それは昔。
弁慶がまだまだ子どもだった歳の頃の話です。
家なき子だった弁慶は、物心付く前に恩智に拾われ。
恩智の歪んだ環境で育った、と
当時、弁慶に名はなく。
主に『犬』としか呼ばれていませんでした。
『──おらァ! 立てッ、立てこの犬っころが!』
『がぁッ!?』
『この程度でへばってんじゃねえ! テメェそれでも恩智か!?』
まだ成人の儀を迎えていない弁慶は、毎日門下生達に折檻を受けていました。
狼の亜人である彼。
その立派な体格に恵まれ、めきめきと剣術と暴力を覚えていきましたが、そんな彼を気に入らない人は多数存在しました。
存在そのものを疎まれた彼に対して、他の門下生は容赦がなく。
弁慶はことあるごとに理不尽にさらされていました。
お陰で生傷は絶えることなく、時に屈辱的な真似をさせられたことも何度もあります。
元より、阿妻では亜人はありふれているものの、恩智では排斥の対象です。
当主である出吟が、大の亜人嫌いだからです。
なのに弁慶が恩智に入れた理由は……門下生の
恩智のモットーはまさしく『弱肉強食』。
その生き様を心刻みこむために、あえてイジメの対象を作り。
弱きを
──しかし弁慶は違いました。
元来の性根なのか、彼はどんな事をされても、決して文句を言いませんでした。
どんな酷い罵倒を受けても。
どんな酷いイジメを受けても。
決して不平は言わず、じっと耐え続け。
忍耐とともに、その刺すような黒い瞳で、睨み返すだけでした。
他の門下生は、それが何よりも気に入りませんでした。
態度で反抗する彼を見てますます怒る門下生達は、ますますヒートアップ。
さらに容赦のないイジメが始まります。
毎日、複数人で木刀を使って殴る、蹴るを繰り返す門下生。
教官は見てみぬフリをし、決して弁慶の味方はせず。
稽古の範疇であっても弁慶の反撃は一切許されませんでした。
そんながんじがらめで、睨むしか出来ない態度を見て彼らは弁慶をこう罵倒します。
野良犬、すくたれもの、尻小姓、去勢された犬……などなど。
聞くに耐えない罵詈雑言の数々を受け、それでもじっと耐え続けていた弁慶。
そんな彼に転記が訪れたのは成人を迎える、15歳の時でした。
『よぉ、野良犬。今日は成人の儀だ……分かるよな?』
イジメの主犯格である、気の強そうな少年が凄みます。
取り巻きもニヤニヤと笑っており、自分たちの儀式の成功を確信しています。
『あーあ、いいよなぁ○×△。俺もコイツと仕合たかったぜ』
『おめかしして来いよワンコちゃん? 最初で最後のお前の晴れ場になるだろうからな』
『……』
阿妻における成人の儀。
それは真剣を用いた仕合で、生き残ることをさします。
お互いに合意のもとで行われるその儀式は、相手は誰でもいいのですが、見つからなければ罪人があてがわれます。
仕合は、双方が納得の上で勝敗を決めることになり。
必ずではありませんが、どちらかが死ぬ可能性は低くはありません。
「……」
断ればいいものを、弁慶は仕合を承諾。
周りは失笑し、とうとうあの犬ともおさらばか、せいぜいするぜ、なんて口々に言い、
とうとう命を賭けたその時が訪れますが──、
「──そ、そこまでええええェッ!」
仕合は、一撃でした。
いつもの癖で、少年が弁慶を痛めつけようとしたところ、弁慶は流れるように相手の剣を跳ね飛ばし……そして、返す刀で胴体を叩き切っていました。
少年は自分が敗北したことを信じられず、
そして体が泣き別れた激痛と、現実に血泡を吹いて泣きわめきます。
「な、なんで、なんでへええぇえぇえ」
「……せえ」
「へぁ……お、おまえ、おまえええええええ」
「うるせえ。黙って死ね」
弁慶は死にゆく少年の首に刃を添え、いとも簡単に彼の命を絶ったのでした。
それは無抵抗だった彼の最初の復讐でした。
弱者と侮り、虐げ続けてきた彼らと違い、弁慶はここまで牙を研ぎ続けていた。
この雌伏の時を……ずっと、待っていたのです。
彼の瞳が、その惨状を唖然として見ていた同僚達をなぞると、その日を境に、弁慶をいじめる存在はいなくなったのでした。
『──おう。お前が、例の野良犬か? 大層腕が立つと聞いたぜ』
成人の儀で、相手を一撃で死に至らしめた凄腕がいる。
その日のうちに、恩智中に噂が広がった結果、
弁慶は、狡怒の元に呼びつけられることになります。
『……』
狡怒は光量の少ない畳の部屋で煙管をふかしていました。
『まあそう警戒すんな。別に取ってくったりはしねえよ。……まあ、ウチの親父殿はテメェを殺したがってるかもしれねえが、別に俺ぁお前を殺す理由はねえ』
とん、と煙管から灰を落とす何気ない所作にも、威圧感があり。
唖涯は、まるで剣先を突き付けられているような感じが拭えませんでした。
『亜人も人間も、どっちも手と足と頭と目と鼻と口がある。なら何も変わらねえ。だろ? 大事なのは
『……』
『おーおー、何だその目は? 雇い主様に向ける目じゃないぞ? ……まあ、すぐに媚びへつらって尻尾振る奴よりかは嫌いじゃねえけどなぁ』
そういうと、傍らに置いてあった刀を、弁慶に投げつけます。
それは見覚えのある、嫌な刀でした。
『……っ』
『お前が殺した馬鹿の刀だ。持っていけ』
『……二刀流は、まだできない』
『あ? 馬鹿かお前。誰が二刀になれっつった? お前が殺したからお前のものになった。それだけだ。使うのも売るのも、捨てるのも勝手だ。好きにしろ』
『……』
『教えただろう? この世は所詮弱肉強食だ。弱えやつは何も出来ず、強えやつは何でも出来る。お前は今、ようやく強えヤツに一歩近づいたんだ。よかったなぁ』
彼はおもむろに立ち上がります。
座っているだけでも威圧感があった狡怒。
至近距離で立たれるとその重圧は倍になり、さしもの弁慶も冷や汗を流します。
『だが……お前の心構えは全然なってねえ』
『?! が、はあぁッ!?』
そして、急に鳩尾を膝で蹴ったと思えば、続けて下がった頭に向けて強烈なパンチをくらい、弁慶はそのまま壁に叩きつけられます。
『いいか小僧。強え奴には義務がある。
『……ッ』
動けなくなった弁慶を、狡怒が無理やり起こし、そして伝えます。
『奪え。弱いやつから奪え。とことん奪え。奪って。殺して。攫って、晒して。この世に刻んでやれ。お前が強いってことを知らしめてみろ。そしたら俺のように我儘を押し通せるようになる』
『まずは俺のもとでお前の強さを証明してみろ。犬っころ』
狂気を孕んだ目で笑う狡怒。
その時、弁慶がどう思ったのかは分かりません。
しかしその日から弁慶は狡怒のもとで、働き。
狡怒が命じるがままに、弱者から奪い続けたのです。