間。
それが今目の前で、士道をかばうように剣を向けてくる。
その事実に、打ちのめされるようによろめく。
「鳶一、今は――――」
「折紙! あんた単身で突っ込んでいくなって何度も……って、穂村先輩!?」
「お前、日下部か!」
次いで現れた女の声の奥には、確かな親しみがこめられていた。
そしてそれは応える士道の声も同様で――
(ああ……やはりおまえはそちら側なのだな)
天秤が傾く。
開きかけた心が閉ざされていく。
俯いた十香を中心に渦巻く霊力に、三人は顔を強ばらせた。
「させないっ……!」
「……〈
真っ先に飛び掛った折紙を阻んだのは、十香に降り注いだ黒雷の如き光だった。
その直上では雲が渦巻き、街中に空間震警報が鳴り響く。
光が収まり、その中から姿を現した十香は霊装――戦うための鎧を纏っていた。
「――〈
そしてその場で踵を打ち付けると、身の丈を優に越す巨大な玉座が地面を割って出現した。
背もたれに飛び乗ると、十香は何かを振り切るように一瞬だけ目を閉じて、そこに収まっている幅広の剣を引き抜いた。
「災厄、害悪……いいだろう、何とでも呼ぶがいい」
「――っ、折紙!」
「くっ……!」
「――――去ね」
攻撃の意思を見せた燎子と折紙に、十香が無造作に剣を振るうと、津波のような衝撃が奔った。
破壊の波濤が山肌を削り、高台からの景色は一変した。
衝撃が収まると、士道以外の二人の姿は消えていた。
この場から逃れたのか、あるいは呑まれて跡形もなく吹き飛んだのか。
どっちでも……いや、どうでもいいことだった。
十香の関心事はたった一つだけ。
「――日下部、鳶一!? 十香、お前っ……」
「その名で呼ぶなっ! ――――【
吼えるように叫ぶと、玉座に亀裂が入り、バラバラに砕け散った。
その破片が十香の握る剣に収束していく。
「私は精霊。貴様達が災害と呼ぶ、名も無き精霊」
そして組みあがった長大にすぎる剣は、縦に真っ直ぐ振り下ろされた。
刀身から光が放たれ、士道の真横を駆け抜けていく。
刹那、大地と空が割れた。
地表は彼方まで一直線に抉られ、夕空を分かつように黒いひび割れが走る。
名も無き精霊は真っ黒に澱んだ瞳で、士道に剣を突きつけた。
「――殺して
「よくも――――」
巨人のものかと見紛う程の威容を持つ剣が、士道目掛けて振り下ろされる。
それを受け止めた随意領域が軋み、視界がスパークする。
魔術師が顕現装置を使用する際、その制御を担う脳には尋常でない負荷がかかる。
当然使い続ければ限界が近づくし、出力を強めても同様だ。
それは魔術師として活動できる時間と同義であり、活動限界と呼ばれている。
精霊の少女が振るった巨剣は、たったの一撃でそこまでの余裕を大幅に削っていった。
その負荷を、片膝つきながら堪える。
吹き飛ばされた二人は無事だろうか。
随意領域の防壁が展開されていたのは確認できたので、おそらくは大事に至っていない。
ただ、いまだにこちらへ戻ってこないところを見ると、身動きが取れない状況にありそうだ。
しかしながら、今の士道にそれ以上あの二人へ心を砕く余裕はない。
「よくも、よくも――よくもよくもよくもよくもよくも…………ッ!!」
攻撃は苛烈さを増していく。
幾度となく繰り出される斬撃は、その余波だけで周囲を破壊し尽くしていた。
無事なのは、随意領域で囲まれているおよそ半径1メートルの極めて狭い範囲のみ。
その中心で士道はじっと耐える……否、それしかできない。
顕現装置を持ち出したとはいえ、それだけでは精霊に対抗するには到底及ばない。
CR-ユニットを伴っても、まだまだ精々が害虫程度。
それ程までに人間と精霊の間に横たわる力の差は大きい。
魔術師の中には単独で精霊に立ち向かえる程の実力を持つ者もいるが、それは例外中の例外だ。
士道はAST時代、随意領域の硬さだけが取り柄で、他は平均的な域を出ない魔術師だった。
その取り柄のおかげでこうして何とか潰されずにいるが、それも時間の問題だ。
鼻から血が伝い、視界の半分が赤く染まる――――活動限界が迫っている。
その中で、一心不乱に大剣を振り下ろす少女を見た。
「――――あ」
泣いていた。
温もりにその手を伸ばして、しかし心を許せると思った人間に裏切られ絶望し、今再び全てを諦めようとしている。
そんな少女の涙を前に、士道は今一度自分自身を問いただす。
――何故、自分は顕現装置という力を投げうったのか。
路地裏で野良猫に餌をやる少女、嵐の中でギターをかき鳴らす双子、締切に追われて悲鳴を上げる漫画家。
――何故、自分は教師という道を選んだのか。
そして、全てを失い炎の中で絶望にくれる幼い少女。
(ああ、そうだよな)
それは、助けたい誰かを助けるためではなかったか
それは、子供達が絶望や諦念に囚われる事がないように、人生の先達として手を差し伸べるためではなかったか。
力の有無なんて関係ない。
精霊か人間かなんてどうでもいい。
今目の前にいるのは、間違いなく士道が助けになりたいと思う者の一人だった。
そして、そのために差しあたって邪魔なものが一つ。
その涙を止めるために、士道は携行型顕現装置を放り捨て、迫り来る斬撃に身を晒した。
精霊〈プリンセス〉が振るった剣が、士道の体を紙のように吹き飛ばした。
その光景をモニターしていた〈フラクシナス〉のクルーの大半が一様に顔を青ざめさせる中、琴里は髪のリボンをきつく結び、悠然と新しいチュッパチャプスの包装を解いて口にくわえた。
「穂村君の意識レベル低下! 脈拍、呼吸、共に大きく乱れています!」
「し、司令……穂村さんの、右腕が……」
「派手にぶっちぎれたわねぇ。あんなに血が噴き出して、スプラッタ映画かなにかかしら?」
「……ふむ、前に見たものはもっと凄惨だったね。創作なりの誇張表現というやつかな?」
「ああっ、右腕を切り飛ばされる痛みぃぃっ!!」
自分の両肩を抱いて悶えている変態はともかく、琴里と令音の落ち着きようは他のクルーの目から見て明らかに異常だった。
場違いなほど暢気な二人の態度に、呆気にさえ取られてしまう。
その中にあって椎崎は、張り詰めた表情で声を上げた。
「急いで穂村さんの救助を! このままだと――――」
「わかってるわよ。いつでも回収できるように準備しておいて」
精霊の力の危険性は、琴里自身がよく理解している。
そんな存在と武器も持たずに向き合うのだから、士道の危険は想定されていたことだった。
しかし、こうも悪く歯車が噛み合ってしまったことには、責任を感じずにはいられない。
琴里は士道に自衛の手段を与えた自分の過保護を反省した。
とはいえ、予想外のASTの狙撃を防いだことは認めなければならない。
あそこで〈プリンセス〉がやられていたら、文字通りゲームオーバーだったのだから。
それこそが琴里の定める、取り返しのつかない最悪の事態である。
精霊に明確に敵意を向けられた今の状況はさしずめ、最悪の一歩手前といったところか。
その攻撃によって、公園はおろか周囲の高台も、見るも無残に変わり果てていた。
宅地開発中であったため、あのあたりに人が住んでいないのは幸いだった。
右腕を切り飛ばされた程度で士道がどうにかなるはずはない。
だが、このまま精霊の攻撃に晒され続けてはどうなるかわからない。
今の所攻撃の手は止まっているが、次はどう動くか。
もしこの後も攻撃を続行するようなら、士道どころか比喩抜きでこの街が消滅しかねない。
「神無月、アレの準備は?」
「もちろん、抜かりなく」
「十香に再び攻撃の兆候が見られたら、すぐに打ち上げて」
「はっ、お任せ下さい!」
琴里の言うアレとは、今回の作戦の一環として用意した打ち上げ花火のことである。
現状でも回収は可能だが、〈プリンセス〉の敵意が〈フラクシナス〉に向く可能性がある。
まだ日は落ちきっていないが、霊装を纏ったことで空間震警報が発令されている。
市民が避難した後のこの状況ならば、さぞかしよく音が響くことだろう。
そうして彼女が気を取られている間に士道を回収して、その後の対応を考えるしかない。
「……琴里、少々マズい事態になりそうだ」
精霊の状態をモニターしていた令音が、常とは違う緊迫した声で呼びかけた。
地上に送り込んだカメラの映像では、まだ大きな動きはない。
強いて言うのなら、胸に手を当てて苦しんでいるように見えなくもない。
「食べすぎでお腹を壊した……ってわけじゃなさそうね」
「見てくれ。この霊波反応の乱れ……類似パターンに覚えがある」
「――っ、まさか……!」
「……ああ、反転の兆候だ」
反転……その状態に陥った精霊は、その凶暴性と攻撃性を露わにするのだという。
ラタトスクの記録上では一件、富士の樹海を今なお拡大を続ける永久凍土に変えたという事例が確認されている。
「タイミング的に、シンの右腕を切り飛ばしたのが切欠と見て間違いないだろうね」
「全く……あれだけ攻撃してたのに、とんだアンビバレンスね」
「このまま放置していては、この街は確実に滅びるだろう。最悪は……」
令音は言葉を濁したが、その言わんとするところは全員に伝わった。
天災と成り果てた精霊による、世界の滅亡。
「……士道は?」
「意識レベルは依然として回復しません!」
「そう――――ミストルティンの発射準備を」
無表情のまま、感情のこもらない声で琴里は指示を下した。
士道が動けない今、武力によって止めるしかない。
最新鋭空中艦〈フラクシナス〉の主砲による精霊の無力化。
当然、対象の安全は保障されない最終手段だ。
組織が掲げる主義に反する、最悪の事態を自分たちの手で引き起こすことになる。
ふと、十香の姿に未来の自分を重ねてしまう。
漏れそうになる弱音を、琴里は心の中に留めおいた。
そんなものを吐き出す余裕は、ここにはないのだから。
(それでも……)
都合の良いことだとしても、祈ってしまう。
普段つけている白いリボンがありのままの自分の象徴なら、この黒いリボンは強い自分の証。
それを、琴里に強さをくれたヒーローなら、どうにかしてくれるのではないかと。
「おやぁ? ようやくお目覚めのようですね」
差し迫りつつある状況に反して、その声はなお穏やかだった。
まるで出来の悪い生徒を見守るように、呆れながら神無月は肩をすくめた。
艦橋スクリーンに映し出された映像の中で、立ち上がる者が一人。
それを見て、琴里は硬くなった表情を綻ばせた。
「司令、急ぎ穂村さんの回収を!」
「不要よ。ミストルティンの発射準備も中止」
「えっ? で、でも――」
「いいから復唱!」
「は、はいっ! 収束魔力砲の発射準備、中止します!」
「――――ふふ、見てなさい。あれが
「あんなものに、閉じこもってて俺……ダサかったな」
「――っ」
高台の柵の残骸にしがみついて、士道はどうにか立ち上がった。
体の右側が不自然に軽い。
肩口から切り飛ばされた右腕は、血の跡を残しながら瓦礫の中に埋もれていた。
止めどなく流れる血液――それどころか、一緒に得体の知れない何かまで噴き出してきそうだ。
それらを留めるように、断面を左手で押さえる。
斬撃の余波で全身がボロボロだし、内蔵にもダメージが行ったのか、喉奥からせり上がってくる液体からは血の味がした。
半分赤い視界は明滅して、意識が今にも飛びそうだ。
それでも、痛みをよすがに踏みとどまる。
まだ倒れるわけにはいかない。
そこにはまだ、手を差し伸べなければならない相手がいる。
彼我の距離は二十メートル程……ほんの数秒で詰められる距離だ。
それこそ顕現装置を用いた魔術師ならば、瞬きの時間で事足りる。
だが満身創痍の士道にとっては、気が遠のくほどの隔たりだった。
それでも膝を折らず、ただ前だけを見据える。
そして、果てしなすぎる彼女への道のりを今、一歩踏み出した。
「な、ぜ……」
「そりゃ、こっちの、セリフだ……お前、わざと、外したろ……」
その指摘に、精霊の少女はたじろいだ。
大上段に構えた【
本来ならば士道は、脳天から真っ二つになっていたはずだったのだ。
それが右腕を切り飛ばすだけに留まったのは、直前で何故か軌道が変わったからだ。
もちろん士道は顕現装置を投げ捨てただけで、その場から一歩たりとも動いていない。
顕現装置を手放したことで、【
阻むものがなければ、振るわれた剣が軌道を変える道理はない。
ただ一つ、それを振るった者の意思を除いては。
「やめろ、私はおまえの右腕を奪ったのだぞ……!」
「ああ、そっか……お前、俺を傷つけたくないと、思ってくれたんだな……」
「馬鹿を言うなっ、おまえは……人間は私の敵だ!!」
「そんなことは、ないっ!!」
一歩、また一歩、士道は進んでいく。
威嚇するように向けられた剣も物ともしない。
自分の右腕を奪った【
「もうやめようぜ、十香」
「う、うるさい……私をその名で――」
「――何度だって呼んでやる! 十香、十香十香十香十香十香…………っ!」
「や、めろ……」
精霊の少女の顔が歪む。
その声には、懇願するような響きがあった。
自分にはその資格がないのだと、士道には彼女がそう訴えているように聞こえた。
ならば、全力でそれを否定しなければならない。
何よりも自分自身を否定しようとする少女を否定し、その存在を肯定する。
精霊……隣界より現れ、空間震を引き起こす特殊災害指定生命体。
人間を害する者がいれば、ただ逃げ続ける者もいる。
周囲など知ったことかと飛び回る者がいれば、誰にも悟られずに潜む者もいる。
そしてそんな彼女達の人間臭さを、士道はよく知っていた。
野良猫と戯れたり、ギターで張り合ったり、締切に追われて空腹で倒れていたり。
目の前の少女にしたってそうだ。
果たして今日一日だけで、一体どれほどの量を食べたのか。
きなこパンを頬張った時の幸せそうな顔を思い出し、思わず頬が綻んでしまう。
同じものを見て同じ体験をし、同じく感動できるのなら、きっと手を取り合える。
手のひらに付着した血を拭うと、士道は無言で左手を差し出した。
余計な言葉は重ねない。
お前を受け入れる者がここにいる……ただそれさえ伝わればいい。
「――っ、………………」
戸惑いと沈黙、そして逡巡があった。
どれほどの時間が経ったのか、士道にはわからない。
長かったような気もするし、短かったような気もする。
頭も強く打ったのか時間の認識は曖昧で、気を抜けば走馬灯が見えそうだった。
そんな永遠とも一瞬とも取れる間の後、差し出した手に別の手が重ねられた。
精霊の少女――十香は俯いたまま、そっと士道の手を握った。
「……私は人間ではない」
「だから、どうした」
「私は、おまえたちとは違う」
「そんなもん、ただの誤差だ」
「私は、おまえを……シドーを傷つけたっ」
十香の目から、堰を切ったように悔悟の涙が溢れだした。
自棄になって暴れだしたかと思えば、相手を傷付けて後悔する。
そんなのは最早、人間となんら変わらない。
握られた手を握り返して、士道は不器用に笑いかけた。
「あんまり、人間なめんな。こんなの、また元通りにくっつくさ」
「なんと……凄いのだな、人間は」
それに応じるように、十香も笑った。
涙に濡れた、美しい笑顔だった。
差し伸べた手は、確かに握られた。
失血からか安堵からか、体から力が抜け、視界の端が暗くなる。
まるで暗幕がかかっていくようだ。
そんな感想を抱きながら意識を手放そうとして――――
「ぬっ、いかん……!」
十香の焦った声で、現実へと引き戻された。
見ると、握った巨剣から雷のような光が漏れ出し、スパーク音を立てながら地面を叩いていた。
「と、十香、これは……?」
「【
頭に廻る血の量が減っても、その意味するところは理解できた。
爆発オチという言葉がよぎったが、現実に巻き込まれたらご臨終である。
剣から漏れる黒い光は徐々に量を増し、限界が近づいていることは否応なくわかった。
どうやらまだまだ倒れるわけにはいかないらしい。
苦笑して、士道は左手を十香の顎に当てて自分の顔へと向けさせた。
少女漫画等で見られる、所謂アゴクイと呼ばれる構図である。
そしてその後の展開も同様だ。
力が暴発しそうなら、その元を塞いでやればいい。
琴里から説明された、精霊の力を封印する手段。
その具体的な内容については正直耳を疑ったし、躊躇どころの話ではなかったが、事ここに至ってはやるしか道はない。
というよりも、最早余裕のない士道に他の方法をあれこれと考えている暇はない。
それを選んだのは、半ば本能のようなものだった。
「少し血生臭いかもだけど、我慢してくれ」
「シドー、一体なにを――――んむっ」
唇と唇が重なり、十香の目が驚きに見開かれた。
ファーストキスはレモン味とか言うが、実際はきなこの味がした。
直前に食べていたので、当然ではある。
そもそも士道にとっては初めてかどうかも怪しい。
対して相手はどうだろうか。
きっと血の味がしただろう。
口をゆすげれば良かったが、そんな余裕はなかった。
強引にしてしまったことも含めて、十香に心の中で謝罪する。
それと、この光景を見ているであろう彼女にも。
唇を離すと、十香は目を見開いたまま呆けていた。
その手に持った剣がひび割れ、解けて光となって霧散していく。
どうにかなったことを実感すると、今度こそ士道の体から力が抜けた。
倒れていく最中、暖かい何かが流れ込んでくるのを感じた。
それと、誰かに抱きしめられるような柔らかい感触。
意識を完全に手放す直前、ないはずの右腕が炎のように熱かった。
士道と十香が唇を重ねる光景が、〈フラクシナス〉のスクリーンに映し出された。
霊装と天使が解け、光の粒子となって消えていく。
その意味するところは、作戦の成功。
それを受けて、艦橋に歓声が響き渡った。
琴里は一人、士道の右腕があった場所に青い炎が吹き出すのを見て、安堵の息を漏らした。
「ほら、喜ぶのは後にして二人の回収急ぐ。もたもたしてたらASTが来るわよ」
クルー達をたしなめると、艦長席に深く腰掛ける。
部下の手前なので表に出さないが、胸中には渦巻く思いがあった。
作戦成功への安堵、紙一重の状況になった事に対する反省、そして……
「司令、お疲れ様です。こちらをどうぞ」
「あら、豚にしては気が利くわね」
神無月が差し出したストロー付きの紙コップの中身は、オレンジジュースだった。
ストローに口をつけて啜ると、喉を通る冷たい感触が気持ちいい。
酸味と甘味が脳に染み渡り、思わずため息が漏れてしまう。
渡してきた本人は何やら足元で丸くなっていた。
また足置きにでも使えということだろうか。
背中に踵を落としてやると、恍惚の声を上げて鳴いた。
「飲み終わったら処分はお任せ下さい。こちらで厳重にコレク……処理して――あひぃんッ!」
琴里は無言でもう一度踵を落とした。
部下の変態性はともかくとして、大事なのは今後の事だ。
こうして精霊の封印が現実味を帯びた以上、〈ラタトスク〉は本格的に動き出すことになる。
それだけの実績を、士道は示してみせた。
これを突きつければ、頭の固い上層部も首を縦に振らざるを得ないだろう。
精霊を巡り、世界が加速する。
その渦中に放り込まれることになる叔父の無事を、琴里は己の内に祈った。
「……これで二つ目、か」
士道がその身の内に十香の力を収めていく様を見て、人知れず令音は一人呟いた。
そして、自分の唇に指を当てて艶然と微笑む。
「そういえば、まだここは許していなかったね」
「いっつぅ……」
十香との一件から土日を挟み、今日は月曜日。
社会人にも学生にも平等に訪れる、ブルーマンデーである。
周囲へのあいさつもそこそこに、職員室の自分のデスクに着いて、士道は苦悶の声を上げた。
医療用顕現装置のおかげか右腕は綺麗に戻ったものの、全身の痛みはまだ取れていない。
今思い返すと、生きて帰って来られたのが不思議なくらいの修羅場だった。
AST時代を含めても、あれ程命の危険を感じたことは……
「……割とあるな。結構死にかけてるぞ、俺」
最悪の精霊に口封じのために追われたり、いがみ合う双子の精霊の間に挟まれたり、世界最強の魔術師にボコられたりと、本当にロクな目にあっていなかったことを思い出す。
他にも精神的ダメージを負った例を挙げれば、枚挙に暇がない。
女所帯だったのでやや肩身が狭かったというのはあるが、その一番の原因は当時の隊長だろう。
色んな意味で度し難い人物だったが、一言で言えば変態である。
記憶から消し去りたかったが、現状では無理そうなので、せめて考えないようにしておいた。
「穂村先生、おはよぉございます。今朝はお疲れですねぇ」
「――っ」
後ろからかけられた声に、士道の肩が跳ねた。
タマちゃん先生のご出勤である。
彼女とは先日、訓練の時以来顔を合わせていない。
自分がやらかしたことを思えば、対面するのが果てしなく気が重かった。
しかしそんな事では仕事が立ち行かない。
ぎこちなくも笑顔を作って振り返る。
「お、おはようございます岡峰先生。週末にちょっと年甲斐もなくはしゃぎすぎちゃいまして」
「もぉ、何言ってるんですかぁ。私と比べたら穂村先生なんてまだまだ――――かふっ」
「お、岡峰先生!?」
言葉の途中で珠恵がいきなりその場にくずおれた。
突然ではあったが、士道の対応は迅速だった。
体を支えて脈を取りながら発熱の有無を確認する。
脈拍、呼吸、体温共に異常は見られなかったが、何らかの持病の可能性も否定できない。
大真面目にそんなことを考えていると、必死な形相の珠恵が縋るように士道の腕を掴んできた。
「――誤差、ですよね……」
「はい?」
「三歳差なんて誤差ですよね!?」
「イエス、マム!」
「ですよねっ」
ただならぬ気迫に気圧されて、思わず敬礼していた。
士道の返事に笑顔こそ取り戻したものの、纏うオーラは完全にダークサイドのものである。
生徒にタマちゃんと呼ばれ親しまれる、ぽやぽやっとした雰囲気の彼女はどこへ行ったのか。
先日の一件を思い出すと、冷や汗が止まらなかった。
「あ、そうでした」
「な、なんでしょうか」
「実は、穂村先生に見てもらいたい書類があるんですよぉ」
立ち上がった珠恵は、おもむろに自分のカバンを開けて中を探り始めた。
そして取り出したのは、何らかの書類が収められたクリアファイル。
その間延びした口調に、いつものタマちゃん先生が戻ってきたと安心したのも束の間、仕事関係の書類かと思って覗き込んだ士道は凍りつくことになった。
【――届】
指で隠れて書類の肝心な部分はよく見えないが、頭の中では警鐘が鳴り響いていた。
これ以上口を開かせてはならない。
ここで対応を誤れば、人生の墓場行きになりかねない……そんな確信にも近い予感があった。
しかし、士道の口は錆び付いたかのように動かない。
前の職場では女性に囲まれていたが、良くも悪くもそういう対象として見られていなかった。
よって、日常的な気遣いは身に付いたものの、こういうケースの対処法はさっぱりなのだ。
こんなことなら、〈ラタトスク〉製のギャルゲーをもっと真剣に履修しておくべきだった。
そんな後悔がよぎるが、よくよく考えてみなくてもツッコミ所の多いシチュエーションばかりだったので、あまり役には立たなかったかもしれない。
そうこうしている内に、珠恵が距離を詰めてきていた。
別に超スピードでもなんでもなかったが、思考が空転していて反応できなかった。
もうニッコニコの笑顔である。
婚期に焦ったアラサー女子の闇が、士道を襲う……!
「……岡峰先生、転校生の対応をお願いします」
「いけません、忘れるところでした!」
職員室の入口に立った令音が呼びかけると、珠恵はハッと正気を取り戻した。
先程まで正気ではなかったかどうかについては議論の余地があるが、常とは違う精神状態であったことは確かだろう。
なんにしても、窮地に差し伸べられた救いの手には感謝せざるを得ない。
両手を合わせて感謝の意を示す士道に頷くと、令音は慌ただしく職員室を出て行ったタマちゃん先生を追って去っていった。
「……でも、転校生が来るなんて話あったか?」
「なんでも土日に急に話が決まったんだとさ。だから穂村先生には話が届かなかったのかもね」
「あ、すみません。なるほど、そういうこともあるんですね」
独りごちる士道に答えた先輩教員によると、そういうことらしい。
今ひとつ引っ掛かりは取れないが、それで納得しておくことにした。
珠恵と令音が対応するのなら、転校生は担当クラスである二年四組に編入されるのだろう。
それは副担任を務める士道にとっても他人事ではないが、朝のホームルームが迫っている。
あの様子だと珠恵が間に合うかどうか怪しいので、せめて自分だけでも教室に赴くべきだ。
まだまだ至らない新米教師ではあるが、出欠を取ることぐらいはできるのだ。
珠恵のデスクの上にある出席簿を開いて、羅列された名前に目を通す。
新学期が始まって三週目、ようやく生徒の名前と顔が一致してきたところだった。
その中の、とある生徒の名前に目が留まる。
鳶一折紙……学生とASTの二重生活を続ける少女。
先日の一件では日下部燎子共々、無事な姿を確認することができなかったが、琴里から幸いにも死者は出ていないという報告は受けている。
なんなら最も大きな怪我をしたのは士道だったとのことだ。
なんせ右腕を切り飛ばされた上に全身打撲、内蔵にも浅くはない損傷があったのだ。
治療に医療用顕現装置を用いたとはいえ、土日を挟んだだけでよく回復したものだ。
その際に『ゴキブリ並みの生命力』とまったくありがたくない言葉を受け取ったのだが、そんな自分がこうして無事に学校に来ているのだから、向こうも元気な姿を見せてくれるはず。
笑顔を見せてくれることはないにしても、士道にとってはそれだけで十分だ。
燎子の方も、折紙が無事なら同様だろう。
(それにしても、十香はどうしてるんだろうな……)
そしてもう一人、精霊の少女のことを思う。
士道が動けるようになるまでは同じ施設にいたはずなのだが、ついぞ面会は叶わなかった。
何を尋ねても検査の一点張りで、埒が開く気配は微塵もなかった。
一応無事だとは知らされていたものの、心配は心配だった。
精霊の力の封印というサンプルケースの少ない事態に対して、様々な角度からの検証が必要なことはわかる。
しかしながら、世の中には精霊を捕らえて研究材料にしようと目論む企業も存在する。
自分の所属する組織の全貌を知らない士道が一抹の不安を覚えても、無理からぬ話だろう。
そんな不安を抱えながらも協力を決めたのは、やはり精霊を助けたいという思いがあったのと、そこに琴里がいたからだ。
まだまだ幼くとも、善悪の判断を間違えるような子じゃない……そう信じたからこそ、士道は〈ラタトスク〉のこともとりあえず信用した。
もちろんそこには、何かがあったら自分が姪を守るのだという決意もあった。
「……封印、か」
そっと自分の唇に触れてみる。
もうあれから数日経っているというのに、まだあの感触が残っているような気がした。
少なくとも記憶に残っている中では、あれが士道の初めてだった。
精霊……能力や個性は様々だが、全てに共通するのは強大な力と美しさ。
他人の口を通して感じたきなこの味は、どうやら忘れられそうにない。
あわよくばもう一度味わいたい……そんな欲求すら湧いてきて――――
(って、何考えてんだ俺は!)
頭を振って邪念を追い出す。
心に決めた相手がいるというのに、それは不純というもの。
あくまでもあれは、精霊を救い世界を守るための行為なのだ。
しかしながら、今現在この世界で確認されている精霊は十香一人だけではない。
士道の知る限りではその他にも五……いや六人。
即ち〈ベルセルク〉〈ナイトメア〉〈デイドリーム〉〈ハーミット〉そして〈シスター〉。
つまり、これからも別の精霊とデートしてデレさせて、キスをしなければいけないのだ。
そんなことを複数人に敢行する男の姿に、客観的に下される評価は明白だ。
思わず、士道は頭を抱えて懊悩した。
心の中で令音に対してあれこれと弁明するも、自分でも驚くほど説得力がなかった。
幸いな事に今の所、令音が機嫌を損ねたりするような様子は見られない。
それは士道の立場を理解しているからか、単に行きずりの相手としか思っていないからか。
前者ならともかく、後者ならしばらく立ち直れなくなる自信があった。
再会を果たしていくらか経つが、いまだ自分達の関係について話し合う機会は取れていない。
学校では士道に暇と余裕がないし、〈フラクシナス〉では令音は大抵琴里と一緒に居る。
あれはあれで年の離れた姉妹のようで微笑ましいのだが、いささか都合が悪い。
流石に姪っ子の前で、おいそれと出せる話題ではないのだ。
「っと、もうこんな時間か!」
士道が頭を抱えているうちに予鈴が鳴っていた。
あと五分もしたら朝のホームルームが始まってしまう。
出席簿を掴んで職員室を出る。
精霊や令音のことは一旦考えないようにしておいた。
一人で悩んだところでどうしようもないというのもあった。
今はただ、教師としての仕事を全うすればいいのだ。
「みんな、おはよう。出席取るから席に着いてくれー」
「あ、ほむっち先生じゃん」
「おはよー」
「マジひくわー」
教室に入ると、生徒の気安い声が出迎えた。
亜衣麻衣美衣のトリオである。
新学期が始まった当初こそは淫行教師などと倦厭されていたが、今では態度も軟化している。
これはあの日以来、折紙が人前で奇行に走っていないというのが大きいだろう。
士道にとっては社会的にも精神的にも大きな傷を残した事件だったのだが、あれは何かの勘違いだったと思い直してくれたらしい。
それと自分の頑張りが生徒に伝わったのだと、ポジティブに考えておくことにした。
「おはようございます、師匠!」
次いで声をかけてきたのは、殿町宏人だった。
ワックスで髪を逆立てた、ガタイのいい男子生徒である。
正直に言うと、士道は憧れの眼差しを向けてくる彼が少し苦手だった。
これが真っ当に教師として尊敬してくれるのなら、面映くもやぶさかではないのだが、問題はそれがとある勘違いに端を発している点にある。
どういうわけか、士道は学年一の才女を即日で堕とした漢として認識されているのである。
ちょっとしたどころではない大問題だった。
もしこれが学校側に真剣に受け取られたらと思うと、胃が痛くて仕方がなかった。
「と、殿町? その呼び方はちょっと……」
「わかりました、
呼び方はまともになったものの、響きは前と変わらないように聞こえるのは気のせいだろうか。
何となく高校時代の黒歴史を思い出してしまうので、出席簿を盾にその視線をシャットアウト。
教壇に上った士道は、窓際の最後列にある折紙の席へ目を向けた。
空席だった。
全く想定していなかったわけではないが、期待していた分落胆は大きかった。
無念の気持ちを噛み殺して、出席簿を開く。
「すみません、遅れました」
教室の後方のドアが開き、折紙が姿を現した。
医療用顕現装置では治療しきれなかったのか、所々に包帯やテープを貼り付けていた。
痛々しい姿だが、こうして顔を見せてくれたことに士道は甚く安堵した。
気を抜けば涙を流してしまいそうだった。
「ああ、まだ本鈴はなってないから大丈夫……って、どうかしたのか?」
折紙は士道をジッと見つめたかと思うと、つかつかと教壇へ。
デジャヴを感じた士道は後退するが、すぐに窓際に追い詰められてしまった。
「と、鳶一さん?」
「大丈夫、すぐ済む」
「とりあえず席に着いてくれると……って何して――――ひっ」
次の瞬間、折紙は士道のスーツを剥ぎ取りにかかった。
愛想笑いのまま固まった士道は、瞬く間にワイシャツの前をはだけさせられていた。
上半身を弄られ、ついでと言わんばかりに首筋を舐められる。
予想外の感触に変な声を上げてしまった。
「怪我はない……良かった」
心なしか、折紙の表情が柔らかくなったような気がした。
そこで士道はようやく、自分が心配されていたのだと気づいた。
こうした奇行は目立つが、心優しい少女なのだ。
折紙はネクタイを引っ張ると顔を近づけて、士道の目を真正面から見つめ……
「でも――浮気は、ダメ」
この一言に、固唾を飲んで見守っていた生徒達がにわかにザワつき始めた。
殿町なんかは指笛ではやし立てる始末。
本気で勘弁して欲しかった。
「ちょっと、鳶一さんとほむっち先生ってやっぱり!」
「何かの間違いかと思ってたのに!」
「マジ引くわー!」
三人娘の先程までの気安さがすっかり反転していた。
士道は思わず泣きそうになった。
「はいはーい、皆さーん。ホームルームを始めますよぉー」
騒然とした教室内に、ぽやぽやっとした声が響いた。
タマちゃん先生の登場である。
どうやら転校生の出迎えは間に合ったようだ。
令音を伴ってやってきた彼女は教卓に着くと、着衣が乱れた士道とその傍らに立つ折紙を見て、目を点にした。
「えぇっと……穂村先生? 鳶一さんとなにを……」
「こ、これにはちょっとした行き違いが――――」
士道が弁明しようとすると、体の右側に重みがかかる。
折紙が抱きつくかのように、右腕にしがみついていた。
「行き違いなどない。私たちは見ての通りの関係」
「せせせせっ、生徒も交えたトライアングルラブぅ!? …………はうっ」
「――おっと、危ない」
どのような答えに行きついたのかはさっぱりだが、あまりの情報負荷に珠恵は失神した。
後ろに控えていた令音にキャッチされたので、大事はないだろう。
腕に貼り付いてくる折紙をやんわり引き剥がそうとしたが、まるで関節技を極めているかの如く動かなかった。
実際に、少しでもアクションを起こせば腕一本を取れる体勢である。
やはり現役AST隊員は伊達ではない……士道は感心すると同時に肝を冷やした。
そして恐る恐る令音に目を向けてみると、ちょうど視線が絡んで首を傾げられた。
別に予想外の反応というわけではないが、なんとも思われていないのには悲しいものがある。
流れ出しそうになる心の汗を必死に堪えた。
もうさっきから何度泣きそうになっているのかわからない。
士道の情緒は最早ぐちゃぐちゃである。
それと同様に、タマちゃん先生の失神を受けて二年四組は混沌に飲まれつつあった。
「貴様、何をしているのだ!」
ドアがスパァンと勢いよく開かれ、カオスが極まりつつある教室に凛とした声が飛んできた。
ザワつきが一瞬だけ静まりかえる。
「「――――」」
その声の主の姿を見て、士道と折紙は驚愕に仲良く固まった。
来禅高校の制服を身につけた十香が、二人を険しい顔で睨みつけているではないか。
キュッと、士道の右腕を締め上げる力が強まった。
あろうことか折紙は、自分の太腿まで使ってホールドしにかかっていた。
手がちょうどその付け根に当たっているような気がするが、きっと気のせいだろう。
素肌とは違う布地の感触は、スカートのものに決まっているのだ。
なんとか腕を抜こうと指を動かしてみると、艶かしい吐息が首筋をくすぐった。
それがなおのこと気に入らなかったのだろう、さらに眉を釣り上げると、十香は勢い良く歩み寄って士道の自由な方の手を取った。
「その手を離せ」
「それはこちらのセリフ」
「ストップ! とりあえず二人共落ち着いてくれ!」
自分を挟んで火花を散らす二人に、士道は大声で待ったをかけた。
クラス中から飛んでくる視線が突き刺さる。
さらなる火種の投下に炎上は必至だろう。
なので、せめて火元の二人には落ち着いてもらわねばならない。
これからの火消しを思うと、気が遠くなりそうだった。
そんな士道の気持ちが天に通じたのか、十香は鼻を鳴らすと折紙から視線を切った。
「ふん、まあいい。今は貴様に割く時間などないのだからな」
そして士道の手を離すとチョークを手に取り、黒板にたどたどしくも二文字だけを記した。
士道が贈った『十香』という名前である。
それを満足気に見つめると、着席している生徒に向き直って――――
「今日から厄介になる、夜刀神十香だ。皆よろしく頼む」
まるで転校生の自己紹介だった。
というか、転校生とは十香のことだった。
クラス内がこれまでとは趣の違う驚きに包まれる。
確認するように令音を見ると、士道の視線に微かに頷いた。
これは〈ラタトスク〉が手を回したと見て間違いないだろう。
驚くべきことだったが、こうして十香の世界を広げるのは悪くないと、素直にそう思えた。
もちろん不安や懸念は少なくはない。
しかし、彼女を支えるのが自分の役割なのだと、士道は決意を新たにした。
それがこの世界に生きる先達としての自分の役目であり、手を差し伸べた責任なのだと。
あの時、十香は人間への不信や絶望を乗り越え、この手を取ってくれた。
その実感を思い出していると、記憶と重なるように再び士道の手が握られた。
「それでシドー、次はいつデェトに行く? 今日か? 明日か? それとも今からか?」
輝かんばかりの眩しい笑顔で、十香は爆弾を投下した。
もう何度目かわからないが、多数の視線が突き刺さるのを感じる。
転校生の登場によってうやむやになりかけた空気が、すっかり再燃していた。
心なしか、右腕の拘束がさらに強まったような気がする。
十香が自己紹介している最中も、折紙は頑として離してくれなかった。
こうしている間にも、十香に無表情ながらも鋭い視線を向けている。
晴れやかな笑顔とは対照的に、こちらは極寒である。
そしてそんなことはどこ吹く風と、十香は自分の唇に人差し指を当てて――――
「あんなにも荒々しく求められたのは初めてだったのだ……責任、取ってもらうぞ」
今日一番の爆弾を投下した。
瞬間、教室内が沸き上がる。
ヒートアップする生徒たちとは逆に、士道の血の気はサッと引いた。
恥じらいに頬を薄赤く染めた十香はそれはもう美しかったが、それを気にする余裕はなかった。
助けを求めるように令音を見ると、こちらはこちらで微笑んでいた。
慈母の如き微笑だった。
心を奪われそうになる士道だったが、席から立ち上がった亜衣麻衣美衣がそれを許さない。
学年一の才女と謎の美少女転校生を侍らせた男性教師に、三人娘は同時に指を突きつけた。
「さいってー! 鳶一さん以外にも手を出してただなんて!」
「というかタマちゃんにも粉かけてるんじゃん!」
「マジ引くわー! 貴様、月夜だけと思うなよ!」
「いやっ、これはその、違くてだなっ」
泣きそうになりながら弁明するが、うまく言葉にならなかった。
以前に〈ラタトスク〉の強化訓練で二人を口説いたのはその通りだし、十香に至っては封印という名目があったにせよキスまでしている。
事実を陳列すると、驚くべきことに大体がその通りだったのだ。
それでも、たとえ他の女性を口説くような真似をしようとも、士道には心に決めた相手がいる。
縋るように令音を見ると、寝不足なのかうつらうつらしていた。
士道は絶望した。
追い討ちをかけるように、三人娘は声を揃えて叫んだ。
「「「このっ、淫行教師ぃーーっ!!」」」
「やめてぇぇぇぇぇぇッ!!」
哀れな新米教師の、絹を裂くような悲鳴が学校中に響き渡った。
というわけで十香編は終了です。
次が誰になるかは……まあ、パペットではないとだけ。
それよりも諸事情(書き溜め爆散等)によりスピードが低下します。
次回まで間が空きそうなので、気になることがあればお気軽にどうぞ。
答えられることなら答えますし、答えられないなら濁します。