カチ、カチと時計の針が静かな部屋に響く。あと数時間もしたら日付が変わるその時、ミカはまだ起きていた。なにをするでもなく、ただ椅子に座ってぼーっと柵に覆われた窓から夜景を眺めていた。
そんな風に過ごしているとコンコンと扉がノックされる。
「? どうぞー」
夜が更けてきたこの瞬間の来訪に驚きつつも声をかける。ギィと音をたて扉が開いていくとミカは目を疑った。
「夜分にすみませんミカさん」
「あれ? ナギちゃんじゃん! どうしたのこんな夜遅くに?」
「……少々お話がりまして」
椅子に座ったナギサはミカと向き合う。手を伸ばせば触れ合える距離なのに二人の間にある檻がミカとの距離を隔絶しているように感じる。
「そういえば今日先生来てないけどなにかあったの? もしかしてとうとう愛想尽かれちゃったのかな?」
「――先生がアリウスに攫われました」
「…………え?」
ミカはナギサの言葉をすぐに理解できずきょとんと眼を丸くする。
「ミカさん。力を貸してください」
「ちょ!? ちょっと待ってよ! 急になに!? 攫われた? それに力を貸してだなんて……」
思わず立ち上がり慌てふためくミカを見てナギサも自身の発言を振り返りいくら何でも説明不足だったと気づいた。
「そうですね。少し焦りすぎました。最初からお話しします」
ナギサは今の現状を包み隠さず話した。今朝ゲヘナ風紀委員長の空崎ヒナと共にシャーレへ赴いたら先生がいなかったこと。不審な電話がかかってきて指定された場所に訪れたら連邦生徒会防衛室長の不知火カヤがそこにいたこと。そして昨晩先生がアリウスに攫われたことを教えてもらったこと。そして先生救出のために協力を求められたこと。
「……えっと、つまりはアリウスへの行き方を教えてほしいってこと?」
「はい。そして先生の救出作戦に参加してほしいのです。お願いしますミカさん」
「そういわれてもなー。私こうして閉じ込められてるし」
「そこは私がなんとかします」
「さすがのナギちゃんでもそんなことしたらただじゃすまないと思うよ? 最悪ティーパーティーのホストから引きずり降ろされる可能性だって……」
「――覚悟の上です」
ナギサの思いにミカは少しだけ気圧され、驚かされる。まさかナギサの中で先生がこれほど大切な存在になっていたのかと。でもそれは私も――と考え始めた時、頭をふるって思考を中断した。
「……そもそも私、別にアリウス自治区への行き方なんて知らないって。そのことは話してあるでしょ?」
ミカは話を少し変え、ナギサに尋ねる。
「もちろん聞いています」
「じゃあなんで私がアリウス自治区への行き方を知ってるって思ったの?」
「ミカさんを信じているからです」
予想外の答えにミカはぽかんとする。
「……あははっ。なにそれ。私を信じているから私の言っていることを信じないってこと? 矛盾してない?」
「そうですね。確かに矛盾しています」
「でしょ? だったら――」
「ですがミカさんなら……。私の知るミカさんなら先生を助けるために協力してくれると、そう信じています」
ナギサはじっとミカを見つめる。ナギサの瞳には期待や確信ではなく、ましてや疑念などといった感情はなかった。その瞳には曇りなき信頼だけが映し出されていた。
そんな瞳に見つめられ続けたミカは居心地が悪そうに負けを認めて話し出した。
「……そうだね。うん、知ってるよ」
「――っ!」
「行き方だって知ってるし自治区内の様子もほんの少しは知ってるよ。まぁアズサちゃんの方が詳しいとは思うけどね」
「では!」
「でも参加はしない」
「どうしてですか! ミカさんだって――っ!?」
ナギサは改めてミカの顔を見て驚いた。その顔はとても無機質で無感情で作り物のように思える。よくよく見てみると化粧で上手く隠れてはいたが目元には隈ができており、頬の血色も悪い。ナギサを映しているはずの目も薄暗く、光を灯していない。目を離した隙にどこかへ行ってしまいそうな、手の届かない場所へ消えてしまいそうな不安感をナギサはおぼえた。
「……ミカさん」
「ん? なに?」
「ちゃんと寝れていますか?」
ナギサの問いにミカは瞼をパチパチとさせると、乾いた笑みを浮かべる。
「――あはは、さすがにナギちゃんにはばれちゃうか」
諦観をはらんだため息をつき「まいったな」と困ったように言う。
「最近夢見が悪くてね。寝てもすぐに起きちゃうんだ」
「……どんな夢を見ているのですか?」
ナギサの問いにミカは逡巡し、嘘をつく。
「それがね、夢の内容は覚えていないんだ。……でもまあ、本当に嫌な夢だよ」
ミカが見る夢はいつも決まって大切な人を失う夢だった。ナギサを、セイアを……先生を。いくら手を伸ばしてもその手は誰にも届かず、届いたと思ったらその手で大切な人を壊してしまう。そんな夢。
そして先生を疑い始めたあの日からずっと聞こえてくる自身の声。
『先生の手を振り払った私に先生を助ける資格なんてない』『忌み嫌われる私が誰かを助けれるわけがない』『私がいても状況が良く成るどころか悪くなるに決まってる』『私はいるだけで周りの人を悲劇に巻き込む』『罪人の私に居場所なんてない』『他人を不幸にしておいて幸せを願えるわけがない』『私に生を望む資格なんてない』
『だって私は――魔女なんだから』
私を責め立てる私の声は今なお絶えることがない。逃げ場なんてなく、耳をふさぐこともできず、私を傷つける私の声に怯え惑う日々にミカの心はもう限界を迎えようとしていた。
たとえもう二度と大切な人に出会えなくなるとしても、穢れ汚れた私がみんなのそばにいるべきじゃないと。ミカはトリニティからの追放を望み始めていた。
「とにかく私は行かないよ。私がいても……いや、私がいたら成功するものも成功しなくなっちゃう」
すべてを諦めたかのような雰囲気を醸し出しているミカにナギサの中で何かが溜まっていく。
「それに……先生だって罪人の私なんかに助けられたくなんてないでしょ」
その言葉を聞いたとき、ナギサの中で溜まっていったなにかが溢れた。
「――本気で、言っているのですか」
静かな怒気をはらんだナギサの声にミカは気付かず言葉を続ける。
「本気も何も事実でしょ。私みたいな悪い子じゃなくて良い子に助けてもらったほうが先生だって嬉しいに決まってる。そもそも手のかかる問題児なんて先生の前からいなくなった方が――」
「――ミカッ!!!」
「!?」
静かな部屋にナギサの怒号が響く。
「先生が! 先生が本当にそんな風に思っていると! そう考えているのですかっ!」
「そ、それは……」
ナギサの剣幕と言葉にミカは思わずうろたえてしまう。
「先生がそんな人ではないと、わかっているでしょう! 自身の自己否定に先生を利用するのはやめなさい!」
図星をつかれたミカは反論すらできず、押し黙るしかない。
「先生は優しく手を差し伸べていますけど、私はそんなことはしません!」
ナギサは勢いのまま立ち上がり、檻を鷲掴む。
「罪を犯したのなら償いなさい! 誰かを不幸にしたのならそれ以上の人を助けなさい!」
これほどまでに激昂したナギサをミカは見たことがなかった。
「たとえそれがどれほど苦しい道のりだとしても! 聖園ミカという人生から逃げるのはこの桐藤ナギサが許しません!」
ナギサの言葉が、思いが、ミカの心をひどく荒立てる。
「……で、でも。罪を償うなんて……。私がやったことは取り返しがつかなくなるようなことで……。償う機会すら与えられないような……。そんな、ことを……」
「私も、取り返しがつかなくなる罪を犯しかけました」
「…………え?」
「無関係な生徒に、それどころか私を助けようとしてくれた生徒にまでこのトリニティ総合学園からの退学処分を下そうとしました。このキヴォトスにおいて学籍を失うことがどれほど恐ろしいことなのか。それを知っていてです」
ナギサの脳裏に浮かぶのは補習授業部の面々。
「何も知らなかったでは済ましてはいけないことでした。トリニティの安寧のためという理由で許してはいけないことでした。たとえ大勢の人に正しいことだった、しょうがないことだったと肯定されても……」
過去を振り返り、あったかもしれない未来を想像する。
「私はきっと、私自身を許すことが出来ずにいたでしょう」
自身の選択によって引き起こされた結果と責任に耐えきれなかっただろうとナギサは恐怖に震える。
「でも、それをすんでの所で止めてくれたのは先生でした。先生がいなければ補習授業部は行き場も帰る場所も、生きる術すら失っていたでしょう。それは実質、命を奪うことに等しい所業です」
そしてその恐怖に囚われてしまっているのがミカなのだと。一人部屋の隅で怯えているのが彼女の心なのだと。
ならどうするか。ナギサに出来ることはなんなのか。その答えはもう出ていた。
「ミカさんが犯しかけた罪は私も同様に犯しかけた罪でもあるんです」
力なく垂れ下がっていたミカの両手をナギサの両手が力強くつかむ。
「同じ罪を持つものとして一緒に償いましょう。私はそばにいます。隣にいます」
ナギサはぎゅっと手が赤くなるほど力強く握りしめる。
「なにがあっても離れません。絶対にこの手を離しません」
まっすぐとミカを見つめる。
「だって私たちは――」
ナギサの瞳からつぅと一粒の涙がこぼれる。
「――友達、ですから」
その言葉を聞いたとき、ミカの瞳からも涙がこぼれ始めた。嗚咽を上げることもなく、ただただ泣き続けた。
いまだに自分を責める声は途絶えることがない。けれどナギサの声を聞いて、ナギサの顔を見て、ナギサの思いを知って――。
「おねがいですミカ。……先生を、助けてください」
「…………わかった」
――ミカの口からは自然と了承の返事がこぼれた。
でもコハル以外は普通に生きていけそうだよね。