ただ、帰り道を1人寂しく歩いていた。
足元をじっと見つめて、路端に落ちているゴミとか、葉っぱとか、そんなものに次々に視線を移しながら、上り坂を無心で登っていた。
ふと、波の音が聞こえたような気がした。
肩をぶるっと震わせながら、思わず海の方を見る。
波の音なんてこの距離で聞こえるはずないのに、そう思って見つめた先には人がいて。今にも飛び降りそうなくらい、柵から身を乗り出している女の子を見つけて。
まさか飛び降りようとしてるところなんじゃないかと、ゾッとして気づけば足が駆け出していて。鞄を投げ捨てて、海を見つめているその女の子の手を握って、強く引き戻していた。
「えっ」
素っ頓狂な声をあげたその子は、無抵抗のまま私の方に倒れ込んできて……私が引き寄せたのだけれど。
私を下敷きにして尻餅をついていた。
不思議そうに後ろを向いて、自分のお尻で潰している人間の痛そうな顔をじっと見つめている。
「………えっと」
「い、嫌なことあるなら話聞くからっ、早まらないでっ」
自分でもよくわからないうちにそんな言葉が出ていて。
まあ結果から言えばはやとちりだったんだけど、そんな必死で的外れなことを言っている私のことを見て、その子は一瞬困惑した表情を見せた後。
「ぷっ……あっははははっははっはは!あーあ!」
大口を開けて笑い出して、それはもう、本当に楽しそうに笑い出して。
「……えっ」
気づけば私が、不思議そうな顔と素っ頓狂な声を上げることになっていた。
気温が上がってきて草木が元気になり出して、少し過ごしやすくなってきた春のことだった。
「まさか飛び降りと勘違いされるなんて……ぶふっ」
「だ、だって
「面白いのはその後だよ、嫌なことあるなら話聞くなら早まらないでって……私最初何のことか分からなくって……」
「ぐぬ…」
定期的にこのことを話題に上げては私のことを笑ってくる。
こっちはとっさの勇気を出した……後先考えないともいうけど、とにかく必死の行動だったのに、勘違いだったというだけでこうも笑われては流石に恥ずかしいというか、段々と悔しくなってくる。
「
「うっさい…」
「あ、照れてる〜?」
「うっさい」
綺麗な青色の目を細めてにこにこ笑い、私のことをからかってくる明日花。
あの日、私が明日花のお尻の下敷きになった日。誤解を解いた後同じ高校の隣のクラスだったということが分かって、お互いに友達も上手く作れていなかったのもので、すっかり一緒にいるようになってしまった。
「いい場所だね、ここ」
「そう?私は………あんまり」
学校の屋上、フェンスで囲まれて登ったりできないように返しも付けられたその場所で、気持ちよさそうにそう言う明日花。ずっと高いところが好きなのかと思ってたけれど、どうやら違うらしい。
「本当に好きだよね、海」
「この街高い場所多いから。色んなところから見えて好き」
「……引っ越してきたの?」
その物言いが気になって聞いてみると、海に背を向けている私の前に立ってきて頷いて口を開く。
「ついこの前ね。お婆ちゃんの家がここにあるんだ」
「……ふーん、じゃあ転校生だったんだ」
祖母の家に引っ越してくる理由を聞こうとして辞めた、きっとデリケートな話になると思ったから。
意外とあっさりした答えが返ってくるかもしれないけど、それでも聞く気にはならなかったので、転校ということに話を逸らした。
「クラス違うから気づかなかった」
「違うの残念だったよねぇ」
「そう?」
「そうだよ、仲良くなれたのに一緒に居られないじゃん」
「………別に、今こうして放課後に会ってるでしょ」
「それはそうだけどさあ」
まだ高校一年生なのに、何を言ってるんだろうか。高校だけでも考えてもあと二年は同じ学校に通うことになるのに。
まあそこまで関係が続いているとは限らないけど。
「……ずっと気になってたんだけど」
「なに」
「なんで海の方見ないの?」
「………」
「いっつも背中向けてるよね」
フェンスに背中からもたれかかって、後ろにある海を見ないようにしている。放課後に屋上に来るのも3度目くらいなのにいつもそうしていたから流石にバレてしまったのだろう。
「一緒に見ようよ、いい景色だよ」
「……いいよ、見飽きてるから」
「えー?私は一緒に見たいんだけど」
「いいって」
「えー?」
顔を背けても視界に顔を入れて頬を膨らませる明日花。右を向いても左を向いてもねえねえ、と言って後ろを見ることを強要してくる。
「分かった、分かったから……」
「やったあ」
恐る恐る後ろを振り返る。それを見て嬉しそうに弾むような足取りで私の隣に並んでくる。
「ほら、あそこ浜辺のところ凄くキラキラしてる」
「ああうん、そうだね、うん」
「こんなに浜辺がひらけて見える場所珍しいと思う、んだけど…」
「うんうん、わかるわかる」
「……………ふうっ」
「ひゃんっ」
左耳を抑えながら飛び跳ねて明日花から距離を取る。
「なっなななにしてんの!?」
「目、閉じてたでしょ」
「ゔ……」
「ふふっ、顔真っ赤だよ」
「誰のせいだと……」
耳まで赤くなっているであろう顔で睨みつけていたのに、そんなのお構いなしにと海の方を向く明日花。
「海が怖いんだね、光莉は」
「………はあ、バレたか」
海が好きな相手の前でそういうこと言い出すのはどうかと思って黙っていたけれど、やっぱり無理があったらしい。観念して口を開くことにする。
「そう、海洋恐怖症ってやつ。どこいても海が見えるような町に住んでるのに海が怖いとか、笑っちゃうでしょ」
「そうだね、滑稽かも」
「………」
「冗談だって」
海洋恐怖症とは言うけど、湖とか川も怖いし、もちろん海だって怖い。道を歩くときは海が視界に入らないように壁や地面を見ている。
波の音が聞こえるだけでも、嫌な寒気が首筋を撫でてくるような感覚がやってくる。
「分かるよ、海が怖いの。私も前はそうだったから」
「……それでそんなに大好きになれるの?」
「そう、なったの」
フェンスに手をかけて、愛おしそうにそう言う。
「光莉はなんで海が怖いの?」
「……元から、あんまり好きじゃなかったよ。でも一番のきっかけは小学校四年の頃かな」
あの時の感覚を思い出すだけでも背筋がゾッとして、手足の先が冷えてくるような気がする。
「川で遊んでたんだ、普通に。友達と一緒に、雨が降ってもお構いなしって、雨で濡れるのが楽しくってさ」
「……あー」
色々察したらしい。そうやって察せられればあの時の私もあんなことにはならなかったろうに。
「友達はギリギリ逃げられたんだけど、私だけ取り残されちゃって、流されちゃってて」
あの時の、一気に自分の立っている場所が無くなっていく感覚。追い込まれていくような、追い立てられるような焦りでパニックになって。
一度川の流れにさらわれるともうダメだった。立てないし、泳げないし、掴まれないし、寒くて痛くて、怖くて怖くて。
「私がちっこかったのもあるけど、人間ってこんなに簡単に流されるんだって思って……それ以来水のある場所が全部ダメになった」
「ふぅん……」
興味があるのかないのか、薄い反応が帰ってくる。
そりゃそうだろう、他人事なんだから。昔は怖かったとはいっても大好きになるくらい海を克服できている人間だ、怖いって言ってるやつの言い分なんてあんまり理解できないだろう。
「……結局、壁に引っかかって助かったんだけどさ。色んなところ怪我してて……あのまま行ったら、あの海に放り出されてたのかもしれないなって」
「…それで怖くなったんだ」
「一回怖くなると全部怖く思えてくるよ。海の深さも、広さも……」
こんな町に住んでて難儀なものだなと思う。
それが売り文句の町で、海を怖がってちゃ暮らしづらいったらありゃしない。
「いつかあの海がこの街全部飲み込んじゃうんじゃないかって、そう思うだけで足が動かなくなる」
普段考えないようにしていたことが、こういう会話をしていることでどんどん頭の中に溢れてくる。
「そっかあ……」
「………」
明日花はこれを聞いてどう思うのだろうか。
まだ知り合って2週間も経たない相手に海の怖さを言われたところで何も感じないかもしれないけど。
「じゃあ克服しよっか、水」
「……は?」
「色々不便でしょ?私も好きになったし、きっと光莉も好きになれるよ」
「いやいや…」
そもそもじゃあ克服しようってなんなんだ、それが出来たら苦労なんてないというのに。すごい簡単に言ってくれるし、こっちを見つめるその目は自信に溢れているし。
「私光莉と一緒に海見たいもん」
「……んえぇ」
なんともまあ、いい笑顔で言い切ってくれる。
「…ほんっとうに好きなんだね、海」
「自分の好きなものはみんなに好きになってほしいからね」
別に私自身は海が怖いままでいいと思っている。克服しようと思ってそんなに簡単に出来るならもうとっくにやってるし、怖いものをわざわざ好きになれるように努力するなんてことしたくもない。
けど……
「……そんなに、私と海が見たいの」
「もちろん!」
あまりにも眩しいその笑顔を見ると、応えたくなってしまった。
「よく分かんないけど分かった、海が好きに出来るもんならしてみてよ。そしたら一緒に海を見てあげる」
「んひひ、やったあ」
歯を見せて嬉しそうにしている彼女の表情を見ると、なんだかこちらまで絆されるような気がした。
……そういえば。
一緒に海に行くじゃなくて、海を見るなんだな。
「じゃーん、水族館でーす」
「高いッ、いきなりハードルが高いッ」
「えー?」
「水怖いって言ってる奴にいきなり水族館って、高いところ怖いって言ってる奴にいきなりバンジー連れてくようなもんだよ!?」
「じゃあ海に連れて行ったら紐なしバンジーかな?」
何言ってんのこいつ。
「まあまあ私の言い分も聞いてよ」
「返答次第では帰るよ」
ずっと楽しそうに口角を上げている明日花、私がビビっているところを見て笑ってるんじゃないだろうな。
「恐怖ってのはまず第一に
「………はあ」
「知らない人といきなり話すのは怖いし、知らない場所に行くのは怖いし、知らないことは怖いからしたくない。……それがワクワクする人だっているけど、もちろんワクワクしない人もいるよね」
まあ私は今挙げたの全部当てはまってるけども。
「まず理解しないと。こっちから歩み寄っていかないと、海は私たちに優しくしてくれないよ?」
「………一理ある」
理解を深めても怖いなんてことはもちろん考えられるけど、克服しようっていうのに何も知らないままってのは通らない話だろう。そう考えたら確かに水族館というチョイスは間違っていなかった……のかな?
でもやっぱりもう少し段階踏んで欲しかった気もする。
「なんで怖いのかっていうのも掴まないと。ただ漠然と怖い怖いって思ってるだけじゃ向き合い方も分からないよ」
「くぅ、さっきから正論ばっかり……正しいことばっかり言えば私が素直に折れると思うなよッ!」
「まあもう二人分のチケット買っちゃってるから逃がさないけどね」
ひらひらと2枚の水色のチケットをひけらかす明日花、一気に抵抗の気力を失う私。
「……お手柔らかに」
「あっ諦めついた?じゃあれっつごー」
なかなか足を進めない私の手を取って、無理やり引っ張って水族館へ連れていく明日花。
「……手ぇ冷たいな」
「ん?なんて?」
「……なんでもない」
入り口に入るといきなりスノードームのような形の巨大なアクアリウムがお出迎えをしてきた。急にでかいのが出てきて小さく悲鳴を上げてしまう。
「なに、もう怖い?」
「い、いや……デカくてビックリしただけ」
「奥にもう一回り大きいのあるよ」
「まじで」
十分でかいんだけど……水槽の方が私よりも背が高い。台座に乗っかっているとはいえこれは……
「岩とか海藻と……クマノミとこれは…ナンヨウハギだね」
「不思議とめちゃくちゃ覚えのある組み合わせだ」
「ほんとにね」
大きい……けど、本当の海や湖に比べればミニチュアサイズもいいとこだろう。最初こそ驚いたけれど、球状なのがむしろ全体を見渡せて、サイズ感とかも掴めるからかそこまで怖く感じない。
「……知らないから怖い、か」
「お魚の解説なら任せてよ」
「お魚…」
海が好きと言うだけあって魚の種類にも自信があるらしい。川魚は詳しいのかなとかくだらない質問が浮かんだけど即刻切り捨てた。
「どう、これは平気?」
「………うん、どっちかっていうと綺麗だなって思う」
「水に入らない分には平気なのかな?とりあえず回ってみよっか。私も楽しみたいし」
私も楽しみたい、の方が主目的でないことを願う。別に付き合うのもやぶさかではないんだけど……
「まあ人によるからねぇい、水族館が原因で恐怖症になる人もいるし、水族館は平気って人もいるし」
「…明日花はどうだったの?」
「ん?んー……どうだったかな。忘れちゃった」
「………そ」
分かりやすくはぐらかされた。考える素振りをして目を逸らして、今はもうパンフレットをめくっている。
「あ、チンアナゴいるみたいだよチンアナゴ」
「へぇー」
「先人は何を思ってチンってつけたんだろうね?」
「知らないよ」
「ねえねえ、なんでだと思う?」
「知らないよ」
「ねえねえねえねえねえ」
「知らねえって言ってんでしょ」
これもはぐらかしの一環なのだろうか、それとも単なるウザ絡みなのだろうか。どっちにしろ少し鬱陶しい。
「光莉は何か見たいのある?」
「……特には」
「じゃあ順番に回ろっか!片っ端から!全部!!」
「…テンション高いね」
「あげてこーッ!!」
無理やりテンション高くしてないかそれは。
そうやって軽い足取りでどんどん先に進んでいく明日花。自分が気になったものがあると手招きして私も見るように促してくる。
正直に言うと、怖い。
これは水族館に対する恐怖というより、自分が何に恐怖を感じるか分からないことに対するものだと思う。
ただ水槽を眺めているだけなら大丈夫、箱庭とかそういう感じで捉えることができる。全体像が見える、何がいるか分かる、私の手に負えないサイズじゃない。
「あっちトンネルあるんだって!行こっ!」
「……もう少しゆっくり行かない?」
「ああごめん、ちょっと一人で突っ走りすぎちゃってたね」
あははと自嘲気味に笑いながら、歩みの遅い私が横に並ぶまで立ち止まって待っていてくれる明日花。
「どう?気分悪くなったりしてない?」
「よくはないかな……ただまあ」
元から魚はそこまで嫌いじゃない。怖いのは海で、水で。
魚や海の動物を見るためのものなら、多分問題はないんだと思う。ここの水槽は海を見せてるんじゃなくて生き物を見せているから。
「……なんでもない」
「それ聞いてって言ってるようなもんだよ?」
「聞かれても答えられないよ、自分でもモヤモヤしてるから」
明日花もこうやって海を克服していったのだろうか。
したとして、私もあんな風に大好きになれるようには思えない。……まあ怖がり方にも人それぞれ違いがあるんだろうけど。
「あっちヤドカリコーナーだってさ」
「あ、普通にキモいから無理」
「まあまあ、見るだけ見るだけ」
「い、や、だ」
服を引っ張る明日花を睨みつけながら抵抗する。
「甲殻類嫌い、見た目無理」
「克服、克服しよう」
「海関係ないしッ」
人の嫌がることをしてはいけないと親に習わなかったのか?数秒間攻防を続けていると不意に手を離されてよろめいてしまう。
「まあ私もカブトガニ好きじゃないし、仕方ないか」
「あ、そう…」
「ちなみにカブトガニは甲殻類じゃなくて剣尾類っていう——」
「聞いてない、早く次行こうよ」
えー、と残念そうに声を漏らしながらも再び私の前に立って先を歩いていく明日花。その背中を見つめながら後ろをついていく。
別に苦手なものがあったっていいだろう、深海魚とかに少しでも怖いとか気持ち悪いとか思わない人は少ないと思うし……
「私今日のためにネットで色々調べて………ん?」
明日花がこちらを振り向く。
足を止めて、動かない私を不思議そうに見つめて。
左の、右の、前の、上の水槽が。
水に囲まれているこの場所に入ってすぐに、あの時の感覚が思い起こされて、気味の悪い浮遊感に包まれて、足が地面についているはずなのにそれを感じれなくて。
足先から頭のてっぺんまで、何かに纏わりつかれているような。
息が詰まる、息ができない、鼓動が早くなって。
手を握られた。
「ぁ……」
「大丈夫、私を見て」
ゆっくりと、語りかけるように。
私が声のする方に顔を向けるまで、じっと待っていた。
「浅くでいいから、吸って、吐いて」
少し戸惑った後、言われた通りに口で息をした。
恐る恐るだったのが、次第に慣れて、呼吸ができるということを身体が認識していく。
「目を閉じて、息をして。私がいいって言うまで続けて」
瞼を落とす。
視覚が遮断され、自然と他の感覚が鮮明になっていく。
足音が聞こえて、話し声が聞こえて。
口を閉じて、鼻から吸った空気がなんか変な匂いがして、妙に生ぬるくて。
身体の感覚が戻っていく。
私の手を強く握っている手の、その先の顔を想像して。
「いいよ、目を開けて」
目を開くとそこには、変顔をしている明日花がいた。
「………」
「………やんっ、脇腹突かないで」
ほっと息をついて、視線を下に落とす。
「ごめん、なんて言えばいいのかわからないけど……身体がうまく動かなかったと言うか」
「水中トンネル……大きい水槽で水の中にいるみたいになってるから、それで身体が勘違いしちゃったのかもね」
手を離して辺りを見渡している明日花、視線を足元に向けている私は周りのことがよく分からない。
また顔を上げたら、あの感覚に溺れてしまいそうだったから。
「いきなり水中にいるようなもんだもんね、もう行こっか」
「あ…えと………」
「……どしたの?」
変わらず足を進めようとしない私に不思議そうな目を向ける明日花。
少し言うのを躊躇った後、黙っていてもどうしようもないかと自分にため息をついて口を開く。
「……その、足、うまく動かなくて」
「……あ〜?なるほど…?うーん……」
我ながら情けないことを言っていると思っているけど、どうにも動かない。足が床にしがみついて離さない、浮くのを嫌がるかのように。
「…じゃあもっかい手繋ごっか」
「……かたじけない」
「ぷっ、何その話し方」
恥ずかしさと申し訳なさが入り混じって変な言葉が出てしまい、案の定笑われる。
彼女に手を引かれるままに、足を浮かせて、前へと進んで。足元だけを見て周りを見ないように……それでも一歩ずつ進んで。
トンネルを抜けたあたりでようやく、深呼吸をすることができた。
「……帰りも通らなきゃダメ?これ」
「いや帰りは別の道だけど……もう一回行っとく?」
「しばらくはいい……本当に」
怖かった。
あのまま明日花が呼び戻してくれなかったら……まあ気絶はしてた気はする。あの時の感覚がフラッシュバックしてくるようで……
「………」
「まあ一旦置いといて楽しもう?水の中って感じなのあのトンネルくらいのはずだからさ。終わった後で色々考えよ?」
「…そうだね」
なんてことなさそうな表情で明日花はそう言って、また先を進んでいく。
私を気遣っての言葉なのか、そんなこと関係なしに思っているのか判断がつかない。どこかふわふわとしていて、掴みどころがない。
素早く私の手を握って、私を呼び戻してくれた時も……
「………でも」
手に、彼女の体温が少し残っている。
あのしなやかな手の冷たさが、私の手に残っている。
それでも、優しい手だったというのは確かだった。
「写真50枚も撮っちゃった、そっちは?」
「ぜろ」
「……今から全部送るね」
「いやいいって」
「そりゃ!」
「うわわわわわわ」
トーク画面がやかましい。
おい今私のめっちゃ写真写り悪いのあったぞ。
「ツーショットは別のアルバムに入れておくね〜」
「いつ撮ってたの…」
「隙あらば内カメで?」
「肖像権って、知ってる?」
「いぇーい」
「撮るな撮るな」
帰り道、あの後もしっかり楽しんでいたせいかテンションずっと高い。やめろ撮るな、自撮りする振りしてるだろ、内カメじゃないだろそれカメラこっち向いてるだろ絶対。
「なに〜恥ずかしいの〜?」
「恥ずかしい」
「あら素直、照れちゃって〜」
「もういいから…」
ニヤニヤしながらこちらにカメラが向いているスマホを掴んで降ろす。
「……川で流されたあの時以降プールの授業も見学すらできずに休んでたから、なんとなくそうじゃないかと思ってたけど」
川もプールも、もちろん海も。人が入れる深さがある水が無理で。
「多分、あの溺れた時の感覚が思い起こされるのが無理なんだと思う」
「まあ普通にトラウマだね」
「普通にって……そうだけども」
水の深さとか、底の知れなさが怖いんじゃなくって。漠然と水が、水面が怖いわけでもなくって。
「あの、自分の周りにぴったりとまとわりついて逃れられないような。簡単に流されて、自分の身体が自由に動かせなくなる感覚が怖い。……水の中じゃ人間は生きられないし」
「……そっか」
単純な話だった。一度経験した怖いことに怯えて、水を見るだけでも思い出して、それで怖がっているだけだった。
「それで、克服できそう?」
「なんで怖いのかっていうの言語化しただけだし……言葉にしちゃった分、むしろ明確になったというか……逆にできる気がしなくなった」
「あれま」
うーん、と顎に手を当てて空を見上げて考える素振りを見せる明日花。
意識が現実に戻ってきた後も、私ひとりじゃ水中トンネルから出られなかった。多分、本当に水に入ったらパニックで簡単に溺れてしまうんじゃないか。
水の中での立ち方がわからない、泳ぎ方がわからない。
「……まあ、水に入って慣れるしかないよね?」
「…………無理」
「無理じゃないって。克服するんでしょ?」
「別に絶対したいわけじゃ……」
「私と一緒に見てくれるんでしょ?海」
「ん………」
きっと見るだけならどうにかなる。でもそうやって無理やり見た海は、きっと明日花と同じ海じゃない。
綺麗で、広大な憧れの海じゃない。ただ恐怖を押し殺して視界に入れただけの海は、そんな煌びやかなものなんかじゃない。
「川……は一番ダメか。浅いところがいいと思うから……まあプールかなあ」
「いやその……水着ない」
「一緒に選んであげるじゃ〜ん」
「結構です」
「私は光莉の水着姿見たいけど〜?」
「見られたくないし…」
みっともなく抵抗している自覚はある。
ただそれだけ私にとって水に入るってことは怖いことで、忌避してきたことで………水着で楽しむような、そんな気分には絶対になれない。
「トンネル、通れたでしょ?きっと大丈夫だよ」
「あれは………」
口に出そうとして、辞めた。
明日花がいたから進めただけで、私1人じゃ溺れた意識を引き上げられなかった。あのまま気を失って、倒れていた。
その怖さを改めて自覚したから、余計に怖い。足を止めてしまうくらい、諦めてしまうくらい怖い。
その、はずなのに。
「……ん?」
彼女に引っ張ってもらえるなら、進めるかもしれないと。
そんな淡い期待を抱かずにはいられない。
「……浅いところからにして」
「お…!光莉の水着いっぱい撮るぞ〜!!」
「おい…」
こうやって無鉄砲で無邪気に明るいから、それに自然と釣られてしまう。
「何が似合うかなあ、フリフリでカラフルなやつとか?」
「恥ずかしいって…」
「結構スタイルいいからなんでも似合いそうだけど…」
「やめろこっちジロジロ見るな」
まるで太陽みたいに、眩しすぎて鬱陶しいくらいには、明るい。
「わー似合ってるぅ〜!」
「シャッターを押すな押すな押すな」
「ポーズ取ってぇ〜!」
「取らんわ」
シャッター音を何度も鳴らす明日花の肩を掴んで写真を消せと凄むが、舌をぺろっと出して手を振り払って距離を取られる。
「フリルがひらひらしてるよぉ〜!」
「どんなあおりだ」
「照れてるのもかわいいよぉ〜!」
「撮るなって…」
カメラを遮るのを諦める。こっちはそれどころではないというのに、向こうは私の水着姿に盛り上がっている。付き合ってられないというか付き合う余裕がない。
まあ、ウォーターパークに来て絶望を感じているのは私くらいのものだろうけれど。
「あ、どうどう私の水着」
「どうって……一緒に選んだじゃん」
「それもそっか」
海大好き水大好きみたいな言動をしているくせに、こういうプール施設には滅多に来ないらしい。お互いに水着を持っていなかったため水着を選び合う事態となったが、水着を見るだけで目眩がしてくる私にはあまりにも酷だった。
…まあ、おかげさまで水着を直視するのは克服したけれど。
「……おいお腹は撮るな、スマホ水に沈めるぞ」
「防水だけどどうぞ?」
「腹立つ…」
ため息をつきながら諦めて項垂れる。
「……浅いプールまで連れてって」
「え?あ、うん。案内はするよ?」
「水見るの怖くて歩けないから手ぇ繋いで連れてって」
諦める、というのはプライドをかなぐり捨てるという意味でもあった。高校生にもなって怖いから手を繋いでなどと可愛らしいことを言うことになるとは思わなかった。
「あー……うん、わかった。はい」
「………ん」
少し考えた後差し出された彼女の冷たい左手を、私の臆病な右手で握る。
手を引っ張ってくれるのを待って、待って、待ち続けて。
「あれ……」
いつまで待っても動いてくれなくて、何も話してくれない明日花が不思議で不安になって。
怖くて顔は上げられないから、ただ待つことしかできなくて。
「……あの」
「手は握っててあげるけどさ、顔は上げてみようよ」
私が視線を少し上げるのを待ってたかのように口を開いて、私にそう言ってくる。
「……でも」
「大丈夫。ここは水の中じゃないしプールサイドだから、ちゃんと足が地面についてるでしょ?」
「………まあ」
顔を上げてみようと言われても、私の首と視線はそう簡単には動いてはくれなかった。嫌だし、怖いし、見たくない。
ただ黙って連れて行ってくれればいいのに、何故そんなことを求めてくるのか。
「ここは楽しいプール。波はないから流されないし、人だって沢山いる。川とも海とも違う、楽しむために作られた場所」
「……でも」
顔を上げるのが怖い、本能的に身体の行動を拒絶する。ついこの前水族館で意識を水の中に持っていかれたばかりで、それも相まって余計に身体が拒んでいる。
「それにほら」
手をぎゅっと、強く握られ、反射的に握り返していた。
「ちゃんと手は繋いでるから、溺れる心配なんてしなくていい。心も身体も流されそうになっても、ちゃんと私が手を握っててあげるから、ね?」
歩み寄るように、誘うように。
気をつかうように、励ますように。
優しく語りかけてくる声と、あまりにもしっかりと握られている手を感じて。
ゆっくりと顔を上げた。
水は視界の端に映っているけれど気にしないように、明日花の顔を視界の中央に据えて。
私と目が合うと彼女はまるで花みたいにニコッと笑って、浅いプールのある方を向いてゆっくり歩き出した。
手を引っ張られて、身体が前に傾いて。このままだと転けそうになるのを、動くのを拒んでいる足が咄嗟に前へ踏み込んで体を支える。
その繰り返し。
「………」
言われた通りに顔は上げているけれど、私は足を前に踏み出すのに精一杯で。無理やり動かされている足を気にして倒れないようにするのに必死で。
どのくらいそうしていたのか分からないけれど、急に目の前に何かが来たと思ったら、足を止めた明日花の背中だった。
「とうちゃ〜く」
振り返った明日花の顔をじっと見ていると、急にその場を退いて、私の視界から明日花が消えてプールが映る。
「………」
「どう、ちゃんと見れてる?」
「………私、足震えてないかな」
「うん!生まれたての子鹿みたい!動画撮っとこ」
「やめて」
一気に肩の力が抜けた。
私の視界に現れたのは広さの割に人の少ないプールで……なんなんだろう、これ。
「このプールはねぇ、奥に行くに連れ段々と深くなっていくんだ。最初は足首くらいまでしか水がないんだけど、向こうに向かって段々足元が傾いてて……浅いところから段階を踏むって感じならこれが一番かなって」
「……そう、なんだ」
「荒療治でいきなり深いプールに突き落とそうとも思ったんだけど、まあ流石にね?」
「下手したら泡吹いて死ぬ」
「だよね」
まるで軽い冗談みたいに言ってくるが、こちらからすれば処刑方法でも述べられているような気分だ。
「ほら、この浅さなら顔面を下にして水面に倒れるくらいでもしないと溺れようがないでしょ?」
「まあそうだけど……」
水面のわずかな揺らぎが、まるで刃を剥き出しにしたナイフみたいに思えて、寒気が首筋を撫でてくる。
「………」
やっぱり踏み出せない。
怖いのもあるだろうけれど、きっと甘えてしまっている。水族館でも手を引かれて、ここに来るまでも手を引かれて。
いつも連れてきてもらっている。
それじゃダメだと分かっていても足が動かない、動かそうとしない。待っていればまたこの手が私を引っ張って進ませてくれるんじゃないかって、そう期待して。
立ち止まっていれば助けてもらえると思っている。
「……やっぱり、怖い?」
「………これは、その」
誤魔化すこともできない、言い淀むことしか。
ここまできても、弱みを見せることを躊躇している。
手が急に前へ引っ張られた。
「ほっ」
「わっ———」
小さな悲鳴が口から飛び出す。
いきなりプールに飛び込んで、私の手を強引に引っ張って。つまづきそうになるのを防ごうと足が水の中で立った。
「っ………」
悪寒が足から全身に伝わる。お風呂は毎日入っているのに、それとは全然違う感覚が両足を包んでいる。
冷たい液体が足にまとわりついて離さない。わずかな波が私の身体にぶつかるたびに声が出そうになる。
「私ね、ずっと楽しいんだ。光莉に会ってから」
「き、急に何を…」
言葉の真意も分からず、何故今話し出したのかも分からず、ただただ朝から伝わってくる嫌悪感を耐える。
「あれ以来出来た初めての友達だったから。ここに来て初めてちゃんと話せた相手で……そして光莉は、私の手を握ってくれたから」
「手……?」
最近手を握ってもらってばかりで、明日花の手を私が握りにいったことなんて………
「……あ、初めて会った時…」
「だから嬉しくって、私の色んな楽しみを、喜びを共有しようと思ったんだ。一緒の時間を過ごして、一緒の話題で笑って、一緒のご飯を食べて……まるであの頃みたいに」
段々と声色が変わっていくのが気になって、視線を明日花の顔へ向ける。目があった彼女は、私のもう片方の手も手に取って。
私たちは、こんな浅い水の場所で、両手を繋いでいて、そんな彼女は珍しく真剣な表情で語りかけてくる。
「あの時もね、一緒に海を見ようとしたんだ。そしたら光莉は海が怖いって言って……でも私は一緒に同じ海を見たかったからさ、私の都合で一緒に海を見れるようになろうって言っちゃったんだ」
「………」
僅かな喧騒と、風の音。そして水の跳ねる音が沈黙の隙間を埋める。
「私は、楽しかった。誰かと一緒に水族館に行くのも、水着を選ぶのも。………でもさっき思い返してみたら、ずっと光莉は何か我慢するような顔してたなあ、って」
「……そんなにかなぁ」
確かに怖さを噛み殺そうとはしていた。それが自然と我慢するような表情として出ていたとしても頷ける。
けどそれは嫌々やっていたんじゃない、私も一緒に海を見れるようになりたいと思ったから。流れる川を、広い海に恐怖心を感じなくてもいいようになりたいと願ったから。
必要だからやっていた。
「きっかけは私のわがままだから……だから責任は取るよ」
「……責任って?」
やたらと重い物言いが気になって聞き返す。
「ちゃんと手を握っててあげること」
ぎゅっと、私の両手が強く握られる。
「私が手を繋いでる限り流させやしないし、絶対に離さない」
「………」
いつになく真剣な言葉だった。
その表情が、視線が、声が、冗談なんかじゃないということを主張してくる。
これは本心なのだと、そう言っているかのように。
「……なんじゃそりゃ」
あまりにも大真面目に小恥ずかしいものを言うものだから、なんだかおかしくなって笑いながらそう言ってしまった。
「あえっ、私変なこと言った…?」
「変だよ変、ずっと変だけどいつもより変だよ」
「あれ〜?私なりにこう、決心というか覚悟というか…」
「じゃあ聞くけどさ」
へ?と素っ頓狂な声を上げる明日花の手を今度はこっちが強く握る。
「そんなこと考えながら過ごしてて楽しめる?」
「……それは」
「楽しかったんでしょ?楽しみたいんでしょ?じゃあそれでいいじゃん」
私はそんな姿に自然と引っ張られるんだから。
「でも……」
「……でも、か」
そりゃあ説得力ないか。ずっと怯えてるんだから。
今こうして立っているだけでも、気を抜けばあの時の感覚に閉じ込められそうで。
だからこそ……
「すぅ……はぁ……」
息を吸って、右足を上げた。
纏わりつく水が下へ滴る、右足の浮遊感が全身に伝わって身体の支えを失いそうになる。
だから自然と手を、不安なのを押し殺すように強く握って。
右足を一歩、踏み出した。
一歩分、明日花の顔が近くなる。
「ふうぅ………ね?手を握ってさえいてくれたら……とても頑張ると、私はこうやって水の中で歩くことができる」
今どんな顔をしているだろうか、かろうじて無理やり笑顔を浮かべることはできているだろうけれど、きっととても苦そうな顔をしているに違いない。
「……私も、明日花と一緒に楽しみたい」
「え…?」
「せっかくプールに来たんだからさ、楽しい思い出にして帰ろうよ、ね?」
ああ、多分ぎこちない笑顔なんだろうな。
いつも彼女がやっているみたいに、相手を安心させるような笑みを、語りかけるような言葉を、私は彼女みたいに上手にできない。彼女みたいに眩しくはなれない。
「……ぷっ———」
そう吹き出したかと思えば、彼女は心底愉快そうに大口を開けて笑い出した。その上下する肩と一緒に私の両手も揺れる。
そんな彼女の表情を、私はきっといつものように呆れた顔で見ている。
「あーあ!なんか気が抜けちゃった」
「こっちのセリフ……って、うわちょ、待っ」
力一杯両手を振って、私を左右に振り回してくる明日花。足がもつれないように必死に足を動かして動きに合わせる。
「ありがと!私今、すっっごく楽しいよ!!」
「そ、そりゃよかった……」
急に振り回してきたことへの怒りを向けるより先に、明日花の表情が目に入ってしまい。
その明るい笑顔を見て、怒る気も失せてしまった。
「どう?歩いてみた感じ」
「んー………まあ、今しがた無理やり歩かされたからね。どうにか」
「そりゃよかった」
「荒療治とそう変わらないけどね?」
にへへ、とイタズラっぽく笑う明日花。
「私が一歩下がるから、その後に光莉は一歩前に進んで」
「ふぅ……オッケー」
気が抜けたからだろうか、不思議と心は凪いでいた。
一歩、また一歩。ゆっくりではあるけれど確実に、段々と沈んでいく身体に強く怯えることもなく。
腰あたりまで水がやってきたあたりで2人の足が止まった。
「どう?ひんやりして気持ち良くない?」
「気持ち良くはない」
「そっかぁ」
冷たい水に浸かるのはあの時以来で、きっとあの時と同じように水が流れてしまえば私は一緒に流されてしまう。
そういう考えはあっても、不思議と私の意識はしっかりとしていた。
水族館で陥った感覚のようにはならずに、静かな水面と同じように、私の気持ちも穏やかに凪いでいた。
「どうする?一旦上がる?」
「ん……どうしようかな」
まだ行こうと思えば行けるけれど。
きっと手を離してしまえば私はまた動けなくなるし、ないとは思うけれどもし何かがあった場合溺れるには十分な深さだ。
悩んでいると不意に大きな波が私の身体にぶつかった。
冷静になってみれば普通にこのプールに人が入ってきて、私たちの隣を通りすがっただけだったんだけど。
「わぉっ!?」
ずっと人の少ないプールで、静かな水面で歩いていたから、急な水の跳ねる音と身体にぶつかる波に驚いて足がもつれて。
明日花の身体に飛びついてしまっていた。
「………」
「………」
幸いにもそのまま通り過ぎていったようで、この恥ずかしい状態を誰かに見られているわけではない。
けれど今の私は完全に両手を離し、足も浮いてただ明日花に抱きついているだけの状態となっていた。
「ひ、光莉…?」
「………ごめん、腰抜けて立てそうにない」
「あー……このまま上がるね?」
「……お願いしマス」
素肌と素肌が触れ合う。お互いにそれなりの肌面積の水着を着ているため、水に濡れた肌がくっついて変な気分になる。
結局浅い場所まで戻ってきた私は、それ以上水の中に入る気にはなれなかった。
「ん〜!頭キーンってする、キーンって!」
「勢いよくかき込みすぎだからでしょ」
「溶けたらただの水じゃん!」
「溶けなくてもただの水だよかき氷は」
あの後時間をかけて何度もリトライを重ねて、お腹が水に浸かるくらいまでの深さまでは入ることができた。
けれどそれ以上はどうにも怖くて無理だった。多分、溺れて顔に水が纏わりついて、呼吸ができなくなったときのことを思い出すから。
「やっぱりシロップはブルーハワイだよね」
「ブルーハワイの味って結構場所によって変わらない?」
「……確かに」
手は、結局繋がずに入ることはできなかった。
それでも両手は繋がずとも、片手さえ握っていてもらえればプールに入ることができるようになった。これは大きな進歩と言えるだろう。
「あー焼きそばも食べたいなあ」
「かき氷の後に…?順番が逆でしょ」
「なんだってよくなあい?」
気づけば日も落ちかけてきていたけれど、それでも暑いものは暑かったので今こうして一緒にかき氷を食べている。
「なんだかんだで楽しかったねぇ」
「ん……まあ、そうだね」
「……えへへ」
嬉しそうに小さく笑って、かき氷をまた口に運んで頭を抑える明日花。
「また来よっか、練習に」
「……そっか、練習か」
「せっかく水着買ったんだし!今のうちに沢山来ておかないと!」
「その度に写真撮られたらたまったもんじゃないんだけど。次ラッシュガードでも持ってこようかな……」
「ダメだよ水着似合ってるのにぃ〜」
もうすぐ6月も終わる、少し経てば夏休みが来る。
水に何度も入って、手を繋がずとも水に入れるようにする。そうして水への恐怖心を克服して。
一緒に海を見る。
「……まあ、暇はしなさそうだなあ」
川や海とプールは違う、それは当然。
きっと溺れることへの恐怖を完全に克服することはできない。満足に泳ぐことなんて出来ないかもしれない。
川は海に繋がっている、あの時たまたま引っかかっていたら私はきっと海に投げ出されていて。きっと泳ぎ方も分からないまま溺れて、沈んで、死んでいた。
だから怖い。
怖いけれど、だからこそ。
「どうせ海を見るなら、やっぱり綺麗だって思いたいな」
私のその呟きを聞いて呆気に取られたような顔をする明日花。
「……どしたの」
「…あ、いやその、なんていうか………嬉しいなって」
かき氷を食べる手を止めて視線を下に向ける明日花を見ながら、私は変わらずにかき氷を少しずつ口に運ぶ。
「私の好きなものを好きになろうとしてくれてるのが、というか」
「んー」
「こんな風にしてくれる相手今までいなかったし……私のこと分かろうとしてくれてるのが新鮮、みたいな」
「んー」
「……聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
ずっと顔は見てたし。というと何故かむすっとする明日花。
「私は……」
「……何?」
「恥ずかしいからやっぱりいいや」
「えぇ〜!?言ってよそこはさあ!」
向こうが堂々と小っ恥ずかしいこと言ってくるものだから、こっちも釣られて感謝を伝えそうになったけれど思いとどまる。
やっぱりそういうこと言うのは恥ずかしい。
「まあ感謝はしてるよ、色々と」
きっと明日花じゃなかったら、プールを見ることすら出来なかったろうから。
「むぅ、抽象的」
「感謝してることを具体的に一つ一つ羅列しろって?」
「うん」
「やだよ」
「恥ずかしがり屋め〜」
「はいはいそうですよ」
底なしに明るいと思っていた、何もせずとも私の手を勝手に引っ張って行ってくれると。
でも明日花は明日花なりに考えていて、悩んで……私を無理やり水のある場所に連れてきたと、そう思っていて。
そういう面もあるんだと知った。
「……意外なとこで繊細だよね」
「んー?」
「何でもない」
「えー?」
小さな呟きが聞こえていないことを願いつつ、誤魔化すようにかき氷を勢いよく掻き込んだ。
「っ〜……」
頭がキーンとする。
「神社?」
夏休みに入って1週間ほど経った日、明日花から神社に行こうという誘いが来た。プールで練習ばかりというのもいい加減飽きたから一旦気分転換に……という話だった。
そういうところに行こうと誘われるのが予想外で少し驚きつつ、最近の進捗が乏しいことを思い出す。
何度かプールに通ってほどほどに遊びつつ、ひとまずの水嫌いは克服したと思う。もっともこれは水を見ることによる過剰な過去の出来事への恐怖心の話で……
悪い想像をしなくなってきたというだけの話。
実際の進捗といえば、手を繋いでもらっていたら水に浮けるようになったくらい。浮き輪に乗って手を離してもらったことがあったけれど、一瞬でパニックになって溺れかけた時は流石に惨めな気持ちになった。
「こっちこっちー!」
結局私は未だに、明日花に手を繋いでいてもらわないといけないという話だ。私だって気分転換の一つや二つしたくなる。
「明日花ってこの街に来たのは今年の春からなんだよね」
「うん、だからここにも一度来て見たかったんだ」
この街で唯一の神社。山の高いところにあり、ここに来るまでにかなりの坂道と長い階段を登る羽目になった。
「
この街の名前の由来ともなった場所で、住民なら知らない人はいないほど。それくらいこの街の成り立ちというか、歴史に関わる場所。
と、聞いたことはある。
「私も小さい頃に一回来たけれど……なにぶんアクセスが悪すぎて…」
「そう?いい運動になったけど」
「健脚だなぁ…」
こんなに高いところにあるものだから、初詣とかでもここに行かずにわざわざ隣町の方まで行く人も多い。そして私みたいにそもそももういいやってなる人も多い。
まあとにかく来るのが面倒くさいというわけで、実際それを示すかのように神社の中は閑散としていた。
「おぉ〜、この高さから見る海はまた一段と……早く光莉とも見れたらいいな」
「…そうだね」
あまり手入れの行き届いてなさそうな建物を見つめながら拝殿の方へと足を進める。
「神主さんとかいないのかな?」
「ああ、ここの人なら色々身体にガタが来て住むにも不便だし通うにはハードすぎるって言ってたまにしか来なくなったみたいだよ」
「えぇ〜?話聞きたかったのになあ…」
珍しく落胆する様子を見せながら、一緒に拝殿の前で手を合わせて礼をする明日花。
「別にこの町には住んでるから会おうと思えば会えるだろうけれど……聞きたいことって?」
「この街の伝承?言い伝え?みたいなの!」
ああ、と納得する。
確かにこの町の伝承?のようなものには海、というか波に関するものがあった……はず。内容はよく覚えていない。
「わざわざ神主さんに聞かなくても町のホームページでも見れば……」
「趣がな〜い」
「めんどくさ」
とはいえ居ないものは仕方ないと、んえぇ〜と鳴き声をあげる明日花を宥めつつ周囲を見渡していると掲示板のようなものを見つけた。
「……悠凪の由来」
「え、なになに?なんの話」
「いや…」
悠凪とはこの町の名前で……この神社の名前でもある。何か特別な意味でも込められていたのだろうかと読み進めてみるが…
「昔から大きな水害になったことがないから、悠凪……」
「へぇ〜……そのままだね」
「まあ大した由来があるならもっと大した町になってそうだし」
「そう…だね?」
言われて気づいた、海がすぐそこにあるくせに、地震で津波がとかそういう話がない。
私が川で流された時も、数年に一度のゲリラ豪雨とかで……それでも川は氾濫一歩手前で……海が荒れたっていう話は聞いたことがない。
じゃあ私って運が悪かっただけか…
そこまで考えて引っかかることがあった。
「いや……ずっとずっと前に、一回大きな水害があったはず」
「ん?そうなの?」
「まあこういう町が出来るより前の話だったはずだから……」
確か嵐か何かで、雨がたくさん降って川も海も荒れに荒れて……
「昔の話だから眉唾だけど……三日間降り止まなかったんだって」
「そりゃ大変」
「だから、なんだったかな……何かして、嵐を鎮めて……で、今の今まで大きなことになってないみたいなのを〜……なんだったっけなあ、近所の物知りのおじいさんに聞いたんだったかな」
我ながらよくもまあこんな曖昧な記憶を掘り起こしたものだと、感心の目を向けてくる明日花から目を逸らしながら思う。
「じゃあさじゃあさ!その近所の物知りおじいさんに詳しい話を聞けば!」
「うん、死んじゃった、二、三年前に」
「わぁ……それは残念」
「歳いってたからなあ……」
ただの作り話の可能性だってある。けれど私からしたら、海がすぐそこにあるのに一度も荒れたことがないとか、そんな話の方が作り話のようにも思える。
「まあとにかくそれからずっと……悠久の間、ずっと海が凪いできたから……」
「悠凪……だから町が和やかなんだね」
「まあ、それはそうかもだけど」
津波が来たことないっていうのは、危機感がないくらい海の近いところまで人が住んでいるのもそうなのかもしれない。立地的に町の高いところに登れば多分津波からは逃げられるし……
「にしたって危機感が欠けているんじゃないかとは思うけど…」
「そう?私は…好きだよ、ここの海」
また振り返って、遠くの海を眺める明日花。私は変わらず、その横顔を眺めることしかできない。
その横顔を見て、私は………
「静かな海って、誰も傷つけないから」
「……何その含みのある言い方」
「それがあるんだな〜含みぃ〜」
茶化してしまった。
見たことない顔だったから。
いつも楽しそうに海を眺めている顔とは正反対の、酷く寂しそうで、懐かしむような、そんな表情を。
初めて見る表情だったから、それを見るのが耐え切れなくなって茶化してしまった。
隠そうとしているのか、そうでないのか。いつものように明るい笑顔に戻った明日花。それを見て安心している自分がいた。
「今おばあちゃんと二人暮らしなんだ、私」
「……ふぅん」
「海ってさ、繋がってるんだって」
淡々と話し始める明日花。
彼女のことを、最初は掴みどころがないと思っていた。それが段々話していくうちに分かったような気がしてきて。
「どこの海辺にいても、私たちが見ているのは同じ一つの海で……空と一緒。私たちはみんな同じ海を一緒に見てるんだって。おばあちゃんが言ってたの」
「……まあ、そうだね」
理解したつもりでいた。さっきのあの表情を見るまでは。
すぐそこまで手が届いていたのに、一気に遠ざかってしまったような感覚になってしまって。
表情を見ることができないい。
「その言葉が忘れられなくて……」
「……どうして」
「え?」
私の言葉に驚いたようにこっちを向く。
「どうして、この町に来たの?」
何気ない質問だった。
少し微笑んだ後彼女は再び海の方を向いた。
「……波の音がしたんだ」
「…波?」
彼女の答えは異様に曖昧で。
「静かな波の音、あの場所と同じ波の音………ここなら…って、思ったんだ」
「……何言ってるか分かんないんだけど」
「私も上手く伝えられる気がしないや、えへへ」
「………なんじゃ、そりゃ」
こちらに向けてくる笑顔が、少し前までと同じには思えなかった。
彼女の中の何か…深い深い場所にある何かに、触れてしまいそうで。
「帰ろっか、他何もないし」
「……そうだね」
彼女のことを太陽のように思っていた。
私がどうあっても揺らがなくて、目印にできて。彼女の手を握っていれば流されることなんてないと、そう思っていた。
「いやぁ、降りるのも流石に面倒臭いね!」
「……登るよかマシでしょ」
「そうだけどさ〜」
私は、彼女のことをちゃんと見れているのだろうか。
以前から不思議なところはあった。
時折何かが聞こえたような素振りを見せて、急に海の方へ振り返ってただじっと見つめている。
私が呼びかけないとしばらくの間ずっとそうしている。ただ、水族館に行ってからはそういうところもめっきり見なくなった。はずだったんだけれど。
「……おーい」
またこれだ。
「……あぁごめんね」
「別にいいけど…道の真ん中とかでならないでよそれ」
「善処はするけど……その時は光莉が抱っこして運んで?」
「抱っこは無理だけど引きずってならいいよ」
「うーんハード」
町がほんの少しざわついている。
ただファミレスで話しているだけの私達でも、その変化は確かにある。
スマホの画面を開いてニュースサイトを覗くと真っ先に天気の情報が出てくる。今はその代わりに台風の情報が。
「…やっぱり来るんだってさ、台風」
「珍しいんだっけ。この町に来ていきなりとか、ちょっとラッキーかも」
「不謹慎だぞ。……まあ、一応学校は休みになるから、夏休み中じゃなかったら喜ぶ奴も多かっただろうね」
一応警報が出されたからにはそれに応じた対応をしないといけない。雨が降らなかろうが、風が弱かろうがそれは変わらない。
「今日は朝から誘われたから来ちゃったけど、夕方過ぎたあたりには本格化するみたいだから早く帰らないと」
「えへへ〜、どうしてもこのパフェが食べたい気分でさあ」
まあ、それは一緒に行くことに同意した私がどうこう言えることではない気もする。危機感が欠けているのはどうやら私も同じらしい。
強風による被害はちょくちょく出てるのだから警戒するに越したことはないんだけど……
「……シャインマスカットのパフェ、昔よく食べてたんだ。家族と一緒に、みんなで」
明日花から家族の話を聞くのはこれが初めてだった。
それくらい自分のことか、海か、私のことしか話さなかった。
「あの時のこと思い出したくなっちゃって……食べたいなあって」
「……好きだったの?これ」
「うん、夏の間はいつも食べてた。まあ今回は久しぶりに、だけどね」
わざわざ聞きはしない。
聞かないけれど、言葉の端々から色々察せられてしまう。
「……わざと聞かないでくれてるんだよね、分かるよ」
「…なんのことやら」
かなりドキッとしたが、誤魔化しながらパフェにスプーンを突き刺してそのまま口に運ぶ。
…美味しい。
「昔大きな地震があったでしょ?……私のところは他の場所より津波の被害はマシだったんだけど、それでもいっぱい流されちゃって」
「……そっか」
「私のお家もね、流されたんだ。家族全員巻き込んで」
空気が重くなる、手が止まる。
けど何故か、明日花はそんなことも気にせずに話し続ける。
「そして…なんでか、私だけが残された。気づいたら瓦礫の中に埋もれてて救助してもらったんだ」
「……それは、その」
「いいよそういうの。もう昔の話だし」
「いや昔の話だからって、簡単に言えることじゃ……」
違和感を感じた。
こちらに気を使ってるんじゃなくて、本当に淡々と話してくる。
「それから私は海を好きになろうとしてて……いっぱい海のことを知った。そしたら海はみんな繋がってて、広くて深くって……まだ全然探索できてない場所だってあるんだよ?」
何故それで好きになろうとしたのか。
何故そこから海を大好きになれたのか。
違和感がどんどん、棘のような形になっていく。
「きっと私は海に嫌われてたんだろうなって。だから一緒に連れて行ってもらえなかったんだ……って」
「……それは」
違和感の棘が私に突き刺さった。
ズレているんだ。認識が、感覚が。
「だから海を好きになろうと思ったんだ、そしたら海に好かれるかなって」
でも、何も言えなかった。
その癒えない傷を、彼女は彼女なりに考えて、痛みを感じないようにしたんだ。
誰もその傷を見てくれなかったから、癒してくれなかったから。
「美味しいね、パフェ」
「………うん」
掠れた声しか出なかった。
「……風吹いてきたな」
「そろそろ来そうだね〜」
「なんでこんな時にファミレス来たんだろ…」
結局そのままお互いにパフェを食べ終わって、適当に世間話をして昼過ぎになったくらいで解散になった。
「それじゃあまあ……一応、帰り道気をつけて」
「えへへ、ありがと〜。それじゃ…………」
「………明日花?」
また、アレだ。
何かが聞こえたのかと思えば、何も言わずに黙って海を見つめて。
でも何故か悪寒がした。
今までにはないくらいの寒気が、胸騒ぎが。
思えばきっと、出会った時も柵から身を乗り出して海を見ていた彼女は。その波の音というのを聞いていたのだろう。
こんなさざなみ一つ立たないこの町で、何度も何度も、波の音を。
「……明日花」
「…これだ」
今まで何も言わなかったのに、急に何かを話し始めて。
「明日花」
「やっとだ……やっと……!」
見たこともないような顔で、喜びなのか何なのか、分からないほどの表情で。
私の知らない明日花の姿を目の当たりにして、怖くなって。
もう一度名前を呼んで、手を掴もうとした。
「っ……あす——」
豪風と雷鳴が、言葉と伸ばした手を遮る。
さっきまでただの曇り空だったはずの空が黒く澱んでいる。
風にたじろいで、目を閉じたわずかな間に
「———って、はあ……?」
明日花が、いなくなっていた。
「……うそ」
途端に怖くなる。
不安がっておきながらどうやら常日頃の生活から随分明日花に頼りきりだったらしい。
たった目の前からいなくなっただけなのに。
怖くて怖くて、仕方がない。
「なんで…なんで…なんで……」
譫言のように呟いて、ハッとしてスマホを見る。
ニュースサイトの一番上に緊急速報、台風の動きが急に活発になったと。
「……まさか」
急な風と雷の音から、何かがおかしくなった。
予報では夕方を過ぎてからのはずだったのに、明らかに今どんどん近づいてきている。風がとめどなく吹いて、音がごうごうと耳の中を突いてくる。
関係ないと思う自分と、さっきの明日花が頭から離れない自分。
「……あの表情」
神社で見たあの表情。
あれは心の底から「待ち遠しい」と、そう思う気持ちだったのではないか。
ずっと待っていたんじゃないか、昔自分たちを攫った波と同じものを。それを探してこの町にまでやってきたんじゃないか。
もう一度、海に攫ってもらうために。
今度は自分だけ追い出されないように、海を好きになって、海に好きになってもらおうとして。
普通に考えれば、あり得ない。
でも彼女は明らかに何かがズレていて、波の音が聞こえるとか言い出すし、今さっき一瞬で姿を消した。
「………っ」
悪い予感が消えてくれない。
考えを否定してくれるものが常識以外出てこない、どいつもこいつも肯定ばっかりしてどこかへ去っていく。
「……海だ」
きっと、海に行った。
この町の浜辺へ。
人が急にいなくなるわけがない、きっとどこかにいる。明日花が今行くとすれば海以外にありえない。
「行かないと……っ」
足が躊躇う、心が拒む。
水を見る時も入る時も、隣には明日花がいて、いつだって手を繋いでくれていた。
今海の方を向こうとして私は、怖くて顔を上げられない。足を進められない。どれだけ心の中で、小さな声で惨めな自分を咎めても、臆病なこの足が動いてくれない。
ずっと、引っかかっていた。
あの時話した、昔の嵐を鎮めた方法。
あの時は思い出せなかったけれど、きっとあれは———
ポツリと、何かが肌に触れた。
空から落ちてきたそれは、どんどん勢いを増してきていて。
私が川で流された、あの日よりも。
走り出していた。
一心不乱に、がむしゃらに、海の方へ。
怖さと不安を誤魔化すように足をひたすらに動かして、呼吸なんかお構いなしに、ただひたすらに。
きっとみんな、海にいるんだ。
私は海を怖がっていたから、海に嫌われちゃったんだって。
だから波は私を連れて行ってくれなかった。
私をみんなと同じ場所は連れて行ってくれなかった。
風景も、友達も、家族も、思い出も、喜びも悲しみも全部波が持って行って、海で……私だけいない世界で元気にやっているんだって。
だって、私の家族は誰も帰ってこなかったから。
だから海のことを知ろうとした、好きになろうとした。
海は好き、広いから
海は好き、深いから
海は好き、青いから
生き物がたくさんいて、カラフルで、泳げて、広くて、青くて……みんながいるから。
ある日から波の音が聞こえるようになった。
海なんて全然近くにないのに、いつも同じ方向から聞こえてきて私を呼んでる。
もしかしたら私がただ追いかけていただけなのかもしれないけれど。
昔からずっと、その波の音を追いかけてきた。
それはある場所に近づけば近づくほど近くなって、時間が経てば経つほど大きくなった。
やっと、やっとあの日と同じ波の音が聞こえた。
今日、この町で、ようやく。
「……いっぱいお話したいなあ」
みんなに会えたら何を話そうか。
背が伸びたってことかな、それとも勉強沢山したよって言おうかな。
みんなは変わってるのかな、あの時はまだ小さかったけれど、きっとみんな成長してるよね。
私も成長したから、それも見たいし見てもらいたいな。
私、みんながいなくても結構オシャレになったんだよ。
「えへへ……でもやっぱり久しぶりに会うのは緊張するなあ」
きっと、連れて行ってくれるよね。みんなと同じところへ。
だって私、いっぱい努力したよ。
たくさん海のこと勉強して、海の良いところを探して、海が好きになって、大好きになって。
上手に泳げるようになって。
全部全部、あなたに好きになってもらうためにやってきたんだ。
「友達がね、海が怖いって言ってたんだ」
私の好きな海を一緒に見ようとしただけなのに。
「だからね、一緒に海を見ようって約束したんだ。まあ、時間が足りなくて間に合わなかったけど……でも最近はプールで泳げるようになったんだ、そのうちひとりでも泳げるようになるから、きっと大丈夫」
だってあなたはこんなにも綺麗なんだから。
「はぁっはぁっはぁっ」
肺が潰れてるみたいに苦しくて、今にもこけて転がってしまいそうなくらい足が痛くって、吹き飛ばされそうなくらい風が強くって、当たってしまうんじゃないかってくらい雷がうるさくて、もう水の中にいるのと変わんないくらい雨が激しくって。
こんなにも、海は怖い。
「い、たっ、ごほっごほっ」
立ち止まって声を上げようとするけど声が出ない。
雨で見にくいけれど、小さな船着場の端っこに彼女は立っている。波が何度も打ちつけても動じないどころか、気づいていないかのように。
何かに夢中になっているみたいに。
きっと、嵐のせいで名前を呼んでも気づかない。
もっと近づいて、呼ぼうとして。
また、足が止まった。
海がこんなにも近いことに今更気がついて、気がついてしまって。
潮が引いたのがわかった。
次に大きな波がくると、そう予告するみたいに。
「あすかっ……」
呼んだ、手を伸ばした。
届かない。
「明日花あっ」
呼んだ、手を伸ばした。
届かない。
「明日花ぁあっ!!」
呼んだ、手を伸ばした。
こっちを振り返って、驚いた顔をして。
届かない。
足が動かないくせに、必死に身を乗り出して手を伸ばして、声をみっともなく張り上げて
ずっと海ばかり見ていた彼女に
一瞬こっちに伸ばした、手に
「……とどかない」
ずっと、手を握っていてくれていた彼女には
(私の、こんな、臆病な手じゃ———!!)
強い、強い波が船着場に打ちつけた。
私の背丈の何倍もの高さまで打ち上がった潮は落下して、私の周りに痛いくらいたくさん落ちてきて。
「……ぁぁ」
風が止んだ。
風も、雨も、雷も。
波でさえ。
もう満足したとでもいいたげに、明日花を飲み込んで、さっきまでのはなんだったんだと言うくらいに静かで、凪いでいた。
人をひとり飲み込んで、海は何食わぬ顔で、静かに。
「……いやだ」
いやだよ、明日花
「行かないでよ」
置いていかないでよ
「連れていかないでよ」
返してよ
「お願いだから、連れていかないで……」
私の友達、返してよ
「さみしいよ」
沈んでいく
深い、深いところへと
あたたかいこえがする
聞きなれた、落ちつく声
目を開けばうっすらと景色が浮かんでくる。
小さい時に過ごした、あの町が。
一緒にたくさん遊んだ、友達が。
かけがえのない、家族が。
記憶と思い出がたくさん蘇ってきて、あたたかくなる。
身体は冷たくなっていくのに、心はどうしようもなくあたたかくなっていく。
ようやく会えた
わたしの居場所はここなんだ
ずっと不安だった、寂しかった。ここにいたらそんなものから解放される、楽になれる。
ようやく、落ち着ける。
お母さんの顔が、お父さんの顔が
みんなの顔が見える、みんな嬉しそうな顔をしている
しているはずなのに
——どうして?——
私の声なのか、みんなの声なのか。
分からないけど、そう聞こえた気がした。
手が、寂しい
ずっと握っていたものを手放したような
何か大切なものを、なくしてしまった気がする
あたたかい何かを、落ちつける何かを、手放してしまったような
これは、いったい、なんなんだろう
沈んでいた身体がぐんっと引き戻される。
強く、乱暴なくらい強く手を掴まれて、無理やり上に引き上げられる。
遠ざかっていく。
みんなが、あの場所が、家族が、思い出が。
……苦しい
(…くるしい、くるしいくるしいくるしいくるしい!!)
なんで、どうして引き離すの
このままあたたかくなれたのに、やっと落ちつけたはずなのに
やっとみんなに会えるのに
(嫌だ嫌だ、いやだイヤだ嫌だいやだ!!)
私がどんなに嫌がっても、身体は動いてくれない
私を引き上げてるその手は、私の手を繋いでいるのは
眩しいくらいに明るくて、あたたかくて、落ちついて
まるでお日様みたいに光っていた
口を何かで塞がれて、空気が喉を通って。
胸が苦しいくらいに強く押されて目が覚めた。
いきなり強い異物感がやってきて、反射的に身体が咳をして喉から排除しようとする。何度も何度も咳き込んだ後、目を開くとそこは嵐の中で。
雨が強くて、風も強くて、波の音が凄い場所で、私は目が覚めた。
「……光莉」
私と目が合った彼女は、驚いて、怒って、泣きそうな顔になって……私に跨って覆い被さったまま、私を睨みつけた。
「……怖かった」
雨にかき消されてしまいそうなか細い声で、私にそう言ってきた。
「急にいなくなって、ひとりにされて……明日花がどっかに行っちゃって、私どうしたらいいのか分からなくなって……」
「……うん」
そう、返事することしかできなかった。
「怖かった…怖かった!ひとりで海に飛び込んで行くの……すごく!!なんで明日花はひとりで行っちゃえるんだろうって思うくらい!!」
「…うん」
涙が溢れて、私の顔に向かって落ちる。
こんなにも雨が降ってるのに、涙はなんだか、あたたかい。
「私まだひとりじゃ泳げないしっ、ひとりじゃ水見るのも怖いのに……明日花がいないと私なんにもできないそれなのに!!……あんたが……勝手にひとりで行っちゃうから私……私……っ」
私の胸に顔を沈めて啜り泣いてくる。
あたたかくなんかないだろうに、水に濡れて冷たいだけだろうに、私に触れて泣いてくる。
「ひとりに、しないでよ…」
「……ごめん」
そう返すことしかできなかった。
今の私には、それしか分からなかった。
「私との時間って、その程度だったんだ」
「…え?」
顔を上げて、私にそのグチャグチャになっちゃった顔を向けてそう言ってくる。
「波の音が聞こえるだかなんだか知らないけど!私は春からずっと明日花と一緒にいて、いっぱい遊んで、水族館に行って水着も選んでプールに行って!!こんなに思い出作ったのに明日花はどうでもよかったんだ!!」
「……えぇ」
あまりにも、こう。
いじけた子供みたいなことを言ってくるものだから、ただ困惑することしかできなかった。
「私明日花に手を繋いでもらわないと何にも出来ないのに!明日花が手を離さないって言ってくれたから私も安心して手を繋いでたのに、私との約束なんてその程度のものだったんだ!!」
「ご、ごめん……」
「ゆるじだぐない!!!」
そ、それはどういう感情なんだろう……
ひとしきり泣き叫んで、子供みたいにいじけたセリフを言って、光莉が私の方をじっと見つめる。
「勝手に手を引っ張って連れて行ったくせに、途中で投げ出さないで」
「…うん」
「ここまで私を連れてきたのは明日花なんだから、最後までちゃんと手を握ってて。……私まだ、ひとりじゃ泳げないよ」
「………うん」
そう言った後、光莉は何も言わずに泣き始めて。泣いた後もずっと、ずっと泣いていて。
それを見ているとなんだか私も泣きそうになってきた。
もう何もなくなったと思っていたけど、まだ残っていた。
私を海じゃなくて、陸に繋いでいてくれるものが、まだあったんだ。だからきっと、光莉は私の手を繋いでくれたんだ。
それは、あまりにもあたたかくて。
ずっと私の手を握ってくれているその手が、どうしようもなくあたたかくて、嬉しいんだかおかしいんだか、分からなくなって。
すごく久しぶりに、たくさん泣いた。
結局あの後、あの台風はここ十数年で一番被害の大きいものとなった。明日花を引き上げた時のことはよく覚えていないけれど、一瞬でも嵐が止んだのが嘘みたいにまた荒れた。
私たちは2人揃って延々と泣いていたところを、私たちが帰って来ないのに気づいた私の家族と、明日花のおばあちゃんに通報されて、知らぬ間に捜索隊が組まれてて……
そうして発見されて、そのまま病院に搬送された。
そのまま数日間……町が停電したり土砂崩れが一部で起きたりといろいろ大変なことはあったけれど、まあ経過観察は何事もなく終了し。
今日、2人揃って晴れて退院となる。
「……調子どう?」
「どう?って、ずっと同じ病室にいたじゃん」
「でも一回も口聞かなかったし…」
「それは……そうだね、えへへ」
病院から出て、歩きながら話す。
寂しいことに、お互いに迎えがいないため徒歩で家まで帰らなきゃならない。
「貴重な夏休みを病院のベッドで過ごすことになるとは思わなかった」
「お互いに溺れた扱いだったもんね」
「誰のせいだと…」
「ご、ごめんって……」
申し訳なさそうにしている明日花。正直あと100回謝られても許したくはない。
「お詫び、じゃないけど………退院したら一緒に行きたいところがあったんだ」
「……台風来てるって言うのに、二人揃って海まで行って病院のお世話になった私たちが、二人っきりの外出を許されると……?」
「お願い!そこをなんとか!!」
「ええい懇願するなら私の親にしてくれ!」
「光莉はいいんだね?やったあ」
揚げ足取りじゃないか?それは。
まあ別になんだっていいけれど……
「また海に行くとか言い出したら、あんたを木の幹に括り付けるからね」
「言わないよ流石に……」
「信用ない」
「ぐぬ…」
あの時、必死すぎて何を考えていたのかは覚えていない。
ただ後先考えずに突っ走ってしまったのは事実で、その勢いが私の海への恐怖心を上回ってしまっただけの話。
「……意地悪言っても仕方ないから、親に許してもらったら行こう」
「よかったあ、夏休みが終わるまでには行っておきたくって」
「………ところで、どこへ?」
「ん?ん〜……ヒミツ!」
なんじゃそりゃ、と呆れつつも。
掴みどころのなかった彼女が、ちゃんとすぐそこに立っているように思えて。不思議と安心できた。
電車をいくつも乗り継いで、駅を降りてからもかなり歩いて……悠凪町からどれくらい離れているのだろうか。
「こっち行って……あそこ右に曲がって左に…だった、はず」
「……ねえ、スマホ見たら…」
「いやいや、ここ私の地元だし?そんなもの見なくても余裕なんだけど?」
「その場所に行ったことは?」
「………ないです」
ため息をつく。
私のスマホは残念ながら海に入った時にお亡くなりになってしまった。明日花のはどうやら以前防水と豪語していただけあって無事みたいだけれど。
どうせならあの時の写真も一緒に流されればよかったのに。なんで私のスマホだけ……
「……あ!あったあった!ここだよここ!」
「はいはい、私どこに行くかずっと教えられてないんだからね?」
「ふふーん、もう見ればわかるよね」
明日花にそう言われて目的地の方を見る。
「……墓地」
「正解〜!パチパチパチパチ」
「そんなテンションで到着する場所ではない」
中に入っていく明日花についていくが、すぐに足が止まった。
「……どうしたの」
「お墓いっぱいだねぇ」
「そうだね」
「……私のお家のお墓、どれだろ」
「……マジか」
大捜索が始まった。
まあそんな大掛かりなものではもちろんなく、ただただしらみつぶしに探し回って明日花の家のお墓を見つけるだけなのだが。
あまりにも見つからず、暇で、ついつい口が開いてしまった。
「私、海見れるようになったよ」
「え、ほんと?」
「うん。まあ一回入ったからかなあ」
見ることに抵抗は無くなった。泳ぐのは多分まだまだできないけれど。
「まあなんてことのない、だだっ広いだけだなって」
「お〜……成長したねぇ」
「お陰様で、ね?」
「あはは…」
ただ、まだ少し怖い。
結局この夏休みの間に、私は海を克服することはできなかったらしい
「……なんとなく気づいてると思うけど、私お墓参りに来たことがないんだ」
「まあこれだけ場所わからないって言ってれば……」
私だって自分の家の墓の場所くらいわかる。
明日花の場合忘れたとかじゃなく、初めて来るって感じだったから。
「まあその……ずっと家族が海にいると思ってたから、お墓に眠ってるなんて全然思えなくて……」
「………」
「も〜、すぐそうやって神妙な顔するんだから」
するでしょう、そりゃ。
「まあ実際見つかってないからさ。今もお墓に眠ってるとは正直思えてなくて……」
「じゃあ、なんで私と一緒に来たの?」
「うーん………ケジメ?みたいな?」
本人もよくわかっていないパターンだ、これは。
「ただまあ、わざわざ海じゃなくても届くかなって」
「……はあ」
私は明日花みたいな経験はしていないから、考えや思ってることを全部理解できてるとは思っていないし……する必要もないと思ってる。
他人のことなんて分からなくて当然だし、分からなくたってこうして一緒にいられるんだったら、それでいい。
「あ、これじゃない?」
「ホント!?」
見覚えのある苗字を見つけて明日花を呼んだらすっ飛んできた。
「確かにここだね。えーと……お花を添えて…添え………どうするんだっけ」
「はあ……私がやるから貸して」
「ぐぬ…ちょっと悔しい」
何故か悔しがっている明日花を無視して、花の入っていない花立に道中で買った花を供える。
「はい」
「ありがと。よいしょ……と」
目を閉じて手を合わせた明日花を見て、私も慌てて同じようにする。
「…みんな、今まで心配かけてごめんなさい。多分もう、大丈夫だと思う」
家族と話す時の声色は、こんな感じなのだろうか。もしかしたら幼い時の彼女のままなのか……少し、落ち着いているように思う。
「友達が出来たんだ、だからもう大丈夫だよ」
そう言って立ち上がり、行こっか、と私に促してくるのを見て思わず声を上げてしまう。
「え……そんだけ?」
「いやあ、よくよく考えたら友達のいる前で長々とお墓の前で話すのは恥ずかしいや」
「じゃあ私どっか行くけど…」
私がそういうと明日花は不機嫌そうに止めてくる。
「だからいいってそういうの!私が光莉と来たかったんだからそれでいいの!」
「…そこまでいうなら、まあ」
いつも気を遣うなと彼女は言うけれど、そう言われて気軽にできるほど私は器用な人間じゃない。
結局そのまま駅まで戻って、他愛もない話をしながら悠凪町へと戻ってきた。
そのあと散歩しないかと誘われて、特に用事もないからと承諾して。
本当に、本当の本当にどうでもいい話をしながら歩き回って。
二人同時に、同じ場所で足を止めた。
「……ここで光莉が私の手を掴んでくれたんだっけ」
「あまり思い出させないでほしい」
「嫌なことあるなら話聞くから早まらないでー!……だっけ?」
「そんなに私を怒らせたいか」
「あははっ!ごめんってば〜」
柵の方への向かっていく明日花。私もそれについていって、同じように柵から顔を出して、海を見つめる。
「……手、繋ご?」
「え?……なんで」
「いーじゃんほら、ね?あの時みたいで」
あの時、私が彼女を勘違いして引っ張った時と同じように。
同じ場所で手を繋いで、同じ海を見ている。
「一緒に海、見れてるね」
「……そうだね」
元はと言えば、こうするために全部始まったんだった。
「どう?綺麗に見えてる?」
「……正直に言うと、全然。広くて深くて青いだけで、綺麗なんてちっとも」
「そっかあ、ふふっ、そうだねぇ」
やたらと嬉しそうに笑っているのが不思議で、その横顔を見ていると向こうも私の方を向いてきた。
「実はね、私も」
「え?」
「今海を見てもね、全然、ちっとも綺麗だって思わない」
意外な言葉が彼女の口から出てくる。ずっと海が好きだと言っていたから……
「海が好きだったのは、みんながあそこにいるからって思ってたからなのが大きかったみたいで……今見ても、そんなにかな」
「……そう、なんだ」
無意識に明日花の手をぎゅっと握って、そしてハッとなる。
「……手、あったかくない?」
「え?そうかな」
「そうだよ、今までずっと冷たかったんだもん」
不思議だった。
人の手足の冷たさってそう簡単に変わるものではないと思っていたし、明日花の手は何度も握ってきたから、余計に。
「なんで?」
「うーん………そーだなあ」
なんでか嬉しそうにそう呟いて空を見上げる明日花。
真っ青な空に、太陽が眩しく光り輝いている。
「あたたかいものがすぐ近くにあるって分かったから、かなあ」
「……はあ?」
別に本人は隠しているつもりはないんだろうけど、抽象的な答えを出して一人で満足してしまうことが多いから。何度も私が疑問符を浮かべることになる。
「…本当にいっつもあやふやな言い方するよね、明日花は」
「そういう光莉は小突き方に遠慮がなくなった」
「小突くって……」
「ふふっ………あーあ!!」
「おわっ」
急に両手を上げて、海に向かって呆れた声を飛ばす明日花。私の手も一緒に高く上げられて、きょとんとした顔で彼女を見ていると、そんな私を見て笑って。
それはもう、眩しい眩しい笑顔を私に向けて、大きな声でそう言った。
「私、やっぱり海怖いや!あっははは!」
繋いだ手がじんわりと、あたたかい