皐月賞の日は刻一刻と近づいている。ハレヒノカイザーの調子はというと……正直なところ、
「口を割る癖は改善がみられている、が」
「今度はむらっけが酷くなりましたね。浮き沈みが激しくなった」
「癖を矯正したら、今度は別の問題が浮上してしまったか……」
ハレヒノカイザーが抱える癖、最後の勝負所で口を割ってしまう悪癖は改善しつつある。最近の併走では皮紐に頼らずとも割らなくなったし、頭も上げなくなった。効果が出ている証拠だろう。
だが、それに比例するように今度はむらっけが出てしまった。調子が良い時と悪い時の差が酷くなった、というべきか。
大崩れしないところも強みだったハレヒノカイザーだが、それがなくなりつつある。どうしたものか、と頭を抱える日が多くなった。
「調子が良い時は併走相手をぶっちぎるほどに速いですけど、酷い時は本当に酷いですからね」
「無視できる問題ではないな。もし本番の皐月賞で沈んでしまっては」
一雄さんの懸念も分かる。今の状態ではギャンブル要素が強い。皐月賞まで時間もない中で、ハレヒノカイザーが調子を悪くした状態で出走するのはリスキーだからだ。
──しかし、不思議と私はそこまで不安を抱いていなかった。
「大丈夫ですよ、一雄さん。カイザーは問題ありません」
「岡邉?」
「今、カイザーは探っています。自分にとってのベストを、最高の状態で走るにはどれが最適なのかを、コイツは今探している」
カイザーへ顔を向けると、ごめんなさいをしているように頭を下げる。そんな彼に、気にすることはないと頭を撫でてやる。
ハレヒノカイザーは今、探しているのだ。自分をどう使うのが正解なのか、どう走るのが自分にとって良いことなのか、勝つためにどうしたらいいのか……ハレヒノカイザーは自分探しをしている。
自分の中で折り合いをつけようとしているのだろう。ぐいぐい行く時もあれば、遠慮するように控える時もある。その結果が、この浮き沈みに繋がっていると私は思った。
普通の馬ならばそんなことは思わないだろう。自分で折り合いをつけようとはしない、本能のままに、気の向くままに走るはずだ。それを制御するのが騎手の役目、力を発揮させてやるのが腕の見せ所。
(賢い馬だ)
この模索が、ハレヒノカイザーの美点だ。他の馬にはない、彼だけの強み。
「皐月賞までには見つけるでしょう。なんせ、ハレヒノカイザーは賢いからな」
賢い、という言葉に反応するようにカイザーは頭を縦に振る。これも彼の癖だ。嬉しいことや楽しいことがあると、決まって首を縦に振る。頷いているように。
本当に、出会った時から興味が尽きない馬だ。不思議な感覚、ルドルフには劣るが、これからの成長に期待せずにはいられない。
ヴァーミリアンとの併走も、今になって思えば彼の才能を垣間見た瞬間だ。ずっと走ろうとしていたので大声で止めたが、あの時は心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
(ヴァーミリアンも決して弱い馬ではない。それを、あぁも容易く振り切るとは!)
先行しようとした内のヴァーミリアンを、外から一気に撫で切った。向こうも必死に走っていたが、カイザーには追いつくことすらできていなかった。
飛び抜けたスピードだった。これまで騎乗してきた馬でも、トップレベルの速さ。あれほどの感覚は、そう味わったことはない。
(今はまだ、答えを見つけられていない)
もし、彼が自分の走りを見つけることができれば──ディープにだって負けないだろう。賢さと本能が共存すれば、ハレヒノカイザーは世代最強の座に君臨することができる。そう予感させた。
一雄さんは渋い表情。やがて、私の意見に納得したのか。
「……皐月賞まで時間はない。その間、やれるだけのことはやろう」
「分かりました、テキ!」
現状維持。改善に努めることを約束した。まぁ、それが最適解なのが分かっているからだろうが。
「ちゃんと見つけさせろよ、岡邉。お前の手腕にかかっているんだからな」
「当然だ。私を誰だと思っている?」
出走するからには勝ちに行く。当然のことだ。
それからは来る日も来る日も調整。最終追い切りの日になっても、調整なのは変わらなかった。
私も、できる限りカイザーに騎乗することで手助けをした。
「カイザー! 闘争心を出しすぎだ! スタミナがもたないぞ!」
「今度は抑えすぎだ。今のだと飲まれるぞ!」
声を出して、カイザーに競馬を叩きこむ。カイザーにしかやらないことだ。人間の言葉を理解しているハレヒノカイザーにしか。
その甲斐もあってか、少しずつ、日を重ねるごとに沈むことは少なくなってきた。極端に悪いタイムが出なくなったのだ。
成長を続けるカイザー。喜ばしいことだ。
「よし、好調を維持してますねカイザー」
「なんとか皐月賞には間に合いそうだな岡邉……岡邉?」
本当に、喜ばしいことだ……!
(あらゆることを吸収してどんどん磨かれていく。乗っていて、これほど楽しい馬もいないだろう!)
教えたことをすぐに理解する。気性面の悪さもなく、素直にこちらの要求に応えてくれる。ちょっとは反発してくれた方がいいという物足りなさを感じる場面はあるが、それでも楽しいことには違いない!
次はどんなことを教えようか? どんな要求をしようか? 考えるだけでも楽しくてたまらない。巡り合わせてくれた一雄さんと春陽さんには、感謝しかない。
現時点において、ハレヒノカイザーとディープインパクトの実力は伯仲しているだろう。いや、おそらくだがディープの方が上か。こればかりは、皐月賞本番でないと分からないことだ。
「おい、岡邉。夢中になるのは分かるが落ち着け」
「ははは、本当に出会った時から凄いやつだよお前は」
「……ダメだこりゃ。壬生、上がりの準備をしておけ」
「あ、はい」
待っていろよ隆君。皐月賞では君達を引きずり降ろしてやる。勝つのは──私とハレヒノカイザーだ。
◇
天候に恵まれた4月17日のこと。中山競馬場には、例年以上の競馬ファンが詰め寄っていた。
所狭しと人、人、人。歩くのもやっとなほどに、たくさんの人が中山競馬場でごった返す。
《この日を迎えました、クラシック三冠の第1戦皐月賞。全ての伝説の始発点、ここから始まります三冠の旅。天候は晴れ、中山競馬場芝2000m、実力を発揮するのには十分な舞台が整いました》
第65回皐月賞。本日のメインレースだ。
例年以上のファンが集まっているのはやはり、ディープインパクトの存在が大きい。
デビュー戦からその名に違わぬ衝撃を残し続けてきた競走馬。一番後ろで走っていたかと思えば、あれよあれよという間に追い抜いていく。気づけばポンと先頭に躍り出て、あっという間に差を広げて勝つ。
さらには、多くの競馬関係者からも称賛の声が上がる逸材。
「あの馬は凄い」
と。
「モノが違う」
と。口から出る言葉は全てが称賛。べた褒めの馬だった。
また、ディープインパクトの鞍上を務める天才ジョッキー・岳隆もその才能を認めている。鹿毛の馬体から繰り出される末脚に、ファンは魅了され続けていた。
人気を裏付けるように、単勝1番人気の支持率60%超え。大多数の人間が、ディープインパクトの勝利で決まりだと考えている。
「これは伝説の序章に過ぎない」
「自分たちは伝説を目撃する生き証人となるのだ」
口々に声にするファン。中には三冠確実、皐月賞は通過点でしかないと豪語する者もいた。
果たして前評判通りの勝利を収めるのか? それとも、主役はお前ではないと初の敗北を叩きつける相手が現れるのか? 興奮に包まれる中山競馬場は、皐月賞発走の時を待ち焦がれていた。
第65回皐月賞
| 枠順 | 番号 | 馬名 | 牡/牝 | 人気 |
1 | 1 | アドマイヤフジ | 牡3 | 9 |
1 | 2 | トップガンジョー | 牡3 | 14 |
2 | 3 | マイネルレコルト | 牡3 | 3 |
2 | 4 | コンゴウリキシオー | 牡3 | 11 |
3 | 5 | ヴァーミリアン | 牡3 | 8 |
3 | 6 | ビッグプラネット | 牡3 | 7 |
4 | 7 | ペールギュント | 牡3 | 10 |
4 | 8 | ローゼンクロイツ | 牡3 | 5 |
5 | 9 | ダイワキングコン | 牡3 | 16 |
5 | 10 | シックスセンス | 牡3 | 13 |
6 | 11 | パリブレスト | 牡3 | 17 |
6 | 12 | タガノデンジャラス | 牡3 | 12 |
7 | 13 | ハレヒノカイザー | 牡3 | 2 |
7 | 14 | ディープインパクト | 牡3 | 1 |
7 | 15 | エイシンヴァイデン | 牡3 | 18 |
8 | 16 | アドマイヤジャパン | 牡3 | 4 |
8 | 17 | スキップジャック | 牡3 | 15 |
8 | 18 | ダンスインザモア | 牡3 | 6 |
パドックを終えた競走馬が誘導されて中山のコースに姿を現す。その中には勿論、ディープインパクトの姿があった。
「ディープが来た!」
「今日もエグい末脚見せてくれよー!」
「まずは一冠だ!」
応援の声を上げるファン。そのほとんどはディープインパクトに対するもの。他のファンを圧倒するほどの熱量、かき消されるだけの声があった。
当のディープインパクトは──楽しそうにしている。落ち着いているわけでもなく、入れ込んでいるわけでもなく。一頭の馬と仲良さそうにしていた。
「ディープ、あまり近づきすぎないようにしてくれ」
「カイザー、お前もだぞ」
ハレヒノカイザーだ。弥生賞では見られなかったものの、皐月賞では仲睦まじい様子を見せる2頭。お互いに隣をキープして歩く姿は、微笑ましさを覚えそうなほどだ。
だが、ここは勝負の場。慣れ合う場所ではない。それぞれの騎手から一喝され、しゅんとした様子で離れるハレヒノカイザーとディープインパクト。
「なんか、可愛いね」
「仲が良いのか?」
「楽しそうだったな」
声を漏らす競馬ファン。一瞬鉄火場であることすらも忘れてしまいそうなほどだった。
ただ、気を引き締める。ハレヒノカイザーはディープインパクトに次ぐ2番人気。加えて、弥生賞でのレースはディープファンにとっては忘れられない勝負だ。
「弥生賞でディープインパクトが唯一振り切れなかった相手、それがハレヒノカイザーだ」
「油断ならないぞ。もしかしたら、アレも作戦のうちかもしれん」
「それはないだろ。どんな作戦だよ」
ディープインパクトに匹敵、あるいは凌駕する才能の持ち主と、主戦騎手である岡邉が豪語する競走馬・ハレヒノカイザー。ディープの走りに、唯一対抗できる存在だ。
走りはディープを真っ向から否定するもの。強い馬が強い競馬をすれば勝てるのだと言わんばかりの王道のスタイル。先行からの好位抜け出し。
無論、要求されるものも高くなる。ハレヒノカイザーは、その要求に応えられるだけの賢さと強さがあるのだ。
万全の状態ならばあるいは。ディープインパクトに土をつけることも不可能ではない存在。ヒリついた空気が会場を支配する。
スターターがスタート台についた。中山競馬場にファンファーレが響く。発走の時は、刻一刻と近づいていた。
《中山の直線入り口、ここがスタートラインになります。中山競馬場に集ったファンは実に9万人、新たなスターホース誕生の瞬間を待ちわびている。三冠の始発点、栄光を掴み取れるか? 芝2000m良馬場、皐月賞が始まろうとしています》
《今回は先行馬が内に入りましたからね。速いペースが予想されます。速いペースとなると》
《後方待機が有利になるかもしれない、と。そういうことですね?》
順調にゲート入りが進む。ディープインパクトもすんなり入った……が。
《ちょっとアドマイヤジャパンが枠入りを嫌っていますね。8枠16番のアドマイヤジャパンがゲート入りを渋っています》
《う~ん、やっぱりゲートが嫌いな馬はいますから。ちょっと影響が出そうですね》
《残すはアドマイヤジャパンとダンスインザモアのみとなりましたが、アドマイヤジャパン中々ゲートに入りません》
アドマイヤジャパンがゲートに入ることを拒んでいた。暴れ、手綱を引っ張る槙山騎手の命令に逆らっている。
ゲートを嫌がる理由は定かではない。ただ、閉鎖的な空間であるゲートを嫌がる馬は多い。アドマイヤジャパンも、そんな馬の一頭なのだろう。
係員に引っ張られ、鞭を入れられて。槙山が誘導することでようやくゲートへと入った。ホッと胸を撫で下ろす。
アドマイヤジャパンが入ったことで、大外枠のダンスインザモアがゲートへと誘導される。こちらはすんなりと入っていた。非常に落ち着き払っており、アドマイヤジャパンとは対極の様子である。
《大外枠ダンスインザモアがゲートに収まります。ゲートの中でディープインパクトは落ち着いているか?》
全頭ゲートに入った瞬間、喧騒はぱたりと止む。馬の邪魔をしないように、誰もが口をつぐんでいた。
一瞬のうちに静寂が訪れる中山競馬場。緊迫した空気を破るように、ゲートの開く音が響き渡る。
《さぁゲートが開いた。第65回の皐月賞が今っ、スタートしました!綺麗なスタートを切ります、1コーナーめがけて激しい先行争いになろうとしている。ディープインパクト
《出遅れはいませんね。さて、やはり内枠では激しい争いになっていますよ!》
皐月賞、開幕。